クルトの一日 上
ある夏の終わりの事である、ニューヨーク州北部の山間部に位置するこの場所も季節に似合わず暖かい陽気であった、そんな清々しい天気にも関わらず部屋の中は緊張感が張り詰め空気を重たくしていた。一人の青年軍曹が上官から叱られている、青年軍曹は名前をクルト・ヴィドムング(Kurt Widmung)といい、年は二十代前半、ドイツ生まれの男性で、姿勢が良いのでよく身長が高く見られがちだが平均身長よりやや高い位である、髪は軍律に従った短髪、短いので目立たないが色の淡い金髪である。彼の向かいに座り、怒りと失望を露わにしない様に、冷静を装っているのがクルトの上官の中隊長である、尉官であるにも関わらず下士官に対して衝動的な怒りをぶつけられないのには訳がある。最近、彼の中隊だけではなく大隊規模で軍律が乱れてきているのだ。乱れてきているのならばなおの事厳しくするべきではないか、と思うであろうが、事情が若干複雑なのだ。第一に大隊長閣下が昼間から酒を飲む等の体たらくである、そこに加え、近日他の中隊長が自分の部隊所属の部下の規律違反を厳しく説教していたところ、叱られていた下士官数名がその中隊長に悪態をつくばかりではなく、武器を持ったまま軍を抜ける等の脅し紛いの事を言い出したのである。しかも大隊長閣下はろくにこの案件を裁かなかったので下士官達の間での風紀の乱れは一層激しくなるばかりであった。
その様な状況もあり、この尉官はクルトを罰せたくても罰せられずにいた。ちなみに一体何が原因かと言うと、クルトがこのサイト(この事については以下に詳しい説明はあるが、民間人居住の基地と考えていただきたい)の少年達複数にドイツ語で中尉を馬鹿にする呼び方を教えていたのが始まりである、元をただせばクルトの部下が始めた事で彼らもここに居るべきはずだが、変に兄貴肌の彼は罪を一人で被り、ここにいるのである。結局、中尉は怒りで拳を震わせていたがその衝動をクルトにぶつける事はなかった、いや出来なかった、士気や風紀などはますます低下するが、武器を持ったまま脱走されるよりは格段にましだったからだ。その様な事情もあり、クルトにはお咎めはなかった。
さて、サイトについての説明だが、以前より多発している自然災害、生物兵器テロ、国家紛争、世界中で多発する大規模な暴動、これらの他にも多々あるが各政府が公認しているだけでもその量はまさに異常の一言に尽きる、そんな状況下、政府が臨時に設けた治安維持政策の最大の要がサイトである。サイトは各要所毎に設置された大規模な民間居住施設及び駐屯基地である。聞こえは良いが学校や病院等の大型施設を自給自足出来る様に若干の手を加えただけの避難所の様な所だ。ここも元々は私立の学校であった、私立なので土地の所有権等は厳密には国の物では無かったが緊急事態という事で国家所有という形になった。山間部の川沿いにあるこのサイトは天然の要塞と言っても過言ではない、入り口に繫がる道は一つだけなので見張りを重点的に置き、あとは外壁の上に四五人の歩哨を配置するだけでほぼ万全。こんな鉄壁の守りも気の緩みに拍車をかけた、生き物とはそういう風に出来ている、常に危険と隣り合わせならば行動の一つ一つに重みがあり、慎重である、ほんの些細なミスが命を脅かすからだ、対して安全な環境にいると鈍る生きている実感、比例して蔓延する怠惰や高慢、それが今このサイトが抱える悩み、安全すぎるという贅沢な悩みなのである。
クルトは中尉からの呼び出しのあと自室へ足を向けていた、何か部屋に目的がある訳でも無い、天気の良い非番に部屋にいるのも考えものだが他にやる事がない。ドイツにいる家族に手紙を出したいが未だに運送システム等の復興の目処はたっていないらしいのでそれも叶わない。国外運送だけならまだしも、サイト間ですら何を調べているかよくわからないが手紙や荷物は厳しい検閲を通され、届くのに気の遠くなる日数がかかる、さらに実際に届くのはごく一部だとの噂だ。クルトがふと窓の外を見ると赤い花が目についた、特徴的な花の形だったのですぐに思い出した。たしか学生の時に花に詳しかった友達が栽培していたものだ、するとそれを見てクルトは昔を思い出していた。
『あの赤い花はカズサが彼女の家で栽培してたものにそっくりだ、確か、Spinnenlilie とかいうユリだったかな?そういえば、 最近はあまり社会情勢を聞かないが、お役所はいつも通り度を過ぎた反応しているみたいだな。高校に入る前位の時も似た様な事があったな、確かあの時は細菌テロだったか?あんまり頻繁に政府が非常事態宣言を勧告しているから流石に真剣みが薄れてきたものなぁ。それにしても毎度の事だがなにがどう非常事態なのかよく分からない、最初のうちはそれなりの説明があったが、回を重ねるごとに情報の提示が適当になってくる、最近に至っては何に対する勧告なのかさえも知らせなくなったしな、どうやら怠け癖が酷いのはこのサイトだけの事ではないらしい』
思い出に浸っていると老人の男性がクルトに近づいてきた、年中酒を飲んで顔を真っ赤にしているデニムという名の老人だ。出会いがしらにデニムは持っていたフラスクをクルトに差し出しながら言った、
「今回のは傑作じゃ、まれにみる芸術品じゃて」
クルトは笑いながらデニムのフラスクを受け取り一口飲んだ、が二秒と待たつずにむせ上がった。
「爺さんこれは酒とは呼べねえ、ガソリンの方がましじゃないのか?」クルトは笑いながらフラスクをデニムに返した。
「この酒の素晴らしさが分からんのじゃ、まだまだ」
デニムの爺さんはヘラヘラ笑いながら千鳥足で去っていった。クルトはこの老人とたまに酒を飲む、酒と呼べるかは別としてもこのサイトで彼が手に入れる事の出来る唯一のアルコールである、きちんとした”アルコール飲料”は大隊長閣下が接収してしまう、代わりに下士官は無法を許されるという歪んだGive and Take的な関係になっているのである。デニム爺さんは変わり者で、気に入った者としか酒を共有しない、そういう意味ではクルトは幸運なのだ、とは言っても実際彼が飲めるのはデニム爺さんが言うところの駄作に限られる、駄作というのはアルコール度数が高くない物の事を指しているので決してクルトが卑下に扱われている訳ではない、むしろ駄作しか彼の体が受けつけないのである。そんなデニム爺さんの後ろ姿を見ながらクルトは最初は笑っていたが、だんだん得も言われぬ哀しみが湧いてきた。それは先日デニム爺さんと飲んでいた時に、酔っぱらった爺さんがクルトに話した事を思い出したからだ。いつも酒を飲み周りを小馬鹿にしながら笑っている爺さんが、あの時は涙を流しながら話してくれた、実際には呂律が回っていなかったので、何を言っていたかは分からない、しかしひたすらに彼の亡くなった奥さんと子供さんに謝っている事だけは切実にクルトに伝わった、最初は酔っている事を理由に笑い話にしようとしたが、途中からはただ親身にデニム爺さんの話に耳を傾け、哀しみを共有した。クルトにはそんな千鳥足で歩くデニム爺さんの背中がどうしても悲しみに身を震わせて泣いている様にしか見えなかった。
クルトが一階の階段のすぐ隣にある倉庫部屋の前を通ると、ふとなにやら違和感を感じた、何がおかしいのかは分からなかったが、何か彼の中で引っかかった。一応周りを確認してみるが特におかしい所などなにもない、しかし何故だろう、未だに何か引っかかる。もしかするとさっきのデニム爺さんの酒のせいかも知れない、そう思うと別段どうでもよくなり、特に気にするものではないだろう、と思い歩を進めた。
せっかくの非番をどう過ごすかを考えながら歩いていると男の子が声をかけてきた、どうやら彼の弟のミカエルが見つからないらしいのである。クルトはよくこの兄弟の面倒を見ているので、どちらも彼には本当の兄のように懐いている、そこでクルトはミカエル探しを手伝ってあげる約束をした。少年の弟ミカエルは八歳位の男の子である、約束をしたはいいが特に手掛かりがある訳でも無ければ思い当たる場所もない、ふとクルトは先ほどの倉庫部屋で感じた違和感を思い出し、倉庫部屋の探索を提案しようとしたが、少年は上の階を探しに行くと言って駆け出して行った、確かに二手に分かれたほうが手際がいい、別段少年に何かを言われた訳ではないが自分の思っていた行動計画よりも少年の方が効率的な判断をした事実がクルトを若干複雑な気持ちにした。そして子供の成長は喜ばしいことだ、と一種の自己弁論を行いつつ、とりあえず気になった事の確認の為に再度倉庫部屋へと向かった。クルトはミカエルの行動パターンを大体理解している、倉庫部屋に来たのも完全にあてずっぽうという訳でも無いのだが、クルト自身意識的に理解している訳では無かった、それは無意識に行う他者の行動観察とそれより得た統計から出した結果であり、必ずしも彼が意識して考える推理などではなかった。単純に、『ミカエルなら何か変だと思ったら探索するだろう』という何の裏付けもない理由である、もちろんミカエルが倉庫の違和感に気付いたかどうかも分からない、しかし何はともあれ、クルト自身が気になったので来てみたというのが何よりも正しい意見である。部屋の前に来て再び違和感を感じた、何なのかは確定し難いが引っかかる、何か違う。部屋へ入ってみるが普段通りである、ミカエルが隠れそうな所を調べてみたがいない、しかし違和感が気になる、そこでもう少し詮索してみる事にした。気をつけて調べているとある事に気がついた、風である、窓のないこの部屋に風がある事はありえないのだ、それが違和感の正体だった。微風ながらも元を辿るとそれは床からであった、そよ風の吹いてくるタイルを調べてみると外せる、クルトは興味半分、恐ろしさ見たさ半分でそのタイルを外してみた、もうすでにミカエル少年の事など頭にない、これは単純にクルト自身の好奇心で他ならなかった、しかしその下にはトンネルの様な空洞が延々と続いていた、うす暗い穴からは蛇の喉を鳴らす様な風の音がクルトの好奇心を徐々に冷ましていくのであった。