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老犬

日常生活に支障が出て来てからは早かった、すでにもう立つ事もままならない、マッカーレンは犬宿舎で体を伏せながら虚ろに窓の外を眺めていた。数週間前から体の不調には気づいていた、そして気力でどうにか誤魔化してきたが、既に限界であった、ここ数日はシェリルが食事を持ってきて、それからしばらくは彼を撫でていてくれた、彼は申し訳ない感情と共に幸福感で一杯であった。グレンとモランギはほぼ毎日老犬の様子を見にやってきた、体の自由が利かなくなってからはその頻度も増えた、素直なグレンとは違いモランギは毎回なにか理由を付けてはいたが、老犬はそれが堪らなく嬉しかった。すでに先が短いと思っていた老犬は彼の部下であるベルヴィーニという少将のセントバーナードにこう伝えていた。

「わしはもう長くない、残念じゃがアードベッグは未だ隊を率いる事は難しいじゃろう、そこでお主に暫くの間、隊の面倒を見てくれんかのう」

ベルヴィーニは自らの長所と短所をよく理解している者であったので、彼自身が隊長に向いていない事は理解していた、しかし彼には一つ腑に落ちない事があった、それはなぜアードベッグが後任になるのかである、そこで彼は老犬に聞いた。

「なぜアードベッグなのですか?隊には優秀な者が多いと思いますけれども。」

老犬は目を窓に向けながら呟くように答えた。

「あやつは他者の事を考えられる優しさと他者を守りたいという強さがあるからじゃ。」

ベルヴィーニはそれ以上意見はしなかった、彼は心底この老犬を尊敬しており彼の決めた事なら間違いはないと思ったのである。こうして一時的な後任は決定した、出来ればもう少し隊の面倒を見たいがもう無理だ、それは彼が一番よく知っていた。

 老犬がふと目を開けるとシェリルが脇で体を撫でていてくれた、もうすでに気配も感じられない程衰退してしまった様である、彼は体を起こそうとしたがシェリルが優しくそれを止めた、王女が寝ていろと言うのだ、寝ているべきである、老犬は彼女に寄り添うように横になった、これが最後になるかもしれない、少しは甘えてもいいだろう、と彼は自らに言い聞かせた。ふと外に目をやると雪が降っている、視力もほとんどなくなってしまっていたが暗闇に映る雪は冴えて見えた。どうやら今夜辺りには迎えが来そうな雰囲気だ、昔の仲間達に会えるのだからそれもいいだろう、そんな風に老犬は穏やかに目を瞑った。彼の敬愛する女王の優しさに包まれながら、彼の意識はゆっくりと常闇に沈んでいった。

 老犬の身体は動かなくなり、彼の意識もすでに彼の身体から離れていた、ゆっくりと沈む様な感覚だが彼はそれが妙に懐かしく感じた、生きている間に感じる様な五感に響く感じとは違う、故に生きている間に感じたものではないのかもしれない、深く沈んでいく意識の中、色々な事が思い出された、暗闇に映写機で映したかの様な映像が多々現れた、一つ一つが懐かしい、グレン総大将に打ちのめされた日や、女王に出会った日など、鮮明に覚えている事柄から、ある朝食べた朝食について等の些細な情報まで映し出されていた、そして一つの情報に気をやると、あたかもその時を再び経験しているかのような不思議な気分になった、その時の感情を経験しつつ今の自分の感情も感じたのである、幼少の時に感じた際限のない喜びや楽しみ、若い時の自らに溢れる傲りと自惚れ、老いてから感じた心配や死への恐怖、全てを感じ取りながら彼は落ち着いていた、後悔や懸念も過去にはあったが今では全てを受け入れられる、実に穏やかである、ふと気が付くと暗闇に戦場が浮かび上がった、一体いつの事であろうか、そのイメージは他の物とは違いとても抽象的であり音しか聞こえてこない、しかしもうそれもどうでも良い、このまま気持ちの安らいだまま回帰の始まりまで沈んでいこう。

 老犬はそのまま安らぎに包まれたまま沈んでいった、その時何かが喋りかけてきた様な気がする、しかし今となってはもうどうでもいい、この安寧が続くのならばそれが例え永遠であっても苦痛ではないかもしれない、だが声はまだ聞こえる、一体誰の声だ、老犬は疑問に思いつつも考えるという事はしなかった、もう考える必要はない、このままただ安らぎに包まれていればいい、この世界に残された者も事象も全てはいつか回帰する、心配する必要など何もないだろう、そのまま老犬は沈み続けていった、闇の中にグレン総大将が映つった、彼女は何かを伝えた、それは言葉なではなかった、しかしその使命感は老犬のもっとも核に当たる部分を刺激した、その途端彼の意識は現実に引き戻された、虚ろになりながらも目を開けると銃声が聞こえてくる、同時に扉の外に敵の気配がする、老犬はすでに動けないはずの身体を無理やり奮い起こすと足腰を震わせながら立ち上がった、そして次の瞬間扉が勢いよく開き二人の敵を確認すると無心に敵に飛びかかっていった、その時老犬の核が叫んでいた。

「女王陛下をお守りせよ!」と。

 敵の見た物は死にそうな老犬ではなく首がいくつもある魔物に見えた、襲い掛かってくる魔獣に恐怖した敵は即座に銃を撃った、目の前に現れた魔獣が犬であった事に気付く前に後方から全身を震え上がらせる咆哮が轟き響いた、振りむいた瞬間彼らは微塵と化した。

 老犬は虚ろな目でシェリルの安全を確認すると、苦痛などよりも使命を全うした事に至高の喜びを感じた、女王陛下をお守りした、この事が彼の今まで生きてきた一生で一番喜ばしく誇らしい瞬間であった、さらにその女王陛下は笑顔でその労をねぎらってくれている、これほど幸せな事なぞない、老犬は渾身の力を振り絞り女王陛下への敬愛の表現をするとそのまま力尽き永遠の眠りについた。

 老犬が逝ってからすぐに、グレンとモランギの二匹が飛び込んできた、シェリルが無事な事に安堵しつつも彼女の前で横たわるマッカーレンを見てすぐさま駆け寄り声をかけた。

「マッカーレン中将!」グレンは最初こそ平静を装っていたがすぐに感情が露わになった

「マッカーレンさん!マッカーレンさん!」彼は泣きながら老犬の亡骸に声をかけ続けた。

「ふざけんなよ!爺!死ぬなよ!俺がいつかあんたを噛み殺すはずだろ!ふざけんな!起きろよ!爺!」

モランギは大泣きしながら亡骸に喰いつくかの様に激しく感情を露わにしていた、しかしその二匹もシェリルの笑顔を見ると大人しくなり、亡骸の前に大人しく伏せた、しかし沸き上がる悲しみは抑える事が出来ず、二匹は泣き続けた。すぐ後にアードベッグもやってきた、すぐさま状況を理解するとその場に崩れ落ち自分を責めるかの様に言った。

「あぁ、僕がいけないんだ、僕が外の警護に就いていれば中将はこんな事には...」

そう項垂れるアードベッグにモランギが力一杯の頭突きを食らわせ、叫んだ。

「てめぇのせいじゃねぇ!」

モランギにとってはこれが最大級に出来る励ましの形であった、そしてモランギは続けた。

「敵は皆殺しだ!」

この激しい憤怒と悲哀をシェリルは感じたのであろう、シェリルは三匹に向かい笑顔で言った。

「よし!気の済むまで暴れておいで、マッカーレンも喜ぶよ!」

それが合図になり、三匹は全力で外に駆け出すと涙を流しながら敵に向かっていった。グレンは全軍に届く様に叫んだ。

「目の前の敵を殲滅せよ!女王陛下直々のご命令である!全力を持って敵を打ち滅ぼせ!」

モランギも続き彼の部隊に向けて叫んだ。

「一匹たりとも逃がすな!逃がした奴は俺が噛み殺す!死ぬ気で殺せ!」

この二匹の与える威圧感は凄まじく目の前に立った敵兵は恐怖のあまり行動が鈍った程である、さらにアードベッグも叫んだ。

「皆さん!マッカーレン中将の意思を継いで下さい!命を賭けて守ってください!中将がそうした様に僕も必死で守りますから!」

アードベッグの声にもっとも感化されたのは意外にもマッカーレン隊の老犬達であった、彼らはマッカーレンが死んだ事よりも彼の意思が受け継がれている事に喜びを感じた、ベルヴィーニもその内の一匹であった、そして彼は何故中将がアードベッグを後任にしたいかを十分に理解した。三匹の咆哮は全軍の士気を高め、戦況を瞬く間に変えていった。他の部隊に負けるなとリヴェットが自らの隊を鼓舞し、フィデックは「死なない程度に頑張れ」といつも以上に働けと隊に促した。犬達の戦意は高く、敵を順調に減らしてはいたが、今日の敵はいつもとは違った、連中の様子は狂人病を患っている者かと思わせる程攻撃的である、しかし狂人病特有の臭いはしないし犬にも攻撃を仕掛けてくるのでやはり人間には間違いなかった、そんな不気味な感覚を覚えながらも気が付けば戦況は終息に向かっていた。最後まで敵に手を緩めなかったのはやはりモランギ隊である、モランギ隊は隊長の言葉の真意が分かっていなかった、というよりもあの隊長ならやりかねない、という恐怖から執拗に敵を追い詰めた、実際に隊の中でもっとも最後まで戦い続けたのはモランギである、隊長の言った事は本当かも知れないと恐怖する理由としては十分であった。

 戦闘が終わり、周りが静かになるとグレンは怪我の無かった犬達を全て集め、マッカーレンの死を弔った、モランギはかなり深い傷を負っていたがそれでも葬儀に立ち会った。犬達の犠牲は多かったが、ほとんどはマッカーレン隊が人間を守る盾の様になっていたからであった、しかもその大半はマッカーレン隊の古株の者達がほとんどであった。葬儀が終わるとグレンはベルヴィーニを中将に昇進させ、部隊長に任命した。葬儀が終わると全員に休息が言い渡され、犬達は解散した、しかしグレンとモランギは老犬の墓の前に座り込み言葉を発する事もなく悲しみを共有しあっていた、少し離れた場所にアードベッグもいたが彼は格上の二匹に気を使い近くには寄らずにいた。しばらくするとシェリルが二匹の近くに座り込むと笑顔で二匹の頭を撫でた、未だに悲しみはこみ上げてくるのだが尻尾だけは反応してしまう、マッカーレンが命懸けでお守りした女王陛下である、これからは老犬の意思を継ぎ彼の分まで女王陛下をお守りしようと二匹は心に誓いを立てていた。

 雪が深々と戦火の傷跡を覆い隠すように降る冬の出来事であった。


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