ゼニストの一日(上)
至る所で火事や事故が起こっている混乱した町の中をゼニストは走っていた、彼は朝食を向かいの部屋のマリーにご馳走になった後、気になったので病院へ行ってみる事にしたのであったが、状況が思ったよりも格段に悪い。どうやらニュースで言っていた病原菌の拡散は尋常な速度ではないらしい、昨日の病院にいた大量の怪我人達がそろって発症したとなるとこの混乱も有りうるのかも知れない。そんな事を気にしながらも彼は急いだ、しかし同時に彼は自らの身体の異変に気を煩わせていた、なぜかは分からないが太陽の光が身体を刺すように痛い、我慢できない程でもないが、痛い事は確かだ、それに身体能力が上がっている、調子が良い等のレベルではなく、人の限界を超えた身体能力を得ていた、瞬発力、呼吸器官の働き、動体視力、五感、全てが常軌を逸した程の向上である。
病院が目に見える所まで来た所で、助けを求める声が聞こえた、ゼニストは立ち止まり少し聴力に気を向けるとすぐさま位置を特定した、しかも声の反響の仕方さえも理解出来、声がどんな物質に反響しているのかの推測さえ出来た。すぐさま路地裏に向かう、接触者に襲われている人がいるに違いない、彼はそう思いすぐに救助に向かった。しかし着いてみると予想とは裏腹にそこにいたのは無防備の男が強盗にあっていたのである、相手は銃を持っているので接触者とは思えない、ゼニストは強盗に武器を捨てる事を促した。急に現れたゼニストに強盗は最初こそ戸惑ってはいたが、彼が丸腰である事に気が付くとカモが増えたと言わんばかりにゼニストも強盗の対象にした。ゼニストは銃が向けられている現実よりも、彼自身の視力と思考の速さに唖然としていた、見えるのである強盗の銃にかかる指の動き、銃口の的確な向き、そして軌道まで読める、強盗の体の硬直具合から男が実際に引き金を引くまでの計算すら脳が勝手に行っている、そしてそれらの情報を一瞬で感じ取れた。ゼニストは男の暴走を抑制する為にわざとゆっくり前進した、男は彼に二度三度と警告しをしたが、警告を無視するゼニストに恐怖を覚えた様で引き金にかかっている指を一度伸ばした後もう一度引き金に指を戻した、その直後ゼニストは引き金にかかる男の指の些細な流れを確認すると的確なタイミングで体を捩じった、銃声とともに銃弾がゼニストを紙一重ですり抜けていくと同時にゼニストの右足は既に銃を蹴り飛ばしていた。いきなりの事に強盗も助けを求めていた男も茫然としながら立ち尽くしていた、強盗が我に返ると同時に彼は一目散に逃げ出していった、襲われていた男は未だに状況が理解できずにただその場できょろきょろしているばかりであった。
ゼニストがその場を離れると、彼は一つ、嫌な事を考えざるを得なかった。それは、この混乱した状況の原因は接触者だけではなく、混乱に乗じて暴れている者達が多い、人間の敵は人間であるという因果であった。さらに彼の思考は悲観的な方向に進んでいった
『この混乱を利用して暴れている連中がいる、しかし、もしこの状況が自然に発生した事象ではなく、意図的に作られた状況だったとしたら?もし、この病原体が以前あった細菌テロと同じく組織的に行われた事だとしたら…人口の密集する地帯で感染者を多数発症させる、潜伏期間中に接触した者も感染する、接触者がほぼ同時に発症して情報が整う前に効率良く混乱を生み出せる、混乱に乗じて的確に政府や世界平和維持局の行動を妨害する、後は混乱が自動的に拡大していく…災い続きで疲労している社会だ、こんな得体の知れない凶悪な病原体をばらまかれたら自暴自棄を起こして暴走させる事も容易であるだろう。最近増えている破滅主義の連中や無政府主義の連中からしたらこの状況に便乗して破壊行動、反政府行動を行うだろうし…これは、思っていたよりも遥かに悪い状況だぞ…ニュースが政府や維持局に連絡しろと促していたのは元を探し当てる事が目的だったためか?もし連中が組織的なテロと考えているならば無暗に混乱の収拾を図るよりは元を絶つ事が最善策だろう…しかし、もしこれが本当に組織的なテロだとすると、これはまずいぞ、引き起こした張本人達ですら手の施しようがない程の状況になり兼ねない…いや、むしろすでになってしまっているのではないか?寂れた小さな町でこの混乱だ、大都市や政府の定めた避難区域などで同じ事が同時に起こされたとすると…手が回らなくなるぞ…』
そうこう考え事をしながら走っていると、彼はすでに病院の前まで来ていた。玄関口には接触者らしき者が徘徊しており、ゼニストは戦う事を腹に決めて向かっていった、しかし、接触者は彼に襲い掛かるどころか見向きもしないままであった。若干不思議になったゼニストはあえて彼の方から接触者に近づいてみたが襲ってこない、たまたま空腹ではなかったのであろうか、違和感を覚えながらも彼は病院に入っていった。院内はかなり荒れており人の気配はほとんど無かった、それでも彼は階段を使い昨日の男の入院しているはずの部屋へ向かった。院内では逃げられない状況にいた者達が無残にも接触者達の餌食になってしまっており、部屋の所々から耳に障る嫌な音が聞こえてきた、これはダメかも知れない、と思った矢先、探していた男が廊下の奥に見えた。彼はすでに感染している様で服と顔を血まみれにして彷徨っていた、ゼニストはそれを確認すると頭を振り引き返そうとしたが、気になっていた事もあったので試しに近づいてみた、男がこちらを見た、が襲ってこない。思い切って腕を目の前に出してみた、が噛みつかない。その時ゼニストは一つ気が付いた、彼の今出した腕、昨日肉を噛み千切られてかなり深手であったはずなのにすでに完治していた、思えば今朝方包帯を取ってみた時にはすでに治りかけていた様な気もする。そんな事を考えている間も目の前の接触者は襲い掛かってこずにのんびりと窓から外の風景を眺めていた。いっそ楽にしてやるのが人情かとも思ったが、生きている事は罪ではないだろう、と思いその場を後にした。少女の事も気にかかるがどこにいるかも分からない、その上この様子では希望は薄い、一応周りを見回ったがやはり見当たらない。仕方がないので戻ろうと階段に向かった、その時に何か音がした、戸棚か何かが閉まる音の様に聞こえた。気になったので彼は音の方向を頼りに歩を進め、棚やそれに近い造りの物を片っ端から開けていった、接触者達が周りに蔓延っていたが、誰も彼の事を気にしていないので彼も彼らを気にせずに探索を続けた、そうこうするうちにある病室の戸棚の中に例の少女が隠れていた。扉を開けてびっくりしたのはゼニストの方だけで少女の方は目を彼に向ける事もせずに親指を咥えながら耳の長いウサギのぬいぐるみを抱えて、ちょこんと座っていた。ゼニストは肩をなだめると少女を抱きかかえ外へ向かった、彼は接触者が少女を狙って襲ってくるであろうと思い臨戦態勢ではあったが、接触者達はそんなゼニスト達を完全に無視したままであった。まさかと思い少女を地面に降ろすと彼は片膝をつき、彼女の目線になって問いかけた
「どこか噛まれたかい?」
すると少女は人形を抱いて目を地面に落としたまま頷いた。どこを噛まれたかを聞くと彼女は左足を伸ばした、ゼニストは白い病衣を軽く捲るとそこにはほぼ完治してはいるものの歯形が薄らと残っていた。流石のゼニストもこれには悩んだ、どうやら彼女は彼と同じく一種の身体変化が起きてしまったらしい、これでは政府機関に預けられない、預けたら監禁され実験台にされる恐れがある。これは彼女の家族を探すしかなさそうである、彼は少女に質問してみたが、未だに声は出ないのか、少女は黙ったままであった。とりあえず彼の部屋に戻る事にした、少女を抱きかかえると自らの頭部を覆っていた布を少女に被せてやり、モーテルに向かい走り出した、もしかしたらマリー夫人が少女を預かってくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた、しかし、その期待もモーテルの周りを維持局の部隊が取り巻いている所を見た瞬間に消え失せた、連中もこの特異身体を知ったら実験にするであろうと考えたからである。もしかしたらただの考えすぎかも知れないが、ゼニストはリスクと代償を考えた末にその場を後にした。こうなるともう少女の家族を探す他はないようだ、しかし全く手掛かりがない、仕方がないので日陰で少女に頷くか首を振るかで答えられるような簡単な質問を問いかけた
「ご両親は…お父さん、お母さんはどこにいるか分かるかい?」
少女は小さく頷いた。ゼニストはこれに手ごたえを感じたのか少し気が楽になり、簡潔な質問を続けた
「お父さん、お母さんのいる場所を指で案内…教えてくれるかな?」
少女の語呂力が全く分からないので極力簡単な言葉を選んでいたが何とか通じた様である、少女は頷き、西の方角を指さした。これなら意外と簡単に家を見つける事が出来ると思い、ゼニストは一安心した、勿論家族が安全である保障などあった訳ではないが、とりあえず目的を見つける事が出来たのはいい出だしであった。
少女を再び抱え上げるとゼニストは彼女の示す方角に向かって走り始めた。別に急いでいた訳でもないが、ゼニストは自らの能力を試したかった、この少女はおそらく十五、六キロ位であろう、この子を抱えながらどれくらいの距離を走れるか実験してみた。彼は幼児ながら人間を抱えたままであるに関わらず、変異前であれば全力疾走である程の速度を息を切らす事なく保っていた、今の彼からするとジョギング程度の感覚である。どんな理由であれ力を得て喜ばない男はいない、ゼニストは彼の得た圧倒的な力に若干浮かれていた、走れば走る程に湧いてくる高揚感、少し前まで彼はこの未知の力に畏怖していたが、今では新たな可能性に希望を見出していた。だが、一瞬ののちにその高揚感は消し飛んだ、それはこの少女の事が頭を過ったからである。自分はいい、人生も半分以上過ぎている、しかしこの子は違う、もう二度と同じ生活をする事は出来ないのだ、他の子供たちと遊ぶとしても能力の高さを気味悪がられるかもしれない、それよりもこの子は声を失う程の酷いショックを味わったのだ、そしてあのパニックでさらに心的外傷は深まった事であろう、それを差し置いて自分の事だけを考えているとはなんと浅はかな事か、ゼニストは走る事を止めてゆっくりと歩きだした。力を得てもそれに溺れる様な事はするな、力を抑え、必要な時に使う、それも自分の為ではなく、人の為に使うのだ、それが今まで行ってきた事への贖罪になる訳でもないが、これ以上の罪を犯さぬ事に繋がるだろう、彼はそんな事を考えながら力を制御していこうと考えていた。
しばらく歩き続け、とうとう町の郊外まで来てしまった、ゼニストは若干心配になってきたが少女の指示に迷いはなかったので彼女を信じ歩き続けた、そして辿り着いた場所は小さな墓地であった。ゼニストは自らを責めた、何も知らずに少女を苦しめていたのだ、彼は肩を落とし少女に一言謝ると町へ戻ろうとした、しかし少女はゼニストの服をギュッと握りしめると墓地の中を指さした。言い表す事の出来ない虚しさに動かされ、彼は少女の指さす方角へ歩いて行った、しばらくすると少女は降ろしてくれと頼むように体を揺らし彼はその場で彼女を地面に下した。少女はそこに咲いていた一輪の花を摘むと一基の墓石の前に座り込み花を供えた。ゼニストは哀しくなると同時に彼の幼少の頃を思い出していた、彼は両親の事など知らない、物心がついた時にはすでに施設の中であった、そしてその時からラズとはずっと一緒だった、食事も、遊ぶのも、悪戯をするのも、そして怒られるのもラズと一緒だった、施設を逃げ出して路上で生活した時も、盗みを働いて店員にこっぴどく殴られた時も、食べる物がなくてゴミ箱を一緒にあさったのも、ずっとラズと一緒だった。ゼニストはいたたまれない気持ちになり少女の隣に腰を降ろすとうつむいたまま涙を堪えていた、その時彼の首に少女が抱きついてきた、少女を優しく抱きしめると少女が声を出さずに泣いている事が分かった、すると色々な感情がどっと溢れてきて、とうとう彼も声を殺し泣き出した。いつの間にか夕暮れ時になっていたようだ、彼は赤く染まった空を見上げながら、命をかけてこの少女を守っていこうと決心したのであった。