クルト本部にて(ヘルムート)
チェスは未だに勝敗が決しないままでいた、時間を気にしないチェスの勝負というのは意外な面白さがある、勿論両者が気の合う人間同士、長考する事を理解し合っている事が大前提ではあるが、この二人の場合は全く問題がない様である。現在の状況は黒のナイトが犠牲を覚悟でルックを守る為に白のクィーンの前に立ちはだかった所である。そしてクロムウェルが次の手を打つために考え込んでいる最中であった。チェスは目先の損得ではない、両者がチェスを愛好する大きな理由はそこにあったのかもしれない、必然的な犠牲とその犠牲に見合うだけの価値があるかの計算、これは確かに現実社会ととても類似している所がある。
二人がチェスに気を集中していたためか、ほんの数秒であったが完全な静寂がその場を包んでいた、クルトはあまりの静けさに自らの身動きに自制をかけ何かしらの音を待った、そしてその静寂を破ったのは意外な事にヘルムートであった、しかも会話はクルトに向けられた事がさらに意外であった。
「君は、自由と平和について考えた事があるかね?」ヘルムートの声はクルトの心の奥底を揺さぶるような不思議な響きを持っていた、低いゆったりとした声、しかし他の者では絶対に真似しえない独特の声なのである、一種の畏敬の念がクルトを包んだ、その後直ぐに我を保つと質問について考えた。
『自由と平和について、とはいったいどういう事だろう?哲学的な考えなのだろうか、それとももっと簡単な自由と平和の為に何が出来るか?という事なのだろうか?きっと何か深い考えがあって仰っているのだろう、期待に添える様な答えを是非とも捻りだしてみよう。単純な答えはやはり、自由と平和の為に身をていして戦う事だ。やはり軍人ならば命を顧みず人々の自由と平和の為に存在するべきであるはずだ。難しい部分は哲学的な意味を聞いてらっしゃる場合だ、自由と平和か、とりあえず一つ一つ考えてみよう、まずは自由。これはなんの制約も受けずに個人の思い通りに行動出来るという事だ、そして平和とは外部からの危険を取り除き安心して暮らせる状態だ。それについて考えるという事はどういう事だ?どちらも正義であり、社会の基礎理念であり目標であるはずだ。それについて、どう考える?基礎理念である以上やはりそこに重点を置くべきなのだ、だから前世期から今世紀の初頭にかけての資本主義社会体制はその基礎理念にのっとっていなかった…いや待て、質問から大分ずれてしまってるな。もっと単純なところで考えてみよう、そうだ、ミカエルに聞いたとして彼なら何て答えるかな?平和、外で遊んでも怒られない、自由、何をして遊んでも怒られない…ダメだ、思考が完全に幼稚すぎる…いや、待てよ、その考えを俺なりに変えてみよう。平和、外に出ても…サイトから出ても危険ではない。自由、何をしても…行動を制限される事なく生きる。なんだか最初に戻ってきた様な感じだけれども、いいか。次にこの二つを同時に考えてみよう、一つの文にまとめると、自由と平和とは、サイトに縛られず行動に制限が無い事、か?待てよ、それはそれでサイトを批判している様な感じだな、現にサイトは外界の危険から内部を守っているのだからサイト自体は平和の象徴であるべきなのだ。だから世界平和維持局もこうして平和の象徴であるサイトを守っている。それならば自由の象徴は?自由とはなんだ?自由を求めれば平和が失われる、でも平和を求めるならば自由が失われる?ん?何だ?パラドックスが発生したぞ、待て待て、自由と平和、そうだ、社会理念だ、これは社会で一番重要視されるべき基礎概念だ、どうすればどちらも同時に存在する事が出来る?極端な話で考えてみよう、あ、今の状況は結構極端と言えば極端だな、でももっと原始的に考えてみよう。平和を求めるならば単独生活ではなく群れて生活する事で外敵から守られると同時に食料の共有等も出来て断然平和に暮らせる、しかし群れるならばそこに法やルールを決めて秩序を作り出さなければならない、それがないと力がある者が全てを奪う様な混沌とした社会になってしまう。対して、自由を求めるならば群れずに単独で生活するべきだ、それこそ全ての責任は自らが負う事になるし、自らが努力した分そのまま自分に返ってくる、その際最も重要視するべきは周りではなく自分自身のみ、法やルールがあれば行動に制約が出来てくる、そうなるとそれは真の自由とは言えないのじゃないか?うん?待て待て、さらに矛盾が大きくなってしまったぞ、よし、再びミカエル思考作戦だ、外で何して遊んでも怒られない、これこそまさに自由だ、でもこれは義務も責任も無い子供だから出来る事であって…という事は平和と自由の共存とは児戯である、という事か?そうすると、社会基礎概念も子供だましであると?待て待て待て、そこまで飛躍する事はないだろう、自由と平和はバランスが必要であるのだ、そうだどちらも無視されてはならないし、軽視されてもいけない、バランスを取る事が重要なんだ。』
若干の間クルトは考え込んでいたが、クロムウェルはまだ一手を動かしていなかった、そしてヘルムートも黙ってクルトの考えがまとまるのを待っていた。クルトは大きく深呼吸すると簡易的にこう言った。
「両者の理想を完全に合致させる事は矛盾していると思います、大切な事はバランスを取る事だ と。」
至って普通の意見ではあった、しかし付け焼刃で言った実の無い言葉ではなく、彼なりに考えて辿り着いた意見であったので言葉に重みがあった。それを聞いたヘルムートは期待に沿った答えではなかったのか深い唸り声に似た音を出しながら目をチェス盤へと向けた、それとは相反してクロムウェルはチェス盤から一時目を離し、微笑みを浮かべながらクルトを見た。
クルトの意見には誰も何も言わずに淡々とチェスの手が進められていったのであった。果たしてクルトは両閣下を満足させられたのであろうか、それとも彼は彼らの時間を無下に費やしただけであったのであろうか、それは分からない。しかし、チェスの勝負が付く前に喫茶店の不愛想な親父が店じまいだと言ってクルトを半ば強制的に追い出した、しかし両元帥は席に着いたままチェスを続けているのであった。クロムウェルは笑顔でクルトを見送り、ヘルムートは無表情だがクルトの目を見ながら深く頷き彼を見送った。
追い出されたクルトはヘルムートの質問を再び考えながら帰路についた、一体元帥閣下の質問にはどういった意味合いが込められていたのであろう?そう考えるとさらに彼は自由と平和について試行錯誤するのであった。これよりおよそ一年後、クルトは再びその事について深く考えさせられる事になるのであった。