序幕
僅かな明かりが塞がれた窓から入ってくる、それ以外には照明といえる物は無い、壁には美術品とはほど遠い素人の作った金属製のオブジェクトが無造作に幾つか飾られている、その金属の無機質で調和の無い形にぼんやりと当たる光と影で異様な不気味さを醸し出している。そんな息の詰まりそうな暗黙の中で男は目の前の缶詰と水の量を数えていた、また数えていると言ったほうが適切かもしれない、毎回数える度に抱く淡い期待、そして数え終わってから感じる虚無感、それを何度も繰り返しているのだ。 なぜその様な無駄な時間を費やすのか、男にはそれなりの理由、ロジックがある、それが万人に理解されるかは問題ではない、重要な事は彼にはまだ理性がある事である、狂気かもしれない、しかし理のある性である、いや、理のある生と言ったところか。いずれにせよ男の不安は一連の作業の後おとずれる、蓄えが無くなる事への不安、その後はどうしようという脱力感、頭をめぐる未知なる事への恐怖。そのような不安や焦燥は誰にでもある、しかし彼の置かれている状況は若干特殊なのである、金が無いとかの問題ではない、外に出ること自体が危険、さらに危険を冒して外へ出た所で食料を得るどころか見つかる保証すら無いのだ、何事にも可能性があれば希望が見える、しかし彼の見るは途方もない闇、不安と疑念で覆われてしまっていて光など見えもしない、その様な状況下に彼はいる。
「もってあと三日…」
一言ぽつりと声に出した、本人は気にも止めてはいないが独り言が多い、それは昔からそうであったかというとそれは違う、ここ最近の事である、特に仲間からはぐれ一人になってからは格段に増えた、孤独感にさいなまれての事か、恐怖心を紛らわせる為か、あるいはそれらは全く見当違いで他の理由があるのか、それは恐らく彼自身も分かっていないだろう、ただそれが自分の声であろうとも人の声を聞くと落ち着く事は確かであった。いつも声を出しながら考えをまとめる。
(三日分の食料はある、それならここで待つのが一番安全)「いや、でもそれでは…」『ただ無駄に時間と食料を失うだけで無意味、ならいっその事食料を持って他の安全地帯を探したほうが良い』「けれども確かに…」『目的地が明確でないのに動き回るのはあまりにも危険で愚かな事だ』「それなら…」『ここで餓死を待つか、そんな事は論外だ、何もしないで死ぬのなら外に出て殺されるほうがまだましだ』「でも、やっぱり…」『無計画に外に出て死んでしまえば犬死にだ、そんなのは嫌だ、目的さえあれば』「そうだ…」『外に出て目的を見つければいいんだ』「いや…」
思考はいつも堂々巡り、ただ待つか、抗うか、希望という灯りがないとこうも不安定、重要な事から目をそらす、見たくない現実から目を背ける、そして彼はまた缶詰と水を数え始めるのである、それが目に見える希望であるから、その希望が風前の灯火である事は彼が一番よく知っている、だがそれが故に縋りたい、その淡い灯火に。
その時である、男は微かな音を聞いた、微動だにせず神経を傾ける、足音だ、しかも一人ではない、二人もしくは三人 。彼は慌てて革手袋と年季の入ったフルフェイスヘルメットを被り、椅子や机で固められている入り口へ飛んだ、そして棚に寄りかかっていた小型の斧を手に取り息を殺して待った。この数分は数時間にも感じられた、高鳴る心拍音が外に聞かれるのではないかという考えも頭によぎり自らの心臓を止めたいと願うほどであった。彼の願望とは裏腹に足音はだんだん近づいて来る、彼は息を呑んだ、奴等なら殺される、この恐怖しか彼の頭にはない。先程までの信じていた安全や希望などは吹き飛んだ、それほど淡い幻想だったのである、足音が近ずくにつれてにじり寄って来る死への恐怖、絶たれた望みは無情にも彼を蝕む、今あるのは後悔と生への願望、足音が止まると同時に彼の思考全てが吹き飛ぶ、彼自身の心臓の音すら聞こえない、完全な静寂が世界を覆った、ほんの一瞬だったはずである、しかしその瞬間大量の足音と怒号で覆われた、それと同時に銃弾が雷鳴の轟きと共に暗黙の世界を貫いた、一発や二発ではない、嵐の様な銃弾の雨が男の横を通り過ぎていった。一瞬静まりかえった後に大量の足音は遠ざかっていった。どれくらい男は座り込んでいただろうか、ふと正気に戻った彼は入り口に出来た銃弾の穴から外を覗いた、そこには二人赤く染まった地面に横たわっていた。彼はそれを確認するとその場に崩れ落ち泣きだした...