悪意のない悪意の塊
「で、メアド交換してくれるの?」
「……ああ、そうだったな」
メールアドレスの交換という話から、本人証明の話になって。それから更に話題が変わって女装している理由の話になってしまっていた。悪気はなかったのだが結果として菊池の提案を遠回しに拒否しているような形になってしまった。繰り返すが悪気はなかった。申し訳ない。
菊池は可愛らしい携帯を、藤間の眼前へ突き出してもう一度問う。提案を流されたことを根に持っているのかもしれなかった。申し訳ない。三度目だが、悪気はなかった。それだけは信じてほしい。
「まあ、構わないだろう」
とりあえずは信じた。メールアドレスを教えるのにそこまで抵抗があるわけでもない。それなら教えない理由も特にないだろう。藤間はとりあえず携帯を取り出すと、そのまま菊池へ手渡す。黒のストラップもついていないシンプルな携帯だ。それを受け取った菊池は首を傾げる。
「ん? 勝手に登録してもいいの?」
「好きにしろ。登録の仕方がよくわからないからな」
「ふうん、それはそれは。まあ、真司らしいと言えば真司らしいわね」
「そうか?」
何をどうすれば藤間らしさに繋がってくるのかよくわからないが、菊池はそれだけで納得したらしい。
「じゃ、お言葉に甘えて勝手に登録させてもらうわね」
そう言うと、菊池はほぼ同時に菊池と藤間の携帯を操作する。目線は両方のディスプレイを行き来しているのできちんと何らかの操作はしているらしいのだが、藤間にはわかるはずもない。
「わざわざメアド打ち込むよりこっちの方が早いからねー」
そんな独り言を漏らしながら、菊池はふたつの携帯を向かい合わせた。そこでようやく藤間にも菊池のやろうとしていることが理解出来た。
「赤外線通信か」
具体的にどういうものか説明出来るわけではない。だが目に見えない通信をすることでお互いの連絡先を直接打ち込まずとも登録することが出来る便利な機能だという知識くらいは有している。結局のところ、いくら勉強したところでこうして不得意分野の知識は乏しいのだ。やはり藤間の場合、勉強は趣味だろう。得意分野は極めたいし、不得意分野はタッチする気になれない。どうしたって選り好みをしてしまう。今時赤外線通信を出来ない男子高校生などあまりいないだろう。そういう意味では、藤間は世間に置いていかれてしまっている。
「受信中、送信中~」
歌うように菊池は言う。赤外線通信の何がそこまで菊池を楽しませるのかは謎だ。きっと藤間などには一生かかっても解けない謎に違いない。それならいっそ気付かなかった振りをしよう。それなら謎に頭を悩ませることもないはずだ。
「でもちょっと意外かも」
赤外線通信には思いの外時間がかかるようで、携帯を向かい合わせた体勢のまま菊池は雑談を開始する。突っぱねる理由もないので藤間はそれに応じた。
「何が」
「真司が赤外線通信出来ないこと。説明書読み込みすぎて完全に暗記してるからそれぐらい出来て当然だ、とか言うかと思ったのに」
「どんな超人だ」
最近の説明書はかなり薄くなってきているらしいが、藤間の携帯の説明書は分厚い時代のものだ。二センチはゆうに越える厚さの説明書にはぎっしりと操作方法が書き込まれていて、これだけ記憶していなければ携帯というものは使えないのかと当時は戦慄したものだ。確かに、説明書は読み込んだ。だがそれは購入した時の一度きりだ。そしてそれを全て記憶しているといった人間離れした記憶力は残念ながら有していない。何かを覚えて何かを忘れる。そんなことを日夜繰り返している凡人に過ぎない。だから菊池の言うことは過大評価としか言いようがなかった。どれだけ高く評価されてしまっていたのだろうか。
「まあ、でも考えてみれば真司は機械系統に強いイメージなかったしね」
「それは誤解だ。人並みには精通している」
電話も出来るしメールも問題ない。人並みに、生活を出来る程度には機械は使えるつもりだ。極端に機械が苦手な人間だと思われるのは心外だ。しかし携帯の扱いに慣れた菊池からしてみれば藤間はどうにも人並み以下に見えてしまうらしい。
「最低限は出来るとか言っちゃってる時点で人並み以下だと思うわよ。赤外線通信も出来なかったわけだし」
「うっ」
確かに赤外線通信のやり方がわからないのは事実だ。しかし考えてみてもほしい。赤外線通信というのはそもそも誰かと通信するために存在しているのだろう。つまり、通信する相手がいなければ赤外線通信は成立しないのだ。もっと具体的に言うならメールアドレスを交換する程度に親密な相手がいなければ成立しないのだ。いや、赤外線通信は連絡先の交換以外で活用されることもあるのだろうが。と、そんなことを訴えてみたところで菊池には哀れみの目を向けられるだけだろう。一風変わった格好をしている菊池だが、友人が少ないとはどうにも思えなかった。浮いた格好をしているくせに、誰よりも環境に馴染んでしまっている。そんな印象だ。少なくとも孤立しているのににこにことしていられるような頭の構造の人間ではなかったように思う。
そんな取り留めもない雑談を交わしていたところで、ようやく赤外線通信が終わったらしい。菊池は藤間へ携帯を返却する。
「どうも」
「ああ」
何が「どうも」なのかは知らないが、とりあえず連絡先を交換出来たのでそれでいいだろう。受け取りながら、念のために電話帳を確認してみる。あくまでさりげなく、念のために。
「…………あ?」
確認してみて、思わず素が出た。駄目だ、これではキャラ作りをしていることがバレしてしま
う。いや。キャラ作りなどという事実は一切存在しない。藤間はただ、動揺のあまり選択すべき言葉を間違えただけだ。そういうことにしておこう。
藤間の電話帳には菊池の連絡先が入っていた。メールアドレスに携帯番号。それはいい。連絡先を交換するために携帯を預けたのだから、入っていて当然だ。しかし問題は登録名だ。菊池俊輔の登録名は何故かは知らないが「菊池ちゃん❤」となっていた。悪意しか感じない。
「……登録名、変更するぞ」
すぐに気付いて良かった。これが仮に学校内で鳴ったりして、たまたま近くいた者が覗き込んでしまっていたかと思うと……考えるだけでぞっとする。藤間真司の存亡の危機となるところだった。間一髪。