清く正しく付き合いますので
男が藤間の離脱に気付くことはなかった。
玄関へ回った時には菊池と男がドアを挟んで激しく口論していて、玄関のドアを開けた音など聞こえていないようだった。もしかすると菊池は藤間が玄関へ回ったことを知られないようにするために口論を大声でしたのかもしれない。
無事に靴を回収した藤間はそれから帰宅した。菊池家では二人が喧嘩をしているのかと思うと後ろ髪を引かれるものがあり、気付けばいつもの二倍ほどの時間をかけて帰宅していた。楽しければ時間が過ぎるのは早いと言うが、後ろ髪を引かれ続けていても時間が経つのは早いらしい。
「……ただいま」
気が重いままに帰宅して、やはり何かすべきだろうかと思う。しかし何度でも言うが藤間は他人だ。それに菊池を疑った。そんな藤間に何が出来るというのか。出来ることなど何もないような気がする。
もやもやと考え込んでいる間に、母がダイニングから顔を出す。エプロンで手の水気を拭き取っているところを見るに、夕飯の支度でもしていたのだろう。藤間の出迎えが出来るということは一段落はついているのか。
「おかえり。あのね……」
挨拶をするなり、母は何かを言い出そうとした。雑談を挟み込んでくる方でもないので、もしかすると重要な話だったのかもしれない。だがそれを聞く余裕は今の藤間にはなかった。
「悪い、話を聞ける状態じゃない。後にしてくれ」
それだけ言うと靴を乱暴に脱ぎ捨てて自室へ向かう。母の横をすり抜けたが母がそれを止めることはなかった。ただ引き留めるように手だけが幾分か伸びる。だがそれが藤間へ届くことはなかった。それをいいことに藤間は一気に階段を上ると自室へと籠もる。
ずっと籠もるつもりではないが、せめて夕飯の時間になるくらいまでは一人でいたかった。このもやもやは誰かと共有すべきものではない。
やや乱暴にドアを開けて、ドアを背に自室へ籠もる。鍵をかけるべきだろうか。そんなことをつらつらと何気なく考えていたところで――思考が止まった。
「……へ?」
「やほー。遅かったね」
部屋には、菊池がいた。
ベッドの上へ座って、ばたばたと足を振りながらそれに連動するように手も振る。足を振りすぎているせいでちらちらとトランクスが覗いていた。間違いない、間違いようもない。菊池がいた。
「……何で」
「あれ? お母さんに聞いてない? ちゃんと許可取って待たせてもらってたんだけど」
「…………ああ」
母が何やら言いたそうにしていたのはそれだったのか。言われてみれば納得だ。
「で、何でいるんだ」
確か菊池は自宅で男と口論していたはずだ。それなのに何故ここにいるのか。時間的に不可能ではないが、あの状態の家から抜け出すのは簡単なことではないはずだ。気になって至極当然なことを藤間が問えば、途端に足をばたつかせるのをやめた。それから目がいっそ不自然なほどに泳ぐ。
「あー、えーと、家出……みたいな……?」
「みたいなって何だ」
まごうことなき家出だろう。よく見れば菊池の傍には大きめのバッグが投げ出されていた。恐らくはその中にぎっしりと日用品やら衣服やらが詰め込まれているのだ。また宿泊するつもりか。宿泊自体は構わないのだがこうも急だとまた何を言われることか。思わず憂鬱になった藤間の様子を察して、菊池は慌てた様子でポケットから横長の物を取り出した。そしてそれを藤間へ見せつける。
「ほら! 通帳持って来たし! ちゃんと私のだよ」
通帳を持ち出して来るということは長期戦のつもりか。
「だからさ、しばらく泊めてもらっていい?」
「……しばらくってどれくらいだ」
しばらくと一口に言ってもかなり差がある。だから時期をはっきりさせておきたい。だが菊池は時期を明確にすることはなかった。
「しばらくはしばらく。収まるまで」
「……」
どうやら逃げているらしい。たまには逃げることも大切だとは思うのだが、それに巻き込まれてしまうのは避けたい。他に頼る相手がいないのだろうか。
「……まあ、俺にも責任はあるしな」
男と決定的な決裂を作ってしまった原因は藤間だ。その気がなかったとは言え、責任がないとは言えない。だから泊めるくらいはしてもいいだろう。
「わかった。事態が事態だ。最後まで面倒は見てやる」
母を始めとして、父にもかなり言われるだろうが仕方ない。自分が招いた事態でもあるのだ。責任は負おう。
「ごめんねー」
菊池は申し訳なさそうにしている。服は幾らか乱れてしまっていて、家を出る時に男と揉めたのだろう。ストーカーのことにしても何も解決していないし、問題ばかりだ。とりあえず藤間の方の問題と言えば限られては来るが。
「親御さんにすごく文句言われるでしょ。ごめんね」
「……大丈夫だろう」
以前にも言った台詞を繰り返せばいい。
清く正しい付き合いをします。だから泊めてやってください。