彼女か!
木を隠すなら森の中。
そんなことを菊池が考えていたかは不明だが、とにかく菊池はデパートへと逃げ込んだ。手を繋いで走っている光景だけ見るなら若干迷惑なカップルにしか見えないのだろうが、それすらも菊池の格好が阻害していた。菊池の着ている制服は皺くちゃになってしまっていて、幾分か着崩れてもいる。だから周りの目を引く。手を繋いでデパート内を駆けているだけでも注目されるには充分なのに、これ以上注目されては堪らない。
「待て、ちょっと待て。止まれ」
「ん?」
藤間が声を上げたところで、一心不乱に足を進めていた菊池がようやく足を止めた。それから思い出したように手を放す。
「ここまで逃げれば大丈夫かな? で、どうしたの?」
何故藤間が待ったをかけたかがわかっていないらしい。周りの視線なんて受け慣れているのだろう。だからどれほど注目を受けていても大して気にならないのだと思う。だが藤間は違う。視線を向けられれば気になるし、回避したいと思う。それは普通の精神だろう。
「服装。目立ってる」
「ああ、ごめんね。気付かなかった」
藤間に指摘されたところでようやく思い至ったようで、菊池は乱れた髪を手櫛で整える。だが服装はどうしようもないらしく、乱れを整えただけで終わってしまう。これではまだ目立つ。どの道目立ってしまうとしても出来るだけ目立たない方がいい。だから藤間はおもむろに上着を脱ぐと菊池に被せた。
「羽織ってろ」
これで制服の汚れはあまり目立たないはずだ。男の制服の上着を羽織っている女子高生もそれなりに目立つだろうが、上着を着ていない藤間が近くにいればそこまで目立つこともないだろう。流石にこれ以上目立たないのは無理そうだ。
「真司は優しいねー」
他意があるように感じてしまうのはきっと藤間が後ろめたく思っているからだ。そのせいで何と返していいかわからなくなって、そうしている内にも菊池は言葉を続けた。藤間から目を逸らすと、歩きながら話す。一カ所に留まるつもりはないらしい。彼に見つかってしまう恐れもあるから移動し続けるというのは正しいのかもしれない。だから藤間は菊池に続く。時折、背後から彼が来ていないかを確認するのを忘れない。
「で、何で追われてたの?」
それはこちらが聞きたい。だが彼の言動から察することは幾らか出来る。これでほぼ正解だろう、という予想も立っている。だから答えた。
「お前が俺の家に来た最後の日、お前が泣きそうな顔で出て行ったのを奴が見ていたらしい。どうして泣かせたんだ、と詰め寄られたから逃げていたな」
何気なくそう答えた途端に、菊池が髪をぐしゃぐしゃと掻いた。まるで罰が悪そうに。実際その通りなのだろうが。
「あー、じゃあ私のせいだね。ごめんね、迷惑かけて。まあ、迷惑なのは最初からなんだけど」
「俺のことはいい」
良くはないが、とりあえず今のところはいいということにしておこう。そうしないと話が進まない。今は自分のことよりも菊池のことの方が気になった。何となく事情を飲み込めている自分のことよりも、何も把握出来ていない菊池のことの方が気になる。
「そっちこそ、その格好は何だ」
そう問った途端に、前方を歩く菊池が言葉に詰まった。詰まったというよりは、どう言うべきか悩んでいる。菊池が一瞬にして困ったのが顔を見なくてもわかった。困惑の気配がこちらにまで伝わってくる。
「えー、話が長くなるから言いたくないなあ……」
「話せ。どれだけ心配したと思っている」
「私が菊池俊輔じゃないかもしれないのに?」
何の悪意もなく、純粋に返された。だからこそ痛い。気のせいなのに責められているような気分に陥ってしまって、落ち着かない。
「……今は関係ないだろう」
ようやくそれだけを絞り出すと、歩いていた菊池が足を止めた。それから振り返って、藤間へ微笑む。その表情を見る限り、やはり他意はなさそうだった。
「真司は優しいねー」
「それはさっきも聞いた」
「あはは」
菊池は笑う。まるで笑うしか選択肢がなかったかのような、笑い方だ。それを選択させてしまうように藤間が追い込んでしまったのかもしれない。もしかしたら困っているのかもしれない。それでも何かがおかしかったのか、菊池の笑いはどんどん本物へと変質していった。おかしくてたまらない。そんな風に笑って、それから続けた。
「わかった、話す。あ、でも話すより見た方が早いかな」
隠すつもりはないらしい。菊池は何があったのか、話してくれるようだった。もしかしたら黙秘を貫くかと思っていたのでそこは素直に安心する。
菊池は早速話し出そうとしたが、藤間はそれを止めた。
「待て。話を聞く前に言っておきたいことがある」
今、言っておかなければいけない。言わなければタイミングを逃してしまう気がした。
「んー? 何?」
藤間が何を言うつもりなのか、わかっていない。だからこそ菊池は何気なくこちらを見た。歩き出すことはまだない。
藤間は謝罪する必要があった。何について謝罪すべきかは藤間自身がよく知っている。藤間は菊池に謝罪しなければいけないのだ。藤間は菊池にしてはいけないことをした。謝罪したところでなかったことには勿論出来るはずもないが、だからといって謝罪しなくていいということにはならない。
「疑って悪かった」
姿勢を正して、四十五度に頭を下げる。唐突に頭を下げられた菊池は当然のことながら困惑しているようだった。収まっていた視線も再び集まり始めていたが、そんなことよりも謝罪の方が優先すべきことだ。だから気にしない。気にならないわけではないが、気合いで気にしない。
「え? ちょっと、とりあえず頭上げようよ。ね?」
困惑したままに、菊池はそう言うがその言葉は却下して頭を下げ続ける。そして頭を下げたままに続けた。声が下に向かうので、声を大きくしなければいけない。
「お前は菊池俊輔だ。それなのに一瞬でも俺は疑った。悪かった。俺が悪い。どれだけ謝罪しても足りないとはわかっているが、それでも謝罪する。悪かった」
冷静に考えてみれば、疑う方がおかしい。手紙で呼び出されたり、年賀状のことを知っていたり。菊池俊輔でなければ知っているはずがないことばかり。それなのに疑った。わかりやすい方に流れようとした。最低だ。
「…………何でいきなり?」
突然に、藤間が菊池のことを信じたことに菊池は動揺を隠せないようだった。無理もない。藤間は菊池をはっきりと疑ったのだ。その考えを急に覆されれば疑うだろう。菊池は正しい。その読み通り、藤間は突然に何の根拠もなく考えを覆したわけではない。きっかけは勿論あった。