突然の
翌日も、翌々日も藤間は彼に追われた。そして菊池は姿を見せない。
「いい加減っ……! しつこい!」
今日も今日とて、藤間は彼に追われている。彼が菊池のストーカーであったことは間違いないだろう。だがここ数日は藤間にべったりと張り付いている。恐らくは自宅もとっくの昔に知られているのだろう。自宅や家族に何かをされるのではないか。そんな警戒こそ持っているものの、とりあえず今のところは藤間に直接被害が来ているだけのようだった。それも迷惑な話だが。
ここ数日の彼の様子を見るに彼は藤間だけを執拗に追い回しているらしかった。この出没ペースで、菊池もストーキングしているとは思えない。動機ははっきりとしないがストーキング対象を菊池から藤間へ変更しているらしかった。それが一時的なものなのか、それとも半永久的に続くものなのか、判断は出来ないが。逆恨みの線が強いのではないかと思うのだが、こんな生活が続くと思考が麻痺してくる。考えるという余裕が喪失する。磨耗する。心が疲弊し始めていた。
しかしそれはそれ、これはこれ。藤間は今日も逃走していた。放課後になると同時に、下校する生徒に紛れて逃走を開始する。全力で逃走して、彼を撒いたところでようやく帰宅する。こんな生活で疲れないという方が異常だ。自宅に待ち伏せされていたら、と考えると撒いてからも落ち着くことは出来ない。
彼の姿を確認する前に藤間は逃げ出していた。たった一週間ほどだが、既に体に染み着いてしまっていた。こんな妙な習慣、きちんと抜けてくれればいいのだが。不安だ。
「は、っ……」
走り過ぎて息が切れる。それでも足を止めるのは怖かった。だから走り続ける。背後を確認すればいいのだろうが、もし迫ってきていたらどうする。ストレスゲージがいい加減に振り切れてしまう。
行動パターンがだいたい読まれてしまっているため、書店などには寄ることが出来ない。出来るだけ自分が行きそうにない方向へと出来るだけ足を進める。そんな生活がたまらなくストレスだった。人気のある場所でなら彼も滅多なことはしてこないだろうが、それでも彼に追尾される生活にはうんざりしていた。誰かにまとわりつかれる生活が気味悪くないわけがない。気持ちが悪い。
彼がいるのかいないのか。そんなこともわからないままにとりあえず距離を稼ぐ。ここ数日の経験から察するに彼は藤間に体力で劣るようだった。だから逃げれば追いつかれてしまうことはまずない。それが藤間の精神を何とか保っている理由のひとつだった。この砦があっさりと崩されてしまうことはまずない。
だから平気。とりあえず、今のところは。
「はっ、は……けほっ」
一気に走ったせいで肺が早くも限界を訴え始めた。元々積極的に運動をする方でもないから体力が切れるのは驚くほど早い。短期戦でしか藤間には勝機がないということになる。それでも今は何とか逃げられているけれど。
多分、これくらい逃げれば大丈夫だろう。そろそろ走り続けるのも限界だったので、足を止める。それから手を膝へおいて、息を整えた。そうしている間にも目線は出来るだけ下に落とさない。彼の姿をもしも確認してしまったならすぐにでも全力で走り出さなければいけなかった。警戒して藤間は周りを見つめ続ける。
すると、目が合った。
「あ」
「っ!?」
目が合った。けれどそれは彼ではなかった。
多少のブランクがあったが、見間違えようもない。風で靡く髪とスカートは汚れ、誰かと喧嘩をしてきたかのような風体だった。髪はぼさぼさとしていて静電気を帯びているかのようだ。曲がり角から急に飛び出してきた菊池は髪を直すことをしない。そんな余裕もないのかもしれなかった。
お互いに気付いた。藤間としては言いたいことは山のようにあったが、息が乱れて口にすることが出来ない。
「おま、え……何……っ」
とりあえず、息が整うのを待つしかない。だがそうしている間にも菊池は走り出してしまうのではないか。そんなことを思うと落ち着いてもいられない。早く息を整えなくては。菊池がいなくなってしまうよりも早く。
「……」
「……」
しばしお互いに無言。藤間は息を整えていて、菊池はどうするべきか考え込んでいる。去るかここにいるか。藤間が何かを言おうとしているのはわかっているはずだから待ってくれているのかもしれない。最後のはただの希望だが。
きっと何よりも藤間が息を整える方が早い。そう思っていたのだが現実はそうはいかなかった。背後から形振り構わない足音が聞こえてきて、藤間は戦慄する。この足音は、ここ数日で聞き飽きた。だから誰かなんてことは振り返るまでもなくわかる。のんびりしていたから見つかって、追いつかれてしまったのだ。迂闊としか言いようがない。
「……っ」
「見つけた」
僅かに後方で声がして、足音が止んだ。追いつかれてしまったらしい。まずい。逃げなくてはいけない。息はまだ整っていないがそんなことを言っている場合でもなかった。
一刻も早く逃げないと。そう思うのに疲弊しきった身体はすぐには動き出してくれなかった。足音が迫ってくる。身体中から嫌な汗が噴き出すのに、それでも身体は動かない。息が詰まる。
「お前、何で逃げるんだよ!」
「っ」
声が迫る。いよいよ緊張で身体が硬直する。先程までとは違った意味で逃げられそうにもなかった。どこか頭の端で冷静に考えていると唐突に、これまで不動だった菊池が動き始めていた。速度をつけて、藤間へと向かってくる。それはもう、思わず藤間が身構えてしまうほどの速度で。
菊池は真っ直ぐに藤間へと向かって速度を上げると、僅かに横に逸れた。それから藤間と擦れ違う形でそれでも真っ直ぐに進み続ける。菊池の目的は藤間ではないらしい。思わず安堵していると、視界の端で菊池が思いきり右足を振り上げた。ほぼ百八十度に振り上げられた足にスカートが纏わりつく。スカートが短めなせいでトランクスが思い切り見えてしまっていたが、菊池は気にした様子もない。そしてそのまま菊池は、その足に速度を付けて振り降ろした。標的は、彼だった。
菊池が足を振り上げた時点で反射的に振り返ってしまっていたので、その瞬間を目にすることとなった。振り降ろされた右足は彼の肩へと直撃した。彼はバランスを崩すと俯せに倒れる。床はアスファルトなのでとても痛そうだが、同情する気にはならなかった。菊池は振り降ろした右足を彼の身体に乗せたまま、体重を右足へとかけた。わざとではなく、そうして身体のバランスを取っているらしい。そしてバランスが取りきれていないのか、右足だけで立つと彼の身体の上で二回ほどけんけんをする。
「ぐえっ」
菊池の下で彼が蛙が潰れたような声を発する。これは流石に同情心が僅かながらに芽生えた。
菊池はけんけんをした後、アスファルトへと片足で着地する。それから藤間を見た。
「さて」
「……何」
僅かながらに身構える。身構えるというのもどうかと思うが、もしかしたら藤間も同じように蹴られるのではないかと思う。それは勘ではなく、確かな根拠がある。藤間は菊池に蹴られてもおかしくはない。それだけのことをした。
だが、予想に反して菊池が藤間へ蹴りを見舞うことはなかった。菊池はゆったりと藤間へ歩み寄ると、ごく自然に手を取った。
「は」
「とりあえず逃げようか」
菊池は有無を言わさず走り出す。菊池に手を引かれるがままに藤間が走り出せば、彼が緩慢な動作で起き上がり始めているのがわかった。これは確かに逃げた方がいいかもしれない。菊池の意図は読めないが、今は従っておこう。
「何か知らないけどやばいんでしょ。逃げきればいいよね?」
「……そうだな」
菊池は理由もわからずに逃げ出したらしいが、今回に限ってはその判断が正解だろう。だからその判断に免じて手を離せと言うのはやめておくことにした。