疑惑浮上
小学生時代、藤間はよく菊池を自宅に招いて一緒に遊んでいた。その日は雨が降っていた。そのため外で遊ぶことが出来ない。退屈を持て余していた藤間と菊池の目に入ったのは意外にも刺繍だった。その当時、母は刺繍にはまっていたのだ。そのため、様々な刺繍キットが家に転がっていた。難易度も初心者向けから上級者向けまで様々。その中でも特に目に入ったのは初心者向けの刺繍キットだった。正方形のプラスチックの容器の中に布を入れるだけの簡単な仕組みで、その布に刺繍を施す。図面の見本まで同封されていて、それは世界的に有名なキャラクターの顔だった。男子が刺繍に熱中出来るわけもないだろう。なんて思ったのは最初の数分だけで、すぐに二人してのめり込んでいった。そんな中で菊池が提案したのだ。
「普通に刺繍したんじゃつまらないだろ。どうせならお前と俺の刺繍の糸交換しようぜ」
刺繍キットは針や糸も同封されていた。糸は図面に応じて必要な色の糸が必要な分だけ入っている。菊池はそれを交換しようと言い出した。つまり、色違いのキャラクターを繕うと言うのだ。昔から普通が嫌いだったのか。いや、違う。女装をしているあの菊池は菊池ではないのか。
藤間も提案を飲んで、その日は黙々と色違いのキャラクターを縫っていった。幸いにして糸が足りなくなるということはなかった。糸を交換してしまったのに量が足りたというのは幸運なことだったと思う。そんなこんなで、結局色違いのキャラクターのストラップが二つ出来上がった。それらはそれぞれが持っておこう、ということになったのだが菊池は藤間の方のストラップに興味を示した。色合いがそちらの方が気に入ったのだろう。藤間はどちらでも良かったので菊池に提案されるままにストラップを交換した。
それからストラップを捨てるタイミングを逃し続け、ずるずると所持を続けた。今でも引き出しの中に眠っているはずだ。そんな中、自然と藤間と疎遠になり中学生にもなると中学が別々になってしまったので本格的に顔を合わせることはなくなってしまった。
だから、最も菊池が菊池であることを証明するのはそのストラップであるといっていい。その証拠に彼がストラップを持っているのを視認した途端に、藤間の中で宿泊していたあの菊池に対する疑惑が爆発するかのごとく膨張した。彼は菊池だ。間違いない。それでなければそんな奇妙なストラップを提げて街にいるはずもない。面影だってある。間違いようもない。
とりあえず、事情を聞く必要があるだろう。そう思い、更に言葉を重ねようとしたのだがそれは遮られてしまった。目の前の菊池が先に口を開いた。
「すみません、人違いじゃないですか? 俺は確かに菊池ですけど貴方のこと知りませんし」
「……は? 何を言っている……」
意味がわからない。彼は菊池に違いなく、それなら藤間のことを覚えていないはずはない。年賀状のやり取りはあったのだから存在そのものを忘れているということはまずないだろう。昔の面影を残していないのでわからない可能性は、なくもないが。
「俺は藤間真司だ。思い当たったか」
名乗ればはっきりと思い出すだろう。そんな風に思って名乗ってみたのだが菊池の反応は予想とは大きく異なった。
「いや、知らないです」
拒否するように警戒すら滲ませて、菊池は書店の出口へと後ずさる。それを追おうと藤間もそちらへ足を向ければ菊池は藤間を睨み付けた。
「いい加減にしてください。俺は菊池ですけど、貴方なんて知りません」
それだけ言うと菊池は踵を返して早足に出口へ向かった。それを追うのも手だったが既に周囲の視線がかなり痛くなり始めていた。たまに足を運ぶ書店であまり目立つのはまずい。そんなことを考えて、追うのはやめた。そして目的だった参考書を買わないままに書店を出た。視線が痛い中で集中して参考書を選べるとは思わない。
様々な視線を受けながら、藤間は書店を後にする。黙々と書店から距離を取って、視線を感じなくなったところで藤間はおもむろに携帯を取り出した。電話をかけるためだ。かける相手は決まっている。
「もしもし」
『やほー! 真司から電話なんて珍しいねー』
大して時間を空けることなく、無駄に明るい声が向こうから響いてきた。電話を耳から離したい衝動に駆られながらも、藤間は単刀直入に本題を切り出した。こういう時、相手の問いに答えてはいけない。話があっさりと逸れてしまう。
「大事な話がある。これから俺の家に来てほしい」
その言葉を受けて、向こうは考えているようだった。それでもそれは少しの間で、すぐにまた明るい声で返答。
『わかった! すぐに行くね! じゃあ、また後で!』
それだけ言うと一方的に電話を切られてしまった。他に用件もなかったし、無駄話を続けられるよりはずっといいのだが。
藤間は通話時間が表示されている携帯を待ち受け画面へ戻すと、ポケットへ戻す。それからほぼ無意識に混乱を言葉にして吐き出した。
「……アイツは誰だ」
呟いた傍から昔の菊池が脳裏によぎって、すぐに消えた。