やっぱり悪用
入浴を終えて戻って来てみれば、菊池はスキンケアをしていた。
「うわ……」
髪は乾かし終わったのか、ドライヤーは既に姿を消していた。スクールバッグの中に戻されたのだろう。そういえばドライヤーの姿を見ていない。まあ、どうでもいいことだ。それよりも藤間として言いたいことがある。
「流石にそれは少し引くぞ」
菊池はテーブルでスキンケアをしていた。化粧水だろうか。何やら液体をぺちぺちと顔につけている。その際に前髪が邪魔になるのか、ヘアピンで留めて上げられていた。その姿はどう見ても女性だ。だが菊池は男だ。いや、そういう性別で見る目を変えるべきではないとは思うのだが、それでも思ってしまうのだ。こればかりはどうしようもない。長年培ってきた価値観はそう簡単に覆せるものではないのだ。
「えー、何で?」
菊池はと言えば、藤間の言葉に動じた風もなくまた液体を顔に付ける。スキンケアで一杯一杯なのか、藤間の方を見ようともしない。
「お肌のケアは基本でしょ」
「それは女の話だろ」
「そんなことないわよ。最近は男の子だってお肌に気を遣ってる子はいるのよ?」
「一部の人間の話だろう、それは」
お洒落が好きだったりするそういう男性の話だろう。大多数の男性は何のスキンケアもなく生活していると思う。まあ、誰かに迷惑をかけているわけでもないし藤間が一人引くだけの話なので構わないのだが。構わないというからにはそれ以上何かを言うのはよくないだろう。スキンケアをしようとすまいと個人の自由だ。
このまま菊池を見ていると文句を言ってしまいそうだったので視線を逸らす。するとベッドの横に敷いてある布団に目がいった。確か、記憶が正しければこんなものはなかったはずだが。
「菊池、あの布団は?」
まさか、菊池が敷いたのだろうか。菊池がそういった部類の気を利かせられるとは到底思えないのだが。藤間がそんな失礼なことを考えている中、菊池はスキンケアを続行しつつそれをあっさり否定した。
「違うわよ。真司のお母さんが敷いてくれたの。ベッドに二人で寝るわけにはいかないでしょーって」
「……来たのか」
のんびりと藤間が入浴している間に、母は菊池と接触していたらしい。その際にどんな会話があったかは気になるところだが、菊池から言わない以上はこれも聞かない方がいいのかもしれない。何事もなかったのに下手に聞いて藪をつつくようなことになってしまうのもどうかと思う。菊池から言ってこない以上は何も言わない方がいい。
それにしても布団を敷いてもらえたのは有り難かった。実は布団を敷くのを面倒だと思っていたのだ。面倒さが極まれば毛布だけを引っ張り出して、それにくるまって寝るということにもなりかねなかった。それでも一晩くらいなら大丈夫だとは思うのだが。
「気が利くお母さんよねー。私なんかお母さんにそう言われるまで気付かなかったもの」
「そうだな」
ベッドで散々寛いでおいて気付かないのもどうかと思うが、気が利く母だということには同意だ。菊池を快く思っていないはずだがそれでも気遣いは忘れないらしい。
「……」
「……」
しまった。沈黙に入ってしまった。菊池のスキンケアについて触れまいとするあまり、口を閉ざしがちになってしまう。これまでならこの程度の沈黙は何ともなかったのだが気まずさを感じているために沈黙が妙に重たく感じてしまう。旧友がピンクの寝巻を着てスキンケアをしていて、何も感じるなという方が難しい。何か言いたいのを堪えるのが精一杯だ。
沈黙は一方的にではあるがひたすらに気まずい。それならどうしかしてこの沈黙を破らなければいけなかった。何か案はないだろうか。考えた末に、藤間はあることを思い出す。
「そういえば送信先の件、戻ってきたら話すとか言ってなかったか?」
「ああ、あれねー」
藤間に言われてようやく思い出したらしく、菊池は声を上げる。それでもやはり藤間の方を見ることはなかった。
「私、ストーカーされてるって言ったじゃない?」
「そうだな」
スキンケアを続行しながら話すのか。いや、構わないが。友人と話すくらいなら何か作業をしながら話していても許されるだろう。藤間が勝手に納得していると藤間は話を続ける。
「その子、真司がさっき出てくれた電話の相手でね」
「やっぱりか」
そんな気はしていた。ストーカーさん、なんてあからさまな登録名で表示されていれば誰だって疑うだろう。そのせいか、白状されても驚きが大してない。強いて言うなら予想が正しかったことに対する感情が僅かばかりあるくらいか。
菊池はそんな藤間の様子を不審に思うこともなく続けた。藤間の方を見ていないのだから不審に思いようもないのだが。それにしてもスキンケアとはそんなに入念にするものだったか。イメージでしかないがスキンケアはもっと簡単にぺちぺちとやって終わっていたような気がする。……本当に菊池がしているのがスキンケアであるかどうか自信がなくなってきた。
「携帯って着信拒否とか出来るじゃない? でもなんかそれしたら負けたような気がするのよねー。着信拒否した方がいいのはわかってるんだけどついつい真面目に返事しちゃったりするのよ」
「……そんなことだからしつこく粘着されるんじゃないのか?」
「そうかもね」
薄々そんなことはわかっていたらしく、菊池は自嘲気味に笑う。自覚していながらも改善出来ないと言うことはどうしようもないのか。そこでようやくスキンケアが終わったのか最後にぺちんと一度だけ頬を叩いて、化粧水の瓶の蓋を閉める。どこか清々しい表情をしているのは何故だろうか。
「よく電話とかメールが来るのよ」
「それは大変だな」
何の偽りもなく、大変だとは思うのだがイマイチ言葉に感情が籠もらない。こういう時に感情が乗らないのは損をしていると思う。
菊池は化粧水の入った瓶のキャップ付近を掴むとスクールバッグの中に戻した。一々化粧品を持ち歩かなければいけないとは世の女性も大変だ。瓶をしまって、スクールバッグのチャックを閉めながら菊池は続けた。
「で、彼氏がいるんですーって言っても信じてくれないしね」
「それは大変だな」
「……ちょっと、聞いてる?」
「勿論。続けてくれ」
同じ返答をしてしまったせいで疑われてしまった。勿論きちんと聞いている。どう相槌を打ったものかと迷う。話を聞いていないわけでは全くないのだが。藤間の言葉を信じていないのか、菊池はじと目で菊池を見る。
「……」
「……」
視線が痛い。だがしばらくそれに耐えていると、菊池は再び話し始めた。とりあえずは信じてくれたのか。
「あんまりにも信じてもらえないからさあ……」
そこまで言ったところで、菊池の視線が大きく泳いだ。藤間を意図的に外すように、ぐるぐると目玉が回転する。動揺が丸わかりだ。この時点でだいたいの展開は読めたのだが、それでも黙って菊池が続けるのを待った。
「……だからさー、さっき撮った真司の写メをね……」
「……」
また、沈黙。既に乾いて水気のない髪を人差し指に巻き付けながら、菊池は黙り込む。それほどまでに言い出しにくいことだろうか。それなら無理に本人の口から言わせることもないか、と思う。予想がついているのなら藤間の口から言ってみればいい。ただの確認作業だ。
「送ったのか?」
「う」
間髪入れずに呻き声が返ってきた。射撃したわけではないのだから、そのリアクションはどうかと思うのだが。まあ、リアクションも個人差があるので何とも言えない。
「す、すみません……ストーカーさんに送りました。この人が私の彼氏ですっていう文章付きで」
「そうか」
そういった可能性だって考えてはいた。それならそれでいいかとも思う。そもそも彼氏役を頼まれたのだから彼氏だと言い触らされたところで、それは怒るべきところではないだろう。それも引き受けた側としては受け入れるべきことだ。だから怒っているわけではないのだが、菊池にはそうは見えないらしい。その証拠に視線は未だに泳いでいる。ここははっきりと怒っていないことを伝えた方がいいのだろうか。静かに藤間がそんなことに頭を悩ませていたところで、菊池は恐る恐る藤間を見た。藤間は怯える菊池をずっと観察していたので必然的にすぐに目が合う。
「えっと、……怒ってる?」
「別に」
怒ってない。怒るところでもない。あまり言葉を重ねても嘘臭くなる気がしてそれだけを返す。考えてみればその言葉だけでも怒っているようには聞こえるのだが、それでも菊池はいくら安堵したようだった。藤間の言葉の少なさを理解しているのかもしれない。
「ごめんね」
「謝る必要はないだろう」
菊池がどこまで藤間の言葉の意味を理解しているかはわからない。純粋に藤間を盾のように利用したのが心苦しいのだろう。それを頼んできたのは菊池であるはずだが、いざその場面になると気持ちが追いつかないらしい。根が真面目というか、菊池も藤間のことばかりは言えないようだ。