食欲は男子
どれくらい経っただろうか。
勉強にどっぷり集中してしまっていたのでどれくらい時間が経過したかははっきりとしないが、ノックの音で現実へ引き戻された。
「ん!?」
勉強に集中するあまり、すっかり雑念が飛んでしまっていた。現実に引き戻されたことによって一気に情報が流れ込んでくる。その急な動きについていけずにぼんやりしているともう一度ドアがノックされた。
「真司、入るわよ?」
母だった。がちゃがちゃとした音が聞こえるので食事を持って来てくれたのだろう。律儀に二回もノックして入室することを伝えるあたりが藤間の母だと思う。一回目で現実に引き戻して、二回目に入室することを伝える。藤間のことを知り抜いている。流石母、とでも言うべきか。
藤間が許可を出すまでもなく、母はドアを開けて部屋へ入ってくる。手にしている盆には食事が二人分、ところ狭しと置かれていた。量的に片手で持つことは不可能なので両手で盆を持った状態でドアを開けたらしい。下へ食事を取りに行くとか、せめてドアを開けるとかそういうことをした方が良かったのかもしれないと今更ながらに思う。時既に遅し。
「じゃあ、いつもと同じように食べたら下に持って降り……」
いつもと同じことを言っていた母が途中でその言葉を途切れさせる。何かに衝撃を受けたようだったのでその視線を先を辿ってみれば、ベッドで布団にくるまった菊池がすやすやと眠っていた。
「……ち、ちょっと……」
「ん? …………あ」
わかった、理解した。母は多大なる誤解をしている。菊池は女子高生だという認識になっているのだ。それが息子のベッドですやすやと寝ていれば、誤解しても何らおかしくはない。おかしくはないのだが解せない。勘弁してくれ。
母はとりあえず部屋の中央に置かれているテーブルへ盆を置くと藤間を見た。油断すれば噴出してしまいそうな諸々の感情を無理矢理に抑え込んでいるのか、口がへの字に引き結ばれている。
「……あのね、まだ高校生なのよ? それなのにこんなふしだらなことをして」
「ふしだらって……何もしてないしコイツはそもそも男だ」
「またそうやってすぐにわかる嘘をついて」
「嘘をつくならもっとそれらしい嘘をつく」
よくよく考えればわかることだとは思うのだが、母は強烈すぎる現実に目が眩んでそんなことを考えている余裕はないらしい。菊池が女子にしか見えないことも災いしている。菊池が男であることを証明するにはそれこそ股間に手をやってみるしかないだろう。
「とにかく! 変なことしちゃ駄目よ。まだ高校生なんだから」
「無駄な杞憂なんだが……」
絶対にない。間違っても変なことなんて起きない。有り得ない。断言してもいい。だが藤間がいくら断言したところで母は決して信じないだろう。時には子供の発言を信じるということも大切だと思うのだが。何もないから安心してほしい。
無駄な釘をいくつか刺したところで母は部屋を出て行く。続いて規則的に階段を下りる音が響いてきた。動転が行動に反映されることはあまりない人なので階段から転げ落ちるなどといったお約束はない。
「……」
その遠ざかっていく音を聞きながら藤間は勉強机に転がしている消しゴムを手に取る。随分と使い込んでいて先は丸くなり、カバーはぼろぼろになってしまっていた。それを手の中で何度か転がすと菊池を一瞥する。熟睡しているのかぴくりとも動かない。寝息は聞こえてくるので生きてはいるはずなのだが。
「……」
しばしの躊躇。だが選択肢はあってないようなものだ。藤間は手にしていた消しゴムを菊池めがけて全力で投げつける。普段の行いがいいのか、消しゴムは菊池の頭へ直撃した。布団から出ているのは頭部だけだったので当たるかどうかは自信がなかったのだが当たった。とりあえず安堵する。
「ん……んん?」
全力で投げた甲斐があってか、菊池は今の一撃で目を覚ましたらしい。次に投げるものを探す手間が省けた。だが起きる様子はない。どうやらこのまま二度寝に入ろうとしているらしい。折角起こしたのに二度寝されるわけにはいかない。ここは素早く本題を切り出さなければ。
「晩飯。食べたらどうだ?」
「……む、晩ご飯」
反応した。食には食いつくらしい。そこは年頃というかなんというか。菊池はすぐにベッドから這い出た。出てきたのではなく本当に這いずって出て来た。ずりずり。そのシーンだけ見るとホラー映画のワンシーンのようだ。くんくんと鼻で匂いを嗅いで、テーブルまで辿り着いた。そして目を輝かせる。
「わあ。食べてもいいの?」
「一人分な。俺の分は食べるなよ」
「わかってるって」
楽しそうな玩具を見つけた時の子供のような、純粋な目で菊池は箸を握る。そうしたところで藤間もテーブルへ近寄って箸を取った。それからテーブル付近へ腰を下ろす。
「いったっだきまーす」
「いただきます」
菊池が合掌をするのでそれに続いて藤間も合掌をする。そうしたところで菊池は不意に首を傾げた。何か不思議なことがあっただろうか。
「あれ? 私に気を遣って部屋でご飯食べてる……んじゃないよね、これはどう考えても」
「まあ、いつもこんな感じだな」
菊池が泊まるから自室で食べている、というわけではない。そもそも藤間の家は家族で食卓を囲んで食べるという習慣がないのだ。時間のない朝などは否応なく食卓でほぼ揃って食事を摂るが、そういうことではないだろう。
「家族の仲が悪いとかそういうことじゃないよね?」
「いや、全く良好だな。何の問題もない」
年頃の男子らしく両親に反抗心が僅かに芽生えたりはしているもののそれも含めて正常な家族だ。どこもおかしくはない。ありがちな、常識的な家族の見本市。実につまらないものだが安定という点では間違いがない。
「ふうん、家族で一緒にご飯食べないんだ……勿体なーい」
「そうか?」
家族全員で食事なんて非効率的だろう。父の帰宅が遅ければそれに合わせなければいけなかったりするわけだろう。面倒極まりない。だいたいにしてこの家の面々で食卓を囲んだところで沈黙が続くだけなのだ。重い沈黙の続く食卓など何が楽しいものか。
「まあ、考え方は人それぞれだけどねー」
「おまえに言われると何故かその言葉は重みを持つな」
「どういうことよ」
「別に」
菊池は藤間を睨みつけながら、茶碗を手に取る。それから箸でおかずを摘んで口に放り込んだ。
「く~! おいしい! ……あ、グルメリポーターみたいにコメントした方がいい?」
「そういう気の回し方はいらん」
「そう」
起き抜けのくせに食欲は衰えないようで、菊池はぱくぱくとおかずや白米を口内へ放り込んでいく。どうやら空腹だったらしい。そのもの凄い勢いの食べっぷりを見ていると男だなあと思うのだが、一体どれほどの同意が得られようか。華奢な女子高生の身体に次々と食べ物が吸い込まれていく様子はギャップなどという言葉では言い表せない気がした。菊池が女として認識されてしまっているので食事の量は少なめだ。これはもしかすると足りないかもしれない。そうなるとおかわりをする必要があるわけなのだが、そのために下に降りないといけないのかと思うと少々気が重い。どうせここぞとばかりにマシンガンばりの勢いで説教をされるに決まっているのだ。二階にいる菊池に聞こえない程度の音量で。
「ごちそうさまでした」
「!?」
藤間が考え込んで憂鬱になっている隙に、菊池は食事を終えてしまっていた。やはり量が足りなかったのか藤間の食事まで減っている。何にせよおかわりには行く必要がありそうだ。このままでは藤間が飢えてしまう。