流されるのはお約束
「待ちなさいよ。話は最後まで聞く。お母さんに教えてもらわなかったの?」
「……てっきりもう話は終わったものだとばかり思っていてな」
まだ話は終わっていなかったらしい。走れば良かったのか。話が終わっていなくても、逃げ切ってしまえばこちらのものだったのだが。
藤間を捕まえる菊池の手は力の込めすぎで震えていて、切羽詰まっているのかもしれなかった。だからその手を振り払うのに躊躇して、話の続きを聞くことになった。
「そうやって見栄を張ってみてもね、怖いのは怖いのよ。だって家に帰って窓から外を眺めてると目が合うの。じーっとこっちを見てるの。あれはもう完璧にストーカーよ」
「はあ」
「あんな家に帰るのは怖いの」
「……」
まあ、その話が本当なら確かに怖いだろう。しかしストーカーの方も毎日張り込んで、一体いつ寝ているのだろうか。当事者でない分、そんなことに考えを回す余裕もある。
「送ってやろうか」
一緒に帰る以上、結局は菊池を送り届けなくてはいけないのだろうが、どうせ結果が同じなら先に言った方がいい。そんな考えを見透かしたわけでもないだろうに、菊池は裏があるのではないかと思うくらいに柔らかな笑みを浮かべた。
「優しいのね」
「俺はいつでも優しいだろう」
優しくなければ最初に菊池に会った時点で即帰宅している。聞く耳持たずだ。いや、優しくないならそもそも待ち合わせにすら応じなかっただろう。そう思えば藤間はとても優しい分類だと思うのだが、何故だか菊池の同意は得られないような気がした。
「そんな優しい優しい真司に頼みごとがあるんだけど」
「頼みごと?」
嫌な予感がする。だが話を切り上げるタイミングが掴めない。ここは多少強引にでも切り上げるべきだろうか。そんなことをぐるぐると考えていると、菊池は勝手に話し始めてしまった。
「じゃあ優しいついでに泊めてくれない?」
「……はあ?」
何のことを言っているか理解しかねて、思考停止しかけたところで菊池は弱々しく続けた。
「だって、怖いの」
「怖いのって……」
こういう時ばかり、女性のように弱々しく振る舞われても困る。外見が女性的なせいで邪険にすることも出来ない。中身が男だということは充分にわかっているのだが、それでも躊躇する。どうしても外見に引きずられてしまう。
藤間が躊躇している間にも、菊池は畳みかけてくる。今がチャンスだとわかっているのだろう。藤間だって菊池の立場だったらこのタイミングで畳みかける。
「お願い! 大丈夫。迷惑かけないから」
その自信は一体どこから出てくるのだろうか。もう既にこの時点で迷惑な気がしないでもないのだが、菊池はそれに思い至っていないらしい。
「泊めてくれるまで帰らないわ。ずっと真司に付きまとってやる」
「おい、どっちがストーカーだ」
ストーカーが怖いばかりに菊池までストーカーになろうとしている。こういうのを何と言うんだったか。ミイラ取りがミイラに、だったか。
どうやら菊池は本気のようで、引き下がる様子はない。ここはひとつ常識的な視点で攻めてみるべきだろう。それでも引き下がってもらえるかは怪しいが、宿泊をあっさり許すわけにもいかない。藤間は藤間で都合というものがある。
「無理だ。第一、着替えもないだろ。言っておくが俺の家に女物は母の分しかないからな。流石にそれは貸せないぞ」
言えば貸してくれるのだろうが、いい顔はしないはずだ。ん? そもそも菊池は女物でいいのだろうか。当たり前に女物だろうと思っての発言だったが家では案外男の格好をしているのかもしれない。それを確認しないままの独断的な発言は迂闊だった。取り消すべきだろうか。そんなことを考えていたのだが、菊池はそんなことは全く気にしていないらしい。むしろ菊池は食いついたのは別の部分だった。
「大丈夫、着替え持って来てるから!」
そう言うなり、菊池はそれまで肩に提げていたスクールバッグのチャックを開く。それからその中身を藤間に見せた。
「……えーと」
ぱっくり開いたスクールバッグにはところ狭しと様々な物が詰め込まれていた。着替えを始め、歯ブラシなどの洗面道具や化粧品。一泊二泊する程度には問題ないくらいの荷物が入っている。スクールバッグは勉強をするための道具を詰めて学校に持って行くためのものだと認識していたのだが、いつその常識は覆されたのだろうか。スクールバッグはお泊まりセットを詰め込んで持ち歩くための物だと、どこかでと定義されてしまっているのだろうか。
何とコメントするか迷うが、ここは藤間としては言うべきことはいくつかに絞られてくる。その中で優先度が高いと思われるものをピックアップして、口にした。
「お前はそんな鞄を提げて学校へ何をしに行っているんだ」
「教科書類はだいたい学校に置いたままだし、お昼は購買で買うし」
「置いて帰るって……予習が出来ないだろう」
「予習? それってしないといけないものなの?」
「…………っ」
平然と言ってのけた。まるで当然のように、言った。信じられない。その神経を本気で疑う。予習復習をしない日が存在することなど耐えられるはずもないだろうに。いや、これは藤間だけが抱く特殊な感情なのかもしれないが。
絶句している藤間を見て、菊池は苦笑する。どうやら呆れられているらしい。何に対して呆れられているのかは知らないが不本意だ。
「私は真司みたいに真面目じゃないの」
「真面目の定義を俺程度にするな」
藤間が真面目だという菊池の主張にはおいおい反論していくとして、今重要なのはそのことではないのだ。とりあえずその話は脇に置くとしよう。それより今、ふと思ったことがある。思いつきではあるが何故か正答である確信があった。だから聞くのは一応確認してみるだけのことだ。
「スクールバッグに毎日宿泊セットを詰めているわけではないよな?」
「まあ、たまにね」
「それなら今日に限って詰め込んで来ていたのは明らかに誰の家に転がり込むつもりだったということだな?」
「う、ん……まあ」
「確信犯か」
学校にわざわざやって来たところから始まり、菊池は最初から藤間の家に転がり込むつもりだったらしい。よくもまあそんな非常識な考えを実行に移せるものだ。いっそ感心さえするのだが、それを皮肉として口にしてみたところで菊池には通用しないだろう。素直に喜ばれてしまうのがオチだ。だからあえて何を言うこともなく、溜息だけを吐いた。
「お前な……」
何をどう言えばいいのかわからない。
このまま追い返したとして、菊池は自宅には帰らないだろう。真司をひたすらに追い回すというストーカー計画がどこまで本気かということは置いておくにしても、誰かの家に泊まり込むのだろう。こんな性別のはっきりしない人間を止まらせることになる人間も大概迷惑だ。真司くらいの人間ならまだしも押しに弱い人間なら嫌々に菊池を泊めてしまいかねない。それは些か心が痛む。それではまるで真司が厄介事を回避したからこそ誰かに厄介事を降り懸かってしまっているかのような。いや、世の中とはそういうものなのだろうが、いざこうして具体的に可能性として思い至ってしまうと見過ごすことが出来ない。それがことごとく真面目だと評価されてしまう所以なのかもしれないが、それでも易々とその性分を曲げてしまうことも出来ないのだ。
「…………」
悩むこと約三十秒。いくら考えても結論はもう決まっているのに、それでも考えてしまうのは無駄とも言えた。まあ、そんなことはさておき。
「まあ、女子はお泊まりグッズをよく持ち歩いてるものなのよ」
「さりげなくガセ情報を流すのはやめてもらおうか」
何だかんだ言いつつ、結局は許可してしまうのだろう。そんな自分がわかっているからこそ、もう一度溜息が口をつくのを止められそうにはなかった。