YESがNOで彼女
「うっ……」
「げ」
藤間が肯定した途端に、菊池の目が潤む。泣く一歩手前といったところか。これはまずい。菊池がいくら泣いたところで藤間としては痛くも痒くもないのだが、生憎ながらここは野外だ。いつ誰に目撃されてしまうとおもわからない。そんな状況で外見が女の菊池を泣かせた日には不名誉な評価を受けることだって充分に有り得る。例えば、一方的に怒鳴りつけ彼女を泣かせた、だとか。怒鳴ってはいないし彼女でもないが、周りにそう評価されてしまう恐れはある。こんなことなら本格的に人目を気にしなくてもいい自宅にでも行くべきだったか。いや、あそこはあそこで親の追及が面倒だ。異性を連れ込むことに苦い顔をするに違いない。いや、菊池は同性だが。
「う、うう……」
「ちょっ、と……待て」
ここで泣かれるのはまずい。だが菊池は今にも泣いてしまいそうだ。こういう時は何と言えばいい。男のくせに泣くな。違う。これではむしろ泣いてしまいかねない。男性らしさを押しつけるような言葉は菊池にとっては逆効果だろう。それならどういった言葉をかけるのがこの場合正解なのだろうか。
結局有効な言葉など出てくるはずもない。菊池が泣きそうになっている間、人通りが全くなかったのは救いだろう。いつ泣くかとはらはらしていたのだが、菊池が泣き出してしまうことはなかった。代わりに涙が完全に引っ込むこともなく、潤んだ目のままに頭を下げた。セットされているらしい髪がふわふわとその動きに伴って動く。
「ごめんなさい。目立たないように努力します」
「……」
意外に、普通に謝られた。数日の付き合いでの菊池を見る限り「何なのよ。そんな細かいことグチグチ言わなくたっていいじゃない! 真司のケチ!」などと逆に罵倒してくるのではないかと思っていたのだが、そんなことはなかったらしい。菊池に対して誤った評価をしていたということか。女性的な菊池はあくまで表面的なところだけであって突き詰めていくと元の菊池なのかもしれない。
「まあ、努力してくれ」
努力してくれるならそれでいい。
それにしても、女子高生の涙目ともなれば何か感じるものがあってもおかしくはないのだが全く何もざわめかない。中身を知っているデメリットを知ってしまった気分だ。藤間は今後菊池がどれだけ女性らしい可愛い仕草をしたところで心が動かされることないのだろう。それを残念なことだとは思わないけれど。
いつまでも菊池に頭を下げさせておくのは良くない。このままでは涙目の彼女に頭を下げさせてまで謝罪を要求している彼氏の図に見えてしまうのは間違いない。あながち誤解でもないのだが、そんな認識をされてしまいたくはなかった。見知らぬ人にそんな認識をされてしまえばその誤解を晴らす機会は訪れないのだ。つまり、一生誤解されたままということになる。それは非常に不本意だ。
菊池を促して頭を上げるのをやめてもらったところで、菊池は元の調子を急に取り戻した。菊池は菊池なりに反省してこれまでしおらしくしていたのかもしれない。むしろずっとそのしおらしさを維持していてもらった方が藤間としては無駄に疲れずに済むのだが。菊池は制服の袖でそっと目元を擦って涙を拭う。目元に施している化粧が落ちてしまわないように細心の注意を払っているらしい。
「あのね、すごく言い訳っぽいいんだけど私だって本当は来るつもりなかったのよ?」
「そうか。それなら今からでも遅くないから帰ったらどうだ」
本当に言い訳だ。聞く意味さえない気がする。だからはねのけた。だが菊池は頬を膨らませるだけで帰る様子はない。菊池はやたらと頬を膨らませるがもしかして気に入っているのだろうか。自分で可愛いと自負している仕草だとか……いやいや、まさか。
「私の知ってる真司はそんなに冷たいことは言わなかった」
「悪いな、昔の俺は猫を被ってたんだ」
「じゃあこれからも被っててよ」
「生憎だが今は勉強一筋で猫を被ってる暇なんてない」
「むう」
流石に藤間が話を聞く意思がないのは伝わっただろう。とは、思うのだが菊池は続けた。元より藤間の意思などどうでもいいらしい。聞かせた者勝ちということか。実に菊池らしい強引な手だ。だがそれは藤間にとって非常に有効だ。菊池もそれを知った上で仕掛けてきているのだろうからタチが悪い。
「しつこく言い寄ってくる男の子がいるって言ったでしょ? その子に今日も声かけられたの」
「それはモテモテで何より」
「ちょっと! 適当に流そうとしないでくれる?」
勝手に話し始めたのはそちらなのだから話を真面目に聞く義務は、こちらにはないと思うのだが。そんなことを言ってみたところで「ごちゃごちゃ理屈はいいからとにかく聞きなさいよ」とでも言われるに決まっている。面倒なことに菊池は時折理屈が一切通用しない。菊池にとって理屈はごちゃごちゃしていて面倒臭くて、省略してしまっても構わないものなのだ。このあたり、藤間と菊池は一生わかり合えない価値観を有していると思う。
「わかったわかった。で、何て言われたんだ?」
何を言おうと結局は素直に菊池の話を聞くのが一番早い。菊池に乗せられたような気もするが仕方ない。話を強引に切り上げる術など藤間が有しているはずもないのだ。だから渋々応答したところでようやく満足したのか、菊池が話を再開する。
「いい質問ね。あの子はね、言ったの」
彼の言葉を思い出しているわけではない。言っていいものか躊躇しているのだろうか。今更、という気がしないでもないのだが、そういうわけでもなさそうだった。まるでその台詞を復唱さえしたくないといったような、そんな感じ。それでも菊池はいつまでも黙っているわけではなく、緩慢な動作でようやく口を開いた。
「貴方に彼氏がいようと関係ないです」
菊池ははっきり彼氏がいるのだと言ったようだ。それでも彼は構わないそうで。粘り強い。菊池に粘着質と評されるだけのことはある。彼氏の有無が関係なくは、ないだろに。
「貴方は俺が守ります。いつだって見守ります。今日もそうです」
「……ストーカーか?」
だんだんと発言が怪しくなってきた。狂気が滲んできた。それは言われた当人である菊池が誰よりも感じているのか、藤間に指摘された途端に眉間に皺を寄せた。
「そうね、最近特にストーカーじみてる感じがするわ」
「被害届を出したらどうだ」
ストーカーとなると、高校生如きが首を突っ込む問題でもないだろう。素人が下手に首を突っ込むと余計にややこしい問題になりかねない。そういうことは警察に任せるに限る。しかし警察はストーカーではあまり動かないという話もよく聞くだけにどこまで頼りに出来るものか。そんな思案を始めたところで菊池は満面の笑みを浮かべる。涙を拭く際に化粧が僅かに落ちてしまったらしいが、それでも元がいいだけにあまり美貌は損なわれていないようだった。そんなことを何気なく考えてしまうあたり、藤間も毒されてきているのかもしれない。
「男が男にストーカーされてます、って? 嫌よ、そんなの」
藤間の提案に対して菊池は露骨な拒否を示した。
「自分の身くらい自分で守るわ」
「そうか、頑張れ」
それなら藤間の出る幕はないだろう。菊池がそう言うのだからわざわざ首を突っ込むつもりもない。女装をしていようとも男という自覚はあるのだと思う。やはり簡単に誰かに頼るのを是とはしないようだった。だから突き放して歩き出そうとしたところで、捕まった。