7:愛と罪
学園へ帰る日曜日の朝。父の椅子にかけてぼーっとしていると、本の間に挟まれた、封筒らしきものを見つけた。それは出版社宛てに送られた、村上紗弓からの手紙だった。
この手紙を読むことに、私は何の後ろめたさも感じなかった。
御無沙汰しております、という文章で始まり、入院したことを人づてに聞いたこと、父への見舞い、自分の簡単な近況が述べられていた。それだけ読むと、ごく普通の手紙の内容だった。文面の内容から、父とは十年以上逢っていないことが窺われた。しかし手紙の最後はこう結ばれていた。
「一番愛したのは、先生でした。先生は私の永遠です。」
父はこれをどういう気持ちで読んだのだろう。死に向かうベッドの中で。
私は村上紗弓の身勝手さに怒りを感じた。なぜ秘めておくことが出来ないのか。稜は苦しんだだろう。もし稜のことを、二番目に愛していたのなら尚更、それを悟らせないようにするのがルール、稜に対する思いやりではないのか。それが大人ということではないだろうか。そして、それを許していた父も悪い。まして、父の葬儀に参列して母の前に姿を見せるなど、もってのほかだ。そしてこの手紙を捨てずに保管しておくなんて、父も無神経だ。私はその手紙を制服のポケットに突っ込んだ。母には絶対に見せたくなかった。二番目にしか愛されなかった母の悲しみを、これ以上深くしてはいけないのだ。
学園に戻る前に、稜に逢おうと思った。
稜からきた手紙と、村上紗弓が芳名帳に書いて行った住所は同じだった。電車を途中下車し、バスに乗った。窓から見える見慣れない景色を見ながら、私は一体何をしに稜に逢いに行くのだろうと思った。そしてどんな顔をして村上紗弓に逢えばいいのか。彼女に逢って、何か言いたいことがあるだろうか。何もなかった。それでも私は、稜の家へ向かっていた。
バスを降りて少し歩くと、小さな川に出た。川沿いに、似たような家がたくさん建ち並んでいた。稜の家は、その一角にあった。稜と、村上紗弓の家。今なら引き返せる・・・そう思いながら、私は呼び鈴を押していた。中から稜の声で「はい」と聞こえて、ドアが開いた。
「おや。」
稜は驚いた顔で私を見た。
「どうしたの?」
「別に。」
「何しに来たの?」
「わかんないけど、多分稜に逢いに来たの。」
妙な会話だった。
稜は「おいで」というふうに手招きをした。玄関の中に入ると、ポプリのいい香りがした。
「奥さんは?」
「今朝、出て行ったよ。」
稜は、まるで近くのコンビニにでも行っているような軽い口ぶりで言った。
「何か飲む?」
「なんでも。」
「それが一番困る。」
「じゃあ、紅茶。」
通されたリビングには、小さなパンジーの鉢植えがいくつも置いてあった。私は、村上紗弓の形跡を、部屋中探した。家庭の匂いがするこの部屋の何もかもが、村上紗弓の手によるものなのだという感じがした。
二番目を愛することと、一番目を愛することと、どのくらいの差があるのだろうと思った。二番目と三番目は大差なくても、一番と二番の差はとてつもなく大きいように思えた。
「何で出て行ったの?」
「さあ、先生が亡くなったからじゃないか。」
稜は父のことを先生と呼んだ。
「どうしてお父さんが亡くなると出て行くの?」
「先生がどこかで生きていたら僕と暮らせても、先生がこの世から居なくなったら、もう僕とは暮らせないんだよ。」
稜はいつもの曖昧さで答えたが、その曖昧さは見事に村上紗弓の状態を言い当てているような気がした。ものすごく、私なりに妙に納得するところがあった。
「離婚するの?」
「さあ、どうだろう。するだろうね、多分。」
私はこんなことを聞きに来たわけではなかった。
「ところで、何しに来たの?」
稜は不思議そうな顔をして聞いた。
「理由がなくちゃ来ちゃいけない?」
「普通はね。」
父と村上紗弓の話にはならなかった。
今更話したところで、私と稜にとっていいことは何もなかった。ただ、事実を照らし合わせるだけで。
「これが私を『誘惑』した理由だったんだ。」
「誘惑なんてしてないよ。」
稜は笑った。
「復讐は出来たの?」
「イエスは言っていた。『復讐は我にあり』と。彼に任せておけば出来たかもしれないよ。」
私と稜は少し笑った。
「そう言えば、あなたの奥さん、私の家庭教師をしていたときがあったらしいの。」
「へー。それは初耳。僕より長い付き合いだね。」
稜は飄々としていた。この種の吹っ切れ方は、母のと似ていた。
「お願いがあるんだけど。」
私はそう切り出して、彼が鬱に落ち込んだときの「篭り部屋」を見せてほしいと頼んだ。稜はいいよ、と軽く言い、二階へ案内してくれた。
そこは三畳ほどの狭い部屋で、窓もなく、中には椅子と座布団と折りたたみベッドと寝具が置いてあった。とりあえず、寝泊りはできるようにしてあるらしい。こうして見ていると納戸みたいな何の変哲もない部屋だが、二十ワットくらいの小さなライトをつけると、妙に陰湿で気持ちの悪い雰囲気になった。
「刑務所の独房みたいね。」
見たままを言った。
「そう。まさに独房。」
稜はまたこの部屋に篭るのだろうか。妻の居ないこの家で独りになって。妻が居たからこそ、この独房に篭る意味があったのではないのだろうか。
独房の真ん中で、私と稜は膝を抱えていた。「それがさ。」稜は少し声を低くした。
「どうも治ったような感じがするんだ。」
「躁鬱が?」
「完璧に治ったのではないにしろ、とりあえず当分はでないような気がしてならない。」
「よかったね。うちのお母さんも神経症は治ったみたいだって言ってた。」
そのとき、出口のないトンネルはないんだなぁと思った。あんまり幼稚な発想で馬鹿にされそうだったので、稜には言わなかった。
「椿のお父さんの死は、少なくとも二人の人間の病気を治してくれたね。」
父に対して稜はどう思っているのか、聞いてみたかった。
「忘れられないということは、とてもつらいことだね。」
「かもね。」
「忘れられなかったのが、紗弓の罪深さだった。そんな紗弓を許せなかったのが、僕の罪深さ。紗弓に自分を忘れられなくしたのは先生の罪深さ。椿のお母さんは知らない、逢ったことがないから。こうして用もないのに貴重な日曜日にいきなり押しかけてくるのが、椿の罪深さだね。」
稜はなぜか微笑みながら言った。
「奥さんは、どんな人?」
「純粋に自分の愛を貫こうとしている人。」
「死んだ人へも?」
「そう。」
「死んでいる人を愛しているなんて、そんなのおかしいわ。」
「なぜ?いいじゃないか。もう誰にも邪魔されず、思い切り愛せるんだから。」
ああ、父はきっと天国で身を引き裂かれているに違いない。
ひとつは紗弓さんの永遠の愛に。もうひとつは、最期を看取った母の想いに。