6:手紙
父の看病、死、葬儀など、忙しい日々があっと言う間に過ぎ、私はいつしか稜のことも思い出さなくなっていた。稜が教えてくれなかった理由についても、考え始めたら気が狂いそうになるので考えないようにしていた。
父が亡くなってしばらくして、私は居間の引き出しに入っていた父の葬儀の参列者芳名帳をぱらぱらと見ていた。三百人近い名前の中に、私は信じられない名前を見つけた。
「村上 紗弓」
心臓を鷲掴みにされたような気がした。私はあの日あの中に稜がいたのかどうか、思わず葬儀の光景を思い出そうとした。しかしその「村上 紗弓」は、明らかに稜の筆跡とは違っていた。
そして私は、おそらくほぼ全てを理解した。あの美しい髪をした、あの顔を隠していた女性。あの人が「村上 紗弓」ではないか。それが過去のことなのか最近のことなのかはわからないが、父の恋人だったのではないか。そして稜。稜はまぎれもなくあの人の夫なのだ。
多分稜は、彼女への復讐として、妻の恋人の娘である私に近付いたのだろう。
父に恋人がいたことについて、私が全くショックを受けなかったと言えば嘘になる。だからと言って父に対して憎しみが込み上げるという気持ちにもならなかった。そういうことも、つまり、恋人がいた、ということも、有り得るかもしれないと思えた。私は冷淡な娘なのだろうか。それとも無感情なのだろうか。父にも切なく心を痛めた恋愛があったのかと思うと、何故かほっとするような気さえした。大人の世界には、そんなこともあるだろうという諦めに似た気持ちなのかもしれない。
確かに母に対しては裏切りだ。そのことはきっと、母の神経症と深い因果関係があるのだろう。母は多分そのことを知っている。だから葬儀のときに、あの人を凝視していたのだろう。
私は想像力を働かせてみる。
母の悲しみを思うと、胸が千切れそうだった。同じ女と言う立場で。けれど、だからと言って父を憎めないのは、変わっていく人の心は止められないと言う想いが私の中にあるからだ。
心は変えようとしてたやすく変えられるものではないけれど、どうしようもない、見えない力によって、どんな抵抗も通用しない、そんな力によって変わってしまうことがあるから。だから父とあの人は、見えない力に逆らわず、正直に生きただけなのかもしれない。
冷たい娘だと言われるかもしれない。母は私がこんなふうに思っていることを知ったら、ひどくショックを受けるだろう。だから母には絶対に、「村上 紗弓」の件を知っているなんて打ち明けない。それは夫に先立たれてこれからひとりで生きていく母への、最大の思いやりだった。
ところが葬儀が済むと、一転して母の気持ちが落ち込むこともなく、そのままにしてある父の書斎を掃除したり、何人かの友達とランチに出かけたりするようになった。不安神経症がでることもなかった。時々父の書斎の椅子に座り、ぼんやり庭を眺めていたりすることがあったが、魂が抜けたようになったあの葬儀の頃に比べて、本当に吹っ切れたように見えた。
「こんなものが出てきたわ。」
ある日、母は古そうな手紙の束を持ってきた。
宛名は全て父宛てのもので、筆跡も同じものだった。差出人は、ある研究所の名前の下に「松木 紗弓」と書いてあった。
「全部、同じ人からよ。」
私は手紙を持ったまま、黙っていた。
「お父さんの、恋人だった人よ。お父さんの教え子で、あんたが小さい頃、あんたの家庭教師をしていたこともあったの。憶えてる?」
「ううん。」
そう答えながら、私の頭の中にはあの遠い記憶が再現されていた。私を呼んでいたあの女性。あれは夢ではなく、十数年前に実際にあったことだったのだ。ずーっと、つっかえていたものが取れたような感じがした。
「ショック?」
母はさらりと尋ねた。
「少しね。」
ショックだと自覚するようなショックはなかったが、心の中でいくつかのことが複雑に絡み合っていた。父のこと、村上紗弓のこと、稜のこと、そして自分。一体どの糸を引っ張れば、絡んだ糸はほどけるのだろう?
「読む?」
「ううん、いい。」
そう答えると母は、「そう。」と言ってエプロンのポケットにしまった。そして、
「ある日、椿が私に聞いたの。『お母さん、どうして先生はいつもお父さんとキスするの?』って。つまり、あまりものの言えない子供の前で、あの人たちはいつもキスしたりしてたってことよ。馬鹿よね、ふたりとも。子供はそんな不可解なこと見逃さないのに。」
と言った。母の唇がかすかに震えていた。
「私がお父さんに女として愛されたのは、椿が3歳のときまでね。それからあの人は、義務感や責任感で私たちと一緒に暮らしていたのよ。」
「悔しくないの?」
「悔しかったわ。死んでしまいたいと何度も思った。でも、どうにもならない。家庭、家族、と言う形を続けていこうと決めたのはあの人なんだから。私は椿を連れて、何度も違う人生をやり直したいと思った。でもね、悔しさも悲しみも、みんな風化するのよ。結局、椿はかわいいし、椿はまぎれもない私の子供なんだもの。家族を続けていくことを選んだわ。外に恋人がいようとも、あの人は家族を守りたかったのだから。」
そう言って、母は力なく笑った。
「ずっと続いていたの?」
「彼女が結婚をして、別れたわ。」
稜は父の存在を知りながら彼女と結婚したのだろうか。
「でも、私は彼女に負けたのかもしれない。結局あの人は洗礼を受けたからね。」
「何の関係があるの?」
「彼女は熱心なカトリック信者なの。」
「カトリックって、不倫を容認してるの?」
「さあ、してないでしょ。」
「でも、お父さんはお母さんに看取られて亡くなったんだから。お母さんの勝ちよ。」
勝ちとか負けとか、なんだか不毛な会話だった。そして母は、
「でももう、お父さんがいないんだから、苦しむこともなくなった。何だかんだ言っても、とりあえず最期は私の所にいたんだものね、よしとしなくちゃね。」
と言った。
「その手紙どうするの?」
「明日のゴミに出すわ。」
庭でいじいじと燃やしたりしない母を、私は好きだと思った。