5:ゲーム・オーバー
年が明けてすぐに、父が体の不調を訴えだした。父の友人が教授になっている大学病院で精密検査すると、すでに体の色々な部分が、手遅れに近い状態だった。
手術をしても完治は難しいと言う医者の見解が何を意味するのか、私にもはっきりと理解できた。病名は父に告げられたが、すでに手遅れだということは告げられなかった。父は、手術を希望しなかった。父はもう手遅れだということを聞かされなくても、自分がこれからどうなるのかわかっていたのかもしれない。
「もしも化学療法まで拒んだら、妻と娘を悲しませることになるから。」
そう言って化学療法に臨んだということを、亡くなってから父の友人である教授から聞いた。
私は母の神経症が出てくるのではないかと、注意深く母を見ていた。しかし、神経症になるどころか母は、嬉々として父の看病に没頭した。
これほど元気にしている母は珍しかった。まるで父の看病に生きがいを見いだしているように、私には思えた。
父が入院したからしばらく会えない、と稜に伝えた。これからの土曜日は、まっすぐに父の病院へ向かう。とても稜と会っている時間はなかった。
前回会った場所の神社で、父がもう長くはないことを聞いた稜の反応は、意外なものだった。
「それは困る。」
と言ったのだ。私に対する慰めの言葉も、父へのお見舞いの言葉もなく。独り言のように言ったその言葉を、私は聞き流す事が出来なかった。
「困るって、どういう意味?」
「いや、椿が困るねっていうことさ。」
稜は普通に答えた。
「困ったという言い方はおかしいわ。」
「悪かった。間違えたんだ。それは大変だねって言いたかったんだ。」
そんなふうに言う割には、私をねぎらうような気持ちは伝わってこなかった。ひとりの人間が、しかも「恋人」の父親が死を迎えようとしているのだ。それなのに、稜の反応に違和感を感じた。
「・・・だから、しばらく会えないの。」
「しばらくって、お父さんが亡くなるまでっていうこと?」
胸の奥から怒りと悲しみが込み上げてきた。こんな言われ方をして、私は初めて父の死を突きつけられた気がした。だが、怒りは悲しみに負けた。
「どうしてそんなひどい言い方をするの。」
涙が頬をつたい、喉の奥が詰まって、声が震えた。稜は今、ハイとダウンの境目で、不安定な時期なのだろうか?それとも、私を傷付けたくてこんな物言いをするのか。
「だってどういうふうに言ったって、結局はそういうことなんだろう。」
その稜の冷たく言い放った言葉で、私は自分を取り戻した。
「たとえ父が亡くなっても、もう会わないわ。」
「何故?」
「こんなひどいことを言われる理由がないからよ。稜がこんな人だとは思わなかった。」
「理由がない?」
稜は冷たく、刺すように言った。
「理由は充分にあるさ。」
「どういう理由があるの?」
「いずれわかるかもしれない。」
「わかるかもしれないじゃ、わからないわ。」
私は真っ直ぐに稜を見据えて、言った。
「私には聞く権利があるわ。」
「やっぱり椿は子供だね。権利なんてものは、こんなときに持ち出すようなものじゃないんだ。」
子供だね、と言われて理不尽な敗北感が胸を突いた。
「私が何をしたの?」
「椿は何もしていない。」
「それなら説明してよ。」
「いや、やめとくよ。」
さっきの冷たく刺すような言い方とはうって変わって、今度は悲しそうに言った。
「僕は少し後悔している。椿のことがとても好きになってしまったから。」
私が最初から感じていたこの関係の曖昧さ、馬鹿馬鹿しさは、きっと私の潜在意識が発していたシグナルだったのかもしれない。
「みんな嘘だったのね。」
「みんなじゃないよ。真実もある。」
「教えてよ。」
「いつかは椿にもわかるよ。ずっと知らずに生きていくのは無理だ。今はだめだけど。」
何が嘘で、何が真実なのか。もうそんなことはどうでもよかった。とりあえず、わけのわからないゲームは終わったのだ。ただ、稜が隠している理由を知りたい。稜はわざと隠すことで、余計に私を苦しめようとしている。
「私たちは恋人だっていうのは、嘘なの?」
「ほんとだよ。」
血が逆流するのがわかった。稜を傷付ける言葉をいっぱい言ってやりたかった。
「性的不能者っていうのは、嘘なの?」
「ほんとだよ。」
「鬱病は?」
「ほんとだよ。」
「奥さんがかわいそう。」
そのときの稜の顔を、私は一生忘れない。
いつもは勢いの感じられない稜の目が、たとえようのない憎しみに燃えるように見えたからだ。私は少し怖かったけれど、絶対に退くまいと思った。
私についた嘘と、理由を話してくれないことへのお返しだった。私は踵を返して歩き出した。稜は追いかけてこなかった。そして背中に、
「そうだね・・・。」
と言う稜の弱々しい声が聞こえた。
大勢の人々に見守られる中、父の棺は車に乗せられた。葬儀はとても優しく神聖な雰囲気で執り行われた。これは残された者の慰めかもしれないが、亡くなる直前でも洗礼を受けていて本当によかったと思った。少なくとも娘としては、そう思えた。
微笑んでいる父の遺影を抱いて、母に続いて私も車に乗り込んだ。そして霊柩車が長いクラクションを鳴らすと、それが出発の合図になった。参列した誰もが手を合わせ、ゆっくりと走り出す車を見送った。そして車が教会の敷地を出て、最初の角を曲がろうとしたとき、私はあの女性を見た。
あの、黒いチュール・ベールの女性。手を合わせるでも、頭を下げるでもなく、じっと通り過ぎる車を見つめていた。そのときの光景は、それからしばらくの間、私の頭の中で何度もリプレイされた。