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愛と罪  作者:
4/7

4:トランキライザー

翌週の土曜日に、また「村上 紗弓」から手紙がきた。動物園の入り口で会おう、と書いてあった。私はその手紙を、寮の裏にある焼却炉に捨てた。

この寮は小高い丘の上にある。夏、あれほど緑に覆われていたこの辺りの木々は、確実に葉を落として冬への支度を始めていた。私の部屋からは街が見渡せた。天気がいい日は空と陸との境目が水面のように光り、とても素敵な光景を見ることが出来る。

土曜日の午後、私は動物園の入り口にいた。

稜と会うつもりはないはずだったが、家へ帰る途中の駅で、思わず下車してしまった。稜に会って、もう手紙をよこさないでくれと言おう、と自分がここにいることに対して、無理矢理理由を付けた。現れた稜は、半袖のシャツを着ていた。もう確実に秋で、冬の足音もかすかに聞こえてきていると言うのに。

「寒くないの?」

「寒くないよ。今ね、ちょっと上がり調子なんだ。一昨日は死のうと思っていたけどね。」

稜の表情は明るかった。もう会うのはやめようと思う気持ちの一方で、一体この人の心の中はどうなっているのだろうと興味をひかれた。

「何で死ななかったの?」

「ここを耐えれば上がり調子になることを知っているからね、経験上。」

彼は単なる鬱病ではなく、躁の傾向もあるらしいと、このとき初めて知った。

「どこまで上がり調子になるの?」

「そうだね、王様気分だね。できないことなど何もないような気になるんだ。一度笑い出すと止まらないし、眠らなくても平気になる。でも危ないのは、ハイとダウンの境目にいったときだね。」

稜は私のことなんて見ていなかった。何かにとりつかれたようにくるくると回り、楽しそうに話していた。そして急に、

「カレー食べに行くか。」

と言うと、さっさと歩き出した。

私たちは、動物園の近くの喫茶店に入り、カレーライスを食べた。スプーンを持つ稜の手は、少し震えていた。私がじっと見ていると、

「トランキライザーのせいだよ。」

と言って微笑んだ。そして、

「どこかのホテルにでも入って、ゆっくり話そうか。」

と言った。私はびっくりして、ご飯を詰まらせそうになった。

「いやよ。」

「何故。おかしなことをされるんじゃないかって不安なら、心配しなくていい。僕は性的不能者だから。」

私はまたびっくりしたが今度は落ち着いて、

「それなら尚のこといやよ。」

と言った。意地悪のつもりだった。病気だとは言っても、稜は自分の身勝手さを少しは悔いるべきだと思ったのだ。またはいっそのこと冗談だと言ってほしかった。笑い飛ばしてほしかった。ハイになっている稜に。

ところが稜は一層淋しそうな顔をして、

「妻は僕の手にすら触れなくなった。」

と言った。

「性的不能者だから、触れないの?」

「いや、そうなるずっと前からもう、妻は僕と寝たりするのを拒んでいたよ。」

そんなこと、高校生の私に言ってどうするのだろうと思った。

「でも、こうなったのは妻が原因だ。」

「どうして?」

「どうしても。」

稜の真剣な表情は、滑稽さと紙一重だった。私は何故か少し怖い感じがしながらも、時々吹き出しそうになった。

「恋愛結婚?」

「僕はそう思ってる。彼女が29歳のときに結婚した。落ち着いた雰囲気の、とてもきれいな女性だよ。それに、冗談がおもしろいよ。」

冗談がおもしろい、というのが稜の奥さんの印象としては意外で、そのことを奥さんの紹介のポイントにしてしまう稜もおかしくて、私は遂に吹き出してしまった。かわいい、と思った。稜は少し眉をひそめ、くすっと笑った。このとき、タバコの匂いが染み付いたおじさん、というイメージが少しだけ消えた。

「どうして私に関わるの?」

「手を握って欲しいと思って。」

「何それ。」

「手を握ってくれないか。」

私は相変わらずよくわからない稜の言葉に戸惑いながら言った。

「手を握るのはいいけど、ホテルに行くのは嫌よ。私、稜と寝たりなんてしたくないもの。」

「それはできないから安心しなさい。」

稜の妙にマジメくさった返事に、また笑いそうになった。

「いいよ。じゃあ、手を握ってあげる。」

そう言って、私はテーブルの上で組んだ稜の手に、自分の手を重ねた。稜の手は温かく、見た目よりもゴツゴツした感触があった。

「村上 紗弓って、奥さんの名前?」

「そうだよ。」

稜はぽつりと答えた。こんなことをしていて、何の意味があるのだろうと思わなくもなかったが、こんなこともあるのかもしれないという思いもあった。

そして、このことは誰にも話せないと思った。

この日から、手を握り合うだけの、というよりも、手を握ってあげるだけの稜との関係が始まった。毎週ではなかったが、「村上 紗弓」はしょっちゅう手紙をよこし、土曜日にほんの数時間のデートをした。待合わせ場所は、必ず前回会った場所。つまり、不思議なしりとりのように連鎖していくのだ。稜は「こうした方が場所を間違わずに済むから。」と言っていた。こんなふうに私は、徐々に不思議な稜の世界に引き込まれていったのだった。

手を握ること以上のことを、稜は求めなかった。

「イギリスの森にはね、妖精がいるんだよ。」

稜が公園の芝生に大の字になって言った。

「本当だよ。僕は見たんだ。きのこの周りで光の輪を作って踊ってた。」

私はしばらく答えに困って、

「見て、どうしたの?生け捕りにしたの?」

と言った。すると稜は、

「冗談じゃない。あっちの世界へ引き込まれたら、僕は二度とこっちの世界へ戻れなくなるんだから。」と言った。

そう言った後で、「それもいいな。」と言った。

稜は、私といても淋しいのだと思った。そしてそれは私が原因なのではなく、彼の孤独は多分奥さんに関係しているような気がした。

「ね、私たちって何なの?」

思わず確かめたくなった気持ちを抑えられなかった。稜は空を見ながら言った。

「恋人だよ。」

「ほんとに?これが?」

今の私たちの関係は、私の思う恋人同士のイメージからは遥かに遠いものだった。

「そう。僕と椿は恋人。」

その希薄な言葉は、たとえようがないくらいに儚くて、稜との関係は、全てが曖昧で、何だか悲しかった。傷付くことを絶対に避けているような距離を、稜は私との間に保っていた。その方が心地良かったし、気が楽だった。純粋で、きれいな感じもしていた。でも、私はその曖昧さの中に硬質な何かを感じられずにはいられなかった。それは自分自身の中にある何かと反応して、稜を避けることを難しくしていた。好きだとか愛しているとかそういう甘い気持ちのものではなく、曖昧な、けれど強い吸引力によって惹きつけられるのだった。


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