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すぐそこ

すぐそこ



 高校一年の夏。高校受験で世話になった人の家に遊びに行ったときのことである。


 僕は英語が苦手で、たまたま近所のマンションに住んでいた女性翻訳家が、英語教室を開いていた。親の勧めだったのか、友達の勧めだったのかは覚えていない。ともかく、僕と同じく英語の苦手な二人の学友は、彼女に英語を教わり、何とか希望の高校に受かることができた。そのマンションはいわば彼女の作業場所で、本当の住まいは横須賀にある。かねてからの約束で、受験に成功したら夏休みを利用してみんなで泊りがけで彼女の自慢の家に遊びに行くことになっていた。


 横須賀のその家は、庭にプールがあり、とても日本とは思えないような素敵な家だった。彼女の生活スタイルは、今考えてみても、かなりあか抜けていた。昼間はプールで遊び、夜は彼女の自慢の手料理をごちそうになった。その夜、はじめて彼女の旦那さんを紹介してもらった。夫婦というよりはどちらかといえば、恋人同士のように思えた。食事が終わった後、彼女のリクエストで旦那さんが僕らに怖い話を聞かせてくれた。旦那さんの低い声でゆっくりとした語り口調は、今でも鮮明に覚えている。それは確か、こんな話だったと思う。



 ある山道で、道に迷った男の話である。



 こういうことは、初めてではない。出発前の準備は万端だった。山を甘く見たらどんな危険なことになるのか、よく心得ているつもりだ。いや、そこにこそ慣れから来る油断があったのかもしれない。


 どうやら私は道に迷ってしまったようだ。


 もうどのくらい歩いただろうか? いや、もしかしたら、それほど歩いていないのかもしれない。また霧が深くなってきたようだ。しかし、こう暗くては、それすらもよくわからない。


 どうする。しばらく休むか……。


 予定通りのコースを歩いていれば、とっくに目的地の山小屋に着いて、温かいコーヒーを暖をとりながら飲んでいるはずだった。いや、予定という意味では、そもそもここにくる予定ではなかった。


 疲れた体に、重くのしかかるカーキ色のザックの肩紐を強く握りしめながら、ここにきたことを後悔していた。思い起こせば数日前――。


「今度、家族でキャンプに行くから、アウトドアグッズの店を案内してくれないか」


と知人に頼まれたときから悪い予感はあったのだ。案の定、私は、衝動買いをしてしまった。


 真新しいカーキ色のザック。


 それを部屋で眺めているうちに、早速使わずには、いられなくなってしまった。私は買ったばかりのカーキ色のザックを背負い、次の週末に、一泊二日の予定で一人、山へ出かけた。


 いや、それは大きな問題じゃない。そもそもこんなことになってしまったのは……。


 目的地の山小屋までもうすぐというところで、地図には載っていない道を見つけた。案内もない。私が地図を眺めながら、その道のことを調べていると、ちょうどそこへ、ひとりの男がその道――つまり地図に載っていない道から現れた。


「あのー、すいません。この道は、どこに繋がってるんですか? 地図には載っていないようなんですが……」

「あー、この先を、二十分くらい行ったところに見晴らしのいい高台があってさ。そりゃあもう、この山じゃ一番の絶景ポイントさ。案内がないのはさ。不慣れな登山客が入ると転落事故なんかあったりするもんだから」

「へぇー、そうなんですか。何分この山は初めてなもので……。その高台は、そんなに眺めがいいんですか?」


 男は、まるで私のことを品定めするかのようないやらしい目で、私の様子をじろじろと見た。そしていやらしく笑いながら『なるほど、素人じゃなさそうだ。こいつになら大丈夫か』という顔をした。したように見えた。あのときは気づかなかったが、間違いない。あの男はそういうふうに見ていたに違いない。


「行くのなら急いだほうがいいなぁ。もうじき暗くなる。このあたりはお日様が向こうの山に隠れちまうと、あっという間に暗くなるからよ。酷い時には霧も出る。行くのなら急いだほうがいいねぇ」


 この土地の人間なのだろうか? いや、そうでもなさそうだ。長年使い古した感じの、紺色のザックが印象的だ。あのデザインは一昔も二昔も前のものだろう。服装もどこか時代錯誤を感じる。少し風変わりというか、かたくなに、ある年代のセンスを守っているかのような……。いや、それも違う気がする。


 男は私より十歳かそれ以上年上に見える。妙に人懐っこいが、それでいて『決して他人に気を許さない』というような用心深さ、抜け目のなさがうかがえる。もっと簡単に言えば、『嫌なやつ』ということだ。

「二十分くらい……。往復で四十分、いや、少し急げば三十分くらいで移動できるだろう。5分くらいは景色を眺めることができるか」


「ああ。あんたならきっとうまくやるさ。今夜はこの先の小屋に泊まるんだろう?」

 男は一歩、前に踏み出し、私を下から見上げるような、いやな目つきをしながら言い寄ってきた。

「ああ。すぐさ。すぐそこ。すぐそこだよ」

「すぐそこですかぁ。そうですね。すぐそこなら、いってみようかな」

「でもくれぐれも気をつけな。あんまり景色に見蕩れて、引き返すのが遅くなると面倒だぞ。まぁ、すぐそこだから、心配はないけどな。じゃぁ、お先に」そう言って男は、私が向かおうとしていた道、つまり小屋のある道へと消えていった。


 なだらかなくだりの道、道幅はやや細く、あまり使われていないようだ。先に進むにつれ、だんだんと道が険しくなってきた。足元に気をとられているうちに、突然ぽっかりと見晴らしのいい場所に出る。一瞬息をのみ、思いついたことを口にした。


「トンネルを抜けたら、そこは絶景だった」


 そこは、一連の山々が、パノラマのように見渡せる、まさに絶景ポイントだった。


「こいつは……、すごいなぁー」


 私は慌てて荷物からカメラを取り出した。こんな壮大な景色はめったに見ることはできない。念入りに、何度もファインダーを覗きこみ、シャッターを切る。思わず「ヤッホー!」と叫びたくなる。その衝動を抑えられたのは、先ほどすれ違った男に、自分の恥ずかしい声を聞かれるかもしれないと思ったからである。先に小屋で寛いでいるあの男がニヤニヤしながら「どうです。絶景でしょう。思わず、『ヤッホー!』って叫びたくなるでしょう?」と言っている姿が、どうにもおぞましかった。ふと、時計をみると、予定の時間を大幅にすぎていることに気付く。


「しまった。思わず長居をしてしまった。急いで引き返さないと、あの男が言うように、暗くなったら面倒だ」


 またしても、忌々しいあの男の顔が頭に浮かぶ。卑しく私を蔑むような目。


 あの男……。いや、おかしいな。そんなんじゃなかったはずだ。あの男の印象は、そこまで酷くなかったはずなのに。どうして私の中で、あの男のイメージがどんどん酷くなっていくのだろうか。一瞬、歩く速度を緩め、後ろを振り返る。そこには薄暗い闇が、まるで私を追いかけてくるように迫ってきていた。あの男が言ったとおりだ。日が向こうの山に隠れた瞬間、突然あたりの景色が変わってしまった。それにしてもこの道、多少の険しさはあったものの、こんなに歩きにくい道だったろうか?


「まずいぞ。ガスがでてきた。周りが良く見えない」


 でも大丈夫だ。あの分かれ道から見晴らしのいい場所までは、たしか一本道だったはず。なにも心配することはない。足元だけ気をつけておけば……。


 私はできるだけ足元に気をつけながら、先を急いだ。しかし、いくら歩いてもあの分かれ道にたどり着かない。険しい道をすぎて、なだらかなところに出たまではよかったのだが、どうもおかしい。もしかして、足元を気にするばかりに、分岐点を行過ぎてしまったのだろうか?


「あと、5分歩いて、分岐点に戻れなかったら、引き返すか」

 一度立ち止まり、あたりを注意深く見渡す。霧は少し晴れてきたようだが、周りはすっかり暗くなってしまった。

「畜生、余計な寄り道さえしなければ……」

 私の怒りの矛先は、余計な進言をしたあの男に向けられた。

「あいつさえ、あいつさえいなければ……」


「あいつ」ふと立ち止まり考えた。


「あいつ。あの男は、どんな格好をしていた? どんな人相だった? 中年で、いやらしい笑いをする……。でもおかしい。ついさっき会ったばかりだというのに、まるであの男のことが思い出せない」

 そんなことを呟いているうちに、いつの間にか歩き出していた。それから、どのくらいの時間が経過したのかわからない。

「あっ、そうだ。5分経ったら、引き返そうって……、まずいな。どのくらい歩いたのかもわからなくなっている」


 いつ時計を見たのかさえ思い出せない。私は、まるで十秒前のことを覚えていられないような、そんな状態に陥ってしまっていた。何分かに一度、冷静になる。しかし、かえってそれが恐ろしかった。

「まさか、あの霧か? あの霧が出てくるたびに、意識が朦朧として……。畜生、一体何だって言うんだ!」男は自暴自棄になり、そして賭けに出た。「意識がまともなうちに、一気に走りきろう。そうすれば、この迷路から抜け出せるかもしれない」


 男は無我夢中で走り出した。途中、何度もバランスを崩して、山道からそれそうになりながらも、驚異的な精神力と、そしてありったけの体力を使い、男は漆黒の闇の中を駆け抜けた。息が上がる。もうだめだ。走れない。そう思った次の瞬間、突然男の前に道が拓ける。


「やった、やったぞ!」


 歓喜の叫び声をあげながら、男は拓けた空間に向かって走り抜けようとした。


「あぁぁぁぁあああああ」


 間一髪のところで、男は踏みとどまった。いや、男の気持ちは、すっかりその場所を駆け抜けていたのだが、体はもう限界を超えていた。一瞬、男の足がもつれ、体勢を立て直そうとしたその瞬間、男の目の前にぽっかりと口をあけた空間――、さっきまで男がいた見晴らしのいい場所から、飛び降りそうになっていたのである。


「あっ、あっ、危なかった。あっ、危なかったぞ。ハァー、ハァー、ハァー」

 男の息が上がる。そして、同時に笑いがこみ上げる。助かった。自分は助かったんだ。

「はっはっはっは、はっはっはっは……」


「どうしたんです。ほら。すぐそこ。すぐそこですよ」不意に男の後ろから声がする。

「ほら、ほら。もう、すぐ。すぐそこなのに。ほら、すぐそこ、そこですよ」


 あの道ですれ違った。あの男、あの男……。


「来るな。やめろ。やめろーーーー!」




 一瞬の狂気の後、まるで何事もなかったかのように、静寂があたりを包む……。


 数日後、男の家族から捜索願が出た。だが、その男は山のどこをどう探しても、何ら手がかりすら見つからなかった。しかし、捜索隊は別の遺体を見つけた。それはもう、何年も前に遭難した男の死体だった。不思議なことに、遺体はすっかり白骨化していたが、衣服や装備はまるで最近まで使っていたかのように痛みが少なかったという。


 男の捜索が打ち切られ、誰もそのことを口にしなくなったころ、その山のある場所で……。


「どうしました? なにかお困りですか?」

「いえ。困ってはいないのですが、この道、地図に載ってなかったものですから、どこに出るのかなぁって」

「あぁあ。この先にとても景色が良く見える場所があるんですよ。もしカメラを持っているなら、是非、行ったほうが良いです。なに、ほんの二十分ほどです。ただ、ひとつだけ注意が必要です。あまり、長居をすると、このあたりは急に暗くなりますからね。霧も出てくる。くれぐれも、気をつけてください」

「二十分くらいなんですか?」


「えー。すぐそこ。すぐそこですよ」


 不気味な笑顔を見せながら、その男は小屋に向かう道の方へ去っていった。歳はわりと若い。カーキ色のザックは、少し汚れはしているが、それほど使った感じはない。買ったばかりなのだろう。道を尋ねた男は、しばらく男に勧められた道を眺めてたが、考え直して、当初の予定通り、山小屋へと向かった。しかし、先に行ったはずの真新しいカーキ色のザックを担いだ男の姿は、もうどこにもなかった。


「すぐそこ……。すぐそこですよ……」と、こんな話だったと思う。


 でも、僕にはどうしても思い出せないことがある。


 それは、この話を聞かせてくれた、旦那さんの人相である。



すぐそこ……。すぐそこですよ……。




おわり


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