風邪
風邪
喉が痛い、身体がだるい。
朝、ベッドから目覚めると、明らかに体調がおかしい。台所まで行き、冷蔵庫を開ける。牛乳パックを手に取り、そのまま喉に流し込む。
「まじー」
食欲がない。めまいがする。
「あー、どーする、今日は、まずいだろう。行かないわけには……」
冷蔵庫の扉――野菜の形を模したマグネットで貼り付けられた小さなカレンダーには、9月6日月曜のところに赤いペンで丸が書かれている。
「うーん、行くしかないか」
時計は朝の11時。ここから渋谷までは1時間ほどで着く。今日は定期集会の日。だが、仲間に風邪を移したら大変だ。
「えーと、マスク、マスクは……おー、これこれ」
着古して右の後ろのポケットに穴の開いたジーンズをはき、シャツを着る。洗面台の鏡に映る自分の顔を見て驚く。
「おいおい、こいつはひでーな。」
洗面台の鏡に写った男の顔は赤くはれ上がり、赤い斑点が無数に浮き上がっている。
「こりゃ、だめだなぁ」
男は身なりを整えるのをやめて、テーブルの上に置いた携帯電話を手に取ると、『本部』と書かれたアドレスに電話をかけた。
「あー、オレだ、識別番号V0038 あー、そうだ」
「あー、ちょっと風邪をこじらせちまって、そのー、どーにも、ダメっぽい」
電話の相手は女性オペレーターらしかった。
「識別番号V0038 居住地区:品川区 利用地球人名:スズキ トモヤスですね」
「今朝起きたら、そのー、あれだ、風邪か、ちょっぴり厄介なものらしくて、たぶんこのままだと長くない……死んでしまうかもしれない」
男の顔は赤くただれ、血が滲み出てきている。
「かしこまりました。それでは、別のボディーを用意いたします。データを確認します。性別:男性 年齢:20歳から35歳 身長165センチ以上 体重60キロから80キロ ご希望のサイズ等は、以前と変更ありませんか?」
「あー、ただ……そーだな、もう少し頑丈なボディーがいいな」
「大変申し訳ございません。最近は状態のよいものが入手できませんので、なかなかご希望には添えないかと……」
「うーん、例の協定が結ばれてから、生きた人間への寄生は禁止されたからなぁ」
「今からですと、30分以内でお届けできると思います」
「あー、わかったわかった、で、今日の集会なんだが……」
「こちらから関係各位に連絡を入れておきます。重要事項は、後ほど連絡が行くかと思いますので、そちらで待機願います」
「あー、御手数かけるね」
「では、後ほど係りの者がうかがいますので、それまでにもし、今お使いのボディーが持たないようでしたら、今からご案内する番号におかけください」
「了解、じゃ、あとよろしく」
男は電話番号を控えると、玄関のカギを開けて、寝室のベッドに横たわった。
「まったく、不便になりやがった。まぁ、共存共栄できる最良の道ではあるが、巷じゃ、勝手やってる連中も、結構いるらしいじゃんかよ、めんどくせー」
20分後、サングラスをかけた二人組みの男が鍵の開いたドアを開け、依頼主の寝室を空けると、体中から血を流した男がベッドに横たわっていた。依頼主の変わり果てたボディーだ。
「V0038様ですか?身体換装サービスです」
「おー、きたかぁー、とっとと、すまそーぜー、もうあと1時間ももたねぇよ」
「こちらの商品になります。」
そういうと1人の男が連れの男のサングラスをはずした。その男は、うつろで目の焦点があっていない。
「1週間前、熱中症で倒れ、そのまま息を引き取った シマザキ トシオ という男です」
「熱中症?で、リペアの方は完璧なのか?」
「それはもちろん」
「ちぃっ!本当かよ、このボディーだって、原因不明の高熱で倒れたとか、こいつ、なんかやばい病気にかかってたんじゃねーのか?」
「それにつきましては、誠に申し訳ございません。確かに、とある軍事施設にて、研究されていた細菌兵器の実験中に事故がございまして、まぁ、身元不明の処理としては、かなりよい品だったのですが、検査段階で発見されなかったウイルスがあったようでございまして、実は何軒か同じ障害がでております」
「おいおい、本当に大丈夫なのか?それで、オレへの影響はないんだろうな」
「お客様の安全は、当社の最新の技術によって保証されております。ご安心を」
「まぁ、まかせるしかないからよー、早いところすまそうぜ」
男はベッドから起き上がり、シマザキ トシオに抱きついた
スズキ トモヤスの口から識別番号V0038が触手を伸ばし、シマザキ トシオの口の中へと入っていく。
「おー、こいつはなかなかしっかりしてる」
シマザキ トシオは言った。まだ、目の焦点はあっていない。右目は右を、左目は左を見ているようだ。
「では、お客様、シマザキ トシオの家までお送りします」
「あー、こいつは、このまま、放置しておいていいのか」
「はい、そちらはのちほど処理班が参ります、では参りましょう」
男たちが出て行った後、識別番号V0038が置き去りにしたスズキ トモヤスは、やっと一人になれた。彼の記憶が最後に途絶えたのは、研究所での事故。
『試験体』が暴れだし、一人の研究員が犠牲になった。
「主任、こいつは、まずいぞ。」
「これは……助かりませんね」
「仕方がない。研究に事故はつき物だ。特にこのような研究には……」
「どうします所長。おそらく症状が発症するまで、6時間か、或いは5時間か……」
「死体を欲しがっている連中がいる。奴らなら、なんとかするだろう」
「死体を欲しがっているって、まさか?」
「そうだ。この場合うってつけだとは思わないか?」
「まぁ、ある意味、彼も生きられるというか……いや、しかし、どんな影響があるかわかりませんよ」
「彼らの能力は半端じゃない。現に末期がんや凶悪な伝染病の患者を何人も救っている」
「救ってるって言ったて、あれは生きているとは」
「どうしてだ。寄生というのは別に特別なことじゃない。人間、誰だって――」
「そりゃ、わかってますけど、それとこれとでは――」
「もういい。早く連絡を取りたまえ、事故があったこと、今の時期、上層部に知られたくないのは、お前もわかるだろう」
スズキ トモヤスは朦朧とする意識の中で、所長と主任の話し声を聞いていた。
ひどく気分が悪い。
自分は死ぬ。
なんせ、このウイルスには治療法がない。それは自分が一番よくわかっている。
でも、所長は何を言ってるんだろう?
死体を欲しがっている?
彼ら?
寄生?
まぁ、生きながらえたとしても、二度とここから出ることは……僕は、感染者……
ここでスズキ トモヤスの意識は途切れてしまった。
次に気がついたとき、スズキ トモヤスは一人、ベッドの上に横たわっていた。
変わり果てた姿になって。
「あー、やっと一人になれたんだ。今までずっと、ボクの中に誰かいた。」
「あれは、いったい、なんなんだ」
スズキ トモヤスは起き上がった。
「腹が減った。食べたい」
何か食べたイ……食べタイ……タベタイ……
やっと一人の時間を取り戻した彼であったが、脳の中枢を突き抜けるような強烈な空腹感が、彼を一人でいることを許さなかった。
スズキ トモヤスはカギの開いた玄関を開けて、マンションの廊下をさまよい始めた。
空腹を満たしてくれる誰かを探して……
まるで生ける屍のように。
おわり