カサカサ パート2
カサカサ パート2
「え?そんなに安いんですか?」
「そうよ、バス、トイレ別の1K。ちょっと古いけど管理費込みで4万を切る物件は、他にないね」
同じサークルのひとつ上の島田先輩は、念願の一人暮らしを始めた。大学までは親元から2時間近くかけて通っていたが、大学3年の春、ついに親元を出ることを決心した。
大学の校舎は横浜だったが、少し歩けば横須賀市だった。大学の周りというのは、安い物件が確かにある。しかし、大学のそばともなれば人気があり、結局相場的には少し高めになってしまう。島田先輩が見つけた物件は、大学まで歩いて20分、駅にも遠く、周りの環境はちょっとした買い物をするにも不便な場所だった。それに、アパートの周りには小中の町工場があり、昼間は少し物音がうるさい。そして夜になると、街灯も少なく、とても女性が一人で歩けるような雰囲気の場所ではなかった。安い理由は、探せばいくらでもある。まぁ、それでも先輩は親元から出ることが出来ればなんでもよかった。
僕は、大学から電車で一時間ほど――そう、わりと近くに住んでいた。この大学を選んだ理由も、近かったから、そして高校からエレベーター式で簡単に入れるからで、大学と名前が付きさえすれば、なんでもいいと思っていた。どういうわけか、島田先輩は、何かにつけて僕を呼びつけ、サークル仲間と遊ぶときは必ずといっていいほど一緒に行動していた。馬が合うというよりは、先輩が勝手に僕についてくるという感じだった。一度酒の席で、弟みたいだと言っていた。先輩は一人っ子で、ずっと親元で生活をしてきた。兄弟が欲しかったのだという。自分の部屋に電話の子機を引き込んでいた僕には、電話もしやすかったようで、一度など、ゲームソフトの攻略方法がわからないからと、夜中に電話をかけてきたこともあった。さすがに迷惑だとは思ったが、不思議と嫌だとは思わなかった。
大学の夏休みがおわり、夜が肌寒く感じるようになったころ、その島田先輩から妙な話を聞いた。それはこうである。
「別に引っ越した形跡がないんだけど、隣とその隣、ほら、うちは1階の一番奥の角部屋なんだけど、入り口の2件の人の住んでいる気配がなくなったんだよな。夜逃げでもしたのかなぁ……」
「お隣さんって、どんな人が住んでたんでしたっけ?」
「たしか、隣は同じ大学の文学部の4年生だったかな、その隣はわかんないけど、でも多分学生だと思うけど、ほとんどあっても挨拶もしないような人だったからなぁ」
「4年なら、もう、就職も決まって、実家に帰ったとか?」
「いや、洗濯物が干しっぱなしなんだよ、2軒とも」
「はぁ、洗濯物?」
「あんまり、よく覚えてないんだけど、もしかしたら、先に人の気配がなくなったのは隣の隣かもしれない。102号室」
「あれ、先輩のところ105じゃなかったでしたっけ?」
「そうだよ、101は管理人がもともと使ってたらしいんだけど、今はだれも住んでないらしい、で、103号室が隣で、104がなくて105がうちの部屋」
「104、ないんですね。それって縁起が悪いから、欠番にしているだけで、実質先輩の部屋が104なわけですね」
「それはほら、だって、2階なら204で「2」と「4」で縁起が悪いかもしれないけど、俺のところはどっちにしても関係ないだろ」
先輩は少し怒ったような口調でいった。先輩はこの手の話が苦手なのだ。実は先輩の家に泊まりに行った何回かは、飲んで遅くなったこともあるが、先輩が暗い夜道を一人で帰るのが嫌だからというのも、少なからずあったのだ。もっともそのことをお互いに口に出したことはない。島田先輩が怖がりだという話を2つ上の先輩が冗談めかして話しているのを聞いたことがある。多分、それは事実だと思う。
「でも、隣の部屋から、時々物音がするんだよ」
「またまた、先輩、そういうことを……」
「いや、ほら、レジ袋の中をガサガサ探すような音あるじゃん。あれがさ、夜中にするんだよね」
「でも、先輩の部屋って、隣の部屋とは構造上、すぐ隣って訳じゃないでしょう?」
「そう、だから、その音が聞こえるのは、俺が夜中にトイレに行ったときだけなんだ」
「あー、そういえばトイレは確かに隣の音、聞こえますよね。トイレットペーパーを巻き取る音とか、結構リアルに聞こえたりしてましたね」
「なんか、気味悪くてさ」
「ネズミとかじゃないですか?あっ、もしかしたらタヌキだったりして、この前、先輩を家まで送ったときの、アレ、絶対にタヌキですよ」
「そんなわけないだろう!」
「あれ?もしかしたら、あのときのタヌキに化かされてるんじゃないですか?」
「そんなこと、あるわけないだろう」
「そうえいば、こういう話知っています?たしか小泉八雲の書いたやつだっけな むじなとか言う話……」
僕は面白がって、先輩に少し怖い話を聞かせた。普通の人ならどうということはない、昔からあるのっぺらぼうの話だ。そして、むじなというのはタヌキだったり、アナグマのことで、昔から人を化かすという話をした。先輩は笑って話を聞いていたが、その夜、先輩から電話が来た。
「ごめん、また、あの音が、カサカサって音がしてさ、ちょっと来てくれないかな?さすがに、怖くて」
最初は断ったものの、元はといえば、僕が先輩をからかって、怖い話でビビらせたせいなのだ。僕はしかたなく、親から車のキーを借りて、先輩の部屋に向けてカローラⅡを走らせた。
先輩のアパートへは昼間なら一時間ほどだが、夜も11時を過ぎれば40分くらいでいける。先輩を心配して急いだわけではないが、つまらない用事は早く済ませたいとの思いから自然、車のスピードは上がった。車中ふと、ある日の出来事を思い出した。それは、サークル仲間とドライブをした帰り、先輩を車で送る途中の道で、ちょっとした事故を起こしてしまった。事故といっても、相手は人や車ではない。なにか獣を引いてしまったようなのである。道路上に白い影のようなものが浮かび上がり、危ないと思ったときにはもう遅かった。僕は下手にハンドルを切ったり急ブレーキを踏んだりせずに、出来る限りそれをよけようとした。
ドン!と何かがバンパーに当たる手ごたえがした。少し先で車を止め、バンパーを確認すると、向かって右側、助手席側のバンパーに少しへこみがあり、獣の毛のようなものが着いていたが、幸い血痕は見つからなかった。タイヤにもなにもない。運転していて何かを踏んだという感触はなかったから、多分跳ね飛ばしてしまったのだと思う。ゆっくりとバックでその現場に戻ったが、路上にはなんの痕跡も見当たらない。道路の左側、およそ跳ね飛ばしたであろう方向は草むらになっていて、その中を探して見つけることは困難だ。後味は悪かったが、それで現場をあとにした。
「猫か、野犬か」
「野犬はないでしょう。あるいはタヌキならありえますけど」
「タヌキか、タヌキだったら怖いな」
「なんでです」
「え、いや、なんでもない」
「先輩まさか、タヌキが化けて出るとか言わないでくださいよ」
「いや、むかし聞いたことがあるんだよ、そういう話」
「そういう話って?」
「あー、もう、忘れた。行こうぜ。もしかしたら助かっているかもしれないし」
「そうですね。行きましょうか」
先輩もたいした怖がりである。いまどきタヌキが化けて出るなど、子供でも怖がりはしない。とはいえ一人で夜道を車で走らせていると、ふといろんなことを想像してしまう。僕はあの獣を引いてしまった道を迂回して先輩のアパートへ向かった。
先輩のアパートに着いたのは日付が変わる少し前だった。
ピンポーン
何もないとわかっていても、このアパートは少しばかり不気味だ。妙に生活感というか、人の気配が希薄だ。かろうじて廊下の洗濯機やゴミの回収日に出し忘れたままの空き瓶、前の住人が置いていったのであろうすっかりさびきった三輪車が、かつて人が住んでいたことを物語っている。しかしそれが間違いであることに、いずれ僕は気づくことになる。何もないとわかっていたのではない。何もないと思っていただけだったのだ。
「あれ? 先輩? 来ましたよ」
返事がない。部屋の明かりがついていることは、車を止める前に確認している。どこかに買い物に行ったかそれとも寝たのか……或いはトイレや風呂かもしれない。ドアをノックする。
コンコン
やはり反応はない。ドアノブに手をかける。拍子抜けするくらい簡単に右に回る。
カチャッ
鍵はかかっていない。すでにそういうことを遠慮するような間柄ではなかった僕は、そのまま扉を開けた。
「先輩!いないんですか?入りますよ?」
テレビの音が聞こえる。
玄関には、サンダルとスニーカーがある。
「寝ているのか……」
靴を脱ぎ、ずかずかと部屋にあがる。
あたりを見回す。台所は食器や鍋が洗わずにシンクの中に積み重ねてある。僕は一度見るに見かねて台所の片付けを手伝ったことがある。スープの少し残ったカップラーメンのカップや惣菜のパックが放置されている。
「相変わらずだなぁ。先輩お邪魔しますよ」
ガラガラ
テレビの画面には深夜枠のバラエティー番組が流れている。若手芸人とグラビアアイドルがなにやら騒がしいが、ひとつも面白くない。いつもソファーベッドに横たわりながらテレビを見ている先輩の姿がそこにはなかった。僕に出すつもりだったのか、それとも片付けるのを忘れているだけなのか、コップが二つ並んでいる。コカコーラのペットボトルにはまだ半分コーラが残っている。今さっきまで、そこにいた形跡……読みかけの雑誌は占いのページが開かれている。案外と信心深い。いや、単に悪いことはすべて占いのせいにしたいだけなのかもしれない。
「トイレ……かな」
そうつぶやいた瞬間、背後から耳障りな音が聞こえてくる。
カサカサ……カサカサ
一瞬腰を抜かしそうになる。そして次の瞬間頭に血が上りそうになった。
「先輩!担ぎましたね!そういう冗談は止めてくださいよ!シャレになってませんから」
玄関のすぐ左手に扉があり、そこに脱衣所とトイレと風呂がある。ご丁寧にそこの電気は消しているようだ。
カサカサ……カサカサ
僕の声に反応するようにカサカサというビニール袋をこすり合わせるような耳障りな音が聞こえてくる。
「先輩!いい加減にしてくださいよ。子供でもそんなことしませんよ」
強い足取りで、キッチンに戻り、脱衣所の扉を開ける。暗くガランとした脱衣所には洗濯物がたまっている。先輩は週に一回しか選択しないと言っていた。脱衣所の右手が風呂、左手がトイレ。迷わずにトイレのドアノブに手をかけて、一瞬躊躇する。この土壇場で、先輩がさらにドッキリを仕掛けてくる可能性。
先にそれをつぶそう。
振り返ってトイレ、脱衣所、風呂場の電気をつけ、先に風呂場を覗く。やはり誰もいない。
カサカサ……カサカサ
これ見よがしにトイレからカサカサという音がする。まだ続けるのか!
「先輩、ビールをおごってもらうだけじゃすまないですからね!」
トイレのドアノブに手をかけ玄関と同じように右に回す。不意に体が反応する。
この扉は開けちゃダメだ!
しかし、頭で指令した体の動きは、すでに体が覚えた自然な動きとして、それを止めることは困難だった。
まずい、なにかおかしい。これはやばいかもしれない。
そう思う気持ちが腰だけを後ろに引かせる。なんとも不恰好な姿でトイレのドアを開けることになった。
カサカサ……カサカサ
そこに先輩の姿はあった。いや、先輩の姿をした別のもの……ちがう、ついさっきまで先輩だったもの?
カサカサ……カサカサ
様式のトイレの便座に腰掛けた先輩は、苦しそうにもがいていた。が、それもいまこときれようとしている。僕は医学の知識があるわけではないが、それは人間が別のものに変わる瞬間。死体になる瞬間だとすぐにわかった。先輩の手は顔や頭をかきむしっている。しかしそれはもはや力なく。最後の力を振り絞って首の辺りをかきむしっている。先輩の頭は白いビニール袋――スーパーのレジ袋のようなもので覆われ息が出来ない。普通ならなんなく取り除けるはずのそれは、まるで生き物のように先輩の顔にへばりつき、口の形や鼻の形が呼吸をするたびに膨らんだりへこんだりしている。
「せ、先輩!どうしたんですか!」
慌てて先輩に近寄ろうとする僕を、先輩が制した。
「に……げ……お……は……や……う」
先輩は自らが助かるためではなく、なんとか自分の声が僕に届くようにと、先輩を締め付けるレジ袋のようなものを摘み、最後の一息をそれに使い……糸の切れたマリオネットのように動かなくなった。
「あっ、あっ、あああっ!」
悲鳴を上げながら、僕はトイレの扉をしめ、助けを呼ばなければと玄関をはだしで飛び出した。すぐとなりの103号室の玄関のドアを激しく叩く。
ドンドンドン!ドンドンドン!
「だれか!だれかいませんか!」
返事がない。隣の部屋に行きかけて、ふと、先輩の言葉を思い出す。
「た、たしか、隣の部屋からカサカサって音がするって……まさか!」
非常事態である。僕は103号室の玄関のドアノブに手をかける。またしても嫌な予感がしたが、もはや自分をコントロールすることなど出来なかった。案の定、鍵はかかっていない。これはもしかしたら最悪の状況なのかもしれない。思い切って扉を開けて中の様子を窺う。暗がりになにやら人影のようなものを見つける。
「あ、あのー、すいません!実は大変なことが……」
その人影がこっちに向かって歩いてくる。
カサカサ……カサカサ……という音と共に。
同じだ。先輩と同じでその人影も頭からレジ袋のようなものを被っている。それはゆらゆらと歩き、さながら生ける屍のようであった。戦慄が走る。僕は生まれて初めて命の危険を感じた。103号室の玄関から後ずさりする僕にさらに追い討ちをかけるような音が耳に入ってくる。
ガチャ
105号室の玄関の扉が開き、ついさっきまで先輩だった『もの』が、ふらふらと、そしてゆらゆらとこっちに向かってくる。
カサカサ……カサカサ……
その姿は子供のころに見た妖怪の映画に出てきた『のっぺらぼう』のようでもあり、ゾンビのようでもあった。僕は逃げ出そうとして失敗し、その場に倒れこんでしまった。ひどくひざをコンクリートの床に打ち付けた。強烈な痛みは、それでも恐怖には勝てなかった。必死の思いで這うように廊下をアパートの出口に向かう。しかし、その行く手を102号室の玄関の扉が遮る。
カサカサ……カサカサ……
101号室からも誰か出てきたようだ。
カサカサ……カサカサ……
意識が遠ざかる。
カサカサ……カサカサ……
音だけがどんどん近づいてくる。
カサカサ……カサカサ……
苦しい。何も見えない。
カサカサ……カサカサ……
なんだ、案外ときもちがいいや。
カサカサ……カサカサ……
カサカサ……カサカサ……
次に僕が気がついたのは病院のベッドの上だった。先輩のアパートに行く途中に事故にあったらしい。僕はまったく思い出せなかった。ただ、僕が事故にあった場所を聞いたとき、僕はとても恐ろしくなり、後日その場所に行って周りを散策してみた。そこは僕が何か獣をひいてしまった場所。僕の記憶ではそこを迂回したはずなのだが、僕はハンドルを切り損ね、雑木林に突っ込んでしまったらしい。そのときに思いっきりひざを打ちうけた。幸い打撲程度で済んだ。
「あ、もしかして、これか」
僕が事故を起こした場所のすぐそばに、一体の獣の死体が転がっていた。獣の頭には白いレジ袋がかぶせてあった。そうなのだ。僕が車で引いてしまったのは、レジ袋の中の食べ物をとろうとしてその中に頭を突っ込み、それが取れなくて道路に飛び出した、一頭の獣だったのだ。それが狸なのか、狢なのかはわからない。僕は死骸のレジ袋を取ってあげ、その場に丁寧に埋葬し、手を合わせた。
2ヵ月後、先輩はアパートを引き払った。先輩の身に何が起きたかは、いまだに聞いていない。その頃から僕と先輩は一緒に行動しなくなった。しかし、あの日以来、先輩がエコバックを常に携帯し、レジ袋を使わないようにしていると聞いたとき……。
およそ、何が、起きたのか、想像できた。
おわり
2013年1月
エンディングを少し変えてみました