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這う女

這う女




「疲れた。疲れたわ」

 夜道を一人の女が歩いている。人通りは少なく、街灯もポツリポツリとしかない。


 静寂。


 そして、その中にコツ、コツ、コツ、とヒールの音が響く。


「冗談じゃないわ。今日は、ずっと立ちっぱなしだったわ」

 女は、夜道を歩きながら、なにやらブツブツと恨み言をつぶやいている。黒のヒールはやや高めで、そこから白くすらっとした長い足がスカートの中へと伸びている。足首の細さに比べて、膝から太股にかけての肉付きは意外なほどいい。その割りに腰まわりはややこぶりではあるが、しっかりとした筋肉が備わっており、ふくよかさよりも健康的なたくましさがかえって妖艶といえなくもない。


「はやく部屋に戻って横になりたいわ」

 しっかりと鍛え上げられた足腰でも、一日中立ちっぱなしでの労働は流石にこたえる。彼女の歩く姿は、下半身だけでも男を十分に魅了する。腰から背中へまるで背骨がしっかりとわかるほどに彼女の姿勢は凛としている。歩くときの歩幅、足の運び方、腰の動き、しなやかな腕の振り。それらは見事なまでに調和がとれて無駄がない。薄手の黒いジャケットの襟元から白いブラウスが見え隠れする。髪の毛は頭の上のほうで束ねられ、首筋があらわになっている。異様に首が長く見える。


「物騒ね。このあたり、少し暗すぎるわ。ひとけもあまりない。早く帰らなきゃ」

 女の唇はやや薄い。口紅はそれほど派手なものをつけてはいないのだが、真紅と表現するのが一番ふさわしい。やや半開きの口元は、常にある一定以上の湿度を保っている。暗がりの中では、どことなく卑猥に見えてしまう。すっと徹った鼻筋は女の顔の中で一番目立たない。目元はどちらかといえば切れ長だが、細いという印象はない。瞳の白い部分と黒い部分が不自然なくらいにはっきりしている。じっと見つめられると思わず吸い込まれてしまうような印象がある。瞬きは極端に早く、ともすれば、ずっと瞳を閉じていないように見えてしまう。


 耳にはピアスの穴が右に一つ、左に二つ開いているが、今は何もつけていない。形のいい小さなその耳が、何の物音を捕らえた。女の背後から、別の足音が聞こえてくる。路面の砂をすりつぶすような音。女のヒールの音とは明らかに違う。男物の革靴。重量感がある。およそ女の体重の倍はありそうである。


「いやね。こんなところで……」

 女の足音が少し早まる。男の歩くテンポは変わらない。変わらないが、明らかに女に近づいている。歩幅が大きいのだ。


「もうすぐ、もうすぐ家なのに……」

 女は、少しあせり始めている。こんな夜道で背後から男が近づいてくる。出来ることなら追いつかれる前に家に着きたい。でも、露骨に走り出すのも気が引ける。いや、それ以上に長時間立ったままでの労働に、足が言うことを利かなくなっている。うっかりすれば、自分で自分の足に躓きそうである。


「もう、こんなときに……もう少し、もう少しなのに」

 女は必死で重い足を前へ、前へと運ぶ。さっきまでの小気味のいいコツコツという音はどこか不安定で引っかかるような不快なリズムを刻みだした。女の呼吸が乱れる。どんなに女が急いでも、足音はどんどん背後に迫ってくる。抗いようのない恐怖。でも、アパートは目の前だ。あと100メートルいや80メートルもない。暗くて距離感がつかめない。不意に女の足音が止まる。


 バタッ!


 とうとう女は路面に倒れこんでしまった。右足で左足を引っ掛けてしまったのだ。女の視界には少しくたびれたアスファルトの道路――そこから自分のアパートまで30メートルと言う距離――昼間の熱がまだ残り、気持ちがいいくらいに生暖かい。手には少し砂がついている。どうにかうまく受身を取った。怪我はないが、着ている物を汚してしまった。いや、そんなことよりも――女が振り向くとそこにはひとりのサラリーマン風の男が立っていた。年は30手前といった感じだ。まだ若い。


「大丈夫ですか?」

 言葉だけは優しいが、どことなく信頼が置けない。男は好奇心と警戒心を隠しながら、そして女の足の先から腰の辺りまでを嘗め回すような露骨な視線を送りながら、口だけは心配しているかのようなことを言う。


「だ、大丈夫です、アパートはもう、すぐそこですから」


「あー、すぐそこですか。なら、私があなたをアパートまでお送りしましょう。こんな夜道で倒れこんだりして……どこか怪我をしているかもしれませんよ。ほら、骨折とかって、案外と本人はすぐには気付かなかったりするものですから……どうぞ私に捕まってください。大丈夫です。何もしませんから」


 男の言っていることはわかる。そしてそれ以上に男が自分に何をしようとしているのか、何を考えているのかは、もっとわかる。だから、断らなければならない。だけど、女にはその術がなかった。


「じゃあ、すいませんけど、肩を貸していただけますか?」

 女は観念し、男の申し入れを受けることにした。もし、断ろうものなら、こんな場所で辱めを受けるのは耐えられない。


 男は女の手をとり、女の肩を抱えた。女の手は汗でしっとりと濡れており、それだけでも若い男は興奮を抑えられそうになかった。後ろから見た姿から想像していたそれよりも、女の身体はふくよかだったことは、更に男を喜ばせた。


 男は必要以上に女を強く抱きかかえ、女はそれをよしとした。

「どこか痛いところはありませんか?」

「えー、少し肘と膝の辺りを打ち付けたようで……」

「あー、それは大変ですね。私は多少なりとも応急処置とかの心得はあるんです。良かったら看て差し上げましょうか?」

「いえ、そんな、ここまでしていただいて、それ以上は申し訳ないです」

「いえいえ、お気になさらずに」


 女は杓子行儀に接し、男は押し付けがましく女に近づいていった。180以上あるがっちりとした男である。やや、小柄の女を抱えるのには、少しばかり屈んだ姿勢をとらなければならない。その分、男の体が女の身体に必要以上に密着している。


 男の興奮が欲情の限界を超えるためには30メートルの道のりは、十分な距離ではなかった。男はどうにか自分を制御できたし、それは女の思惑通りでもあった。

「ここで、もう、結構ですから」

「いえいえ、そうは行きません。私はあなたが心配なのです。どうか、気になさらずに、さぁ、行きましょう」

「ですが、これ以上、ご迷惑をかけることは……」

「いえいえ、このままでは私の気がおさまりません。いえいえ、おかしな意味ではなく、心配でと言う意味ですよ。ほら、こんなところで押し問答していると、他の住人の方の迷惑になりますよ」


 一瞬男は怯んだ。それまでどこか控えめだった女の態度が急に変わった――いや、態度というよりは目つきだ。やや切れ長の目の奥にある瞳が、まるで爬虫類のそれのように男を睨みつけたように感じだのである。


「じゃ、わかりました。その代わり、あなたも決して大きな声を出さないでくださいね。他の住人の迷惑になりますから……そうなったら、きっとあなたも困ると思うの。ここの人たちは、なかなか気難しいのよ」


「あ、ああ、わかった。大きな声は出さないよ。騒がない」

「こっちよ」

 男は再びドキッとした。「こっちよ」といった女の口から、何か妙な音が聞こえた気がした。いや、そのことよりも、男を誘ったときの女の妖艶さは、まるで男をベッドに誘い込むときのそれのようで、男は背中を指で摩られたような気分に興奮した。


 3階建ての鉄筋のアパートの2階の角部屋が女の部屋だった。女は持っていたバッグから鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。鉄製のしっかりとしたドアは、決して部屋の中の音を外に漏らさないような頑丈さが、どことなく不気味である。いや、男にとっては都合が良いのか。


「どうぞ、静かにね」

「はい、御邪魔します」

「うっ」

 一瞬男はたじろいだ。外の空気とはあまりにも異質な湿気……カビ臭かったりはしないのだが、まるでミストサウナのような質量の感じることのできる湿気に思わず声を上げそうになったが、女の視線がそれを制した。


 女は真っ赤に染め上がった唇――なぜか、先ほどよりも赤が強くなっている気がする――に白く細い指を当てて、静かにという合図を男に送った。男はこの時点で、自らの意思で動く事ができなくなっている。だが、そのことに男が気付くのは、ほんの少し先のことである。


「ドアを閉めて。静かに。そして鍵をかけるの」

 男は女の言われるがままにドアを静かに閉め、そしてドアノブの上にある鍵を回した。

「そう、あとチェーンロックも忘れずにね。このあたりは物騒だから」

 言われるがままに男はチェーンをかけようとする。しかっし、うまくいかない。体が思うように動かない。男は気付いた。自分の手が震えている。体が何かに怯えているが、男はそれがどういうことだか、理解できなかった。


「あら、あら、そんなんじゃダメよ。ほら、ちゃんとこうやって、鍵をかけるのよ」

 男の手を女が握り、ゆっくりとチェーンをドアにかける。女の手は妙に冷たいのにじっとりとした湿気に包まれている。この部屋のせいなのか。いや、自分の腕から大量の汗が噴出している。毛穴が開き、激しく呼吸をしようとしている。体中の毛穴が開き、悲鳴をあげている。


 女が男の首に手を回し、真紅に染まった真っ赤な唇を男に耳元に寄せて囁く。

「だめ、もう、立っていられないわ。今日はずっと立ちっぱなしで、もう足が限界よ。早く、横にならなきゃ……」


「痛っ!」

 女は離れざまに男の耳に噛み付いた。それはピアスの穴を開けるような痛みであったが、その痛みがそういうふうに表現されるのがもっとも適当であることを男は知らなかった。


 男の耳を噛んだ女は突然男の視界から消えた。女は玄関口でヒールも脱がずにそのままうつぶせに倒れこんでしまったのだった。うつ伏せに横たわる女の体は恐ろしいほどに艶かしく、男は恐怖に身を震えさせながらも、己の欲情を止めることはできない。いや、ちがう。これはある種の生存本能なのか?死を目の前にして、遺伝子が己の子孫を残そうと、機械的に生殖機能のスイッチを押したに過ぎないのかもしれない――死を目の前に?いったい誰の?


「死?」

 男は自由な意思でその言葉を口にしたのではない。或いは意味のある「死」ではなくただの「si」という音しか出せなかったのかもしれない。


「かぁ、かぁ」

 男は初めて気がつく。口が自由に動かない。声が出せない。体が言うことを利かない。まるで何かに縛られているような……ちがう。しびれている。そう、女に噛まれた瞬間から、男の神経は麻痺してしまっていたのである。


「気持ちいい。やっぱり、横になるのが一番よ。立って歩くなんて、慣れない事は申したくないわ」

 女はそういいながら、うつ伏せのままくねくねと動きだした。まるで床の感触を確かめるように、愉しむようにのた打ち回る。女の腰の動きは激しく、スカートがまくれ上がり、白い太ももが付け根まであらわになっている。


「シューーーーー」

 それは、聞くものを硬直させるような威圧的な音である。その音は部屋の中の湿気の中に吸い込まれ、くぐもって聞こえる。それほどまでにこの部屋の湿度は異常に高い。


「シューーーーー」

 男は瞬きすることもできずにその光景を見つめている。もし、男の体が自由になったら……鍵を開けて逃げ出すか、女に馬乗りになるのか。いや、おそらくはそのどちらもままならないだろう。男にはこの女に背を向ける勇気もなければ、女がどんな顔でこの異様な奇声を発しているのかを見る勇気もない。


「シューーーーー」

 ついに女は這い出した。両手両足をばたつかせながら、身体を不自然にくねらせながら部屋中の床の上を這い始めた。


「シューーーーー」

 部屋の中は暗くてどうなっているのかよく見えないが、所々に死角がある。どこにいても女の白い肌は闇の中ではっきりと見て取れるし、女の口元もすぐにわかる。頭の上で結わいていた髪の毛は解け、女の目元は髪の毛で覆われてしまっちる。印象の薄かった鼻筋は、もはや見て取ることはできない。半開きの真紅の唇から、時々何かが蠢いているのがわかる。恐ろしく長い女の舌だとわかったとき、男は初めて自分の置かれている立場を理解した。


 部屋の奥には二つ部屋があるようだ。ベッドのよなものが見える。女は今、その上にいる。散々部屋の中を這いずり回り、気がつけは女は全裸になってベッドの上に横たわっている。そして不自然に身体をくねらせながら、長い首を伸ばし、男の方を見ている。ゆらゆらと揺れながら、女の髪の毛が左右に振られ、女の顔があらわになる。薄明かりのなか、女の目は細く切れ長で、その瞳はどこか表情がない。鼻と呼ばれるものはもはや小さな穴が二つ見える程度しかわからない。唇は薄いのに、半開きになると真っ赤な花が咲いたかのように見える。そしてそこから空気の漏れるような音とともに、長い舌が、小刻みに出たり入ったりを繰り返している。


 首からへその辺りまでは、人間のそれであるが、肌の質感が人間とは全く違うということは、少し離れた場所からでもわかる。そして、下腹部にいたっては、異常な状態に変形している。腰から下というものがない。腹から下は、同心円の胴体となり、本来足の先の部分は一本の……そう、一本の尻尾。


「シューーーーー」

 運のいい事に男の意識はそこで途切れてしまった。毒が体中を回り、神経が麻痺し、男には幻覚しか見えていない。だが、それはどこまでが幻覚で、どこまでが現実なのか。


「シューーーーー」

「クワァァ」

「カァ……」

「グビッ……」

「バキ、バキバキ」


「バキ、バキバキ」

「バキバキ」

「シューーーーー」


 頑丈に閉ざしたその扉は、あらゆる者の侵入をかたくなに拒み、そして、どんな者も外には出さない。例えそれが、何かを締め上げ、砕き、飲み込むような音でも……そして、あなたの断末魔の悲鳴ですら、何者かに飲み込まれてしまうだろう。







おわり

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