エステルとクロト その1
賢者と呼ばれる者達がいる。読んで字のごとしだ。言葉にすればただ一言だが、その在りようは種々色々とあるらしい。
国に仕え、王に助言をなすもの。野に在りて、人々に進むべき道を示すもの。究道に没頭するあまり世の営みから外れ、幻とさえ呼ばれるもの。
いずれも尊敬や信望を、あるいは畏怖の念を、集めてやまない存在ではある。
だが中には。
彼らの中には、必ずしもそれらの在り方に当てはまらない異質な者もいたのである。
今から俺はある賢者の話をしようと思う。
まったくあいつときたら、賢者の名にふさわしくもあり、不相応でもあり……。
とどのつまりは、おかしな奴なのである。
「だからね、賢者って呼び名は何か違うんじゃないかって思うんだ。だってそうでしょ、クロト君。たった一度の試験に合格したくらいで『賢き者』だなんて名乗ったりできるほど図太く出来てないんだよ、ボクの神経は。繊細なの、ね」
そう言ってエステルは読みかけだった本に再び目を落とした。
……あのなあ。繊細な神経の持ち主ってのは、同年の男の部屋なんかに無断で上がりこんで、しれっと居座ったりしねえんだよ。なりはちっこくても女だろうが。
そう。俺の部屋は今、ある一人の闖入者によって占拠されてしまっている。名をエステル。この部屋にあるたった一つの椅子に陣取って、悠々自適の読書空間を満喫しているのが、それだ。おかげで、この部屋のあるじであるはずの俺が、部屋すみの寝台の上に追いやられるハメになってしまっているのだが……うん、どこ吹く風といった感じだ。このマイペースさは賞賛にあたいするだろう。
どこ吹く風などと言ったからだろうか、開けていた窓から風が吹きこみ、エステルの髪を梳くようにしてなでてゆく。肩にかかるやというきれいな黒色がふわりと浮きあがり、そしてふわりと落ちた。
……後ろからだと、わりと大人びて見えるんだよ。だから、見とれていたわけではない。断じてない。だいいち正面から見たら、『大人』びているだなんて、とてもとても。
くりっとした丸い目や、丁寧に切りそろえられた前髪、かすかに赤みのさす頬など、エステルの顔のパーツはどれもこれも、十六というこいつの本来の年齢よりも若干の、いや、かなりの幼さを感じさせるように造形されている。体つきにしろ同年代よりも確実にひと回りは小さく、大人と言うよりは、いっそお嬢ちゃんとでも呼んだほうが、よほどしっくりくるのだ。
そんな自身の見た目のおさなさを嫌って、というわけでもないのだが、エステルは、研究職の人間や医療関係者などが身に着ける白衣を、なぜかつね日ごろから愛用している。この白衣という衣装、覆い包まれた者はなぜか、本来の姿でいるときよりもグッと知性的かつアダルティーに見えてしまうという不思議な代物なのだが…………その白衣を着ることによって、エステルの見た目の年齢が本来のそれに少しでも近づくことに寄与しているかといえば――残念ながらそんなこともなく。子供が一生懸命に背伸びをしてなんとか大人ぶろうとしているかのような、そんなある種のほほえましさを生み出すためのスパイスにしかなっていないのだった。
もっとも、本人のほうではそんな周りからの視線などは実のところ全く意に介しておらず、
ただ単に「これ好きだから」という理由のみで、この服装でいることを貫き続けている。なんと言うか、本当にマイペースな奴なのである。
マイペースなのは結構なことだと思う。のんびり屋で自己主張もしない性格だから、周囲の人間からしてみればとにかく手間がかからない。エステルの親父さんいわく、「本さえ読ませとけば、他に何もほしがらなかったからなあ」……とのこと。ガキの頃からの付き合いがある俺も、エステルが他人を困らせている場面などついぞ遭遇したことはなく、ああ、人畜無害というのはこういうのを言うのか……などと、子供にしては妙に達観した感慨を抱いていたものだった――のだが、それも今となっては昔の話。……はぁ。
「なあ、エステル」と背中に声をかけてみると、
「……んー」とやっぱり背中での応答。
「うんー、じゃねえ。あのな、たしか俺とお前は、恋人同士でもなんでもなかったよな?」
「んー……? そりゃあね」
ぺらりぺらりと本をめくりつつ、気のない返事をしていやがる。
「生まれてこのかた十六年、思えばいっつもキミが横にいてたような気もするけれど。
でも、それを言葉にするのなら幼なじみが適当であって、恋人? な関係じゃあないよね」
「いやお前、ちゃんとそう思ってんのなら…………」
――絶句だ。
なにをのほほんと言い放ちやがって。
いやまあ、それは確かにそうだろう。俺とエステルが男女付き合いをしているなどという、そんな事実や実態はいっさい存在しない。そこは両者の見解の一致を見るところだ。だがしかし実際として、いま俺の部屋には恋人でもなんでもない女が一人、居ついてしまっている。それも無防備に。無警戒に。
この現実を……この現実を……いやいや、いったいどう直視しろっていうんだよ。
ここ最近、現在進行形で俺がエステルに困らされていること。それはズバリ『距離感』なのである。常時べったりというのではなく、幼なじみという肩書きからすればむしろ疎遠に感じられるときもあるのだが、それが一転して近寄ってくるとなると、その密着っぷりはもはや半端なものではない。手をつなごうとしてきたり、服のずれを直そうとしてきたり、こっちの着ている外套の内側に寒いからともぐりこんできたり……!
それらは全て子供の頃からの習慣(手つなぎは迷子防止)ではあるのだが、当然いい年をした男女の間でなされることではない。
極めつけなのが、『夕立に降られてエステルの家の暖炉を借りて一緒に温まっていたはずが、いつの間にか俺の背後で着替えを全部済ませてしまっていやがった』事件である。子供の頃ではない、わりと最近の話なのだ。あえてその時の詳細は述べるまい。が、今思い出しても冷や汗が止まらなかったりする。せめて「こっち見ないでね」の一言すら無いってのは……。
どうも感覚がずれているのだ。あるいは、俺とエステルの育ってきた環境によるものか?
親同士の仲が良く、俺たち二人は何かあるたび一まとめにして扱われていた。家にいるときも旅行に行ったときも。遊んでいるときも勉強しているときも。雨の日も風の日も、病めるときも健やかなるときも…………ああ、確かに。思えばいっつもエステルが横にいたような気がする。
とすると、幼なじみというよりは兄妹的とでも言ったほうが、実状に、より近しい表現であるとは考えられるかもしれない。
でもそれはあくまで外から見た意見にしか過ぎない……んだよ。むろん「好きだ」というのも、何か違う。俺にとってエステルは、あー……なんというか、そういう関係になってしまったとしても、決してダメなわけではない相手……とでもいうか…………ああくそっ、うまく言えねえ!
腹立たしいことに、じゃあエステルのやつが、俺のことを兄のような存在として信頼しているから、安心して無防備な姿をさらしているのかと言えば、それが全然違っていたりする。簡潔に言おう。馬鹿なのだ。色恋沙汰に。
前述の『距離感』にまつわるどうしようもない行動の数々も、そういう『馬鹿さ加減』から来ている――そうでなければ、こんな狭い密室のなか男と二人きりで、ゆうゆうと読書に耽っていられようはずもないだろう。今の状況を例えるなら――そう、飢えた虎だか狼だかの巣にのこのこ入り込んできた白ウサギが、据え膳の上でペタンと寝転がっている様なものだ。
そんなの、どうぞガブリと……ガブリといかれてもそんなの……自業自得と言うか、つまりは…………って、おい! 何考えてんだ俺は!
――違う! 違う! 違うんだー!
心の中で叫びながら、俺は頭をおもいっきりバリバリとかきむしっていた。
俺は飢えたけだものなんかじゃねえ! それだけは断言できる(と言うか断言できないといろいろマズい)。……でもなあ。アレだ、アレなんだよ。
――腹が満ちているときの獅子は、たとえ獲物が眼前を横切ったとしても、決して喰らいつこうとしない――とかいう話。
…………満ちてないから。
飢えたけだものなどでは決してないのだが、腹が満ちている……というわけでも、ない。
だから、頼むから、俺に道を踏み外させるようなまねを、無意識かつ効果的に行うのはやめてほしいんだ、エステル。
物の弾みということも有るかもしれない。つい魔が差して、などということも無きにしもあらず。
例えばこう……エステルが近寄ってきたとするだろ。その手を思わず掴んでしまって――衝動的に――こっちを見る。目が合う。グッと引っぱれば、コロンと寝台の上に転がってくるだろう。こいつ、てんで力なんて無いから。でだ、ガバッと上から覆いかぶさってしまったとしても、まだ不思議そうな表情で見上げてきて、その顔にゆっくりと…………ゆっくりと……………………?
「……………………」
ふと気づいた。視線。俺の下を向いた顔の側面に垂直に伸びてきているのを感じる。……え? …………あれ?
とてつもなく嫌な予感が体を突き抜けていった。そのまま飛んでいくのかと思ったら、急に折り返してきて、また突き刺さった。そして抜けそうにない。
せ……整理しよう。今この部屋には、俺とエステル、二人の人間がいる。他には誰もいない。エステルはきちんとデスクに正対して座り(デスクチェアーの座高が合っていないにしても)、こちらには背を向けて読書に集中していた。
俺は何をしていた? 寝台の上にあぐらをかき、ぶつぶつ言いながら急に頭をかきむしり出したかと思うと、ピタリと動きを止め、やおら四つん這いの姿勢をとり、その……エステルの頭にみたてた枕に、ゆっくりと顔を近づけていくという…………おおお、想像を絶するほどの醜態!
……状況整理完了。以上のことから導かれる二つの仮定、すなわち――
俺の感じた視線が気のせいであった場合――エステルは依然として読書中であり、背を向けていた以上こちらの行動の一切は目に入っていなかった。俺はさりげなく居住まいを正した後、部屋からの退出をやんわりと、あらためてエステルに促せばよい。たいへんに紳士的な行いであると言えよう。
いっぽう、気のせいではなかった場合――消去法により、視線の主はエステルである。どの時点から見られていたのかは判然としないが、まあ、俺のとった奇矯きわまる行動のほとんどは目撃されていると思われ、彼我に重大な溝を生じさせる恐れがある。ことに、その行動の内情を見抜かれてしまった場合の俺の心に刻まれるであろう傷の深さは、筆舌に尽くしがたいものがある。
天国と地獄、いずれかに至る運命の分岐路は、その先の明と暗があまりにもくっきりと分かたれていた。進むべき道は寸分の迷いすら必要ないほどに明白であり、しかしその選択権はこちらに無い。
エステルがこちらを見ているか見ていないか、ただその一点。俺の、この後の全てが懸かっていると言っても過言ではない。
――テーブルに置かれた天秤の側で、暇そうにサイコロを転がしていた運命の女神が、「ん? 仕事かしら?」といった感じで顔をあげた。
敗れたとき、どれほどの絶望と苦難が待ち受けているのだろうか。想像するだに恐ろしい。
だが、覚悟は決めるしかない。頼むぜ、運命の女神様……いや、本当に。
四つん這いの体勢のまま目だけを動かす。枕から寝台、寝台から床、視線は這うようにしてエステルの足元へ。
――つまさきがこちらにむいていた。
……えーっと。つまり、よほど柔らかい体をしていないかぎり? 全身がこちらを向いているということになり…………いやいや。本だ。体をこちらに向け直して、しかし読書はやめていないかもしれないじゃないか。その可能性は十分にある……!
折れそうになった心をなんとか立て直し、再び視線の移動を開始する。つまさきから白衣のかかったすねへ。すねからひざ、ひざからさらに視線を上へ――
――ひざのうえにとじられたほんがのっていました――
……………………まだだ! 本を閉じて、お昼寝をしているのかもしれないじゃないか(ほぼ現実逃避)!
ええいっ、こうなったら玉砕も覚悟の上だ! 視線移動再開! 腰部、腹部、胸部! 首からあごのラインを通過、顔をとらえ、じっとこちらを見つめる目と合
「…………!! …………!!」
「どうして、もの凄い勢いで顔をそむけるの?」
…………地獄道、即断、うちの女神様。お示しあそばされたその指先に、一片の躊躇すら感じられなかった。
「な……なんで、こっちを見てるんだ……」
「なんでって、キミが途中で言い止めたから。『いやお前、ちゃんとそう思ってんのなら……』って。その続きを待っていたんだけど」
……ああ。言ってた言ってた。それでわざわざ本を読むのをやめて、こっちに向き直って、俺が話し出すのを黙って待っていたと。
……その健気さと律儀さには、もう涙が出そうだ。
「そしたらクロト君、急に頭をかきむしって、ベッドの上でわたわたしていたでしょ。いったいどうしたの?」
「どうしたと言われてもそんな、お前……別にいつもどおり普通に俺、俺だっただろう、じゃないのか?」
「……今のキミの態度を形容するのに『挙動不審』以外の言葉をつかったとしたら、それはとても斬新な比喩表現になっちゃうから。つまり、とてつもなく変だよってことなんだけど」
クッと眉根を寄せたエステルの困惑顔が容易に想像できた。すぐそばにいる人間の顔をわざわざ思い浮かべるのはどうなんだ、という気はしないでもないのだが、こちとら、四つん這いの体勢で顔だけを不自然なほどあらぬ方向に曲げて、冷や汗をダラダラ流しているような挙動不審者である。文字通り顔向けできん。
「……もしかしてどこか具合でも悪いの?」
だというのに、心配そうに声をかけてくるエステル。うう、良心の呵責が。
けれどもその勘違いは実際のところ、渡りに船だった。だって、なあ。どうしたのかと聞かれて、まさか馬鹿正直に「実は頭の中でお前を押し倒していたんだよ」だなんて答えるわけにも、ははは……答えるわけにも…………やべえ。ちょっと本気で言えねえ。
うあっ……想像したら、心臓のあたりがギリッてなった。
のんきに渡りに船などと言っている場合か? もし乗り遅れたら俺の運命は、後悔の海の底で、海の藻屑……なのだ。
そう、全力で船に飛び移る――もはやそれしか活路がない!
「そ、そうなんだ! なんか知らんが急激に――」
「とりあえず、ちゃんと座ってこっちを向いたらどうかな」
……………………そそくさ。
「……うん。なんで正座して? 申し開きっぽい体勢? なのか、よく解らないけど。……うん、頭痛がして……お腹も痛い、と……さらに心臓がギリギリするの? ……あのね、それってかなり重病なんじゃないのかな、クロト君」
エステルの心配顔が見なくても目に浮かび、なぜ見ないのかといえばそれは顔をうつむけているからであり、あんのじょう良心の呵責がギリギリと心臓を締め付け、とうてい顔向けや弁明のしようのない状況である――が、とにもかくにも渡りの船に乗り込むことだけは成功したらしかった。
まさか船底に大穴が開いているとは、思いもしなかった。