その3: エリノアという少女
翌日の放課後。
「うーーだりぃ……」
隣街にある学校から自分達の街に戻った空助とイヴァンだったが、二人とも明らかに表情が引きつっている。空助の言葉は、その気分が思わず口から出た感じだった。
「昨日は満足に訓練出来なかったからな……。今日は早く帰って昨日の分もやるぞ……」
「そうだね……」
二人の表情は暗く、足取りは重い。
「うっぷ……まだ胃にもたれてやがる……」
「僕もだよ……今日はお昼も抜いたのにね……」
「馬鹿! 食い物を思い出させるな……胸焼けがする」
「ご、ごめん……」
二人とも自分の胃の辺りを撫で擦りながら、会話を交わしている。「あぁぁきぃぃぃすぅぅぅけえぇぇ」
既に体力も尽きかけているような様相である。
「ん……? 呼んだか、イヴァン?」
何か聞えたのか、空助が鬱陶し気にイヴァンに顔を向ける。
「い、いや僕じゃないよ……。今呼んだのは……」
だがイヴァンは否定し、代わりに後方に視線をやった。
つられて空助がそちらを見ると、土埃を上げて二人の方に向かって爆走して来ている人間が目に入ってきた。みるみる距離を縮めてくる。
ちなみに、その更に後方から別の人物が向かってきていたが、そちらはとても遅かった。
「何だ……? 誰か走ってくるな」
爆走は止まらない。そのままの勢いで近づいてきて――――
やがて空助はその人物の正体を悟り、面倒そうに呟いた。
「ああ、エリノアか」
「空助えええええええ」
空助の名を叫ぶ声色を聞く限り、どうにも友好的な雰囲気ではない。
既に空助達の十メートル手前まで来ていると言うのにもかかわらず、勢いは全く収まらない。
エリノアと呼ばれた少女は勢いそのままに、空助達の五メートル程手前で高く跳躍する。
「何だ、そんなに慌てて……って、お、おいこらぐはああああああああっ!!」
そして、ローファーの裏を空助の腹にめり込ませて、ようやくその場に停止した。
代わりに空助は身体をくの字に折り曲げて、吹き飛んでいく。
「ああっ! アキ君!!」
イヴァンが悲痛な叫びを上げる。
そんな二人の様子を意に介さず、少女は空助をキッと睨みつける。
「アンタどういうつもりよ!」
「こっ、こっちの台詞だ!」
腹を押さえながら立ち上がった空助が怒鳴り返す。
エリノアはきりっとした細い眉と、形の良い鼻、多少ツリ上がった瞳が魅力的で、恐らくもう少し成長したらとても美人になるだろうと誰にでも確信させるほど、整った顔立ちをしている。
だが、"後少し成長したら"という前置きが付くように、ミア同様とても小さかった。なので今は美人と言うより、可愛いという形容が相応しいだろう。
ショートツインテールで色素の薄い赤毛の髪の為、ピンク色の髪色にも見える。
そんな妖精じみた少女で、ミアや勝利と同様に、空助達の一つ年下の昔馴染みだった。
なお、エリノア、ミア、勝利の三人合わせて、ちびっ子三人組と呼ばれている。
――――もっぱら読んでいるのは空助だけだったが。
「ど、どうしたの? エリちゃん」
「どうしたも、こうしたもない! この馬鹿、またミアを危ないことに付き合わせたでしょう!?」
エリノアが憤っているのは不良達との一件が理由だったらしい。
確かにこの少女はミアの姉代わりを自称しているが――――
「ちっ、ミアから聞いたのか。しょうがねえだろ。向こうが一方的に……」
空助が事情を説明しようとするが、エリノアは表情を険しく歪ませて一喝する。
「うるさい!!」
それと共に蹴りが飛んだ。空助の太ももにローキックが突き刺さる。
「襲って……いてっ」
空助の話は全く聞く耳持たず、ローファーの先が空助の向こう脛を抉る。
「きた……いて。って、おいコラ」
ローファーの踵が、空助のつま先を踏み潰す――――が、流石に空助は見咎めた。
エリノアの襟の後ろを片手で掴むと、グイッと上に持ち上げた。エリノアの小さな体がブランと宙に浮く。猫つかみのそれである。だが、猫とは違い、このピンクの少女は大人しくはならなかった。
「何すんのよ! 下ろしなさいよ! この馬鹿力! 下ろせぇっ!!」
と、空中で手を振り足を振り、暴れまわった。
そんなエリノアを鬱陶しげに見て、目線の高さまで持ち上げると、空助は冷静に諭そうとする。
「昨日のは向こうが一方的に仕掛けてきたんだから、どうしようもないだろ?」
「うるさい、それだけじゃない!」
「あ? 他には別段何もなかったぞ?」
空助は思い返すように視線を上に向けて首を捻る。
だがやはり思いつかなかったのか、隣のイヴァンと顔を見合わせて疑問の視線を交わした。
エリノアはそんな二人を憎々しげに見つめる。
「昨日皆でご飯食べたくせに! 私だけ除け者にして!!」
涙目で怒鳴る。ミアのことを理由にあげた時以上の、明確な恨みつらみがその瞳には宿っていた。
「こっちが本題か……それは俺に言われても知らん」
「うん、相変わらず突然だったからね。ミアちゃんのおばさんの夕食会は……。昨日ミアちゃんを送り届けた時に、そのお礼にって事で急に始まっちゃったんだよ」
イヴァンが昨日の経緯を説明する。
昨日眠りこけたミアを送り届けると、ミアの母親は丁度お菓子を作っていた所だった。「良かったら上がって食べていって」と、にこやかに申し出てきたミアの母親のお誘いを、二人はこれから訓練があるからと断わった。
が、よく言えばマイペース。オブラートに包まないで言えば、天然な性格のミアの母親には通じず、押しに負けて二人はおやつをご馳走になることにした。
食べ終わり早速辞去しようとした二人だったが、何故か創作意欲を刺激されたらしいミアの母親に夕食まで一緒することを提案され、結局二人は満腹で一歩も動けなくなるまで振舞われたのだった。
そういう事情で、前もって決まっていた事ではなかったので、エリノアに声を掛けなかったことについて、二人に何ら意図はなかった。
だが、エリノアは納得出来なかったようだ。
「嘘!! じゃあ何で勝利は呼んで、私は呼ばなかったの!?」
「いや、勝は家近いし」
身も蓋もない事を断言するが、真実だった。
空助の家を基点に考えると、ミアの家は右隣。イヴァンは道路を挟んで真向かいで、勝利の家はその左隣にあった。つまり四人はご近所さんなのであった。
「それにあの量は、勝ちゃんがいないととても食べ切れなかったよね」
「そうだな。でもアイツの何処に、あんなに入るスペースがあるのかが未だに分からん」
昨日の夕食会を思い返しているのか、イヴァンが感心したように話す。空助も不思議そうに頷き返した。
勝利は小さい身体ながら、巨体の空助よりも沢山食べるのである。胃袋が一体どうなっているのか、二人の長年の疑問でもあった。
「あんな量の夕食を作って……食べ切れなかったらどうする気だったんだろうね」
「例によって、料理に夢中になって量のことを考えてなかったんだろう」
ミアの母親はミアだけでなく空助達も娘同様に可愛がってくれる良い人なのだが、一つだけ悪癖があった。
それは無類の料理好きと言う事である。
もちろん、料理をする事自体は悪くない。料理もその道のプロかと思ってしまうほど達者だった。
では何が問題なのかというと。それはその量にあった。
普段は普通の量しかつくらないのだが、時折我を忘れたように料理に没頭してしまい、とても一家で食せる訳のない量を作り出してしまうのだ。
そういう場合は、必ず空助に声がかかる。だがそれでも消費出来る量ではないので、自然的にイヴァンや勝利に声がかかるのだった。
なお、ミアの母親のこの状態を、空助達は『発作』と呼んでいる。
「小父さんも途中で倒れてたし」
「腹が真ん丸になってたな」
発作が起こった場合、ミアの父親も被害者になる。なまじ頑張り屋なので、腹がありえないくらい大きくなるまで頑張る人物だった。
「それが、起きたミアちゃんの興味を引いちゃって……あやうく大惨事だったよね」
「そりゃあ、あんなに膨れた腹の上でジャンプとかされたらな。必死で我慢してたが、あの後絶対吐いてるぜ」
二人は昨夜のミアの父親の引きつった笑みを思い出し、苦笑する。
――――ここら辺で、エリノアの表情が険しくなっていたのだが、昨夜の思い出話に花を咲かせ始めた二人はそれに気付かなかった。
「でも、リーヌちゃんは居なくて助かったね。リーヌちゃんにあの量はとても無理だっただろうし」
リーヌとは、ミアの家にいる居候のことである。
といっても、実家とミアの家を一日置きに往復しているので、明確な居候とは言えないかもしれない。
「そうだな……色んな意味で本当に良かった」
「???」
何か意味ありげな様子で頷く空助に、イヴァンは首を傾げる。
だが、特にそれを説明するつもりはないようで、空助は話をかえた。
「しかし、これでまた勝の体の管理が大変になったな……」
「ふふっ。何だかんだいって勝ちゃんのこと心配してるよね、アキ君は」
「ちがう。そんなんじゃなくてだな――――」
二人の談笑は傍目には楽しそうに映ったのだろう。
それだけなら何ら非難される謂われはないが、目の前で無視される形になっている少女だけは違った。
「もおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
突然、エリノアが奇声を発した。
「うおっ」「うわっ」
綺麗にハモりながら、二人は驚きの声を上げる。
エリノアは、そんな二人を怒りに燃えた目で睨みつけた。
「もおおおおおおお!! また私を除け者にしてええええ!!」
「ご、ごめんね」
「ったく、うるせえな。お前ん家は遠いんだから仕方ねえだろ?」
四人の家はご近所だったが、エリノアだけは彼らの家から一キロ以上離れた所にあった。その距離では、ちょっと夕飯にお呼ばれ……と言うことにはならない。
「連絡があったら絶対行ったもん!!」
ただでさえ、エリノアは一人だけ家が離れている事を気にしている。その上イベントにも仲間外れにされたのでは、その不満はしょうがないのかも知れなかった。
それ思いやった――――のかどうかは分からないが、空助は面倒臭そうにエリノアに頷いてみせた。
「ああ、分かった分かった。今度機会があったら連絡する。それでいいだろ?」
「…………」
エリノアの懐疑的な視線が空助から、イヴァンに移る。
「う、うん。僕も約束するよ」
「……絶対?」
エリノアの口は心なしか突き出て、上目遣いで二人を睨みつけるようにして見上げる。
嘘偽りがあったら許さないという意思が伝わってくるが、その様子はとても愛らしかったので、威嚇に成功しているとは言いがたい。
対して、二人は真面目な顔で返答した。
「ああ」
「うん」
空助だけはどこか面倒そうではだったが。
エリノアは暫く警戒するように二人をねめつけて――――
その表情に嘘はないと感じたのか、
「ふ、ふんっ。これから気を付けるって言うなら許してやってもいいわ」
エリノアは少し緊張を解きながら、少しふんぞり返るようにして言った。
ただ、今エリノアは空助に持ち上げられたままなので、その格好は滑稽なだけである。
――――ここで話を終わらせておけば、エリノアの怒りも収まり、万事解決だったに違いない。
だが残念な事に、空助は思ったことを言わずにはいられない性質だった。そして、エリノアの事は全く気遣ってなどいなかった。
「ほんとに意地汚い奴だな。お前は。そんなにご相伴に預かりたかったのか?」
「あ、アキ君!?」
イヴァンの慌てたような制止の声が入るが、空助には聞えなかったらしい。なので続ける。
「ああ……。でもまあ、お前チビだし。餓鬼っぽいし」
こめかみをひくつかせ、エリノアの顔がどす黒い色で侵食されていく。
「ミア以上に貧相だし(体が痩せてるという意味で)」
ブチっと、何かが切れる音がした。
イヴァンは顔を真っ青にしながら隣でガタガタ震えていた。それほど今のエリノアの顔は怖い。
更に何か続けようとする空助だったが――――
「沢山食べて大きくなぎゃあああああああああああああ」
絶叫する。
「うううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
エリノアがまるで噛み千切らんとばかりに、空助のむき出しの腕に噛み付いていた。尖った八重歯が深々と空助の肉に食い込んでいる。
「いてえええええええ。コラ噛むな!! いてえっ。離せこのっ!!」
空助はエリノアの顔を押しのけるように押すが、エリノアの顎は強靭で離れない。寧ろ肉の方が千切れる気さえしていた。
やがて、エリノアを持ち上げている手を離せばいいと気付いたのか、ポイッと投げ捨てるようにエリノアを離した。
「いてえ……。血が出てるじゃねえか! どんだけ本気で噛み付いてんだよ!」
「うるさあああああああああああああああああああああい」
怒鳴る空助だったが、エリノアは更に表情を険しくした。口元には空助のものと思われる血が滴っている。
「……誰がチビだって!? 餓鬼だって!?」
「ちきしょう。昨日の肉の替わりのつもりか! コラァ!」
昨日の夕食会のメインは、肉料理だった。
咬まれた場所にふぅぅと、息をかけながら怒る空助だったが、エリノアの怒りはそれを遥かに凌駕していた。
「それで、誰の…………ねが」
「あ? 何言ってるか分かんねえぞ! はっきり言え!!」
よせばいいのに空助は更に油を注ぐ。エリノアの怒りの炎はそれで一気に燃え上がった。
「誰の! 胸がっ! ひ、貧相ですってえええええええええ!?」
見目愛らしい少女だったが、小柄な身体同様。その胸元もささやかなものだった。
そして、そこはエリノアが自分の身体の中で、最もデリケートな部位でもあった。
「へっ? いやちがっ……」
「死んじゃえっ!!」
勘違いを諭そうと棒立ちになった空助の下腹部に、エリノアの地面すら砕くような破壊力をもった蹴りが放たれる。直撃。
効果音を付けるとすれば、『チンッ!』なんて優しい音色ではなく、『ぼぐぅ』が相応しいだろう。
「…………おふぅ」
幾ら筋肉に身体を覆われた空助と言えど、鍛えられない部位は存在する。
切なげなか細い声を漏らした後、ぐるりと白目を剥いてその場にドサリと倒れこんだ。
「ああ!? アキ君!!」
イヴァンが慌てて駆け寄って、助け起こす。が、目覚めそうにはない。
「はぁ、はぁ、ついた……」
空助の姿を見るなり走り出したエリノアの後を必死に追いかけていたミアが、ようやく追いつきこの場に現れた。膝に手をついた体勢で荒い息をした後、目の前にいる空助に縋りつこうとする。
しかし、その前にエリノアにガッチリと腕を組まれた。その腕の力は強く、非力なミアでは外せそうにない。
「ミア! 行くわよ!」
「あう……」
「空助のばかああああああああああああああああ」
エリノアはそう捨て台詞を残すと、悲しげな視線を倒れた空助に送るミアを掴んだまま、再び土煙を上げながら猛烈な勢いで走り去っていった。
「アキ君! 早く立ってトントンしないと!!」
イヴァンは何とか起こそうと、空助を必死に揺さぶる。
「ご……が……」
が、空助は口から泡を吹き始めていた。末期症状である。目覚める様子もない。
「アキくううううううううううううううううううううん」
イヴァンは涙を流しながら、躯になった空助を抱きかかえ、空に向かって叫ぶのだった。