婚約者の『ただの友人』が毎晩屋敷に来るので、私は席を外すことにしました
「それでね、アーヴィン。その時のお父様ったら本当に可笑しくて」
豪奢なシャンデリアに照らされたダイニングテーブル。
そこでは見目麗しい男女が向かい合って座り、親しげに会話に花を咲かせている。
「ははっ、目に浮かぶよ。昔から叔父上はそういうところがあったからな。そういえば、あの庭の木はまだそのままなのかい?」
そう答えるのは、アーヴィン・ランチェスター。
ランチェスター伯爵家の子息で、私の婚約者だ。
世の女性を虜にする、優しげな微笑み。
だけど、今その微笑みは私ではなく、彼いわく『ただの友人』であるマリエルに向けられていた。
「ええ、もちろん! 私たちが子供の頃によく登って遊んだあの木でしょう?」
マリエルは手を叩き、心底楽しそうに笑う。
二人が親しげに話している光景は、まるで一枚の美しい絵画のようだ。
一方、私はその絵画の枠外──彼らから少し離れた席で、すっかり冷めてしまったスープを無言で掬っている。
──この茶番、いつまで見せられるのかしら。
アーヴィンとマリエルは幼馴染同志。
家も近所で、昔からよく遊んでいたという。
出会ってまだ一年に満たない私が、どれだけ言葉を尽くしたところで埋められない月日。
それを見せつけられているようで、喉の奥に苦いものがこみ上げてきた。
彼らがわざと私を仲間外れにしているのなら、まだ怒ることもできただろう。
しかし、彼らには悪意がないのだ。
二人はただ純粋に、幼い頃からずっと一緒に育んできた楽しい時間を過ごしているだけのつもりなだけで。
そもそも私が頻繁にこの屋敷を訪れているのは、数ヶ月後に迫った結婚の準備を進めるため。
ドレスの型録を見たり、招待客の選定をしたり、新居となるこの屋敷の改装。やることは多かった。
当初、アーヴィンからは「彼女が実家のことで悩んでいるから、少し相談に乗っているんだ」と説明された。
それならば仕方がないと、私も口を挟まず、マリエルの同席を許した。
しかし、その『相談』とやらはいつまで経っても終わらなかった。
初めは一週間のうち、二、三回だったマリエルの訪問。
だけどそれはいつしか毎晩となり、今となっては彼女はこの屋敷のダイニングにすっかりに溶け込んでいる。
私が屋敷に到着した時には、すでに二人でワインを開けて食事を始めていたこともあった。
屋敷のカーテンの色を決めようとサンプルをお持ちした夜、彼らは食後のティータイムを楽しんでおり、私が声をかけると「ああ、それは君に任せるよ。センスで」と適当に返事をされた。
私よりも、『ただの友人』ある彼女が優先される日々。
それでも私は、彼がいつか心をあらためてくれるはずと信じていた。
結婚という明白な区切りを迎えれば、この歪な関係も終わるはずだと。
食事が終わってからも、二人の思い出話は尽きなかった。
その間、私はじっと黙って耐えているだけだ。
そして時計の針が夜の十時を回った頃、ようやくマリエル様が「あら、もうこんな時間」と立ち上がる。
「ごめんなさい、ヴィオラ様。私ばかりアーヴィンとお話ししてしまって」
「いえ、お気になさらず」
悪びれる様子のない彼女に、私は引きつりそうになる頬を必死に保って精一杯に微笑んだ。
マリエルは馬車に乗る直前までアーヴィンと親しげに言葉を交わし、ようやく屋敷を後にしてくれた。
玄関ホールで見送りを終え、二人きりになった静かな廊下で、私は彼に話しかける。
「アーヴィン様。少し、よろしいでしょうか」
「ん? どうした、ヴィオラ。ずいぶんと真剣な顔をして」
アーヴィンは、穏やかな表情でそう問いかけた。
今までの状況になんら問題も感じていないのだろうか。
彼の無自覚さに、苛立ちを感じた。
「マリエル様のことです」
「マリエル?」
首をひねるアーヴィン。
どうしてそんなことを聞かれるか分からない──彼の表情はまるで、そう語っているかのようだった。
私は溜め息を堪えつつ、こう口を動かす。
「結婚後のことなのですが、彼女の訪問頻度や時間について、少しあらためていただきたいです」
私が言葉を紡ぐと、アーヴィンの顔からすっと笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、心底不可解なものを見るような、呆れを含んだ表情だ。
「なんだ……またその話か。前にも言っただろう、マリエルとはただの友人だ。やましいことなど何一つない」
「そういう問題ではありません」
きっぱりと断言する。
「ただ、私たちはこれから夫婦になるのです。毎晩のように他の女性が屋敷を訪れ、夜遅くまで二人きりで過ごすというのは、外聞も悪いでしょう」
実際、アーヴィンとマリエルの関係を怪しむ声は、日に日に大きくなっていた。
そのことに気づいていないのはアーヴィン、そしておそらくマリエルだけ。
だが、アーヴィンの表情は変わらない。まるで駄々をこねる子供を宥めるかのように、大袈裟に溜め息を吐いた。
「ヴィオラ、君は少し嫉妬深すぎるんじゃないか?」
「はい?」
予想だにしないことを言われ、つい聞き返してしまう。
「マリエルは僕にとって『ただの友人』だ。彼女も僕を頼ってくれている。それを君の嫉妬で遠ざけろと言うのか」
「嫉妬、ではありません。私はただ婚約者として、当然のことを言ったまでです」
「僕は今でも十分に、君を尊重しているつもりだ。だから結婚の準備だって君の好きなようにさせているじゃないか」
私の好きなよう……なるほど。物は言いようである。
一見、この言葉には婚約者の意思を尊重していると受け取ることもできる。
だけどアーヴィンは私のことなど、どうでもいいだけなのだ。
結婚式の準備について話し合うより、彼にとってはマリエルと楽しい時間を過ごす方が優先される。
彼にとっての『正常』な世界には、マリエル様が当たり前のように存在して。
それを否定する私が『異常』なのだと、本気で思い込んでいる。
「いいか、ヴィオラ」
アーヴィンは私の両肩に手を置き、真っ直ぐと私を見つめる。
「僕は結婚したからといって、マリエルとの関係を変えるつもりはない。彼女にはこれまで通り、自由にこの屋敷へ来てもらうつもりだ。君もこの家の女主人になるのなら、もっと広い心で彼女を受け入れてやってほしい」
アーヴィンにそう告げられた時、私の心を支配していたのは怒りでも絶望でもなく、冬の氷水のような冷たさだった。
今までそれなりに愛していたつもりだった彼の顔が、驚くほど醜悪なものに見えてくる。
「あっ、そうだ。明日、マリエルと二人きりで話したいことがあるんだ。だから君は席を外してくれるかな?」
畳みかけるように、アーヴィンはとんでもないことを宣う。
──全て無駄だったのだ。
私が今まで我慢していたことも、アーヴィンがいつか心を入れ替えてくれると信じてたことも。
私が彼の妻になっても、この家で最優先されるのはいつも『ただの友人』であるマリエル。
彼にとって私は屋敷を管理し、跡継ぎを産み、彼の都合のいい時にだけ微笑みかける置き物にしか過ぎないのだろう。
手は尽くした。いくら訴えても、彼は私の気持ちを理解しようとすらしない。
彼にとって、私の言葉は全て『醜い嫉妬』として処理されてしまった。
そして、それは結婚してからも、おそらくずっと。
「……分かりました」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低いものであった。
「では明日の晩餐、私は席を外させてもらいます」
「助かるよ」
アーヴィンがほっと息を吐き、表情を緩ませる。
「明日は僕がマリエルと話してる間、君は結婚式の準備を進めてくれ。当日の衣装も料理も、全部君の希望通りでいいから」
「ありがとうございます」
私はそう言って頭を下げ、「夜分遅くに申し訳ありませんでした」とだけ告げて踵を返した。
背後から私を引き留める声は、最後までなかった。
結婚式まで、あと一ヶ月。
『ただの友人』だと言い張るアーヴィンのために、私は席を外すことにした。
ただし──彼が想像しているより、ずっとずっと遠い場所へ。
◆ ◆
翌朝。
私はいつもより早く目覚めると、身支度を整えてお父様がいる執務室へと向かう。
「ヴィオラか。こんな朝早くに、どうしたんだ?」
分厚い扉をノックして中に入ると、書類に目を通していたお父様が顔を上げた。
「お父様。突然で申し訳ありません。実は……申し上げたいことがありまして」
私が真剣な顔で言ったからだろう。
ただならぬ雰囲気を感じ取ったお父様が、顔の前で両手を組む。
「話しなさい」
「はい。アーヴィン様との婚約を、解消していただきたいのです」
単刀直入にそう告げると、お父様は険しい表情で私を見据えた。
「……お前のことだからなにか、よほどの理由があるのだな」
「そうですね。実は……」
私は真剣な表情のお父様に、これまでの経緯を説明した。
アーヴィンには幼馴染のマリエルという女性がいるということ。
彼女は毎晩のように屋敷を訪れ、私を差し置いて二人きりで楽しそうな時間を過ごしているということ。
私がそれを不快だと伝えても、アーヴィンからは「嫉妬深い」と一蹴されてしまったことを一気に伝える。
「私は彼を責めたいわけではありません。ですが、彼との未来を……想像することが出来なくなりました」
「ヴィオラ……」
お父様が神妙そうに声を零す。
そう──。
ただ私は彼と、お互いを尊重し合うようなパートナーになりたかっただけ──。
このまま結婚しても、彼はマリエルを尊重するだろう。
私のことなんて置いてけぼり。彼らは無自覚かもしれないが、ここまでコケにされては、さすがに私も黙っていられない。
お父様は私の話を聞いてしばらく沈黙していたが、やがて深く溜め息を吐いた。
「……お前は昔から、我慢強い子だった。私が気づかないところで、今回もずっと一人で耐えていたのだな」
「申し訳ありません、お父様」
「お前が謝ることはない。お前の異変に気づけなかった私の落ち度だ」
お父様は「分かった」と頷き。
「ランチェスター伯爵家には、私から正式に婚約破棄の手続きを進めよう。お前に不遇な結婚を強いるつもりなど、一切ない」
よかった……。
お父様も私の味方だ。
力強く頷いてくれたお父様に、私は張り詰めていた糸が少しだけ緩むのを感じた。
「だが、手続きが終わるまで、少し家の中が騒がしくなるだろう。お前はどうする?」
「はい。それについては……」
お父様のその問いかけに、私は先月届いた一通の手紙を取り出した。
「隣国アルディナに嫁がれた叔母様から、しばらく向こうの屋敷に遊びに来ないかと誘われていたのを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。確か、結婚前の気晴らしにでも、と言ってくれていたんだったな」
「はい。なので少しの間、叔母のところに行って、心と体を休めようと思うんです」
このまま王都にいれば、どこかでアーヴィンやマリエル様と顔を合わせるかもしれない。
噂好きの貴族たちの好奇の視線に晒されるのも、面倒だった。
「それはいい」
お父様が若干頬を緩ませて、頷く。
「アルディナならば、彼らの耳目も届かない。分かった。準備はすぐに手配させる」
「ありがとうございます、お父様」
私は深く頭を下げる。
不思議なほど、心は穏やかだ。
昨夜、あそこまで冷え切っていた感情が嘘のよう。これからの新しい生活に胸が弾んでいく。
◆ ◆
それからすぐに、隣国アルディナへの出立の準備は進められた。
アーヴィンは私が来ないことを、不思議に思っているだろうか?
……いや、彼には「席を外す」と伝えている。普通の婚約者なら私の身になにがあったのかと心配するところだが、彼にいたってはそうはならないだろう。
私がいなくて、せいせいしているはず。
今頃、マリエルと楽しいひと時を過ごせて、私のことなんてすっかり頭から抜け落ちているのかもしれないわね。
トランクに最低限の荷物を詰め込み、私は見慣れた自室を静かに見渡す。
しばらくここには戻ってこない……。
そう考えると、少し寂しい気がした。
「これで……準備はお終い」
鏡台の上には、一つだけ白い封筒を残していた。
宛名はアーヴィン・ランチェスター。
中に入っているのは、彼に向けてたった一言だけ記した手紙であった。
『これからは、どうぞお二人でお幸せに』
──と。
あの夜、彼が望んだ通り、私は席を外す。
夕食のダイニングテーブルからではなく、彼の人生そのものから私は退場する。
「お嬢様、馬車の用意が整いました」
控えめなメイドの声に、私は「ええ、今行くわ」と短く答える。
振り返ることなく部屋を出て、玄関に待たせていた馬車に乗り込む。
窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。
「出してちょうだい」
私の合図と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
車輪の回る音が、私の新しい人生の始まりを告げているようだった。
彼は今頃、空っぽになった私の席を見てなにを思っているのだろうか。
しかし、今の私にとっては関係のない話であった。
◆ ◆
私が隣国にいる叔母様の屋敷に滞在するようになってから、早くも数ヶ月が経とうとしていた。
ここは、王都の騒がしさが嘘のように穏やかだった。
叔母様は私を本当の娘のように温かく迎え入れてくれ、私は日々の大半を読書や庭の散策、そして叔母様とのお茶の時間に費やした。
最初は、ふとした瞬間にアーヴィンのことや、彼と過ごした息苦しい夕食の席を思い出しては胸がざわつくこともあった。
だが、ここの穏やかな空気は確実に私の心を癒してくれる。
最近では、彼らのことを思い出さない日の方がずっと多くなっていた。
このまま少しずつ過去のことを忘れ、新しい人生を歩んでいける。
そう信じて疑わなかった、ある晴れた日の午後──その事件は起こった。
「ヴィオラ様。お客様がいらしております」
刺繍の手を動かしていた私に、メイドがそう声をかけてきた。
「お客様? 叔母様ではなく、私に?」
首を傾げる。
ここでは、祖国にいた頃の友達もいないし、私を訪ねてくる人などほとんどいない。
それなのに、メイドが私を呼びにくるなんて……嫌な予感がする。
疑問に感じている私に、メイドは続けてこう言った。
「はい──遠方よりはるばるお越しになられたとのことで……アーヴィン・ランチェスター様と名乗っておられます」
その名を聞いた瞬間、心臓がトクンと嫌な音を立てた。
──何故、彼がここに?
お父様には、私の居場所を向こうには教えないようお願いしていたはずだ。
おそらく、なんらかのの伝手を使って無理やり聞き出したのか、あるいは私の交友関係から強引に推測して押しかけてきたといったところか。
「お引き取り願ってちょうだい」
私はすぐにそう告げた。
しかし、メイドは困惑した表情のまま口を動かす。
「それが……ご面会いただけるまで、何日でも門前で待ち続けると仰っておりまして。ひどくお疲れのご様子でしたので、ひとまず応接室にお通しいたしました」
「……分かりました。会うだけ会ってみます」
ここで追い返して、メイドに迷惑をかけるのも本意ではない。
きっちりと引導を渡してやるのが、一番の手っ取り早い解決策だろう。
「はあ……。なんで今さら……」
小さく溜め息を吐き、席から立った。
応接室の扉を開けた瞬間、私は思わず目を疑った。
「ヴィオラ……!」
ソファから勢いよく立ち上がった人物。
間違いない。私の元婚約者、アーヴィン・ランチェスターである。
だが今のアーヴィンは目の下には濃い隈は出来ており、頬は痩せこけ、身なりこそ整えられているものの、全体的に酷くやつれていた。
まるで何日もまともに眠っていないかのような風貌ね。
「どうして、あなたがここにいるのですか?」
自分でも驚くほど、冷ややかな声が出た。
かつて愛した人が目の前でこんなにも憔悴しているというのに、同情の欠片すら湧いてこない。
「会いたかった……。ずっと、君を探していたんだ!」
アーヴィンはすがるような目で私を見つめ、一歩踏み出してくる。
私は無言のまま、それ以上近づかないようにと鋭い視線で彼を制した。
「……あの手紙を読んで、なにも理解できなかったのですか? 私たちはすでに婚約を解消した、赤の他人のはずですが」
「そんなふうに言わないでくれ! 僕が間違っていたんだ!」
大きな声を発するアーヴィン。
「君がいなくなって……あんなにも空っぽになったダイニングを見て、初めて君の存在の大きさに気づいたんだ」
彼の口から語られるのは、絵に描いたような懺悔の言葉だ。
「どうか許してほしい。僕が愚かだった。もう一度、僕と婚約を結び直してくれないか?」
「……一体なにがあったんですか?」
こんなにアーヴィンが焦燥しきって訳の分からないことを言ってくるのだから、只事ではない。
疑問に思いそう問いかけると、アーヴィンは苦しげな表情でこう答えた。
「僕は……自らの過ちに気付いたんだ。自らの無神経さに……」
それに──とアーヴィンは言葉を区切り。
「マリエルが、他の男と結婚することになったんだ」
「……え?」
唐突に告げられた名前に、私は思わず眉をひそめてしまった。
「詳しく聞かせてください」
「ああ。実家の領地問題で支援してくれた、年上の子爵と婚約を結んだそうだ。来月には結婚式を挙げると……僕に、報告に来たんだ!」
アーヴィンは必死に取り繕うように、早口で言葉を重ねる。
「彼女にとって……僕は本当に『ただの友人』で、都合の良い相談役に過ぎなかった。結婚の報告をして僕に『あなたもお幸せに』と微笑んだよ」
あらあら、そんなことがあったのね。
差し詰めアーヴィンは私が去った後、マリエルに依存しようとしたのだろう。
だが、マリエルにとって彼は文字通り『ただの友人』。
女自身の人生を切り開くための踏み台か、暇つぶしの話し相手でしかなかったのだ。
そう思ってなかったのは、アーヴィンだけで。
私のいないうちは『ただの友人』と本当に思っていたかもしれないが、自分の周りに誰もいなくなってから、ようやく自分の本当の気持ちに気づいたんだろう。
「僕たちは何もやましいことなんてなかった。浮気なんかしていなかったんだ。だから、君とならやり直せると思って……」
「事情は掴めました。ですが──それが私となんの関係があると?」
「えっ……?」
私の冷たい声に、アーヴィンは言葉を失う。
「あなたは、本当になにも分かっていませんね」
呆れながら、私はこう口を動かす。
「浮気をしていなかったから、問題ない? マリエル様が結婚してあなたの前からいなくなったから、また私とやり直せる? ふざけないでください」
結局、男女の友情は成立しなかったのだ。
そもそも婚約者がいながら、他の女性を優先していた彼に誰も味方しない。
「問題なのは、あなたが浮気をしていたかどうかではありません。あなたが私を、婚約者として全く尊重してくれなかったことです」
「ヴィオラ……!」
「私が苦しいと訴えても、あなたはそれを『醜い嫉妬』だと切り捨てました。私との結婚の準備よりも、彼女とのティータイムを優先しました。私がどれだけ言葉を尽くしても、あなたは聞く耳を持たなかったではありませんか」
アーヴィンは顔色を蒼白にして、口をパクパクとさせている。
「それで……マリエル様がいなくなったから、次は私ですか?」
「ち、違う。マリエルがいたとしても、僕にとって大切なのは君だけで……」
「あなたはただ、自分の傍で都合良く微笑んでくれる置き物が欲しかっただけでしょう?」
冷たく言い放つ。
「愛しているなら、あの夜、私の訴えを鼻で笑って切り捨てたりしません」
「む、昔のことじゃないか」
「なるほど、昔のこと。一理あります。ですから私、今まで忘れようとしました。思い出してしまったのは、あなたが未練がましくここにやってきたから」
そう言って、私は鋭く言い放つ。
「あなたとの復縁──お断りします。不誠実な男とは、もう一緒になる気はいたしません」
アーヴィンの顔が絶望で染まる。
私が応接間から出て行こうとすると、彼はまだ諦めきれないのか、手を伸ばしてきた。
「ま、待ってくれ、ヴィオラ。どうか、どうかもう一度だけ僕にチャンスを……!」
「……もう、二度と私の前に姿を見せないでください。これ以上私に付きまとうようであれば、お父様を通じてランチェスター伯爵家に正式に抗議いたします」
これでお終いだ。
背後から悲痛な叫びと涙声が聞こえてきたが、立ち止まる気はない。
一度も振り返ることなく応接間を後にして、扉をピシャリと閉めるのであった。
◆ ◆
アーヴィンが泣く泣く祖国へと帰っていった数日後。
叔母様の屋敷では、近隣の貴族たちを招いたささやかな晩餐会が開かれていた。
身支度を終えて食堂へと向かうと、温かな灯りに照らされた大きなダイニングテーブルが目に入る。
すでに何人かの客人たちが集まっており、楽しげな笑い声が響いていた。
「ヴィオラ、いらっしゃい。あなたの席はここよ」
私に気づいた叔母様が、にこやかに微笑んで手招きをする。
彼女が示してくれたのは、女主人のすぐ隣──私のためだけに用意された椅子だ。
「こんばんは、ヴィオラ様。今日も素敵なドレスですね」
「この前の本、とても面白かったわ。食後にでも感想を聞かせてください」
私が席に近づくと、令嬢たちが次々と私に温かな声をかけてくれる。
──この国にやってきてから、ずいぶんと日にちも経った。
最初は屋敷に引きこもっていた私も、最近では積極的に社交の場に顔を出し、その中で友人と呼べるべき人物が出来た。
元婚約者の隣で感じていた疎外感など欠片もない。
ここにいる誰もが、私のことを歓迎してくれた。
「ありがとうございます。今日もみなさまに会えて、とても嬉しいです」
挨拶を交わしながら、ふと、かつてアーヴィンの屋敷で過ごした夕食の風景が脳裏をよぎる。
すっかり冷めきったスープ。
私を枠外に置いて、二人の世界に浸っていたアーヴィンとマリエル。
彼らの楽しそうに話している光景を目にする度、自分の方が邪魔なのだと思い、席を譲ってきた。
あの頃の私は、狭い世界でで縮こまり、婚約者の顔色を窺ってばかりだった。
けれど、今は違う。
目の前には温かい料理と、私に真っ直ぐ向けられる親しみの笑顔。
もう私は、誰かのために自分の居場所を明け渡すような真似はしない。
これからは自分がいたいと思える場所を、自らの手で選び取っていく。
「さあ、冷めないうちにいただきましょうか。晩餐会はまだまだこれからです」
そう言って、自分のために用意された席に腰を下ろすのであった。
──かつて、私は婚約者とその『ただの友人』のために席を外した。
だけど私は今、新しい人生という名の席についたのであった。
お読みいただき、ありがとうございました。
気に入っていただけましたら、【ブックマーク】や下記の【☆☆☆☆☆】で評価していただけますと、執筆の励みになります。




