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インドカレー屋の店主と老婆

私の名前はアルヴィン・ナヤンという。

アルヴィンが親から付けられた名前で、ナヤンが日本でいう苗字にあたる。

生まれは北インドの観光都市。

様々な人が訪れ、様々な価値観が混ざり合う街だった。

そんな故郷を旅立った理由は、簡単な初心から。

『もっと沢山のカレーを知りたい』。

母のカレーも、近所の友達のカレーも、観光客向けのカレーも、全部味が違った。

同じカレーという料理なのに、こんなにも味が違う。

それって、とっても面白い。

この街を出たとき、そこではどんな味のカレーが食べられているのだろう。

そう考えた私はある程度の技量を地元で身につけたのち、さすらいの料理人になった。

そして今は、日本の桜野台というところでカレー屋『ジャナンダ』を営んでいる。

私のカレーは少しづつこの街の人々に受け入れられ、客足も伸びつつある。

生活の根をこの地に下ろそうかという大事な時期だ。


―――――――――――――――――――――――――――


そんなある日。

今日は店の定休日だ。

私は近所の千味スーパーで買い出しを済ませ、ジャナンダへの帰路についていた。

お昼には何を食べようか、いろいろと考えを巡らせながら歩く。

地元の味も良いが、せっかく日本に来たからには日本ならではの食事もしてみたい。

もしくは、過去の修行先で学んだ料理をするのも悪くない。

考えているだけでも厨房の匂いがしてくる気がする。


ふと顔を上げて、目の前の景色を眺めてみる。

日本の街の風景は地元インドとは大きく違う。

たった今私が信号待ちをしている十字路の交差点もそうだ。

インドであれば、車やバイクの多い通りでは警察官が手信号で交通整理をしているのをよく見かけるが、日本ではまだ見たことがない。

歩行者も車も、三色の信号に従って規則正しく交差点を渡っていく。

その様は自分には物珍しく、少し興味深い。

私の前のほう、車道の脇で信号を待つ人々をなんとなく眺めていると……。

一人の老婆が、おもむろに前方に歩き始める。

歩行者用の信号はまだ赤色。

もしや、信号が変わってないことに気づいてない……?

気付けば、体が動いていた。


「危ないデス!」


老婆の肩に手を掛け、とっさに呼び止める。

すると老婆は、驚いたようにこちらを振り返る。


「どうされました……?」


きょとんとした様子の老婆。

なぜ自分が呼び止められたのか分かっていない様子だった。


「信号。赤。アブナイ」


私は勉強を始めたばかりの日本語で理由を伝える。

心拍数の上がった心臓を落ち着かせながら、赤信号を指さすべく信号のほうを見ると……その信号は、既に青色に変わっていた。

アレ、ついさっきまで赤だったのに……?


「あぁ、わたくしを心配してくれたのね。ありがとう、親切な方」


老婆は肩にかけられた私の手に自分の手を添えながら話す。

どうやら、私の早とちりだったらしいことはわかった。

しかし、明らかに信号が赤色のときにこの老婆は歩き出していたし……。


「なんとなく、信号が変わる前に歩き出しちゃうのよね……。平和に慣れすぎちゃったのかしらね」


信号が青に変わるのを予見してあらかじめ歩き出していた、と。

我々が居る側とは交差する側の信号が切り替わろうとするとき、待っていた人たちが一斉に歩き始める。

厳密には信号は青になっていないのにも関わらず、だ。

なんてことだ。

どうやって信号が切り替わるタイミングを察知しているんだ……?

もしや、日本人は全員が予知能力を持っているのか。


「ゴメンナサイ。びっくりさせてしまいましタ」

「いいのよ。それでは、失礼するわ」


老婆はそう言って歩き出そうとする。

去り際に、老婆が転がして持ち歩くキャリーケースから、カレールーの箱がちらりと見えた。


「あ、カレー……」


はっとして口をつぐむ。

日本では、固形のルゥとしてカレーが販売されていることは知っているし、試しに作ってもみた。

非常に美味しかったのだが、それをそのまま店に出すわけにもいかないので研究を中断していたものだ。


「あなた、カレーが好きなの?」


老婆が聞く。


「ワタシ、カレー屋をやってマス。カレー、好きデス」

「あら、そうなの! 良ければうちで食べていくかしら?」


なんと。とても嬉しいお誘いだ。

日本の家庭で食べられるカレーには、とても興味がある。

専門店のカレーを学んだだけでは、その国のカレーを理解したことにはならない。

実際に一般家庭で食べられているカレーを学ぶことこそ、その国のカレーを学ぶということなのだ。


「是非、よろしくお願いシマス!」


私は、老婆のお誘いを受けることにした。


「わたくしの名前は常盤と言います。あなたのお名前は?」

「ワタシはアルヴィン。アルヴィン・ナヤン、といいます。よろしくお願いシマス、常盤サン」

「こちらこそ宜しくね、アルヴィンさん」


―――――――――――――――――――――――――――


急いで荷物をジャナンダに置き、店の外で待っている老婆のもとに合流する。

常盤サンの家はジャナンダのある通りをさらに歩いたところにあるらしい。

彼女曰く「ここのカレー屋さんの人だったのね、今度習い事のお友達と一緒にお邪魔しようかしら」と仰っていた。

歓迎することを伝えつつ、常盤さんのお家へ歩く。

少し歩いたところに、二階建ての一軒家が現れる。


「狭いトコですけどね、上がって上がって」


常盤サンが手招きする。

日本の民家にお邪魔するのは初めてなので、いささか緊張する。

通された部屋のカタチとしては、これまで訪れた国でもよく見たリビング、ダイニング、キッチンが一部屋にまとまったタイプの部屋だ。


「よし、それじゃあ常盤家秘伝のカレーをお教えしましょうかね」


常盤サンはそう言って腕まくりをし、エプロン――割烹着というらしい――を身につける。

彼女が用意した材料を見て、驚いた。


材料のなかにシーフード(エビ、イカ、そしてなんと……タコ)が混ざっていたのだ。

インドでも魚をカレーに入れるのは珍しくない。

しかし、イカやタコとなると話は別だ。

特にタコとなると……さすがに驚きを隠せない。


「これは、どうしてシーフードを入れるんデス?」

「冷凍シーフードが便利だからよ〜。なんたって入れるだけですから」


日本では切り刻んだシーフードが冷凍され、それをカレーに用いるのか。


考えるに、インドと日本でカレーの作り方が大きく異なることに起因しているのだろう。

それは、スパイスから作るかルーから作るか、という違いだ。

インドでは具材によってスパイスを変えることは当たり前に行われる。

例えば鶏肉にはガラムマサラ、豆にはクミンとコリアンダーといったように。

しかし、日本ではそうではない。

スパイスで調整していたものを、ルーの種類で調整しているのだ。

ルーという発明は、日本の家庭においてカレー料理の自由度を格段に広げただろう。

このシーフードカレーもその一つだろう。

具材とスパイスの調和を考えるという工程を、ルーのチョイスが担っているのだ。


常盤サンは慣れた手つきで野菜などの材料を一口大に切り、鍋に入れていく。

手伝いを申し出たが、「せっかくだからゆっくり見ていて」とのことだった。

お言葉に甘えて、常盤サンの後ろでその包丁さばきを観察させてもらう。

どこの国でも、家庭の料理人は偉大だ。

それは日本でも同じようだ。

淀みなく進む調理は、きっと長年の積み重ねの結果。

彼女もまた、プロフェッショナルの一人なのだと思った。


そうこうしているうちに材料の準備が終わり、鍋に火がかけられる。

ぐつぐつと煮えたころ、常盤さんがカレールーを取り出す。


「ウチはね、二つのルーを混ぜて使うの」


なんと!

市販のルーをそのまま使うのではなく、掛け合わせて使うのか。

なるほど。それなら家庭ごとのアレンジが容易だし、具材に合わせた工夫もしやすい。

ここはスパイスの調合にも似ているかもしれない。 


「ここで、ウチだけの隠し味」


そう言って常盤サンが取り出したのは……一つの瓶詰め。

そこには……黒黒とした流体らしきものが入っている。


「これは……なんですカ? あまり食欲をそそられませんガ……」

「そう?とってもおいしそうなのに……。一口いかが?」

「い、いただきマス」


常盤さんはスプーンで一匙ぶんのソレを掬って渡してくれた。

意を決して口にいれると……これは……海藻?

まず潮の香りが口中に膨らみ、一面の海を想起させる。

それから、濃いめの味付けが舌の上に広がる。

塩味と甘味、それと少しの酸味。

これ単体で食べるには少々胸焼けがしそうだが、調味料や付け合わせとしては悪くないかもしれない。


「美味しい、デス。ありがとうございマス」

「これはね、海苔の佃煮よ。白飯と一緒に食べるともっとおいしいんだから」


ノリ! やはり、海の食べ物だったか。

シーフードとの相性が良いのだろうか?

出来上がりが楽しみだ。


隠し味が投入され、さらに火を加えたところで、常盤さんが味見をする。


「うん、いい感じね」


浅めの皿に、米飯とともに出来上がったカレーがよそわれる。

そのカレーは……海苔を入れたおかげか真っ黒だ。

さすがに、こんな色をしたカレーは初めてだ。


食卓に、常盤さんと向かい合うように座らせてもらう。


「「いただきます」」


ひとくち分のライスとカレーを掬い、口に入れる。

うん。うんうん……!


美味しい(スワディシュト)


海苔とシーフードによる磯の香りと、スパイスの香りがよく合っている。

お互いがお互いを引き立て、匂いの相乗効果を生み出しているのだ。

また、タコやイカの食感が楽しい。

歯応えのある食材は、食事にリズムと楽しみを与えてくれる。

これは……カレーの新たな地平だ。


「とても美味しいデス。ごちそうしてくださって、ありがとうございマス」

「いいのよ。私も、本場の料理人に食べてもらえて光栄だわ」


その後しばらく、食卓で常磐サンと歓談しながらカレーを堪能した。

ありがたいことにお代わりまでさせてもらい、満腹となって常盤さんのお家からお暇させてもらったのだった。


―――――――――――――――――――――――――――


あれから数週間ほど経った。

常盤サンのカレーから着想を得た『ブラックジャナンダカレー』は、なかなかの売れ行きだ。

中には何度も足を運んで食べに来る熱心なファンもいる。

具材はそのままに、味の軸になるカレールーにジャナンダ流のスパイスを加えてアレンジしたオリジナルカレーだ。

もちろん、隠し味には……海苔の佃煮を。



私が思うにカレーは国の料理ではない。

人の料理だ。


国によって交差点の様相がまるで異なるように。

ドイツの雑然とした交差点も、日本の整然とした交差点も、人が在ってこそ。


国が変われば、しきたりが変わる。

人が変われば、カレーが変わる。


その千変万化を味わうことこそ、ワタシ……アルヴィン・ナヤンの、人生のテーマなのだ。


リンリン、とドアベルが鳴り、ふっと思考から引き戻される。


「こんにちは、アルヴィンさん。今日は習い事のお友達と一緒なの」

「常盤サン! 歓迎しマス」


さあ、今日もランチタイムの始まりだ。

・常盤家邸宅

桜野台の住宅街に建つ戸建て住宅。

木造二階建て、築四十年。

つい最近、ローンを完済した。

週末にはしばしば息子一家が訪れ、家族団らんの賑やかな様子が見られる。

ときどき漏れ出る不揃いな音色は、退職を機にピアノを始めた主人のものらしい。

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