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【短編小説】黴

掲載日:2025/12/18

 会社の便所に入って用を足している時に、るとタイルの目地に視線が行った。

 カビかと思った。

 よく見ると、タイルの目地にある黒い汚れは文字だった。

 落書きにしては小さい。

 顔を近づけて読むと、なにやら漢字と平仮名に見えた。

 それが何なのか判断はつかないが、とにかく日本語だ。


 読めない。

 いまの自分にとっては意味を為さない文字の羅列だと思うと急に興味が失せた。

 昔の公衆便所みたいに誰かの電話番が書いてあったり、呪詛が刻まれているのを期待していたのかも知れない。

 ただそんな所に書き込むだけの理由を見つけたかっただけだ。そしてそれは見つけられなかった。


 俺がいま垂れ流しているビタミン臭いまっ黄っ黄の小便も、俺の体内に意味をなさなかった残りだ。

 そう言う意味では目地に書かれた文字と同等なのかも知らない。

 無意味と言う意味。

 そうやって無理矢理にでも意味を付与したがるのは人間の悪い癖だ。

 俺自身の悪癖とするべきかも知れない。



 だが所詮ここは便所だ。

 小学生の頃はスカートめくりをして逃げ込む避難所だったし、中学生の頃はカンニングペーパーを読む場所だったし、高校生の頃は喫煙所だった。

 ひとによってはラブホテルとか食堂だとか言うかも知れない。

 だが所詮は便所だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。



 その便所で巨大なコオロギが俺を見ている。

 便所だからコオロギがいるのは当然だし、別にそいつが俺より大きいとしてもそれは些細な問題だ。

 触角が空を切る音が少しだけ不愉快であることは否定しない。

 黒いレンズは教科書で見たアメリカ軍元帥閣下の様で、口元は何かモゾモゾと動いていた。


 用を足し終えて便器を離れると水が勢いよく噴き出た。

 かなりの水量で、辺りが水浸しになるかと思ったほどだ。

 俺はバランスを取りながら流されないようにどうにか立ち、頃合いを見てポケットの中を探った。

 しかしショートホープは見つからなかった。

 そう言えば禁煙したんだった。

 せめて缶コーヒーでも買っておくべきだった。



 ふと入口の方を見ると巨大な茸類が押し入ってくるのが見えた。

 冬虫夏草の様な見た目をしているが先端に細い袋の様なものが付いている。

 胞子でも射出するのだろうか。



 ここは本当に便所なのだろうか?

 暑くもなく寒くもなく、春か秋なのだろうが茸類が顔を出したと言う事は秋なのかも知れない。

 むかしそんな事を言っていた中国人がいた気がする。名前は覚えていない。

 俺もここを出る頃には老人になっているのだろう。

 名前を忘れてしまうかも知れない。



 ここは便所なのだろうか?

 そうなってくると目の前に在るのはコオロギでは無いのかも知れない。

 それがイナゴであったりカマドウマであったりと、まるでシンナーでも吸って見た悪夢の様な存在が果たして目の前に在るのか。

 そいつはミジンコやミトコンドリアかも知れないし、もしかしたら長嶋茂雄や王貞治なのかも知れない。

 ラモス塁と言う可能性や北沢豪と言う可能性も僅かにある。

 何だって構わない。

 ここが便所であるならば、それは意味をなくした何かの置き場所だ。





 それは俺が見た夢だろうか。

 つまり便所なのだろうか。

 いや、寝室なのかも知れない。

 または胎内だったり、精巣の中と言う事もあり得る。



 そう考えるとタイルの目地に書かれた文字が何なのかは大体の予想がつく。

 日記、小説、短歌、散文。

 のたうち回る呪詛、それは俺が良く知っている文章だ。

 俺が一番良く目にしていた文章だ。

 そして俺にとってこの世で一番価値のある文章だ。

 つまりここはどうにかして這入った愛する君のなかで、俺は俺自身を眺めていると言う訳だ。

 月の見える丘、茸類の生える洞窟、蛇腹、だんだら、模様、その目地を埋める文字と文字と文字と文字が黒い黴になって浸食していく。

 俺を縛り付けていた俺の呪詛。

 俺を治療し続けた俺の薬。

 俺の点滴、俺の、俺。


 きみの中に黴を置いて出る。

 また会う日まで。

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