五十年の時を超えて
娘の横たわる寝台の隣に席を設け、一同に茶が行き渡ると、和葉は重い口を開いた。
「わたくしの母、譲葉は、天女でございました。気まぐれだったのか、もともとそのつもりだったのか・・・。現世に降りたのです」
譲葉は現世――蛍が飛び交う泉へ降り立った。
羽衣を脱ぎ、近くの枝にかける。
天女にとって、羽衣は命と同等の価値がある。それなのに風にあそばせ、強風が吹いてもなおざりにしていた。
譲葉は草むらに座り込み、うなだれる。
銀の髪に隠れ、顔は見えなかったが、涙のしずくがぽたりぽたりとこぼれ落ちていた。
ただ事ではない。深い悲しみの渦にのまれているようだった。
――それを、一人の人間の男が覗き見ていた。
和葉の父だ。
「羽衣かっさらって、無理やり嫁にしたんじゃねぇだろうな?」
お子ちゃま仙人がぐさりと突っ込んだ。遠慮はないが、これでも友人の危惧を取り除いてやろうと思ってのことだ。
和葉は苦笑し、首を振った。
「父はそんな野蛮ではありませんよ。ただ、伝説にある天女とはずいぶん様子が違っていたものですから、そっと声をかけたそうです」
男は『なぜ泣いているのか』と問うた。
「母はそのまま父と会話するうち、次第に泣き止み、夜もふけたのでその夜は村に泊まったと」
「――」
獏はぎゅっと拳を握った。和葉には悪いが、正直、吐き気がする話だ。
友人はそれを悟ったらしい。「のろけは飛ばしてくれ」とうながす。
和葉はちょっと考え、「では」と先に続ける。
「やがて、二人は相思相愛になり、わたくしが生まれました。父も母も、とても可愛がってくれたことを覚えております。よく親子三人、湖のほとりを散歩したものです」
そうか、と獏は曖昧にうなずいた。
和葉は、急に声色を変えた。
「ところが、わたくしが四つのとき。〈白羽の矢〉が、我が家に立ったのです」
仙人と獏は顔を見合わせる。
「白羽の矢ってのは、生贄のことだよな? もしかしてその神さんは、清水村の、あのデカい蛇のことか?」
和葉は目を丸くした。
「大蛇様をご存知なのですか!?」
「あたぼうよ。俺は仙人だぜ、舐めてもらっちゃ困る」
仙人は小さい胸をそらし、蔦の巻き付いた杖でこつん、と床をつく。これでも知識はあるのだ。一応。
いっぽう、獏は裂けそうなほど痛む心をひた隠しにして、尋ねた。
「譲葉は、・・・生贄に選ばれたのか」
震える声。
死の足音がする。
五十年たった今になって、もうとっくに決まった結末を、想い人の最後を。
耳を塞ぎたい事実から、でも目をそらすことすらできなくて。
一日も彼女を忘れたことなどなかった。
誰よりもずっと、愛していたから。
「生贄に行くと、自分から言いました」
獏はとうとう、席を立った。窓辺へ向かい、星空を見上げるふりをして。こぼれ落ちる涙を、誰にもみせない。
和葉は続ける。彼女も、声が震えていた。
四歳だったとはいえ、記憶は残っているものだ。特に、悲しい記憶は。
「村を守りたい。わたくしと父を守りたいから、生贄なんて自分で最後にしたいと」
(馬鹿な女め!)
獏はギリッと血がにじむほど唇を噛んだ。
彼女の匂いが、鮮明によみがえる。
――ああ、そういう女だった、譲葉は。
自らを犠牲にしてまで、愛する人を護る。そういう女だ。
故人は今、ここにいるような気がした。
譲葉の魂は甘く切ない花のかおりを漂わせながら、獏の背に寄り添っている。
獏の肩に両手を添えて。
(君は、馬鹿だ・・・。死んでまでなお、私を気遣うことはないのに)
目に見えない、たおやかな手に、自分のそれを重ねる。
もう記憶の中でしか逢えないひと。
その手がどんな形をしていたか、記憶もおぼろげで。
でもその感触だけは、どれだけ時間が立っても忘れられないのだ。
獏は繰り返し、繰り返し自分に言い聞かせる。
譲葉は自分から向かった。それは彼女が自ら選択したこと。
人間と結ばれる道を選んだのも。築き上げた家庭を護りたいと大蛇に立ち向かったのも。
すべて、彼女の、選択。
(出会った頃からそうだった。君は、こうと決めたら頑固で譲らない)
獏はそっと、自らの肩に手を添えた。
ここに、譲葉の手がある。
――五十年の時を超えて、君は帰ってきた。
こんな形で、なんて。
生きて戻ってほしかった。
立ちすくみ、ずっと無言でいる獏。それを心配そうに寝台から見つめる娘がいた。
(獏さま・・・?)
彼は知らない。もう一人、自分を見つめる女がいるということを。
和葉は鼻をすすりながら続けた。
「大蛇さまは、母の読みより貪欲でした。天女を喰らってもなお、五年おきに生贄を求め続け、父は憔悴し、毎日のように私を抱いて泣きくずれ・・・。こんなことなら、行かせるのではなかった。こんな村、滅んでもかまわなかったのにと」
和葉は次第に、声が縮んでいった。
おそらくここからなのだろう。村長の娘だった彼女が、奴婢の身分まで落とされたのは。
「父の様子を、見かねた他の村長たちのすすめで、新しい妻を娶ることにしたのです。跡継ぎもいませんでしたし、どうしても、男児をつくる必要がありました」
やがて、新しい妻との間に、男児が生まれた。
それが咲紀の父親、現在の村長である。
「父は、新しい奥方を愛せませんでした。冷遇したわけではなかったけれど・・・やがて父が亡くなると、わたくしは疎んじられ、次第に使用人のように扱われるようになり、ついに・・・」
「奴婢の身分まで落とされた、か・・・」
仙人が口を挟んだ。和葉は思い出すのもこわいらしい。ぶるりと肩を抱いていた。
――・・・これ以上は、聞くまい。
虐待を受けて育った和葉。それを間近で見ていた咲紀の父親は、母親を習って暴力を振るったのだろう。
姪にも、同様に。
和葉はそのまま、椅子をおりた。
「あ、おいっ」
仙人の静止も聞かず、彼女は額を床に擦り付けた。
「またあの村に変えれば、わたくしども親子は、確実に殺されます。どうか、犬馬の労もいといません。ここにおいてください。・・・せめて、娘だけでも」
獏はしばし、沈黙した。
「ほら、立ちな?」と仙人が促し、獏はようやく重い口を開く。
「私と譲葉は友人だった。ならば手を差し伸べて当然」
少し嘘をついた。友人以上の関係だったのは間違いない。
だが、譲葉の娘にも孫にも恋慕を抱かない決意が固まった今、強いて教えるべき事実でもないだろう。
獏は歩み寄り、和葉へ手を差し伸べる。この手に、譲葉の血が流れていることに、いまだ信じられない気持ちだった。
和葉はおずおずと顔色をうかがう。こちらの言葉に嘘がないか、疑心暗鬼なのだろう。奴婢に身分を落とされるまで、数々の裏切りにあってきたであろうことは察せられた。
獏は静かに言う。
「案ずるな。私は人間とは違う。一度した約束は、違えはしない」
幻獣は、天帝につかえるもの。嘘をつけば、罰があたえられる。
それを伝えると、ようやく和葉はほっとした表情になった。ふらりと体がゆらぎ、崩れ落ちるように気を失う。
「おかあさんっ」
娘は寝台から起き上がった。まだ体中あちこち痛いが、それどころではない。
仙人は脈をとる。
「気を張っていたのが安心しただけだ。数日眠れば元気になるだろうよ」
そう言うと、仙人は子供の体とは思えぬ剛腕で、和葉を横抱きにした。そのまま、隣の部屋へ連れてゆく。
あっけにとられながら、それを見送った娘は、ふと、獏の表情が気になった。
(なんだか、いまにも、枯れてしまう花のようなお顔だわ)
彼はふらふらと、外へ出ていってしまう。
娘はまぶたを伏せ、静かにそれを見送った。




