忘れられない人
――わたしには、忘れられない一夜がある。
遠い意識のなかで、娘は思う。
共寝したわけでも、口づけをかわしたわけでもない。
そんなものなくとも、忘れられない男性はいるのだ。
『顔をどうした』
心配してくれる、ぬくもりに満ちた声は、あれからずっと耳に響いている。
こころが、とろりとろけて。
思い出すだけで、ほほがゆるんでしまう。
・・・ああ。
いま気がついた。
彼はわたしの希望なのだ。
逢えなくても、この世界のどこかで生きているだけで、わたしを幸福にしてくれる。
そっけなくて、冷酷な仮面を貼り付けていても。中身はとってもあたたかくて素敵。
一緒に過ごした時間は短い。だから、わたしが見たのはあなたのほんの一部なのだろう。
それでも、わたしはその一部に〈恋〉をした。
生まれてはじめて、〈幸せ〉という感覚を知った。
知ってしまったから。
もう、もとには戻れない。
あなたを、貪欲にもとめてしまう。
あなたはたった一言で、霧を払うように雨空を押しのけて。生きる喜びを、教えてくれた。
――もう一度、獏さまに逢いたい。
出会った瞬間から、気がついたら生きることばかり考えるようになっていた。
そばにいさせて。
あなたの一部を、もっとたくさん見ていたい。
その活力が、娘を死の淵からよみがえらせた。
寝台の上で、娘はぱちりと目を開けた。
ずっと息が止まっていたような感じがする。肺に酸素がたりず、大きく口を開けて息を吸い込んだ。それから、新鮮な空気で激しくむせる。
口を片手でおさえ、何度も咳き込む背中、そこにそっとあたたかな手が添えられた。
「っ!」
娘は弾かれたように顔を上げる。
「案ずるな。・・・落ち着いて、息を吸え」
獏が、寝台の前に膝をつき、背をさすっていた。
「あ・・・わた、わたし・・・っ!」
娘は、ぼろぼろと大粒の涙があふれて止まらなかった。
「――おいっ!?」
急に、娘は飛び起きると、青年の首に腕を絡ませ、抱きついた。その細身の胸に顔を擦り付けて。
「獏さまっ、獏さまぁ・・・っ!!」
思い切り、声の限り泣いた。
彼はしばし、呆然と立ちすくんでいたが、やがておずおずと震える小さな頭へ手を伸ばす。
そっと、やわい力で、とんとんとあやすように抱きしめ返した。
「大丈夫だ、ここには、奴らはいない」
おびえ、震えが止まらない。涙は獏の衣をぐっしょりと濡らし、肌にしみるほどだ。獏は耳元へ唇を寄せ、そっとささやく。
「私がお前と母親を連れてきた。もう、村に人質はいない。だから落ち着いて、呼吸を整えろ」
獏は辛抱強く言う。娘は息を吸いすぎて、呼吸すらままならない。
「死んだと、思った・・・っ! 眼の前が、墨で塗りつぶされていくようで真っ暗になったの」
死の瞬間とは、あっという間。
谷底へ落ちていくような、恐ろしい浮遊感さえあった。
(・・・私には死がどういうものかわからないが。恐れる気持ちは良くわかる)
人間とは体の作りが違う青年は、そう心のなかでつぶやく。
はねのけられた掛布を片手で引き寄せると、娘に抱きつかれた体制を保ちつつ、おくるみのように頭からすっぽりと包み込んだ。
「・・・・・・・う」
娘は、まるでミノムシのよう。顔だけ出して掛布にくるまれると、ようやくおとなしくなった。
ぐすぐすと鼻をすすり、潤んだ瞳でこちらを見上げてくるさまは、とてつもない庇護欲をそそらせる。
獏はついっと目をそらし、引き剥がしたことにわずかばかり寂しさを感じながら、すこし息を吐いた。
「いいか。もう一度言う。ここには、お前を傷つける者はいない」
布で鼻を取ってやりながら、獏は念押しした。
「ふぇぇ・・・」
娘はされるがまま、恥ずかしさも吹き飛んだ頭で、彼の言葉を聞く。
「安心しろ、ということだ」
さらに補足してもらい、ようやく娘は顔を上げた。
目が合う。
やっと。また逢えた。
その事実が、たまらなく嬉しい。全部夢の中の出来事のような、そんなふわふわと浮いた心地がする。
「これ、は」
「現実だ。・・・正しくはお前と私の存在が、だが」
なにをいっているのかわからない。しかしそれは娘を安心させるには充分だ。
娘が泣き止むまで、獏は朝日が登ってもつき添っていた。




