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獏の夢結び  作者: 夢咲 紅玲朱


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20/21

大切な孫


天帝の御所に到着した獏は、側仕えたちに怪訝な顔をされていた。

「本日は、どんなご要件でしょう・・・?」

「内密の話があると聞いて参内した」

獏の言葉に、側仕えは「確認してまいりますっ」と走っていった。

(妙だな)

獏は眉を寄せる。こちらを呼び出しておいて側近が知らされていないなど、ありえない。

すると確認に走った男が戻ってきた。なにやら顔色まで青い。

「ば、獏様っ!! 一大事にございます!」

「落ち着いて話せ。何があった?」

獏はつとめて冷静な声で問うた。

男は言う。

「主上の玉璽(ぎょくじ)が紛失したのです!」

獏は目を見開いた。

「なんだと。では誰かに盗まれたのか!?」

それしか考えられない。玉璽は天帝の権威ともよべる代物。なくすなどまずないだろう。

「それともう一つ。・・・お耳を拝借したいのですが」

男は獏に身をかがめるよううながす。しぶしぶ膝を折ると、とんでもない事実が耳をついた。

「ウサギが・・・失踪しただと?」

宴の席で絡んできた女だ。彼女は部屋の清掃をまかされていたらしい。なんらかの事情を知っているのは明らかだ。

獏はすぐさま、男に武官を呼んでくるよう命じた。

駆けつけた無精髭の男たちへ、獏は慣れた様子で指揮を取る。

「本日中に大事になる前に見つけ出せ。動機を知るまで殺すな」

部隊長はうなずく。

次いで側仕えに、

「混乱を避ける必要がある。事実を知っているものは捕らえて幽閉しておけ。箝口令(かんこうれい)を敷く」

素早く的確な指示だ。

命じられた者たちは「御意!」とうなずき、急ぎ足でそれぞれの持場へ向かう。

獏はその背を見送った。

――そのときだった。

(これは・・・、狐牡丹の糸か?)

ぷつん。

縁切りの音は、今は危険を知らせる信号のように感じた。

盗まれた玉璽。失踪したウサギ。狐牡丹からの合図。

(まさか、夢夜の身になにかあったのか!?)

獏はぎょっとし、狼狽した。

彼女のこととなると、こうも取り乱す。

獏は近場にいた武官に火喰仙人とともに狐牡丹を捜索するよう命じた。

老齢の侍女頭も心配だった。でも火喰ならきっと助けてくれる。

獏はそのままの勢いで、本来の幻獣へ姿を変えた。

――夢夜に着せた獏の袍で居場所は手にとるようにわかる。

夢夜は現世に連れて行かれたようだった。

(大蛇の巣穴か・・・っ!)

夢夜を失う、と恐ろしい考えが脳をよぎり、脂汗が噴き出す。

同時に、辛い記憶が鮮明に蘇る。

ゴオッと風を切り、幻獣は空をかけた。




五十年前。譲葉が危篤になったあの晩。

獏は鋏を持って〈夢糸の庭園〉へ向かった。

――君を護るために。生かすために。

そのとき、譲葉は這うようにして出てきたのだ。

「まって、獏! 待ちなさい!」

獏は驚きに息を呑む。

「譲葉、危篤状態だったのでは・・・っ」

彼女は身に迫る別れを悟ったようだった。死の淵から、気力だけで戻ってきた。

譲葉はうしろから飛び込むように抱きついてきた。

「わたしなら、大丈夫。天女だもの、回復する方法ならいくらでもあるはず」

獏はだらりと腕を下げた。脱力した顔は諦めの色が濃かった。

「ない。ほかに、方法なんて」

火喰の診察を受けた。他の神仙たちの力も借り、あらゆる方法を模索した。

しかし、結論は変わらなかった。

譲葉を蝕み、寿命を喰らっているのは、病ではなく、無理に結んだ夢の糸が原因だと。

獏の背中から譲葉は悟る。

獏を無理やりふりむかせると、涙声で叫ぶ。

「なんで諦めるの。わたしはあなたを、あきらめたくないのに!」

ぼろぼろと、涙がこぼれる。

「それとも、もう、わたしのこと・・・」

愛してない?

そう問う唇を、獏は体ごと抱きしめて黙らせた。

「好きじゃないわけないだろう。手放したいわけないだろう」

震える手で獏はやわらかい髪を掻き抱く。

「君がこの世で一番大切だから、君を救いたいから」

獏は言い聞かせる。譲葉の髪に顔をうずめる。髪を濡らすしずくを、みっともない顔を、彼女に見せたくなかった。

「こんな方法でしか、きみを救えない、無力なわたしを許してくれ・・・!」

譲葉は腕の中で激しくもがく。泣きながら首を振る。

「嫌っ。だめよ。そんなことしたら、わたし、絶対あなたをゆるさない」

譲葉はやがてもがくのをやめると、獏の胸に顔を擦り寄せた。

「いいえ。違うの。――本当は、こわい。胸が痛い。いたいの。痛くてたまらないの・・・!!」

わかっている。

獏は目をつぶる。

だって自分も同じだから。同じ気持ちだから。

ハサミを持つことしかできないこの右手を、切り落としたい。

情けなくて。惨めで。

胸が張り裂けそうなくらい、痛い。

でも。

獏はそのまま、抱きしめたまま片手を伸ばし、鋏を開く。

この決断は、間違っていないと信じている。

「譲葉。ひとつだけ、約束してくれ」

獏は小さな赤らんだ耳に唇を寄せた。

――必ず、私がいなくても。ひとりでも幸せになると。約束してくれ。

返事を待たずに、糸は、切られた。

ぷつん、と。

「あ・・・」

譲葉は崩れ落ちるように倒れた。その体を獏は支える。

彼女はことんと、眠りに落ちていた。土気色だった唇には色が戻り、落ち着いた呼吸をしている。

獏は彼女を地面におろし、膝に抱えると、その額に唇を寄せた。

これは最後の口づけ。

もう触れることも許されない、愛するひとへの、見送り。

「ずっと言いたかった。君のことが、好きだ」

しょっぱい口づけの味。さよならさえ言えず、最後に口にした言葉は、彼女に届くことはなかった。



あれから、いくつもの夜を見送った。

数年が立った頃。

彼女との思い出をたどって現世の蛍の泉へ獏は降りた。

ふと、村の様子が気になり、山を降りた。

――眼の前の光景に、息が止まった。

譲葉がいた。

見知らぬ男性と歩いていた。

彼女の腕には、幼い娘が抱かれている。

三人はとても幸せそうで。〈家族〉というぬくもりを得ていた。

獏は木陰に身を潜める。三人が通り過ぎるまで、浅い呼吸を繰り返した。

隠れる必要もないのに。なんて馬鹿なのだろう。

こうなることはわかっていたのに。じわり目頭が熱くなる。


――糸さえつながっていれば。隣を歩くのは私のはずだった。


(誰よりも君を愛していたのは私だ。そこにいるのは私のはずだったのだ)


――君は、ちゃんと約束を護った。幸せな道を、選んでくれたのに。


獏は我にかえった。

夢夜を助けるため、現世に向かう。

(あの日から、私は空っぽになった。満たせるものはなく、君ほど素晴らしい女人と出会えるはずもなく。私だけが、孤独で過ごしている気がしてならなかった)


――君を手放したことで、君は幸せになれた。

――君を手放したことで、私は孤独が増した。

獏は思う。


知らなかった。君が、羽衣を手放してまで、家族を守ろうと死を選んだなんて。

知らなかった。その娘や孫が、過酷な仕打ちを受けていたなんて。

なにも知らなかったのだ、私は・・・。


自責の念は留まるところを知らず、剣で刺すように心を貫く。


(すまなかった。譲葉・・・)

獏は繰り返す。

すまなかった。私は弱くて、憎まれ役にすら、なれなかった。

でも。

君は残してくれた。大切な宝物を。

わたしに、夢夜を残してくれた。

彼女は君とはぜんぜん似てなくて。生きることに貪欲な姿は、私を奮い立たせてくれた。暗い洞穴にこもりきりだった私を、追求せずに、優しく癒やして、連れ出してくれた。

もう私は孤独でも、夜に生きるわけでもない。

夢夜が見せてくれる数々の正夢(まさゆめ)を。現実(いま)を生きる。

隣に立つこともできる。涙を拭くことも許される。

夢夜は、ふがいない私を許してくれる。

草原にそよ風がふくように。

優しい風が、心に流れているのだ。

夢夜がくれたぬくもりの力は、計り知れない。

「私は夢夜を、護る」

譲葉。孫を案ずる君のために。

夢夜。君を愛してしまったから。

「夢夜。わたしは、おまえだけは死なせたくないのだ」

けっして諦めない。

獏は速度を早めた。





絡みつく大蛇の胴。

ぎりぎりと腕が締め上げられる。腕がへんな方向に曲がる。夢夜はうめき声を上げた。

肺は圧迫され、息もできない。酸素が足りず、顔は真っ赤に腫れ上がる。

がばり、と口を開け、大蛇は迫る。

そのときだった。

ふわりと。夢夜もろとも巻き込まれた衣が光った。

譲葉の羽衣だ。

「・・・っ?」

夢夜はかすむ視界でそれを見つめる。頭の中で、声がする。母に似ている声。でもちがう。

――これは・・・・・・。

『夢夜。もうすこし耐えて。わたしが時を稼ぐから』


生まれたときにはすでにいなかった人。

でも、本能で悟れる人。


「おばあ、さま・・・っ?」


かすれる声で、孫は祖母を呼んだ。

『夢夜。あなたは、わたしのたからもの。かけがえのない、わたしの大切な孫』

螢のような光は、洞窟中から集まった。

ふわりふわり。せつなく優しい光の帯を引きながら。

一か所に集まると、女の姿を形作る。

(わたしはこの人を・・・この声を知っている)

夢夜はぽろり、涙がこぼれた。

そしてそれは、蛇も同じだったようだ。

『ユズリハ?』

蛇は獲物を締め上げることすら忘れ、呆然と光る女人を見つめる。

何かを乞うているような顔をしていた。

寂しそうな、母親と再開を果たして喜んでいるような。

小さな子供のような、無邪気な顔。


蛇の注意が夢夜からそれた。


そのときだった。


光の背後からすさまじい突きが放たれた。

ぎらりと鈍く光る剣だ。


屈強な腕は、蛇の口の中へ手を突っ込むと、口内から頭を刺し貫いた。

ゴボッ!!

鮮血があふれる。血の雨は洞穴中にふりそそぐ。


光の女人の背後に立つ男――獏は、無言のまま剣を引き抜いた。



緩んだ拘束。夢夜は肺の圧迫から開放された。しかし身動きが取れない。

折れた腕にはうまく力が入らない。

そうしているうちに体を支えていた蛇の胴はうごめき、軽い体はふらりと地面へ落下する。

「夢夜っ!!」

獏は滑り込むように、すばやく彼女を受け止めた。

「ばく、さま? なぜここへ?」

傷つき、血の匂いすらただよわせる細い体を、獏は抱きしめた。

「言っただろう。どこへいても見つけると」

夢夜が笑う気配がする。その呼吸、弱々しいながらも頬へ伸ばされる手は愛おしく、彼女が生きている実感が湧いてくる。

獏はほぅ・・・っと息を長く吐いた。

ふと、夢夜が何かを握りしめているのを見つける。見覚えのあるものだった。

――これは。

「譲葉の、羽衣・・・・・・?」

瞬間、獏ははっと後ろを振り返った。

無我夢中で気づかなかった。譲葉の螢火は、いまだ洞穴をさまよっていた。

獏は息を呑む。

――目が合った気がした。

螢火になった譲葉は、ふわり、笑った。


満足したように、ホタルの光はふっと消えた。



「ばくさま、危ない!」

夢夜は獏を突き飛ばした。

大蛇の尾が鞭のようにしなって振り下ろされたのだ。獏と夢夜は、すんでのところでそれを避ける。

さすが、腐っても神だ。簡単には死なない。

(ヤマタノオロチは首を切り落として退治したという。やはり狙うべきは首か?)

獏は一旦下がると、離れた場所に夢夜を座らせた。

彼女の腕は完全に折れていた。だが今は、添え木する暇もない。

夢夜を苦しめた現況の咲紀は、騒ぎに乗じて密かに逃げ出したようだ。姿が見当たらない。

大蛇は、錯乱していた。

『ユズリハ、どこだ。戻ってこい、ユズリハ!』

轟音は洞穴中を駆け巡り、揺さぶる。鼓膜が破れそうだ。耳をふさぎたい夢夜だったが、あいにく片手である。

いっぽう、譲葉の幻を見ても、獏は取り乱さなかった。

獏は袖から自分の糸を取り出した。夢夜に着せた衣と同じ白い糸。

彼は宙へ飛ぶと、のたうつ蛇の尾をかいくぐり、大蛇の首へ器用に糸を巻きつける。手綱を締めるように、ぐっと引き寄せた。


「私と縁をつなぐとどうなるか、教えてやる!!」



糸はぼうっと淡い光を宿す。その光を見つめるうち、大蛇は意識が遠のいていく。


幻を見た。

隠れる草木もなにもない場所。そこに、ぽつんと小さな一匹の蛇がいた。

蛇は孤独だった。

どうしようもなく広い世界に、生まれてまもなく放り出されて。

周りは敵だらけ。

心休まる場所も、食べ物も眠場所もなくて。


いつもさみしくて。ひもじくて。


そんなある日。

カラスの群れに目をつけられた。

ちいさな蛇は最後を悟った。

誰にも愛されず、誰にも求められず、自分は死んでいくのだと。

そのとき、優しい声がした。

「あなた、どうしたの?」

カラスの群れは逃げていく。襲われるところを、手にすくって助けてくれた天女は、銀の髪をしていた。

彼女の手はとても暖かかい。

この世のどこよりも、安心できる気がした。

(あ、ありがとう)

彼女に、お礼を言いたかった。伝えたかったのに。まだ言葉を許されなかった蛇は、安全な場所にそっと置かれたあと、追いつくことが叶わなかった。

蛇は天女に恋をした。

君のそばにいさせて。またそのあたたかい手でワタシを撫でて。

蛇は寂しくても、生き延びた。

もっと、もっと大きくなって。

もっと力をつけて。

そうして、君をどうどうと迎えに行ける大きな蛇になる。


だが、現実は残酷だった。

時がたつに連れ、大きくなるに連れ、なぜだか感情はどんどん薄らいでいった。

残るのは空腹と、狩猟本能のみ。


――ああ、思い出した。

ワタシは。

譲葉を食べたかったわけじゃなかった。

あのあたたかい手に、もう一度抱いてほしくて。

だから、巣穴に彼女を呼んだのに。


老いた蛇は、遠い記憶を掘り起こす。

もう忘れたと思っていた。

ワタシはただの蛇だ。水神などとりっぱなものではない。大きかったばかりに神格化された。

また、ただの蛇に戻れるのなら。願わくは、もういちど彼女に抱かれたい。

でも。

『ワタシはキミを食べてしまった』



ほろり。蛇のつぶらな瞳から涙がこぼれた。

取り返しのつかない蛮行。彼女のぬくもりは二度と、戻らない。



気づけば、蛇は美しい草原で穏やかな大河を見ていた。

川の水は透明で、澄んでいて、とても綺麗な水だ。きらきらと太陽に反射し、空の青を映して、穏やかに流れている。

大蛇は、その川岸の草むらにぽつんと立っていた。いや、草むらと言うより、彼岸花の群生地のようだ。足元には、血のように赤々とした花びらが咲き乱れている。

花はそよとゆれ、美しい川へ(いざな)っているように見えた。

不釣り合いな巨体は花を踏みつけてしまう。蛇は身動ぎし、どうしたものかと迷っていると。

大河の向こう岸に、人影が見えた。

銀の髪の美しい女人だ。

譲葉だ。

彼女はこちらを見てほほえんでいる。


――ユズリハ?


蛇は許しを請うように言う。


『ワタシを、迎えに来てくれたのか』


譲葉はうなずいた。蛇は童のように歓喜した。


もう、迷うことはない。


蛇はざっと、大河に体を滑り込ませる。



迷うことなく、黄泉の川を渡っていった。






雨はやまない。大蛇を倒しても、天候は晴れず、山から見下ろす村は湖となった茶色い濁流の底に沈んでいた。壊滅的、いや、それ以上だろう。

かろうじて生き残った人間は、咲紀にそそのかされた蛇に無惨にも喰われた。もう誰も、清水村の生き残りはいなかった。


――ひとりの女を除いて。


咲紀は逃げた。

ほうほうの体で戦いのどさくさに紛れ、蛇の巣穴を抜け出す。


(自由だ。これでやっと、わたしは自由だ・・・っ!)


顔の醜い刻印は消えないにもかかわらず、咲紀は自由の喜びにひたる。思う存分笑い転げた。

両手を広げ、くるくると舞い踊る。


夢夜はあの様子では死んでいるだろう。あとは獏を誘惑し、彼に嫁ぐだけだ。


獏が助けに来たことも、大蛇を倒したことも知らない咲紀は、胸がすく快感をむさぼるように味わった。


すがすがしい。なんてすがすがしい、今日は人生最高の日だ!

曇天には稲光さえ光っているというのに、咲紀は雨に打たれながら興奮していた。

やがて、策略に利用したウサギを呼び出そうと思い至ったとき。


「――誰なのっ!?」


突如現れた鎧を着た男たちは、瞬く間に咲紀をぐるり包囲した。逃げ場はまったくない。

天界の武官たちだ。みな無精髭を生やし、手際よく女を追い詰める。

じりじりと一歩足を引けば、逃げ場はないぞと言わんばかりに剣を抜く音がする。

「大蛇が后、咲紀。罪状を認めよ」

部隊長らしき風防の男が、重い鎖の音をたててあらわれた。その鎖に繋がれ地面に這いつくばる女を見て、咲紀は密かにたじろぐ。

ウサギだ。服はところどころ裂け、唇からは血が滲んでいる。女は部隊長が取り上げた玉璽を、恨めしそうに見上げていた。


「大蛇の后よ。この女と共謀し玉璽を盗んだことは認めるか?」

「・・・・・・ふんっ」

咲紀はついっと顔をそらした。

「馬鹿ね、あなたたち。そんなこぎたない野ウサギなんて知らないわ。だいいち、人間のわたしが獣を使役(しえき)なんてできるわけがないじゃない」

ひらひらと両手を振る。あっさり裏切られ、切り捨てられたウサギは激しく舌打ちした。

武官は言う。

「とぼけても無駄だ。このウサギを尋問すればすべて吐くだろう。――おい。連れて行け」

部隊長の指示。包囲していた男たちは徐々に距離を縮めてくる。

じゃら、と重い鉄の拘束具をぶら下げ、武官は強固に迫る。

咲紀は震えあがった。

「や、やめてっ。冗談じゃないわ、そんな家畜みたいな扱い受けるなんてっ。まっぴらごめんよ!」

「貴様に拒否権はない。生かしてやっているだけでもありがたく思え」

しぶとく逃げ回る咲紀。男たちはしびれを切らし、その腕をつかむ。

――そのときだった。

「ぐ、あ・・・っ!?」

咲紀の右目の刻印が、ぞくりとうずいた。

右目の周りだけを覆っていたそれは、ざわりと毛羽立つ。みるみるうちに顔半分まで侵食していく。

武官たちは異変に気づいた。隊長の合図で、部下たちは咲紀から距離を取る。

(なるほど。大蛇が死んだのか)

部隊長はすべてを悟った。獏が大蛇を倒したこと。刻印を刻まれた咲紀が、大蛇が死ぬと蛇になる契約を結んでいたことも。

咲紀は契約の意味を、なにもわかっていなかった。途中で放棄できるだろうと、軽く考えていたのだ。

全身が痛い。皮膚が蛇の鱗に変わっていく。咲紀は激痛に耐えかね、絶叫しながら地面を転げ回った。

「痛い・・・、痛いぃっ!」

しなやかだった両腕が溶けいく。

骨は形を変え、背骨は恐ろしいほどまっすぐ伸びていく。

両足は一つにくっつき、同化する。

そこには、人とも蛇ともつかぬ異形(いぎょう)が転がっていた。

ついに頭が変形しはじめた。めきめきと音を立てて変形していく頭蓋骨。唇がなくなり、咲紀は声を上げることすら叶わない。割れた蛇の舌に苦しみながら涙を流す。

――やがて。

一匹の小さな蛇が、咲紀の衣の隙間からするりと首をもたげた。

蛇はきょろきょろとあたりを見渡す。唖然とする武官たちを見上げ、ついで自分の衣をしげしげと見つめた。

その様子は蛇そのもの。もはや人間だった頃の知能は残されていなかった。

蛇はちろちろと長い舌を出しながら、地を這う。

咲紀はこれから、どこぞで野垂れ死ぬまで蛇でいつづけるのだろう。

森の奥へ消えていく蛇を、部隊長は吐き気をこらえながら見送った。




「雨が、やみませんね」

夢夜は言う。

淡々とした声色だった。

大蛇の死んだ巣穴は静かだ。夢夜は洞穴の入口付近に腰を下ろし、ぼうっと外を眺めていた。

覇気のない顔をしていた。

折れた腕はきしりと痛む。

眼前には、かつての地獄であり、ふるさとが水没している。土砂崩れはひっきりなしに轟音を立て湖へ流れ込んでいた。

・・・・・むなしい。

もろもろの感情は、頭をぐしゃぐしゃにしている。

でも、ちらかった思考の中で、心は妙に穏やかで。静雨がしずかに降り注いでいるような感覚だった。

「他者の心配をしている場合か!」

獏は見かねて一括した。

腕が折れているのに。自分を苦しめた村に同情しているのか、と。

夢夜は、はにかんだ。

「村は、もういいのです。・・・遅かれ早かれ、いずれ、こうなっていたでしょう」

さあっと風がふく。顔を濡らす冷たい雨は、涙をうまく隠してくれた。

――村人を許したことは一度もなかった。

刻まれた痛みの記憶。恨みはくすぶり続け、生涯心身に残った傷は消えないだろう。

だが、彼らは死んだ。

もう、いないのだ。怒りをぶつけるべき相手は、無惨な死を迎えた。

これ以上、村人を憎むことに意味はない。

――だから。

だからこそ、涙があふれてとまらない。

「夢夜・・・?」

獏はその頬を、そっと手を添えた。

彼にはわかる。

夢夜は、こころで泣いている。助けてと叫んでいる。

「う」

ついに涙は堰を切ったように溢れ出した。

獏は夢夜をそっと抱き寄せた。

夢夜は顔をくしゃくしゃにゆがめ、泣き叫ぶ。


この恨みの矛先は誰に向ければいい?

この行き場のない怒りは、誰にぶつければいい?

彼らは自分たち親子に、最後まで謝罪をすることも、弁明することもなかった。

謝罪程度で許せるはずもない。

でも。

あっけなさすぎるではないか。

やりきれないにも程があるではないか!


夢夜は獏にしがみつく。

彼のたくましい腕、匂いで満たして。

わたしの記憶から過去を消してよと、腹の底から泣き叫ぶ。


獏は何も言わない。言えない。ひたすら寄り添い続けた。

ふわり、ふわりと口づけをまぶたに落とす。

涙を唇ですくう。


悪夢を洗い流すように、雨音が響き渡っていた。




やがて、一刻ほど過ぎたころ。

「よお。邪魔するぜ」

幼い声がした。火喰仙人が雲に乗って現世まで降りてきたようだ。

「おたくの狐牡丹は危篤状態から脱したぜ」

「狐牡丹さんが危篤っ!?」

夢夜は涙が引っ込んだ。

ついで、屋敷に残してきた母が頭をよぎる。

察した火喰はなだめるように言った。

「ああ、安心しな。母ちゃんは俺と茶飲んでいたから無事だ。お前さんがさらわれたと聞いて、今にも天上界から飛び降りそうだったんで、狐牡丹と並んで寝かせといたぜ」

狐牡丹が怪我をしていたことは初耳だった。それに自分を案ずる母の存在も。

つらい過去から、急激に現実へ引き戻される。

(・・・わたしには、お母さんがたくさんいるのね)

無意識に譲葉の羽衣を、きつく腕に抱きしめた。


咲紀のものだとばかり思っていたそれが、まさか祖母の形見だったとは。


(おばあさま)

大蛇から護ってくれた祖母の笑顔を思い起こす。


――わたしは勘違いをしていた。


やましい気持ちで、祖母に嫉妬の目を向けていた。

(ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい)

新たな涙がこみ上げてくる。



夢夜を案じながら、獏は外を見やる。

「ともかく、雨はやまねば、想像もつかない大惨事になるぞ」

仙人はうなずいた。

「水神が悪神になって死んだ。村人の骸と悪神の邪気が混ざり合い、この洞穴中に集まって、雨となって降り注いでいるんだろうな」

「手立てはないのか」

獏と火喰は思案した。

倭国は高天原が収めている。天界の出る幕はない。

ふと。火喰はぽんと手を叩いた。

「夢夜ちゃんの舞はどうだ? 天女の舞には、五穀豊穣の力がある。雨はやむかもしれねえ」

獏は即座に首をふった。

「だめだ。夢夜は怪我をしている。この体では無理だ」

「・・・いいえ。やってみます、わたし」

突然、それまで無言だった夢夜が割って入った。獏は目をむく。

「無茶を言うな。腕が折れているのだぞ。それに!」

「これで、この村へ訪れるのも最後になりましょう。だったら、この山々に、私のこれまでの生かされた感謝をささげ、区切りをつけたいのです」

夢夜はきっぱりと言った。


村人に苦しめられていても、生き残ってこられたのはこの自然のおかげ。

食料も、寝床も与えてくれたこの山々に、恩がある。


夢夜はにこりと笑った。

祖母の羽衣を抱きしめる。

「だいじょうぶ。踊りは下手でも、おばあさまが助けて下さいます」

――譲葉の羽衣。

獏は沈黙した。

やがて絞り出すように言う。

「・・・・・・一度だけだ。それで雨がやまねば連れて帰る」

彼らしい答えだ。夢夜は苦笑し、立ち上がった。



火喰に簡単な添え木を当ててもらい、折れた腕を補強する。

洞穴の外へ出ると、土砂降りの雨に打たれた。

ふう、と夢夜は顎から水を滴らせながら深く息を吐く。

羽衣を天高く投げた。

それを合図に、舞いが始まった。

大蛇に締め上げられた全身が痛む。たどたどしい動きで、でも心を込めて夢夜は舞う。

――おばあさま。

夢夜は曇天に向かい、こころで問いかける。

(おばあさま。ごめんなさい。わたしは、おばあさまに何度も心のなかで八つ当たりした)

『お前の境遇は、祖母のせいだ。恨むのなら祖母を恨め』

幼い頃、村長から聞かされた。

母に尋ねたら、母は無言だった。

夢夜はそれが答えだと思った。祖母のせいで、奴婢になったのだと信じて疑わなかった。


――でも違った。


(おばあさまは、村や家族のために、自ら犠牲になった。知らなかった。ほんとうに、知らなかったの)

夢夜の頬を雨は容赦なく打ちつける。舞いながら、夢夜は譲葉と会話していた。

(それでも、おばあさまはわたしを救ってくれたよね。ねえ、なんで? わたしは可愛くない孫でしょう?)


なんで助けたの?

わたしは、おばあさまにとって、どんな存在?


夢夜は問う。


わたしは、おばあさまのことを、ほんとうは――・・・。


涙がこみ上げたとき。

ふたたび、あの懐かしい声がした。


『夢夜。あなたが、私のかわいい孫だからよ』


ばっくりと、曇天が裂けた。


夢夜を中心に光が指す。青空がさえわたり、暗雲が霧散していく。


打ち付けていた雨はやみ、大きな虹がしゃんっと鈴の音とともにかかった。


濁流の流れ込んでいた村の沈む湖の水面は空の青をうつしている。

清涼なそよ風は、さわと一行をかすめていった。


獏と火喰は駆け寄る。

「雨がやんだ!」

火喰はさけび、獏は静かに夢夜の隣に立つ。

「おばあさま。ありがとう・・・」

夢夜は言う。後半は声が震え、言葉にならなかった。

獏は夢夜を支え、寄り添いながら視線を虹へ移す。

(譲葉、君を忘れることはない。だが、思い出すのはこれで最後になろう)

夢夜と同じく、ここで一区切りとしよう。


火喰に急かされるまで、ふたりはいつまでも虹を眺めていた。



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