顔をどうした
神代の時代。
倭の国は、八百万の神々によって成り立っていた。水にも、石にも、草木の一本一本にいたるまで、神が宿っているのだ。豊かな実りをあたえる自然の中、人は生かされていることに感謝を捧げ、他人を慈しまねばならない。
しかし、いつの頃からか、人間たちは身分をつくり、下位のものを足蹴にするようになっていた。
宴もたけなわ。煌々(こうこう)と燃え盛る炎を取り囲み、広場では酔にまかせ村人が踊り歌う。
その広間を見下ろすように、とりわけ大型の高床式の屋敷が鎮座していた。村長の住居だ。
この清水村には五人の村長がいる。年老いが四人、中年が一人。それぞれ玉の玉飾りの美しい剣を腰に佩き、袴を膝下あたりで足結の紐で結んでいる。顔ぶれは毎年変わらないが、今年は中年の村長の娘も参加していた。
娘は組んできた水を盃に移すと、村長の娘――咲紀の席へ持っていった。艶やかな長い黒髪。白い肌は白鳥のように美しい。
「おそかったわね。宴も終盤よ」
咲紀はねっとりと口を開く。こちらの苦労などおかまいなしだ。
「・・・夜、でしたから」
娘はかすかな不満をこめた声で言った。咲紀の片眉がはねる。
「ふん」
さがろうとする娘に自らの足を絡ませる。娘は派手に転ばされた。
「あ・・・っ!」
盃が床に落ちる音。ばしゃっと水は咲紀の足元へ飛び散る。
「あらあら。なにをやっているの、裾が汚れたじゃない!」
咲紀はわざとらしく、大声を上げた。
咲紀の父親――村長はがたりと立ち上がった。角髪に結った髪、顎に無精ひげを生やした中年の男だ。
「なにをしておるか、貴様ァッ!!」
言うが早いか、村長は娘の顔を拳で殴った。
口の中が切れる感触。ついで顎を強打され意識が朦朧とする。
枯れ木のように痩せたその体を、村長は容赦なく出口から蹴り飛ばした。ごろごろと階段を転げ落ち、地面に叩きつけられる。
追い打ちをかけるように笞が鈍い音を立ててうなった。
「わしの情けで病の母親を追い出さずにやっているというのに。親子ともども使えぬ穀潰しめ!」
「ガッ・・・!」
むち打たれている娘は、小さくうめき声を上げる。背を襲う痛みを、それでも歯を食いしばって耐えた。悲鳴を上げれば、余計に悪化するだけだと知っている。
若い娘が暴力をふるわれているというのに、村人は一様に目をそらして関わり合おうとしなかった。村長のすることだから。誰も咎めるものはいない。
それを階段の上から楽しそうに見下ろすのは、歳のそう変わらない咲紀だ。優雅に肩にかけた桜色の羽衣を引き寄せながら言う。
「お父さま。私の裾を汚したぐらいで、そう怒らないであげてくださいな」
意地の悪い笑みだ。奴婢は唇を噛む。
(わたしは転ばされたのに・・・!!)
喉まで飛び出しかけたが、飲み込む。口答えは許されない。
反論も、弁解も、この身分は許されていない。下手をすれば、首が飛ぶのだ。
奴婢は痛みに耐え、砂利を引っ掻く。爪の間には砂が入り、背中に血が滲んだとき、ようやくむち打つ手が止まった。
「咲紀・・・。なんて優しい子だ。このうすぎたない奴婢を許すのか?」
「お父さま。善行はまわりまわって己の身を助けるものですわ」
咲紀はゆっくりと階段を降りながら、善人を装った笑顔の仮面をはりつけた。首からさげた翡翠の勾玉は歩むたびに軽やかに音を立てる。
「この奴婢をお許しになれば、わたくしだけでなく、お父さまも皆から人望を集められるでしょう。許してあげても損はないわ」
(――よく言う)
奴婢の娘は、皮肉げに心のなかで毒づき、しかし顔では無表情を装った。
今顔に出せば、間違いなく斬首だ。
咲紀は、わかって言っている。塵のようにかるい奴婢の命を、鬱憤晴らしのおもちゃにしてもてあそぶために。
まぬけな父親は、娘のうすぎたない裏の顔になど、まったく気づかない。
「咲紀よ。なんと懐が深くて思慮深い! 父のことまで考えてくれているのか」
村長は娘を誇らしげに抱き寄せると、笞を手に持ったまま、するどい視線を奴婢へ投げた。
「咲紀に感謝せよ。貴様の命の恩人だぞ」
「・・・はい」
奴婢は頷き、地面に這いつくばるように、深く低頭した。
背中の裂けた皮膚からは、じんじんとした痛みとともに、心にまで、絶対服従を烙印で押されたような気持ちがした。
「咲紀さま。ご恩情を賜り、感謝します」
額を砂にこすりつける。そのさまを、咲紀は優雅に見下ろした。
「いいのよ。体を大切にね」
彼女は、あたかも人格者であるが如く振る舞う。奴婢を助けた咲紀を、宴の参加者や村人たち皆が称賛した。
「――」
傷を負わされた奴婢だけが、場違いに無表情だった。
奴婢の娘は、よろよろとぎこちない歩みで我が家へ向かう。
この村では、身分が最下位のものは、家を持つことを許されていない。
しかしいつでも命令を聞けるよう、待機せねばならないため、集落のそばから離れるわけにもいかず、目障りにならないよう、木陰に隠れるように身を寄せ合って暮らしていた。
「お母さん、帰ったよ。・・・具合はどう?」
背中の傷をかばい、娘ははにかむ。
顔はなぐられたせいで腫れ上がっている。背にはおびただしい数のあざと笞のあとが赤黒く皮膚を染めていた。
(お母さんに見せたら、きっと心配して、病が悪化してしまうわ・・・)
薬も医師もない今、それは避けるべきことだ。
幸い、今は夜。見えやしないだろう。
地面に気持ちばかりのわらを敷き、その上に横たわる母は、うつろな瞳を娘に向けた。
「あなたこそ、無事? ・・・あのお嬢様に、いじめられなかった?」
無事なわけがない。
しかし、痩せ細り、土気色のからからに乾燥した唇で娘を案じる母に、泣き言を漏らせるような神経を娘は持っていなかった。母も同じく、名を許されていない身分だ。もう、ずいぶん体調不良が続いている。起き上がるのもやっとなのだ。
娘は精一杯の笑顔をつくり、血のにじむ唇で言葉を紡ぐ。
「おかあさんったら。私の心配より、自分の心配をしてよ。――ごめん。今日の食事は手に入らなかったの」
普段は、村人の情けにすがって食料を得ている。
それも、食べ残しだ。
でも、宴で失態を犯した今日は、期待できないだろう。
「でもね、親切な人から変わった食べ物をもらったわ」
娘は獏という男がくれた饅頭を思い出した。さきほど乱暴を受けたせいで多少形はひしゃげているが、味は変わらないはずだ。
「あなた、どこでこれを・・・?」
当然のことながら高級料理に母は動揺した。質問攻めにしてきたが、今は答えてやれるほどの気力もない。
娘はそのまま、無視して寝転がった。
背中が痛む。
血の味のするつばを飲み下す。
夜空に広がる満天の星。
娘は手を伸ばし、星をつかもうとして、・・・あきらめた。
この村を出ることは容易だ。だが、一歩外へ出れば、待ち受けているのは広大な大自然と野獣の群れ。病の母と生き抜くことなど、まず不可能だ。
娘は思う。
この暴力だらけの世界を生き抜きたいなら。生きていたいと思うのなら。
わたしは情けない自分であろうと愛しぬく。
頭を下げるしかない愚かさも。
泣き出したいほど汚れた格好も。
従順な振りのほほえみさえも。
わたしはわたしのすべてを愛すのだ。
だいじょうぶ。わたしはなにも悲しくない。
だいじょうぶ。足ることを知れば、辛いものなどない。
だいじょうぶ。わたしは誰かの愛など請わなくても自分を満たすことができるから。
なのに、どうして?
目が霞む。
こぼれた涙の理由がわからない。
ぐちゃぐちゃの心は、もはや解読が不可能なほど血まみれだった。
やがて日が昇り、苦渋に満ちた一日はあっという間に過ぎてゆく。
また夜がおとずれた。
娘の足は、昨日の泉へ――あの獏という男のいる泉へ向かっていた。途中、獣の群れが後をつけてきたが、娘は恐れることなくきっぱりと言い放った。
「喰いたいなら喰えばいい。血も肉もない、私の体がほしいのなら」
ぐるる、と喉をうならせるが、狼は襲ってくる様子はなかった。
森を通過し、開けた場所――湧き水のこんこんと湧き出る泉へ出た。
「今日はいない、か」
娘はつぶやいた。
あの獏という男は、今夜はいなかった。
はっきりと再会を約束したわけではなかった。・・・それなら、それでもいい。すこしだけ胸の中に隙間風が空いたけれど。すぐに慣れる。
娘は泉の中へするりと足を滑り込ませた。
ひんやりとして気持ちがいい。痛んだ傷口に少ししみたが、湧き水はそれでさえ和らぐようなやさしい温度だった。
ばしゃりと顔の傷を洗う。
こんなに大量の水で体を洗うのは久しぶりだ。
誰も居ないことを確認し、服の紐に手をかけた。一枚布はあっという間に体を滑り落ちる。
娘は服を草むらへ放ると、思い切り頭まで水に浸かった。
思ったより水深がある。
娘は水中を思い切り泳いだ。小魚たちは娘から距離を開け、邪魔するものはいない。
――このまま、魚になってしまいたい。
本気でそう思った。
誰にもかえりみられず、誰にも殴られず。自由に泳ぐ魚になれたら。
池の周りを、昨夜よりたくさんの蛍が飛んでいる。緑の螢火は、ふわりふわりと、来訪者の訪れを知らせた。
娘はざばっと水から顔を出した。溜め込んでいた息を吐く。
「水泳ならよそでしろ」
いきなり、聞き覚えのある淡白な声がした。娘はぎょっとして、あわてて胸を隠した。
獏が、眉間にシワを寄せて岩の上に立っていた。
「蛍たちが迷惑している。さっさとあがりたまえ」
「い、いつから・・・?」
「たった今だ。その粗末な体を私に見せたいか?」
ぎょっとするやら恥ずかしいやら。娘はわけがわからなかったが、『粗末なもの』呼ばわりされたのが悔しくて、素直に従った。
草むらに投げ捨てたボロ布をかるくすすいで、身にまとう。
「・・・もう、いいですよ」
それまで律儀に後ろを向いていた獏は、ちらりと首だけで娘を確認すると、ようやく岩に腰を下ろした。
気まずい沈黙が流れる。
もじもじしている娘。このまま逃げ出そうか、でもこの人との居心地が悪いわけでは・・・と自問自答している。
先に口を開いたのは、獏だった。
「顔をどうした」
娘は、ひゅっと息をのんだ。見ていないようで、ちゃんと見ていたようだ。
「これ、は」
虐待を受けている。笞で殴られた。そんな言葉が頭をよぎり、首を振る。なにかの手違いで村長に知れれば、間違いなく斬首されるだろう。
獏は黙り込んだ娘を、じっと見つめた。
濡れた黒髪、月光を帯びる肌は汚れが落ち、つるりとなめらかだ。
しかし、ところどころ赤黒い痣がより際立ち、虫食いだらけの花びらのような、痛ましさをかき立てた。
「言いづらいことなら、これ以上は聞かない」
獏は突き放す。
しかし返ってきた反応は、予想に反するものだった。
――ほろりと花がほころぶように、笑ったのだ。
獏は愕然とする。笑顔のわけがわからない。
(なにをそんなに喜ぶ? 私はただ尋ねただけだ、怪我の理由が気になっただけだ・・・)
娘はさきほどよりやわらかい表情で、数が増えた蛍を眺めていた。
しっとりとした時間が流れる。
獏だけが、胸の中にほのかに灯る感情にとまどっていた。
けっきょく、娘を村まで送り届けた獏は、その小柄な背中を見送った。
また、明日も来るだろうか。
(私はなにを考えている!?)
己の心の動きに激しく動揺した。




