許したことなんて一度もない!
夢夜はふるふると体が震えた。
あの忘れられない痛み。躾としょうして、なんども味合わされた苦痛がよみがえる。
「咲紀・・・」
「様はどうしたの、様をつけなさい!!」
ふたたび鞭が頬をかすめた。皮膚が裂け、たらりと血がにじむ。
(咲紀がわたしをここまで連れてこさせたのね。――わたしを殺すために)
そうだとすればすべて合点がいく。
咲紀ほど、自分を憎んでいる人間はいないからだ。
幼い頃から父親に夢夜の母――和葉への憎しみを刷り込まれて育った咲紀。
父親をまね、豪然と暴力を振るってきた。
咲紀にとって、夢夜は最初から〈人間〉とは認知されておらず、〈奴婢〉という生き物だったのだ。
見下して当然の存在。
蔑まれて当然の人間。
生かすも殺すも自分の自由。
まるで神にでもなったかのように、夢夜の命は自分の手中にあると信じて疑わない。
夢夜は唇を噛む。おおかた、自分より夢夜が幸せになっている事実が気に入らないのだろう。これほどまで従姉妹から恨まれている理由は、あっさりと理解できた。
夢夜が自分より少しでも上だと、咲紀は自分の尊厳を否定された気がするのだ。
咲紀の視野はとても狭い。
そのやり方しか知らない。夢夜を見下すことでしか、自分の価値を確かめられない、哀れな娘。
夢夜は震える手を叱咤するため、砂を握る。
瞬間、ぬるりとした感触にぎょっとした。
あたり一面、血溜まりだらけだ。洞穴のいたるところに死体が無惨に食い散らかされている。
「もしかしてこれは、村の人達のっ!?」
「そうよ。みぃんな、大蛇さまが喰ったわ。残るはあなたと私だけ」
咲紀は何がおかしいのか、笑いはじめた。
高らかに、その声は洞穴中を震わせる。夢夜は耳につく不気味なそれを、奥歯を噛んでぐっと耐えた。
咲紀は笑いながら言う。
「大蛇様は私がふだんから身につけていたこの譲葉の羽衣の匂いで、譲葉と勘違いしたわ。つまり、最初から生贄は譲葉の孫のあなただったのよ! あなたが嫁いでいれば、すべてまるく収まったの。だれも死なずにすんだわ。・・・みて? 私の顔」
咲紀は、右目の鱗を指でなぞる。
「これは大蛇の妻となったあかし。刻印であり、生涯消えることのない醜い痣」
咲紀はいきなり、夢夜を蹴り倒した。
「うっ!」
夢夜は地面に叩きつけられる。咲紀は容赦なくその顔を鞭で殴り、腹を蹴り上げた。
「おまえが、お前ごときが私の顔を汚すなんて!!」
夢夜は胃に足がめり込む衝撃に耐えかね、胃酸の混じった唾液を吐いた。朦朧とする頭。かすむ視界の先に広がる死体の山の地獄絵図を、見つめる。
蛇は満腹になると、丸呑みすらせずに獲物を傷つけもてあそんだようだ。死体のむき出しの背にはしっぽを叩きつけられたであろう鱗の形の痣がのこっている。
(おばあさまは、こんなところで死んだの・・・?)
目頭があつい。鼻の奥がつんとうずく。
胸の奥の奥、深いところで、マグマのようなすさまじい熱が沸騰するのを感じる。
刹那。夢夜は咲紀の鞭と繰り出される強烈な足を同時に受け止めた。
「なにっ!?」
咲紀はたじろぐ。
されるがままだと信じ切っていた夢夜が、はじめて抵抗を見せた。
夢夜は低く、獣が唸るように、吐き出すように言う。
「・・・わたしはずっと我慢してきた。わたしだって忘れたわけじゃない・・・! お母さんを苦しめてきたあなた達を、許したことなんて一度もない!!」
口から血を流し、初めて夢夜は真っ向から咲紀を睨みつけた。
なに、この目は・・・!
咲紀はゾクッと背筋を冷たいものが流れた。
夢夜は暗い洞穴の中で目がランランと光っているように見えた。虎のように獰猛な唸り声。夢夜の殺意は今、自分に向けられている!
「わたしに逆らうのか、奴隷が!!」
咲紀はなりふり構わず鞭を振るった。もはや攻撃のためではない。防衛のためだ。
自分の首をめがけ襲いかかる獣へのおびえが、焦った行動をとらせる。
結果的に、咲紀の本能は正しかった。
夢夜は赤子の手をひねるごとくあっさりと鞭を受け止め、背後へ放り捨てる。体制を崩した咲紀の右頬めがけ、重い拳を叩き込んだ。
はずみで咲紀は硬い岩場に腰を打ち付けた。夢夜は追い打ちをかけるように、もう一発拳をおみまいする。
深い恨みがこもった拳。譲葉、和葉、そして自分。大切な家族の幸せを奪った咲紀もその父親も。犯した罪を、憎しみを、夢夜は一つたりとて漏らさず記憶している。
夢夜はここに来て、目が醒める思いだった。
なにをビクビクしていたのだろう。わたしは。
従順なふりなど、必要なかったのだ。
怒りは力に。奮い立つ勇気へ変えるべきだったのだ。
ゆらり、立ち上がる夢夜は、もう以前の従順な奴婢ではない。
「わたしを犬なんて呼ばせない。だれにも、わたしを支配なんてさせないわ!」
夢夜の脳裏には、母や祖母、天界でできた友人たち。そして獏の笑顔があった。
〈夢夜〉。それは彼があたえてくれた名前。
わたしを人間だと認めてくれたあかし。それを、自ら否定するわけにはいかない!
「わたしはもう、あなたに負けることはない」
なんど地獄へ叩き落されそうと。
なんど咲紀が挑んでこようと。
この胸の中にくすぶる熱は、勇気は何者にも負けない。
(だれなの、これは・・・! 私は誰を相手にしているの?)
咲紀は頬を抑え、あんぐりと口を開けた。血の味のひろがる口内におびえが走る。譲葉の羽衣は肩からずり落ち、服は土埃で汚れていた。
完全に形勢は逆転していた。
「おばあさまの羽衣を、返しなさいっ!!」
夢夜は強固に迫る。一歩踏み出すだけで、咲紀はびくりと後ずさった。
「い、嫌よっ。これはお父様にもらったものなの。私のものよ!!」
夢夜の目がぎらりと光った。
譲葉の死後、村長が泣いていた和葉からむりやり取り上げたに違いない。幼い頃から咲紀は身につけ、自慢していたそれが、まさか譲葉の羽衣だったとは、露ほども思わなかった。
夢夜は再度、静かに言う。
「わたしの大切なおばあさまの形見よ。返しなさい」
「ひっ! い、いやっ。絶対いやよっ!」
聞き分けのない咲紀にしびれを切らし、夢夜は羽衣をひったくる。
ようやく孫のもとへ戻った形見。汚れてしまったそれを、夢夜は痛みを堪えるように見つめる。
その時だった。
突如、巨大な蛇の胴が、ぐるりと夢夜に巻きつき、締め上げた。
馬車を引いていた馬を平らげた大蛇が、夢夜へ牙を剥いたのだ。
『譲葉の血肉を、再び得られようとは!』




