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獏の夢結び  作者: 夢咲 紅玲朱


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17/21

滅ぶ村


紅葉が美しい湖。水鏡に反射している。

はらりと散る楓の葉が、波紋をつくった。

船に乗っていた。

獏は静かに船を漕いでいる。

夢夜は座っているように言われ、ほれぼれと彼を見上げる。

意外にたくましい腕が袖から覗く。冷静沈着な顔は変わらず怜悧で美しい。宴から数日が経過し、夢夜に笑顔が戻ってきた。心配事はすべて吹き飛び、今この瞬間の幸福を味わう。

「ん?」

ふと、夢夜の視線に気づいて、獏がこちらを見た。

夢夜はあわてて目をそらす。

沈黙が苦しくて、静かな()の水音を遮るように、夢夜は口を開いた。

「きっ、綺麗な景色ですねっ?」

「ああ。今しがたつくったところだ」

さらりという。夢夜は目を丸くした。

「獏さまがつくられたのですか!?」

「ここは夢幻。私が世界を構築している。私が侵入を許可したものならば存在を保てるが、無断で侵入すれば肉体は溶け落ち、魂は永遠と夢幻をさまようことになる」

「では、わたし、もうすぐ溶けちゃうんですか?」

夢夜はおののく。

「そなたは泥だんごか」

獏は間抜けな娘を平べったい目で見下ろした。

「動物や虫は、現世から連れてきたものや天上界にもともといたものが多い。それらは生命を持ち、私が存在を許可したものだから、生きて行ける」

めずらしい生き物も時々見かけたのは、そのせいか。

ぎい、ぎい・・・と船はきしむ。

ふと、夢夜は疑問が湧いた。

「獏さまは、夢をめしあがると聞きました」

獏は手を止めた。

「・・・どちらかというと、私は夢が主食だ」

言いにくそうに、言う。

そうか。

「ならば、私は、余計なことをしてしまいましたね」

無理に食べさせてしまった。

それを言うと、獏はもごもごと言った。

「人間の食べ物が食べられないわけではない。あのとき、夢を食う気力もなかったから・・・。そなたの料理はありがたかった」

夢夜はほっと胸をなでおろした。

でも、疑問が湧く。

「ならば普段、どなたの夢を食べておられるのですか?」

獏はぎくりと肩がこわばった。・・・夢夜は見逃さなかった。

「・・・どこぞの女人の夢を、食べておられるのですかっ!?」

「う。――全員が女人というわけでは・・・」

「どのようにして食べられるの? 寝所まで侵入するのですか? それとも、その方の夢枕に立たれるのですかっ?」

「む」

詰問され、獏はついっと視線をそらす。

「こたえてください」

「・・・知りたいか?」

ぼそり、低い声でたずねられ、夢夜はむくれた。

「いーえ? まぁったく、気になりません」

ぷいっと、顔をそらした。

――すると。艪を投げ出す音。

ついで、ふわり、視界が覆われ、瞬きの間に獏は眼前に迫っていた。

「方法を、一から教えてやる」

「へ・・・」

さっきまでの余裕はどこへやら。夢夜は体をのけぞらせ、逃げようとしたが、周りは湖だ。

完全に詰んだと絶望すれば、背に手をまわされ、強引に引き寄せられる。

至近距離で見上げる彼の顔。冷たさをはらんだ瞳には、今はあつい熱がこもっている。

どうやら、まずい引き金を引いてしまったらしい。

「ひえっ」

にやりと意地悪くほほ笑まれ、夢夜はほほが引きつった。

彼の両手は夢夜を囲って檻を作るように、逃さない。

「け、けっこうですっ」

「知りたいのだろう。手ほどきしてやる」

獏はうすいつややかな唇を開く。

「――まず、相手を眠らせる。これは当たり前だが」

獏はくいっと夢夜の顎を上向かせる。

「それから・・・」

(そ、それから・・・?)

夢夜は、ごくりとつばを飲み下した。緊張で声が出ない。

恥ずかしさとも違う。

彼の声が、表情が、仕草が、体の時が止まったように動かなくしてしまうのだ。

ゆっくり、彼は近づいてきた。

濡れた瞳、妖艶な唇がよせられ、夢夜はぎゅっと目をつぶる。――と。

ぱちん! と懐かしい痛みが額を襲った。

「いたっ!? なにするんですか!」

見れば、獏は親指を長い指でつまむようにしていた。ようするに、おでこを指で弾かれたのだ。

ふふん、と彼は勝ち誇ったように体を離すと、鼻でせせら笑った。

「ふっ、馬鹿め。この私がわざわざ人間の寝所に行くと思ったか、戯けが」

(か、からかわれた・・・!!)

夢夜はかあっと顔やら頭やらに血が登った。

勢いあまって、泉の水をすくって浴びせかける。

「ひどい! 本気で心配したのにっ。あなたはどうして、そう、わたしにやきもちばかりやかせるのですか! 楽しいですかっ!?」

「ああ、たのしいな」

ひょうひょうと言われ、夢夜は頭に血がのぼる。

獏は手を伸ばし、娘の手首をたやすく捕まえた。・・・ぐいっと、引き寄せる。

「う、わっ」

不安定な船のうえで、前のめりになった夢夜を受け止め、獏は満足げにほほえむ。

抱きしめながら、彼は言った。

「そなたといると楽しい。・・・だから、ずっと」


――ずっと、私のそばにいてほしい。


もがいていた夢夜の動きが停止する。

獏はほほえむと、その額に口づけを落とした。





舞台は現世へ。

三月(みつき)の間雨は降り続け、洪水は村へ押し寄せた。集落があった場所は完全に湖と化し、村人は大蛇の裏山へと避難していた。

しかし、裏山へ避難させてもらうのは条件がある。


『四人の村長たちの妻子を大蛇に差し出せ』


大蛇の妻である咲紀は魔物のように、にやりと唇を歪めてみせた。


『大勢の命がかかっているのよ。さあ、どうする?』


大蛇をはべらせ、咲紀はそう言った。


村人たちは死にたくないと叫んだ。

もはや、身分も上下関係もない。

人間たちの秩序は崩壊した。

祟りを悪化させないために、村人たちは四人の村長たちの妻子を捧げる道を選んだのだ。

妻子はとらえられ、順番に洞穴へ連れていかれた。


待ち構える咲紀は、優雅に天女の羽衣をまとって大蛇の胴体に座していた。

右目の鱗は青く、濃い真っ赤な口紅は唇を彩る。

鱗は、大蛇の嫁の刻印だ。

咲紀はころがる髑髏(どくろ)をあしでふむ。鞠のように、人質へ蹴り飛ばした。

「お助けください! どうか、私で最後にして。この子は食べないで!」

母親はまだ幼い子供を腕に抱く。

咲紀はねっとりと、冷たい眼差しを向けた。

「残念ね。私の夫は物覚えが悪いの。何人喰ったかなんて覚えちゃいないわ」

刹那、大蛇は母子を頭から丸呑みにした。

ごくりと飲み込まれた母子のかたちを残し、大蛇の腹は、ぷっくりと膨れる。

大蛇の腹はかつてないほど膨らんでいた。もう二十人は喰っただろう。五年に一度ですんでいた生贄は、とめどなく人を食らう喜びを知った蛇を満足させられなくなっていた。

もはや悪神(あくじん)だ。

咲紀によって魔性のものと生まれ変わった神は、次々に雷を落とし人々を震え上がらせ、脅迫した。

『次だ、次をよこせぇっ!』

口から生臭い息を吐く。洞穴は、もはや見るも無惨なほど血と肉塊で溢れかえっていた。

咲紀は内心、舌打ちする。

(催促の間隔が狭まってきている。早くあの女を見つけないと、生贄が尽きてしまうわ。そうなったら、私の身も危うくなる)

夢夜を連れ去ろうにも夢幻の世界は完全に獏の領域だ。彼の許しを得ず、一歩でも踏み込めばたちまち形は崩れ、曖昧な意識の中、永久に夢幻を漂う存在になるだろう。当然それは避けたい。

すると。

「奥様。およびでしょうか」

入り口からひょっこりと覗く影が。

逆光で顔は見えないが、大蛇に古くからつかえる獣が、人の姿をとって現れたのだ。

「お前を呼んだ理由は、わかるかしら?」

初めて合う妖怪のたぐいにも眉一つ動かさず、咲紀はねっとりと問う。

「ふふ、さすが、人間の身でありながら大蛇様に侍れるおなごですなぁ。肝が座りきっておられる」

そいつは、すっと目を細めた。

「でも、せいぜいお気をつけることですな。我らが尊敬し、お仕えするのはあくまでも大蛇様。人間の小娘などではございませぬ」

咲紀はすりすりと大蛇を手でなでながら言う。

「おまえも気をつけることね。私の言葉一つで、大蛇様に喰わせることも簡単なのよ」

「虎の威を借る狐とは、よく言ったものです。・・・いいでしょう、大蛇様にとって良いことなら、私は喜んでご協力いたします」

そういって、獣は姿を消した。

咲紀は含み笑いをする。

(あの女を連れ出し、大蛇に喰わせる。その頃には村人も全員喰われて死んでるわ。お父様の復讐を遂げれば、こんな場所おさらばよ)

その後のことなど、本当は考えていない。

ただ、生きているという奴婢の親子――とりわけ夢夜を殺したい。

そうすれば、獏を誘惑できるスキが生まれる。彼の妻となれる。

(私をこんな目に合わせておいて、のうのうと宮殿で暮らしているなんて。薄汚いボロ雑巾め、身の程を知るといいわ)

すると、一時的に満腹になったのか、大蛇が身を擦り寄せてきた。

『咲紀よ。娘を連れてきたいのなら、天帝の名を借りろ』

「天帝を? なぜ?」

猫なで声で、咲紀はその巨大な頭を撫でる。ちろちろと、蛇は長い舌でその手を舐めながら、

『奴は天帝の犬よ。呼び出されれば、行かざるを得まい。・・・我はもう、待てぬ』

大蛇の目は、暗い洞穴の仲でも底光りしているようにみえた。咲紀はぐっと息を呑む。

「わ、わかったわ。さっきの獣に連れてくるよう、命じておいたの。自分からここに来るはずよ」

『自分から、喰われに来るか。フフ、お前は狐より狐だ、咲紀よ』

大蛇は満足げに笑うと、そのまま寝入ってしまった。

「狐か・・・」

咲紀はなにかを思いつき、そして獰猛な笑みを浮かべた。


土砂降りの雨はやむことを知らない。洪水を引き起こした女は、ただひたすらに復讐の炎を燃やしていた。



屋敷へ戻った獏と夢夜を待ち構えていたのは、狐牡丹だった。

「獏様。先ほど使いの者が文を置いて行きました」

「ふみ?」

獏は怪訝な顔をする。

「主上の側仕えの、うさぎからです」

狐牡丹は静かに言う。

「この夢幻の世界に、入ってこられる方もいるのですか?」

夢夜は首をひねる。

「ここは現世とも天上界ともちがう、いわば眠りの中に存在する世界。だが天帝からの伝令は私が許可した者ならば出入り可能だ」

「なんと書いてあるのですか?」

夢夜は覗き込む。まだ、字は読めない。

「明日、内密の要件があるので参内するようにと」

しかし、と獏はひそかに眉を寄せた。

(この筆跡・・・。この文脈・・・。印こそ天帝の配下のものだが、何かがいつもと違う気がする。気のせいか?)

獏は古参だ。少々の異変にも敏感に察知する。

「急ぎ幻獣たちが集められることになった。行ってくるが・・・狐牡丹」

獏はよぶと、侍女頭に耳打ちした。

「私の杞憂かもしれんが、くれぐれも、夢夜を頼んだぞ」

狐牡丹はすべてを察した。

「心得ております。おまかせを」

下手に夢夜を連れ歩くより、他者の侵入不可能な夢幻の屋敷にいたほうが安全だ。この前の咲紀という娘の動きも気になる。

万が一はないに越したことはないが、まったくないとも限らない。

きょとんとする夢夜の頭を撫でると、獏は腰をかがめ、視線を合わせた。

「夢夜。私は明日の早朝に出るが、知らない輩にはついて行くな。心得たか?」

「・・・獏さま。お留守番くらいできますよ」

夢夜はむぅっ、と眉を寄せ、ため息を付いた。

(やっぱりわたしは子供なのかしら)

獏はそれでも心配そうだった。やがて、なにを思ったのか、自らの衣を脱ぎ、夢夜の肩にはおらせる。

夢夜は頬を赤らめた。

「あの、これは・・・?」

ぶかぶかの大き過ぎるそれには、呪詛のような文字が銀糸で刺繍されている。なにか意味があるものなのだろうか。

「私の夢の糸で織った衣だ。これを着ているかぎり、そなたがどこに行っても追跡できる」

夢夜は瞬いた。

「それって、首輪・・・のようなものですか?」

なんだろう。夢夜は嬉しいような、こわいような、むず痒い気持ちになった。

彼の匂いがたっぷり染み付いた衣は、まるで腕の中にいるようでこの上なく安心できる。束縛されるのは、現世の清水村を思い出してしまいそうで震えが走るが、獏になら・・・。

「いや、か?」

獏がおそるおそる尋ねるので、夢夜はあわてて首を振った。

「いいえ。わたし、獏様になら、閉じ込められるのも悪くない・・・のかもしれないなぁって・・・・・・」

後半、もごもごと歯切れが悪かった。

獏は目を見張る。(狐牡丹はさっさと退室した。桃色の空気にあてられたらしい)

やがて、獏はため息をつく。ぎゅうっと、夢夜を抱きしめた。

「それ以上言わないでくれ」


――歯止めがきかなくなる、と獏は心のなかでつぶやいた。

実のところかなり我慢を強いられていた。

出逢ったばかりの頃、夢夜を〈雑草〉呼ばわりしてからかったことがある。戻れるならば、あの頃の自分を殴りたい。


夢夜はこの三月で、美しく生まれ変わった。

目鼻立ちが整い、長いまつげは動くたびに蝶が舞うようだ。

気を利かせた侍女たちがうすく化粧をしたらしい。ほのかに色づいた唇は、甘い蜜を蓄えた花芯のごとく、衝動的に吸い付きたくなる。

だが口づけも、その先も。夢夜を大切に思うからこそ、感情に任せてするわけにはいかない。

夢夜は『青春を捧げます』とまで言ってくれた。二人の関係は、安定してきている・・・と思う。

でも、祖母の譲葉と恋仲だった事実は消えない。

(夢夜に思いを伝えるには、まだ早い)

譲葉を正式に弔う。その儀式を終えてからでも遅くはない。

(そうしてきちんとけじめをつけて、改めてそなたと朝まで共寝したい)

それまで、大切に、大切に守り抜く。

自分の身勝手な欲求も抑え込んで。彼女を取り巻くあらゆる邪な糸を断ち切って。

夢夜の腰を引き寄せ、自制するため髪の香りを肺いっぱいに吸い込む。

(今は、これで満足せねば)

タガが外れてしまった自分は、なにをしでかすかわからない。

夢夜のおかげで今がある。過去から立ち直ることができたのも。背中を押してくれたのも。すべて、まぎれもなく彼女の深い愛と懐の深さゆえだ。

だからこそ、自分も彼女に誠実でありたい。

狭量な男と思われたくない。

獏の葛藤は手の動きにあらわれた。夢夜を掻き抱くように引き寄せる強い腕、髪をほぐす手は何度もにぎったりゆるめたりを繰り返している。

「ばく、さま?」

夢夜はおずおずと背に手をまわしてきた。すり、と胸にすり寄る。

ここへ来た時と変わらないその仕草に、獏は二月も寂しい思いをさせたと深く後悔した。

「ゆめよ」

獏は体を少し離した。見つめあう。

「なんですか?」

夢夜は続きをせがむ。


「私は、そなたを――・・・」


言いかけて、獏は血の気が失せた。


『愛している』。


譲葉に言うはずだった、あの言の葉。


『明日、必ず伝えるから』。そう言って、それきり許されなかった言葉。


もう終わったことなのに。〈死〉の足音が夢夜にまで迫ってくるような気がして、ぞっと冷や汗が滲んだ。

(まさか)

獏は不穏な思考を振り捨てる。ばかばかしい。自分が愛した女性はみんな短命だなんて、悲恋物語ではあるまいし。

「獏様? どうかなさいましたか?」

夢夜は心配そうな目で獏を見上げる。急にどうしたんだろう。顔色が悪い。

獏はなにか言おうとしてためらっている。

夢夜の勘は当たっていた。


今、告げてしまうべきか。あのときのように、伝えておけばよかったと、後悔するぐらいなら。

いいや。それでは、これまでせっかく大切に護ってきた関係が崩れてしまう。夢夜を大切にしたい。ずっと自制してきた思いが、爆発してしまう。


獏は眉間にシワを寄せ、けわしい顔をしている。夢夜はなんだかわからないが、なにか心配事があるのだと悟った。

自分に言いづらいなにか。

(きっと、わたしを思って、なにか考えておられるのだわ)

だって、彼の視線はすがるようにこちらをとらえて離さない。

夢夜は微笑み、自分からえいっと獏に抱きついた。

「夢夜っ?」

獏は体制を崩し、よろけた。なんとか抱きとめる。

夢夜は着せられた獏のぶかぶかの袖に苦労しながら、すりすりと子猫が懐に潜り込むように、顔をすり寄せる。

「何をお考えかわかりませんが・・・。夢夜はずっと、獏さまのそばにいます」

ひゅっと、獏は息を呑む。

(なぜ、わかるのだ)

自分の心の中が。夢夜を失うかもと、怯えていることを。

だがもう、そんな些末なことは気にならなかった。

華奢であたたかい宝物を、自らに取り込むように密着して抱きしめる。


ああ。やっぱり彼女は、彼女の存在は〈奇跡〉だ。


獏は夢夜に気づかれないように、そっと唇を噛んだ。

もう、夢夜なしでは生きてゆけない気がした。

彼女は何も聞かずとも、すべて悟ったように、ほしい言葉をくれる。胸に溜まった悲しみの泉に手を差し伸べ、引き上げてくれる。

こんなに小さな手なのに。この世のどの神よりも屈強で、迷いがない。


――私だけの、女神。


(私が夢夜を幸せにしなければならないのに・・・いつも幸福をもらってばかりだな)

それでも、獏は自分の表情がやわらいでいくのを感じていた。同時に、彼女への愛しさが、どうしようもなく沸き起こる。

我慢できず、そのやわらかい唇へ口づけしようと顔を寄せ――・・・でもためらい、やむなくまぶたへ口付けを落とした。

夢夜は目をつぶる。その仕草でさえ、愛おしい。

「なんでもない・・・。案ずることはない」

獏ははにかみ、もういちど今度は額に口づけると、余裕なふりをして夢夜の体を引き剥がした。ほんとうは名残惜しくてたまらない。


――だがこれ以上は、きっとよくない。


ぽかんとする夢夜へ、ちゃんと渡した袍を着るように、と念押しすると、獏はさっさと背を押して自室から夢夜を追い出した。

わけもわからぬまま、夢夜は追い出された。「いきなりなんですかっ!?」と戸を叩く。

獏は無視すると、椅子にドサッと腰掛け、「はあ・・・」と頭痛をこらえて眉間を揉む。


明日は、長い一日になりそうだった。


自制できるだろうか、と悩み、でもそれですら楽しいと笑みがこみ上げる。どうやら自分は、この駆け引きも楽しんでいるようだ。




明け方、獏は静かに身支度をすると、私室を出た。

途中、夢夜の部屋が目にとまる。

――いい夢を見ているだろうか。

そっと戸に手を当て、気配を探れば、規則正しい寝息が聞こえてきた。

うすい壁を隔て、獏はむず痒い思いをこらえる。わずかな距離なのに、縮めるのはかなりの時間と忍耐が必要だ。

名残惜しく戸を撫でると、獏は朝日の差し込む廊下を進み、屋敷を出た。


どうか今日が、平穏に終わりますようにと、願いながら・・・・・・・・・。





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