命名
その日の夜、娘は風呂からあがると、獏の私室へ呼び出された。
夜中の呼び出し、ましてや寝所など行ったこともない。
怪訝な顔をしたが、狐牡丹は勝手に衣を用意していた。
娘は着替えさせられ、あれよあれよと連れてこられると、獏の寝所へ押し込まれた。
「ちょっ、開けてください! 何事ですか!」
「うるさいぞ。そなたこそ、そんなにめかしこんで何用だ?」
背後から声がして、娘は飛び上がった。獏は褥から離れた場所にある小机で、優雅に茶を飲んでいた。火鉢で沸かした釜からは湯気が立ちのぼり、ほのかな甘い香りが心地よい空間をつくりだしている。
(あれ・・・? 聞いていた話とちがう・・・?)
娘はきょとんと尋ねた。
「獏さまがわたしをお召になったのではないのですか?」
「誤解をまねく言い方はやめろ。私は真夜中に女人を呼び出したりしない。・・・ましてや、寝所になど」
後半、意味深な声色でつむがれ、娘は肩がびくりとはねた。
獏は不機嫌そうに唇を真一文字にする。
「おおかた、狐牡丹がいらぬおせっかいを焼いたのだろう。あとで油揚げ(アーゲイ)抜きの刑に処すから、そなたはもう、帰りなさい」
(なぁんだ・・・)
娘はちょっと、がっかりした。ここまでの道すがら、ほんの少しだけ期待したのに。
「おやすみなさい、獏様」
頭から湯気を立てると、娘は戸へ手をかけた。今夜も野宿決定のようだ。
「待て」
獏はなにか思い出したように呼び止めた。
「お前に渡すものがあるのを、忘れていた」
「はい?」
「座ろうか」
獏は娘をうながし、席へ座らせた。
先程入れたお茶はすっかりぬるくなっている。獏は娘の分も茶を入れると、引き出しを開けて、丸めた紙を取り出した。紐を解き、するすると広げる。
紙に大きく大書された文字を覗き込み、娘は首を傾げた。
「なんと、書いてあるのですか?」
獏は娘に手渡すと、紙のひと文字ひと文字を指でなぞる。木簡が主流の時代。貴重な紙になにを書いたのか。
「これは〈夢〉。その下が〈夜〉」
「はあ」
意味がわからず、首をひねる娘へ、獏はほほ笑んだ。
「〈夢夜〉。・・・私が選んだ、そなたの名だ」
なま、え・・・?
娘は目を丸くした。
「わたしに、なまえ・・・を、あたえてくださるのですか?」
名前。それは家畜でも、自然物でもない、人であるあかし。
家畜にも劣る存在と言われた日々。
はらりと散る木の葉のように、軽い命だと。使い古しの道具のようにあつかわれてきた。
重い鎖で繋がれ、いつも主人に手綱をにぎられていた。笞で打ち据えられ、絶対服従をなんども体に教え込まれてきた。
自由の意味さえ知らなかった。カゴの鳥よりもっと、心まで束縛されて。
――その首輪が、いま、彼の手によって引きちぎられた。
「ゆめよ」
ゆめよ、ゆめよ、夢夜・・・・・・。
娘は・・・夢夜は、何度も、愛しい人からの最高の贈り物を繰り返す。
夢夜はうつむき、胸をおさえる。息が苦しかった。突然の自由、開放されたという実感は、簡単にはわかない。
それでも、魂が清められていくような気がした。
窓の外から運ばれてくる花のかおりが、鉄の拘束具で痛めつけられた体中を甘く包んでくれる。
(――これが、わたしが望んでいた、自由のにおい・・・?)
うつむき、とまどいに瞳が揺れている夢夜の様子に、獏は勘違いした。
「気に入らなければ」
返せ、と続けようとし――獏は、目を見張った。
ふわり、娘はわらったのだ。
それはあの時、ホタルの飛び交う泉で見たほほえみとも違う、本当に幸福そうな笑みだった。
「わたし、は、〈人〉になれたのですね」
紅葉をおもわせる、どこか儚く寂しげな美しさ。
同時に、赤々と実りはじめた幸福。
獏はその瞳に魅入った。
――・・・ああ、懐かしい香りがする。
もうずいぶん長い間忘れていた。あまい胸の高鳴り。
――これは・・・恋の香り。
獏は夢夜をまぶしそうな、とろけるような瞳で見つめた。彼女は、譲葉とも、ほかの誰とも違う。
心の鍵をこじ開け、光の道へ手を取り、導く月のような存在。
――そなたを・・・そなたのことを・・・私は・・・、
「私は・・・」
私はふたたび、恋をしてもいいのだろうか?
その問は、秋のそよ風に吹かれて、かき消えた。
紅の紅葉は、燃える恋のように。
かつての想い人の孫と、恋に傷心した幻獣。
氷上を歩くように慎重に進まねば、簡単に壊れてしまう、もろい関係。
あせることはない。一歩一歩、紅の絨毯を踏みしめてゆこう。
獏はそっと、その手に自分のそれを重ねる。それはまるで楓の葉が重なり合うように。
「名などなくとも、尊い人だった。そなたは」
「・・・・・・獏さま」
どの宝石にもまさる宝物だと、夢夜は紙をだきしめた。
〈夢糸の庭園〉では。
二本の夢の糸は月光のように輝いていた。
うすみどりの夢夜の糸と、獏の白糸だ。
しゅる・・・と二本の糸は絡み合う。よりあい、双糸となりつつあった。
獏はまだ知らない。
これはまだ、幸福のはじまりに過ぎないことを。




