青春をささげます
また数日が過ぎた。
娘の舞いを見た夜から、少しばかり心が落ち着いてきた。書物を読む気になっている。
変わらず、狐牡丹は料理を運んできた。
「また出たな」
「出ましたよ。お召し上がりください」
新人は着実に腕が上がっていた。味もしっかりしている。食材の新鮮さもあいまって、箸が止まることはなかった。
獏は新人の執念に舌を巻き、賛辞をのべた。努力したものは褒めねば。
「今日の料理はうまかったと、伝えてくれ」
「ご自分でお伝えすればいかがです?」
「おい」
「私は忙しいのです。そのものは今、キクラゲを取りに行っているはずです。裏山にいかれては?」
狐牡丹は淡々というと、スパンッ! と勢いよく戸を締めた。
「無礼な奴め」
獏はムッとしたが、主人の勤めを二ヶ月もおろそかにしていたことに思い至り、その新人のもとへ行くことにした。
さくりと土をふむ。
「・・・まぶしい」
日差しに目を細め、紅葉が紅葉し始めたのを見て、ああ、もうこんな季節かと思い至る。
譲葉のいない世界で生きる覚悟は、とうに決まっていた。
どこかで、幸せに生きていればいいと。
・・・なのに。
彼女はもう、この世にはいない。
獏はやっぱり戻ろうかとも思ったが、主人として務めを果たしてからにしようと思った。
裏山へ向かう。
紅葉が茂る木々の中、その新人とやらはずいぶん奥にいるらしかった。
(山になれたものか? それにしてもあの獲物の数々は・・・)
キツネは狩りをする。しかし獅子や鹿などは仕留められない。
では、だれが?
興味を惹かれ、新人を探して、足跡をたどり・・・途中で途切れていたので上を見上げた。
「・・・・・・あれは!」
奴婢の娘が、うんしょ、と崖を登っていた。落ちたら命がない危険な場所で。
絶壁に一本だけ生えたケヤキ。その幹に生えたキクラゲをとろうとしている。
(何をしている!?)
そう叫ぼうとして、ハッとした。
「私の食事を作っていたのは、お前だったのか・・・?」
ふた月以上、獏は娘の顔を見たくなかった。避け続け、部屋に閉じこもり、一切構うこともなかった。
屋敷にいるから大丈夫だろうと、放置し続けていた。
なのに彼女は、二ヶ月もの間、自分のために苦心してくれていた。
一度も自分が作ったなどと言わなかった。不慣れな料理をつくって、自分で食材を取って。
健康を気遣ってくれていた。
心をくんで、そっとしてくれていたのだ。
平手打ちを食らったような気がした。
(私は何をやっていた。自分で連れてきておきながら。ここには誰も傷つけるものはいないと約束しておきながら)
獏が自責の念にかられている間も、彼女はキクラゲ取りに夢中で気づかない。背に背負ったかごにいっぱい詰め、満足げに笑う。
そして引き返そうとし、――・・・足を踏み外した。
「・・・あ」
みるみる落ちていくその小柄な体を地面に叩きつけられる前に、獏はふわりと宙を飛び、娘を両腕に受け止めると、そのまま軽々と着地した。
「ばく、さま?」
娘は目を丸くして見上げた。
「なぜ、こんな無茶を?」
獏は唇を噛む。
「私はずっとお前を放置していた。いや、忘れているときすらあったのだ。なのに、なぜ、私のためにここまでする?」
「・・・」
娘は、そっと獏の顔に手を添えた。
「・・・久しぶりに近くでみるお顔・・・・。お元気そうでよかった」
「っ」
そのとき、獏は初めて、ちゃんと娘の顔を見た。
生き生きとした顔は生命にみなぎり、思い出の中の美しい女性とは違い、汗の匂い、呼吸の音、息遣いなど、彼女のすべてが獏を現実に引き戻してゆく。
娘は悟ったようだ。
ほほえみ、
「私はお祖母様には似ていないでしょう?」
という。
体がびくりとこわばった。
娘は言う。
「あいにく、私は天女の血を引いていると言っても、四等分の一なのです。天上界の方々は、こんな泥まみれの汚い手はしていないでしょう」
娘はどっこいしょ、と獏の手から滑り降りると、かごを担ぎ直し、ひとり山を降りる。
取り残された獏は、苦笑した。
負けだ。
完璧に、彼女の勝ちだ。
ふと、娘の足に目がいった。
その足は擦りむいて血が滲んでいる。
獏は後を追うと、先回りし、娘の前で膝をついた。
「・・・乗れ」
おんぶしてやろうということか。
娘は「けっこうです」と首を振ったが、「・・・すまなかった」と獏はぽつりといった。
「もう、おまえと譲葉を重ねて見たりしない。誓う」
「・・・ふう」
娘は深く息をつくと、素直に身を委ねた。
軽すぎるそれを、獏はひとゆすりし、山を降りはじめた。
「私と譲葉の関係を知ったのはいつからだ?」
「最初から。くわしくは狐牡丹さんと仙人様にききました。・・・私を拾ったのは、おばあさまに似ていたから、なんですか?」
獏は気まずげに沈黙したが、もうすべてお見通しだろう。
だがひとつ、訂正したい。
「・・・すまなかった。でもそれは違うと、誓う」
(ちがうの? じゃあ、なんでわたしを・・・?)
娘は頬を赤らめる。
獏は吐露しはじめた。
「譲葉を幸せにすると誓ったあの日。私は掟を破り、ふたりの糸を結んだ。――その翌日、譲葉は倒れた。私は夢の糸で多くの神々や罪人を処刑してきた。その報いなのか・・・。すぐさま原因を悟った天帝に呼び出された」
開口一番、天帝は糸を切れと言った。
『本来つながるはずのなかった仲を、無理やりつなぐと死期が迫る。それを知らぬお前ではあるまい』・・・と。
獏は皮肉げに顔をゆがめる。
「私は目の前の恋に盲目していたのだ。自分たちは例外だと、高をくくっていた」
天帝から突きつけられた現実。
「私は譲葉の看病に明け暮れた。引き伸ばせば譲葉は死ぬ。糸を切れば助かる。単純明快な事実だ。単純すぎて・・・あっけなさ過ぎて。やるせなかった」
――君と一緒にいる時間を、どうしても引き伸ばしてしまう。
「彼女は、迷わなかった。糸を切ることは望まなかった」
『わたしはね、獏。あなたと一緒にいられるのなら、このまま命尽きてもかまわないの』
だから切らないで。
わたしを、ひとりにしないで!
「日を負うごとに衰弱していく譲葉を、見ていられなかった。私は心底苦しんだ。あの日、『愛している』と伝えるべきだったのか。言わずにいて正解だったのか」
譲葉が倒れてからの毎日は、生き地獄だった。
互いに離れ離れでは生きられない気がしてならなかった。獏は、譲葉がそばにいることがいつしか、自分の存在意義と感じていた。
譲葉も同じ。
獏がいない生活に戻ることなど、考えられなかった。
『獏・・・。わたし、こわいの。こわくてたまらないの・・・っ!』
何度、共に泣いたことだろう。しだいに涙は枯れ果て、譲葉は涙を流す気力さえ失い始めていた。
「そしてついに、譲葉は危篤になった」
獏は一旦、言葉を切った。
背に負う娘は、かたく口を閉ざしたまま、何も言わなかった。
「だから、私は、糸を切る道を選んだ。譲葉を生かす道を。共に歩むことをあきらめて。それも愛情のかたちだと、思った」
譲葉が姿を消したと聞いたのは、糸を切った翌日だった。
獏はいつまでも、譲葉の木の前で立ち尽くしていた。
「そなたが孫娘と知ったとき、私は半信半疑ながら譲葉の面影をさがし・・・同時におびえていた」
獏は空を見上げた。
「譲葉の面影を見るのが怖かったのだ、私は。・・・また、あの別れを思い出すのが嫌だったのだ。でも、何度でもそなたは私に気づかせようとしてくれたな。譲葉とは似ていないと。私はあの時ハッとした」
「あのとき、とは・・・?」
「そなたが月夜に舞っていた、あの夜だ」
娘は目を平べったくした。
(あのとき、べろべろに酔っ払っていたから)
それは似ていなくて当然だ。しかし、獏はまじめに続けた。
「そなたを譲葉の分身のように見ていた。・・・すまなかった」
娘は間抜けな理由が気取られないよう、つんと胸をそらした。
「まったくです。・・・私の気持ちも知らないで」
獏は、足を止めた。
とくん、とくんと、ほわりとぬくもりが駆け巡る。
それは、つまり・・・?
娘は、その首にぎゅっとしがみつく。
「わたしは、獏さまに青春をささげるつもりです」
また心臓が跳ねた。先程とはまったく違う。どきどきと、背に乗る彼女も感じてしまうくらい。
「私はそなたに合わせる顔すらないのに・・・」
「話はまだ、終わっていませんよ?」
彼女は謝罪をさえぎり、続ける。
「この際だから、言わせていただきます。人は、幸せになるために生きているのです。だから、獏さまはもっと、幸せに貪欲になってください」
「・・・幸せに?」
考えたこともなかった。ずっと、不幸であることが、譲葉のためであるかのように、いつのまにか自分で自分を洗脳していた。
娘は言う。
「亡くなった方が願うのは、残されたものたちの健康と幸福です。だから獏様は、おいしいごはんをいっぱい食べて、いっぱい寝て、元気であらねばならないのです」
それで、食事を作っていたのか。
合点がいき、同時に視界が潤んできて、おんぶで良かったと心底思った。
ぽつりという。
「私は、心の何処かで、一部ののぞみを託していた。いや、違う。彼女が幸せでいることを、本気で望んでいたのだ、私は」
「はい。獏様は、ほんとうに素敵な方ですね」
娘はぽんぽんと、その頭を撫でる。はるか年下の女性に慰められるなど、情けないことこの上ないが、不思議と悪い気は起きなかった。
五十年の苦渋が救われたような。
前を向く勇気をあたえられているような。
肩にあるのは、おぼろげな手のひらの感触なんかじゃなくて。あたたかくて、ちょっと湿った手。
「愛する人の幸せを、別れた後も願えるなんて。ほんとうにお祖母様は幸せものです」
娘も、おんぶで良かったと思った。
(・・・言えない。言えるわけがない)
娘は瞼をふせる。その瞳は、にぶく霞んでいた。
(おばあさまに嫉妬しているなんて。いまも、そんな話を聞かされても、まだやきもちを焼いているなんて。あさましいわたしの心を、口にする訳にはいかない)
娘はいくども生死の狭間をくぐり抜けてきた。
かばってくれる人などいない世界で。いつだって、一人で。
自力で、生き延びてきた。
――やはり、愛されていた祖母がうらやましい。
娘は、獏の首にそっと寄り添った。
(獏さま。罪深いわたしを、嫌いにならないで)
せっかく元気を出し始めた彼に、このあさましい顔を、見られたくない。
葛藤に気づかない獏は、しばし感慨にふけった。
この娘だって、つらい思いをしてきただろうに。
鞭打たれ、虐待の限りを尽くされ、生きることすら投げ出したくなった日だってあっただろうに。
どうしてこうも、優しい言葉を言えるのか。
「・・・強い娘だな、そなたは」
すると、深く沈んだような声がした。
「強くなど、ありません。・・・ただ、生きたいなら、生きていきたいなら、そうするべきです」
獏は胸を突かれた。
(そうか・・・。この娘の強さの源は、生きることに貪欲なところだ)
――幸せに、貪欲になってください。
力強く背中を押されたような気がする。
生きているかすら、曖昧な存在の幻獣に生命の息吹を吹き込んでくれた。
(ああ、私はこれを求めていた)
薄情なところですら許してくれる人を。
欲望に忠実な生き方。それを後押ししてくれる人を。
すでにそばにいたのだ。ずっと探していた、待ち人は。
(私の待ち人は、この娘だったのか)
ほろほろと、自らをがんじがらめに縛っていた糸がほつれ、ちぎれた。
もう、自由だ。
やっと、過去の鎖がちぎれた。背におう彼女が、自由にしてくれた。
愛するだけではない。愛してくれる人。
愛も幸せも。奴婢であった彼女より、よほど――・・・。
(愛情に飢えていたのは、私の方だったのか)
もう孤独はない。
ぽっかり空いてしまった心の空洞。そこにかすかに薫は花のかおり。
彼女の髪のかおり。
日がさんさんと照る、のどかな下り坂を、軽い足取りで獏は降りる。
獏は屋敷に着くと、娘をおろし、侍女たちにお湯を持ってくるよう命じた。
「い、いいですよ」
娘は腰が引けたが、獏は逃さなかった。たらいに張ったお湯で、まるで姫君を扱うような、丁寧な仕草で裸足のままだった足を洗う。
「靴を買ってやる。もう裸足で歩くな。怪我をする」
娘は頬を赤らめる。されるがまま、じっとうつむいていた。
彼女を守りたい。そう思った。
彼女が歩く道、そこに転がる小石も、すべて私が取り払おう。
もう二度と、痛い思いも、寂しい思いもさせないように。
狐牡丹は得意げにそれを離れた場所から見ていた。
「すべて、計画道りですわ」




