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獏の夢結び  作者: 夢咲 紅玲朱


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10/21

目を合わせないひと


「獏さま・・・。どこにいるの・・・?」

和葉の話を聞いた翌朝。

奴婢の娘――譲葉の孫娘は、獏をさがして屋敷中を歩き回っていた。

まだ体は本調子ではない。ふらつく足取りは危なげで、いつ倒れてもおかしくなかった。

侍女から、獏がまだ部屋に帰っていないと知らせを受け、いても立ってもいられなかったのだ。

すると。

長い廊下の向こうから、捜索中の男の白い袍が見えた。

早朝のまばゆい光が窓から差し込む。


だが男の顔に、生気はなかった。


「ばく、さま・・・?」

声をかけようとして、ためらった。

ここに来るまで、娘はあらゆる言葉が脳をよぎった。


なぜ、お祖母様の死を、そこまで悲しまれるのですか?

なぜ、日が昇るまで、ひとりでいたかったのですか?

もしかして、ひょっとして――・・・・・・。


尋ねたいことは、山ほどあって。でもそのどれもが、辛い現実を突きつけるもののような気がしていた。

彼に惹かれ始めている、自分は聞かないほうがいいようなことのような、嫌な予感が。


だから。

呆然と、顔を上げてこちらを見た彼の視線ひとつで、質問はぜんぶ吹き飛んでしまった。


――わたしじゃない。違うひとを見ているような目。


「っ」

娘は胸に手を添え、荒い呼吸を隠そうとした。

感情を殺すのは慣れているはずだった。殴られようと、鞭打たれようと。

それなのに。彼のこととなると、こうも取り乱す。

よろけ、壁に背を預ける娘。獏はまったく変わらぬ足取りですり抜けた。

瞬きのような短い瞬間。

でも、娘には時が止まったようにゆっくりと見えた。


無視したわけではない。

気づいてすら、いなかったのだ。


次の瞬間、娘はハッとして、振り向いた。


我に返ったときには、すでに獏の背中は消えていた。





獏は塞ぎ込んだ。娘と廊下ですれ違っていらい、自室にこもりきりだ。

食事は取らずとも生きて行ける幻獣は、書斎でただただ、朦朧としていた。


生きながら死んでいるような日々だ。譲葉のことばかり脳裏によぎる。

ただただ、呆然と日がのぼり、日が沈んでゆく。




それでも毎日かかさず、女中頭の狐牡丹は食事を運んできた。

「いらん」

獏はそう言って遠ざける。引きこもってから一転してまずい料理になったのは、女中たちがたるんでいるからだろうか。・・・ますます食欲がなくなる。

「お召し上がりください。食は生きる基本ですよ」

「私は生物ではない」

「揚げ足を取るとお世話しませんよ」

「む・・・」

獏は顔をしかめた。

古くから仕える狐牡丹には逆らえない。

女中たちは皆キツネだ。報酬と引き換えに、獏はメギツネたちを雇っていた。報酬とは、幻を魅せる妖力を分け与えること。

人を化かす妖狐にとって、これほどおいしい職業はない。

獏は妖狐の気迫に負けて、しぶしぶ箸を取る。

「・・・この粥、うすすぎる。それに出汁もじゅうぶんにとれていない。誰が作った?」

指摘すると、

「職人は怪我をして寝込んでおります。新人が作ったのです」

と、しゃあしゃあと狐牡丹は言った。

「お前が作れば良いのではないか」

「私の仕事を、これ以上増やす気ですか」

妖狐は一喝した。

獏は眉を寄せ、嫌々まずい粥を口に運ぶ。

味の才能はいまいちだが、食材は極めて新鮮なものだった。肉も、魚も、山菜にいたるまで、今しがた仕入れてきたような。それ自体は悪い気はしない。

忙しいと言うわりに、狐牡丹は食べ終わるまで見張っているつもりらしかった。

・・・あまりゴネるのも、大人げない。

獏は腹をくくり、すべてたいらげた。

妖狐はうなずくと、満足げに退室した。



人間と幻獣は、時間の感覚が違う。

気づけば、夏は終わっていた。


壁代わりの布をゆらし、ひんやりと涼しい風が運ばれてくる。


季節は秋になろうとしていた。



今日も、獏はぼうっと窓から空を見上げていた。

同じ職人が作った料理が、変わらず運ばれてくる。

「いらないといったはずだが」

「生きる基本だと言ったはずですよ。いい歳して周りを心配させないでくださいな」

問答無用で箸を握らされる。

その日は饅頭だった。しかし、具材は大きく切りすぎていて、味付けもちぐはぐだ。

「・・・そのあたらしい新人とやらは、料理をしたことがないのか? 食材を見る目は確かなようだが」

獏は耐えかねて、侍女頭をにらむ。

「さあ? 苦労して育った娘ですので、いい食事がどんな味なのかご存知ないのでは?」

狐牡丹はさらりと言った。

今日も、獏は不思議と平らげることができた。


引きこもり、朦朧としていても、入浴は習慣化していた。

夜。風呂からあがり、部屋へもどると、獏は部屋に違和感を覚えた。

道具の配置が変わっている。それだけではなく、机の上、壁の装飾のくぼみにいたるまでホコリがきれいに拭き取られていた。

使用済みの(しょく)は撤去され、新品と交換されている。いつもより部屋が明るい気がしたのは、気のせいではなかったようだ。

「・・・誰だ。許可なく私の部屋へ入ったのは」

獏はむすっと唇を引き結ぶと、侍女たちをにらんだ。基本、他人に私物を触られるのは好きではない。

「私達じゃありませんよ。新人です」

侍女たちは妙な含み笑いをすると、すたこらと逃げていった。

謎の新人は、妙に気が利く狐のようだった。

でも、気づかいは過ぎればおせっかいである。

明日呼び出して叱っておこう。そう決めた時、甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。

(――桃・・・?)

寝台の横に、桃がこれでもかと積み上げられていた。桃源郷では、桃は年中手に入る。

しかし、なんの意図があって桃を・・・?

獏は首を傾げた。ほんとうに奇妙な新人の狐だ。主人の寝所に果物など置いて、何がしたいのか。

そのとき、お子様の声がした。

「果物の香りは、安眠効果があるんだよ」

仙人が、こつこつと杖を突きながら部屋に押し入ってきた。

「おまえ、まだいたのか」

「いるよ。俺の他にも。・・・いろいろ忘れ過ぎだよ、おまえ」

ちいさな友人は、ぴょんと寝台へ飛び乗ると、桃を手に取り、しゃくしゃくとかじりつく。たっぷりの果汁が口から滴り落ち、敷布を汚していく。

「いやあ、いい新人見つけてきたねぇ。眠りにまで気を回してくれるなんてさ。おまえに気があるんじゃねーの?」

「・・・おい」

獏は目を平べったくすると、手の骨を順に鳴らしていった。もう新人への怒りはない。むしろ、せっかく掃除してくれたのに、果汁でベタベタになってしまったではないか。

仙人は危機を察知した。懐に詰め込めるだけ桃を詰め込むと、獏の手をかいくぐり、サササッと窓へ飛び移る。獏はすかさずあとを追った。

「待てっ! 桃をかえせ!」

「やなこった。おまえにゃもったいねーもんっ!」

言うが早いか、仙人はバッと窓から飛び降りた。

「貴様っ! いたずらだけして逃げる気かっ!」

獏は窓から顔を出し、桃泥棒へ怒声をあびせる。おかげで今夜の寝床が台無しだ。



いっぽう、仙人は桃をかじりながら、夜空の月を見上げる。

「女の好意を無にするなんざ、いいご身分だってことだよ。バカヤローめ」

ぺっ! と庭へ桃の種を吐き捨てた。





(そろそろ気づかないかなぁ)

娘は獏の部屋の中を掃除しながら、ほー・・・とため息をついた。

ここは彼のにおいがいっぱいで、落ち着く。

仙人に入れ知恵してもらった安眠のための桃は、結局撤去されてしまった。

彼はここ数日、日中は外出して帰ってこない。

(わたしたち親子と、顔を合わせたくないのだわ)


廊下ですれ違っても彼は挨拶こそしてくれるものの、かたくなに娘の顔を見ようとしなかった。


・・・かまわない。無理強いはするまい。


(掃除を拒絶されたわけではないから、まだわたしの仕業とはバレていない・・・と思うし)

母は快復した。仙人とおやつの桃を食べるほどだ。

幸せそうな母の、おだやかな顔を、はじめて見た気がする。

(獏さまと出逢ってから、〈はじめて〉がいっぱい増えた・・・)

それも、幸福な〈はじめて〉ばかり。

心安らぐ時間など、生涯無縁だと思っていたのに。獏には一生感謝してもたりないくらい。

――でも。

娘には気になっていることがあった。

自分の心だ。

(これは、ほんとうに〈感謝〉だけ?)

落ち込んでいる獏の顔を見れば見るほど、謎の熱情にかられる。

彼が孤独であるほど、そばにいたいと思う。

落ち込めば落ち込むほど、なにかしてやりたいと思う。

これはほんとうに、〈感謝〉なのか。

祖母と恋仲だったことは、侍女たちから聞いた。娘はうすうす感づいていた。

ひとの顔色ばかりうかがってきた人生だ。相手がなにを考えているかくらい、すぐにわかる。

譲葉の話を聞いたあと、廊下ですれ違った彼の顔は、まさに恋に傷心した男の顔だった。

(おばあさまは、どんな人だったのかしら)

美人だったとは、聞いているけれど。


――あの人にあんな顔をさせられるくらい、魅力的な人だったの?


娘はちくりと胸が痛んだ。

(おばあさまのことなんて、考えたくもないっ!)

娘はどんっ、と花瓶を置いた。

祖母は生まれたときにはすでにいなかったし、母が奴婢の身分まで落とされたのは彼女のせいだ。まったく恨んでいないと言えば、嘘になる。

彼をここまで悩ませる祖母が、とてつもなく羨ましい。

(わたしは美人じゃない。ひとを魅了する華もない。・・・おばあさまのようには、なれない)

こうして、獏がいないときにせっせと部屋を掃除して。でも自分がやりましたと告げる気はない。親切の押し売りのような気がするから。


『裏返せば・・・自信がないだけではないのか?』


急に第三者から問われたような気がした。

娘は「ふう」と深く息を吐いた。まぶたを伏せる。


(これは世間一般の、単純な嫉妬とはわけが違うの)


彼女は母を生んでくれたひと。

自分がこの世に生まれる基礎となったひと。

正直、五十年前などと大昔の話をされても、よくわからないし、結局、血の繋がりはおそろしい。

嫉妬心を肉親にぶつけるのは、なんだか違う気もする。


・・・・・・・・・フクザツだ。


(おばあさまに嫉妬する女も、めずらしいものよね)

余裕めいた言葉を吐く。余裕なフリをしているだけ。・・・きっと流星になった祖母は笑っているはずだ。

話しかけられもせず、顔すら見られず、希望も皆無なこの状況で、よくも前向きに掃除などしていられるものだと。

(勝手に笑っているといいわ)

娘はふんっと息巻く。

獏はもともと、高嶺の花なのだ。こうして、同じ屋敷に住まわせてもらっていること自体、奇跡。

奴婢だった時間は、娘の幸せの器をとても小さくさせていた。

どんなことでも新鮮に感じるこころ。欲張らないこころ。無欲さを、とことん育ませた。


だいじょうぶ。足ることを知れば、不足はない。

だいじょうぶ。いつかきっと、わたしのことを、見てくれる日が来る。

だいじょうぶ。さみしいのは、我慢できる。


・・・だから、この祖母へのちょっとの苛立ちも、蓋をする。


(わたしは、おばあさまとは違う。死んだあとまで、獏さまを束縛したりしない)

獏に幸せにしてもらうだけではない。

もっともっと、彼自身に幸せをあたえたい。

笑った顔が見たいのだ。

饅頭を食べながら帰った、あの日の夜のように。軽口をたたきあいながら。


だから今日も、彼の部屋を掃除する。

決して悟られないように。

愛情を押し売りしたくないから。

傷心した彼に、これ以上自分のことで、気を使ってほしくないから。

それが自分の〈誇り〉だ。

祖母と違うところだ。

・・・・・・・・・そう信じている。



日中掃除を終え、夜更けに彼が部屋に入っていく。自分が用意した燭に火を灯すのを、離れた夜の庭からながめるのだ。

壁の代わりにかけられた布にうつるその影を、娘は草むらからうっとりとながめるのが好きだ。いつの間にか、習慣化している。

あさましい、と思う。人さまが落ち込んでいるのに、今の環境を楽しんでいるなんて。


でもやめられない。

獏には悪いが、この上なく、幸せだから。



「獏さまは、いつ気づくかな・・・?」

ごろりと草むらに横になり、星空へ手を伸ばす。

落ち込んだりしない。楽しいことは、いくらでもある。

夢幻の夜空は、地上より遥かに面白い。

つねに星は生き物のように動く。流れ星など数え切れない。

きっと、祈りがいくつあってもたりない。

娘は思う。

こんなに星が綺麗なのは、わたしの心に明かりが灯っているからだと。

わたしにいつか気づいてくれるかな、などと思いつつ、いつもの癖で、また野宿してしまった。




「おーい、野生児。起きろ」

目を開けると、お子様の顔面が間近に迫っていた。仙人だ。

娘は「きゃああっ!?」と盛大に悲鳴を上げる。口づけされるかと思うくらい、間近だった!娘のうぶな反応に満足すると、仙人はのんびり隣に腰を下ろした。

「こんなところで寝てちゃぁだめだろ。またお局様にどやされんぞ」

お局様、とは侍女頭の狐牡丹のことだ。

娘は苦笑した。

「優しい方ですから、折檻はされません。仙人様はなぜここへ?」

「おまえとおんなじ目的さ。・・・こっから、あいつの部屋が見えるんだろ?」

そういって、仙人は草むらに寝転がると、うつ伏せで標的の部屋を覗き見た。

いつの間にか、獏は帰宅していたようだ。

「き、気づいていたんですか!」

あわわ・・・! と顔を真赤にしてうろたえる娘。仙人はその頭をぎゅっと抑え込んで、一緒に身を伏せるようにうながす。

「まあ、見てな。おもしれぇもんが見られるぜ」

「な、なにをするおつもりですかっ?」

仙人は、杖をかるく一振りした。

途端、天候は悪化。

樽を引っくり返したような雨が、暴風とともに屋敷を襲った。豪雨は壁代わりの布を吹き飛ばし、部屋の中の家具をなぎ倒す。床はずぶ濡れ。浸水しそうなほどだ。

天気はすべて獏が管理している。

よって、雨への備えなどしていない。

娘は奇声をあげ、目を剥いた。

「ああーっっ!! 私せっかく掃除したのにぃっ!?」

「ばかやろー、虚しい努力続けて、あいつが気づくような男に見えるか?」

仙人はにやりと笑った。うっと言葉に詰まる。

「・・・いやいや。でもですね」

娘は眉を寄せる。そうこうしているうちに、獏が部屋から飛び出してきた。

火喰(ひぐい)―!! 殺してやるから出てこい!!」

〈火喰〉は、仙人の名前である。

「やっべ、バレた! 逃げるぞ!」

仙人はまるで子供、いや子供なのだが、そのまま娘の手を引いて走り出した。

下手人を見つけた獏は追ってきた。

そうとう怒っているらしい。彼は幻獣の姿に変身すると、空をかっ飛ぶ。

(あれが、獏さまの本来のお姿?)

娘は目を丸くする。

鼻は信じられないくらい長い。口の端から長い牙が生え、白々とした巨体は牛のようでもあり、虎のようでもある。

これが幻獣なのか。想像していたより、はるかに雄々しく、猛々しい。

同時に、乳白色の肌はとても優美だ。

いっぽう、火喰仙人も負けていない。

杖を一振りすると、真っ暗な空間が地面に、水たまりのように浮き出た。まるで宇宙だ。

仙人はひょいとその中へ入ってしまう。

「ええ? 待って!」

得体の知れない世界に連れて行かれるような恐怖心と好奇心に胸をくすぐられる。

どっちについていこう?

獏を取るか仙人を取るかで悩んだが、水たまりの空間から仙人の剛腕が伸びてきてひょいと引っ張られる。悲鳴を上げるひまもない。問答無用。娘は水たまりに引きずり込まれた。

娘の足が吸い込まれ、見えなくなると、黒い水たまりはフッと消えてしまった。

「火喰・・・。なにを考えている?」

獏はしゅる・・・と、もとの姿に戻る。

雨に打たれながら、しばし連れ去られた娘をどうしようかと思案した。



水たまりの空間は、夢幻の世界から離れ、天界に通じていた。

娘と仙人は、ふわりと水晶の玉砂利に降りた。どこかの屋敷の通路のようだ。獏の屋敷より、はるかに豪勢で手入れが行き届いている。

「危なかったなぁ」

火喰は額の汗をぬぐった。娘は眉尻を下げる。

「だいじょうぶでしょうか。怒られるんじゃ・・・」

「女にばっかり任せてた報いさ。それに、あの程度でキレるやつじゃねえよ」

そうだろうか。とてもお怒りに見えたけれど。

(まあ、いいか)

男の子の友情は、よくわからないが、仙人が長年の友なら、任せていいのかもしれない。

思い直し、娘は辺りを見渡した。

まるで城のような巨大すぎる建物がそびえ立っていた。

石を幾重にも積み上げた城壁は空に届きそう。見上げるだけで首が痛くなる。

黄色の瓦屋根は黄金のようにまばゆく、地平線まで続いているようだった。奥に行けば行くほど霧で霞んで見えないほど。

階段は白い大理石でつくられていた。火喰と娘がいるのは階段へ続く通路だ。楓の樹の木陰に身を潜め、ふたりは石畳の広間を見下ろした。

華やかな羽衣がひらひらと、繚乱の花びらように舞っている。

どうやら宴に備えて練習があっているらしい。芸妓たちが数名で踊っていた。

「天女たちだよ」

仙人は耳打ちする。

「今度、天帝の宴が開かれるから、稽古してんだ。・・・ほら」

ちいさな指で、とりわけ華やかな衣装の女性を指差す。先頭と脇役では衣装の色も作りも違うようだ。

「先頭で舞ってる彼女が、いま天界一、舞の名手の天女だ。彼女は譲葉がいなくなったから先頭で舞えるが、以前は背後で譲葉の引き立て役だったんだぜ」

娘は目を丸くした。

「おばあさまは、舞いがお上手だったのですか?」

「あたりめーだ。譲葉ほどの名手は、もう現れないだろうなぁ」

娘はしげしげと練習に明け暮れる天女たちを見つめた。

祖母が、あそこで踊っていたというのか。

「見てみな。先頭の彼女の髪の色を」

「・・・金色、ですね?」

娘は怪訝な顔をする。

「お前のばあさんは、銀色の髪をしてたよ」

仙人は懐かしそうに笑う。娘ははっとした。

「月光のように綺麗だった。みんな羨ましがったもんさ。天女の多くは黒髪だ。天性の才女にしか、あの髪の色は出ないからな」

「・・・私は、比べられて当然ですね」

ぽつりと娘は言った。

「おばあさまはなんでも持ってらっしゃった。美しい容姿も。美しい舞も。獏さまの愛も。――私は見ての通り、美しい手足も、細い指も、銀の髪もありません。・・・体だって、古傷だらけで、あのような露出した衣装、着られません」

背中の古傷は、一生のこる。

犯してもいない罪を背負わされた気分だ。なにも悪いことはしていないのに。どうして自分ばかりこんな目にばかりあうのだろう?

娘は、無理にはにかんでみせた。

その笑顔は――〈あきらめ〉。

天女と自分とは一切、関わりがないことだと。

もう、譲葉のような才女だと期待しないでほしい。そう言っているようだった。


祖母と比較されるたびに、心から血が吹き出すような感覚を覚える。


もっと違う家に生まれていたら。

最初から天上界で、天女に生まれていたら。

こんな暴力にまみれた惨めで悲惨な人生を、歩まずにすんだ。

そう思ってしまう。優雅に舞い、己の美しさに自身を持って人前に出られる苦労知らずの天女たちが、どうしようもなくうらめしかった。


(もう、これ以上、わたしを惨めにさせないで)

娘は鼻の奥がつんとうずいた。

膝を抱える。眼下には、女の子なら夢中になる世界が広がっている。

自分には縁遠い世界。もう二度と、見たくはない。

なのに。


――ああ、なのに惹きつけられる。


心とは、なぜこんなに正直なのか。

娘はしみじみと舞に見とれた。

いずれも見たことがない衣装、振り付け。


――きれい・・・。


素直に、そう思った。

ただ、それだけ。

・・・・・・それだけだ。

でも、脳にはしっかりと振り付けがすべて記憶された。

(まあ、いいさ)

仙人は、娘から視線を背後へ移した。

木の枝が不自然に揺れている。〈誰か〉が身を潜めているのだ。

気になってあとをつけてきた。出てくる度胸もなく、身を隠すしょうがない男には、ちょうどいい刺激になっただろう。――仙人はほくそ笑む。


夕方になり、仙人に帰宅をうながされるまで、娘は憂い顔でじっと舞を愛でていた。





夜更け。

娘は獏の部屋を、庭の同じ場所から眺めていた。

びしょ濡れにされた部屋の掃除は狐牡丹たちががんばったらしい。仙人はどこぞに雲隠れし、獏は戻らないままだ。

(今夜は帰ってこないのかしら)

残念だ。会話もままならない今、彼を愛でるのはゆいいつの至福の時間だというのに。

一日中連れ回された娘は、疲れ果て、腹がすいた。

誘惑に負け、厨へ向かう。

夜だからだろう。誰もおらず、明かりも灯っていない。

村にいた頃は、盗み食いなどありえないことだったが、こうして小腹がすいたときにとがめられないのはありがたい。

作り置きの食材をいくつか失敬し、ふと膳に目が行った。

獏の夜食のようだ。

蒸し菓子が、うまそうに照り輝いている。

娘はしばらく、自分の欲望と葛藤した。・・・が、つい手が出た。

(許してください獏様。・・・ひとつだけ)

みみちいネズミのような所業だが、心の広い彼なら許してくれるだろう。

ひとつだけ、菓子をつまみ、変わった風味の食べ物だなと思いながら咀嚼した。


――・・・・・・酒が入っているとも知らずに。




厨を出た娘は、不思議なふわふわとした感覚になった。

(なにこれ。おもしろい。雲の上を歩いているみたい・・・)

鳥が旋回するようにくるくる回っては、柱に激突して顔をしかめた。

(なにか・・・いけないものを食べたてしまったのかな?)

だが腹を下す様子はない。悪いものではなさそうだった。

とにかく高揚した気分は最高で、娘はふらふらと、庭へ出た。

屋敷の中は、行儀作法にうるさい狐牡丹が目を光らせている。

野外のほうが気楽だ。

やはり仙人が言う通り、自分は〈野生児〉だと自覚して、おかしくなった。

開けた場所へ出て・・・ふと、昼間見た踊りの振り付けを思い出す。シラフなら恥ずかしくて惨めになるから、ぜったいやらない。

でも今なら獏は留守だし、だれも庭などにこない。


ふらふらと、気分良く、脱力したまま舞いはじめた。

「ふ・・・っ」

最初は遊びだったそれは、次第に娘を本気にさせた。

蟷螂(かまきり)の鎌のように指先を細くするどく、意識して。

蟷螂は蝶を狩る狩人だが、その動きは繊細で洗練された〈美〉がある。それを表現したい。しっとりと妖艶な笑みを貼り付け、袖の隙間から流し目で月を愛でる。

天女にしては勇ましい。しかし、剣舞のようなあやうい〈美〉は見るものを魅了する。


――〈才女の華〉を娘は持っていた。



仙人はそれを、離れた場所から木の枝に腰掛け、酒を煽りながら見ていた。

「さっすが、譲葉の孫。一度見ただけで習得しやがった」

初心者にもかかわらず、昼間の天女たちより抜きん出ている。



娘は見物人に気づかず、舞いに陶酔した。


ああ、楽しい!

全身を浸かって表現するのは、こうも面白く、こんな自分でも美しくなれるような気にさせてくれるものだったのか。

背中の古傷に、翼が生えたような気がした。

もっともっと、うまくなりたい。

なにかに夢中になるのは、はじめてだ。

・・・が、ふと、ある男と目があって、動きを止めた。

獏が、離れた木陰に立っていた。

娘は息を呑んだ。いつからそこにいたんだろう。

(また、あの目。私じゃない、違う人を見ているような瞳・・・)

くるりと、踵を返して獏は行ってしまう。

娘は、すっかり酔いが冷めた。

ずん、と肺が重くなる。

また、祖母を思い出したのだろうか。

大好きな踊りは、もう二度と舞えない。舞いたくない。

背中の古傷より、重い(かせ)となった気がした。




獏は部屋へ戻ると、明かりもつけずに座り込んだ。

(まったく、譲葉とは似ていなかった)

譲葉の面影を捜して、ついつい警戒しながら見ていた。でも似ていたのは天性の才だけ。

譲葉が蝶なら、娘の踊り方は、天竺にいるというハナカマキリだ。花びらに擬態した鎌で獲物をとらえる虫。

荒々しく勇ましい、挑むようなもの。

性格の違いだろうが、いずれも違う魅力、趣があった。

勝手に期待して、面影を捜しておいて。どこにも彼女がいなかったことに落胆して。

でも、

「私は、安堵しているのか」

ホッとしているのだ。

あの娘は、譲葉に似ていなかった。それにとても安堵したのだ。

彼女との思い出は、甘酸っぱいと同時に痛烈な傷となっていた。

同じ別れでも、死別はまったく違う。もう二度と会えないのは同じはずなのに。

だから、こう思ってしまう。


――もう一度会いたい人は、二度と会いたくないひと・・・かもしれないと。


故人からすれば、涙が出るような薄情さが、残されたものには生きる糧となることを、はじめて知った。

(すまない。譲葉・・・)


――私は、君を思い出すことから逃げ出したい、・・・などと、思ってしまった。


「軽蔑してくれ」

獏は自嘲し、そのまま机に突っ伏した。

眠りに落ちる。



庭からは「寝たのかな?」と、娘が行きたい感情をこらえ、うずうずしながら、見守っていた。




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