出会い
夢幻の世界には、〈獏〉という幻獣がいる。
人はおろか神の運命すら左右させる〈夢結びの糸〉を操る影の処刑人であり、天帝の近臣だ。
夢結びの糸は、縁結びの糸に等しい。
実れば糸は寄り合い、一本の太い糸となる。
縁が切れればちぎれる。
縁のない者同士を無理やり結びつければ、途端に不幸の連鎖を引き起こし、互いの寿命まで縮んでしまう恐ろしい一面もある。
〈夢糸の庭園〉には、現世の人間たちや神々の糸が集められていた。機織りの糸のようにまっすぐぴんと整列され、もみじの枝にかけられている。
糸は魂を象徴する色をしている。色とりどりの美しい糸たちは今日も、風にかすかにゆれていた。
獏は金の鋏を取り出した。
規則正しく並んだ糸の束。そのなかに、一か所絡み(からみ)合ったぶかっこうな糸があった。
ちょきん。
獏はためらうことなく糸を切る。
切った糸を、正しい場所へ――天帝が命じた場所へ結び直し、彼は無表情に空を仰いだ。
今しがた切った糸の持ち主は、これから縮んでいた寿命が戻るだろう。
そしてつらい別れを経験するはずだ。
――だがそれもこれも、自らが引き起こした〈恋〉の執着ゆえ。
(私のように・・・)
獏はまぶたをふせる。
さわ、とぬるい風が、木陰に冷やされて運ばれてきた。
夏がはじまった。
現世では、蛍が見頃だろう。
実らぬ恋に身を焦がす、哀れな虫たちの季節だ。
なんとなく、現世へ足が向いた。
五十年ぶりの、あの女人との思い出の地へ。
奴婢の娘は、裸足で夜の深い森の中を駆けていた。手には体より大きな壺が重そうに握られている。お仕えするお嬢様が突然、山の湧き水が飲みたいと駄々をこねたのだ。
今は真夜中。しかし断れば、きつい折檻をされる。
やむなく、月明かりを頼りに、獣が潜む危険な山道を行くはめになった。
娘は骨が浮き出るほどに痩せこけていた。髪にも顔にも泥がこびりつき、ぼろ雑巾のような一枚の布で体を隠している。泥や草の露の他にも、よく見れば血液のようなものすら混じっていた。
昨日から、まともな食事にありつけていない。村では宴が開かれ、奴婢たちは寝る間もなくこき使われている。
豪勢な食事も、酒も、すべて用意したのは奴婢たちだが、手をつけることは許されていない。
酒や雑談に夢中な村長たちはのんきなもので、奴婢の一人や二人、のたれ死んでもかまわないとすら思っているだろう。
奴婢は名前を付けることすら許されていない。
壺を抱えてひた走るこの娘には、名前がなかった。
生まれた時から奴婢だったこの娘は、自由の意味すら知らないのだ。
――無論、恋など、生涯無縁のはずだった。
無愛想なカタブツ幻獣と、ばったり出会うまでは。
森の奥深く、ぽっかりと空いた泉の淵に鎮座する岩。そこに男が腰掛けていた。
「っ」
娘は一瞬、妖怪が出たのかとたじろいだ。
それも無理はない。男は、夜の闇の中、淡い光を帯びていたからだ。
「にん、げん・・・?」
娘は食い入るように見つめる。
男は、ゆったりとした真っ白な異国の袍を身にまとい、腰に翡翠の佩玉と金の鋏を挿した革袋をさげていた。
よく見れば袖に呪詛のような文字が銀の糸で細かく刺繍されている。
彼はゆっくりと、娘の方へ視線を投げた。
ふわり、短い黒髪がゆれる。
男の白銀の瞳と娘の目が、ぱちっとあった。
「・・・人間の小娘か」
抑揚のない声で彼は言った。
顔周りの髪を顎のあたりで切りそろえている。二十歳そこそこのようにも見えるが、感情の一切を封じ込めたような無表情は冷ややかだ。
恐ろしいほど冷静沈着に、目の前の娘をとらえていた。
妖怪か。はたまた神様なのか仙人なのか。娘はごくりと息をのんだ。
どちらであれ、見つかってしまった。妖怪であれば喰われてしまうし、神様であれば・・・・・・どうなるか見当もつかない。
しかし男が娘に興味を示したのは一瞬だった。
ふいと視線をそらされる。まるで野良猫を相手にしているようだ。
いてもかまわないし、邪魔しなければ危害を加えない。そう言っているようだった。
娘はほうと息を吐いた。どうやら死なずにすむらしい。
だが、この泉の水は汲んで帰らねば。
痛いほどの沈黙。
森の木々の葉をぬるい風が抜けた時、娘は意を決し口を開いた。
「あのっ。こ、この水を少しいただいても、よろしいでしょうかっ?」
緊張でうわずった声がでた。顔を真赤にして返事を待つ。
彼は無言だった。こちらを気にする風でもない。
(これは、了承、と思ってもいいんだよね?)
娘は勝手に結論づけると、そそくさと壺を水に深く沈み込ませた。
ゴボッ。
水音がしんと静かな森に響く。
娘は要領がいい。水を汲むのは、あっという間に終わった。
手早くすませようと思っていたが、やっぱり気になって、娘は男を盗み見た。
影を感じる相貌だ。どこか孤独な匂いがする。
ふわり、蛍が舞う。
一匹だけでさまよう蛍は、光の帯を引きながら娘と男の間をふらふら舞った。木陰から出ると、月光に負けおぼろげな光はかき消されてしまう。
娘は、この場を離れるのに躊躇した。彼の虚ろな表情が気になったのだ。
しかしお嬢様を待たせるわけにもいかない。
「あ、ありがとうございました。かみさま」
娘はぺこりとお辞儀すると、いそいで壺を頭の上へかつぎ上げた。
(月が出ているうちに、戻らなきゃ)
せっせと森へ小走りで消えていくその背を、男はひそかに見送っていた。
森をぬける途中、無数の獣の気配を感じる。
(きっと、狼だ)
娘は、ごくりと嫌な味のするつばを飲みこんだ。
倭国の狼は、特殊な習性がある。ころんだり、弱って座り込んだりしない限り襲ってこない。
狼の群れは、娘のあとを執拗に付ける。
痩せこけた体は、弱った動物とみなされたらしい。重い水をよたよたと運ぶ娘が転ぶのを今か今かと、待っている。
水を捨てて走るのは簡単だが、それでは村の人間から殺される。どうあっても、転ばずに集落まで運び切るしかない。
娘は口から心臓が飛び出すような、生きた心地のしない帰路を歩む。
(骨と皮だけのわたしなんて、食べても美味しくないよ)
自虐じみた台詞だが、祈るように心のなかで繰り返した。
背後にばかり注意がそれてしまう。それがいけなかったのかもしれない。
木の根っこに足が引っかかってしまった。
「きゃあっ!?」
ぐらりと体が揺らぐ。
ゆっくりと時が流れているようだった。
娘の目には、よだれをまき散らし牙をむく狼がはっきりと見えた。水がザバッと音を立て、壺が体ごと地面へ投げ出される――・・・!
死を覚悟した。そのとき。
ぱしっ! と、屈強な腕が伸びてきて、壺と娘の体を受け止めた。
「夜道を女がひとり歩きとは、正気か」
娘は息をのんだ。
さきほどの神様が、たいそうご立腹な様子でこちらを見下ろしていた。
低い声は氷のようにひややかだが、体に回された手はあたたかい。
「ど、どうしてここへ・・・?」
ほうけた声が出た。
男はしばし娘をにらみつける。ついで背後の獣たちをするどい視線で射ぬいた。
「疾く去れ!!」
すさまじい殺気。たった一言だけで、獣は敗北を悟る。
狼は尻尾を巻いて娘から離れると、我先にと草むらへ飛び込んだ。がさりと音を立て、静寂がおとずれる。
娘はぼうぜんと一部始終を見ていた。
やがて、男をしみじみと見上げる。
「かみさまは、お強いのですねぇ・・・」
「私は神ではない。そのような呼び方をするな」
男は娘を支えるのをやめた。
「ちょっ!?」
娘はその場に投げ捨てられた。彼はさっさと水の入った壺だけを持って行ってしまう。
「ま、待って!」
娘はあわてて、その後を追った。
「あの、狼を追い払ってくださったのはありがたいのですが。つ、壺をかえしてください!」
「死にたいなら返してやる。お前のその足取りでは、麓の村につく前に噛み殺されるぞ」
「え・・・」
娘は瞬いた。
(それって、村まで送ってくれるってこと・・・?)
なんだかわからないが、娘は胸に明かりが灯ったような心地がした。彼の気まぐれだろうが、初対面の人にここまで親切にされたことはない。
「おい。・・・すこし離れろ」
不機嫌そうに言われ、娘は「あっ。すいませんっ」と叫んで離れた。いつの間にか、彼の袖をにぎりしめていたらしい。
(さ、さっき死ぬところだったから)
いいわけじみた事実を言おうとしたが、やめた。かえって気まずくなるだけだ。
それより、まだ礼を言っていない。
「あのっ。助けていただきありがとうご」
ざいます、と続けるはずだった。
しかし、度を越した空腹は時と場所を選ばない。のんきな大音量は、語尾をかき消してしまう。
(はずかしい・・・! バカッ、わたしのバカッ! みっともない!)
娘は腹をおさえ、赤面しうつむいた。
頭から湯気が噴き出すようだ。礼さえまともに言えない。まるで子供ではないか。
「・・・腹が減っているのか」
幸いなことに、男は笑わないでくれた。
懐から、笹の葉の包み紙を取り出し、ひょいと娘へ放る。
「な、なんですか? これは」
「饅頭だ。そのざまでは近いうちに倒れるぞ」
彼の言うことはまとを得ていた。
娘の体はあまりにも痩せすぎている。
飢餓寸前で、よく笑っていられるものだ。
まんとう、と娘は復唱すると、見たことがない食べ物を興味深く嗅いだ。あやしいものは入ってなさそうだ。なにやら甘い香りが食欲をそそる。
「いただきます」
おそるおそる、一口かじり――・・・・・・、娘は大声を上げた。
男は思わず、水をこぼしそうになった。
「なんだ、そうぞうしい!」
「ふああっ!! おいしいっ、これはこの世の食べ物ですかっ!?」
娘は夢中でむしゃぶりついた。
饅頭の中には獅子肉が入っていた。やわらかい。見知らぬ植物と炒めてあるようだ。
この世に、こんなおいしいものがあったのか! 感無量。涙が出る。
「かみさまは、どこから降りてこられたのですか? これはかみさまが作られたのですか? こんな料理、見たこともたべたこともありません!」
「神ではないと何度言ったら・・・!」
彼は叱りつけようと娘を睨んだが、至福なひとときとあまりにもふぬけた顔をしていたので、怒るに怒れない。
男は、娘をじっくり観察した。
――痣だらけの顔。汚れたうなじ。枯れ木のような腕。血がにじむ足・・・。
裸足でいつも歩き回っているようだ。血まみれだが、まったく気にとめる様子はない。
男は、しばし思案すると、さりげなくたずねる。
「そなたはいつも、そのような格好をしているのか?」
娘は少しわらった。
「・・・すみません、お目汚しで。高価な着物はゆるされないのです」
娘は饅頭をかじりながら、ちゃっかりと母の分も確保する。本日分の食料確保だ。
男は言う。
「花の美しさはそれぞれ違う。気にすることはない」
「っ」
娘は胸が変な感じがした。なんだろう、胸がきゅうっと締め付けられる。
「花、ですか? わたしが?」
目を輝かせた。すると男は意地悪く笑った。
「どうした。雑草がよかったか?」
「・・・花でいいです」
娘はしゅんとした。
(なぁんだ。冗談かぁ)
彼が美しいからかもしれない。だから、なんでも魅力的に聞こえるのかも。
男とはそれきり、会話が途切れた。それでもふたりは一定の速度で休むことなく歩き続ける。やがて村の灯りがぽつりぽつりと木々の間から見え隠れし始めた。
「あの村に住んでいるのか」
男は言った。
娘は、憂い顔ではにかんだ。
「・・・〈住んでいる〉とはすこし違う気もします。わたしは、家を持つことを禁じられていますから。家に帰るというのが、どんな感覚なのかもわかりません」
「馬鹿な質問で悪いが、家出ではなさそうだな」
「奴婢、ですから。母の代からずっとなんです」
じわり、涙がにじんだような気がして、男はあわてて話題を変えた。
「ここの土地神は誰だ」
〈土地神〉とは、その土地の守り神である。
人間が間違いを犯せば罰せねばならない。奴隷制度など、許してはならないのだ。
娘はええと、と麓の村から隣の山へ指さした。
「あそこの岩山の洞穴に眠っておられる大蛇さまです。五年に一度、生贄を求めるこわい水神様ですよ。若い女の血肉がお好みだそうで・・・。あ、今年は五年目だったかしら」
けろりと教えられ、男は目を丸くする。
「おい、そなたは大丈夫なのか?」
「問題ありませんよ。大蛇さまは舌が肥えていらっしゃいますから、白羽の矢が立つのは美人ばかりです。――わたしは見ての通りの格好ですし、眼中にありませんよ」
「・・・だと、いいが」
男はしばし、心配そうに視線をおくったが、それ以上追求しなかった。
彼女は出逢ったばかりの赤の他人だ。
その私生活にまで介入するほど、お人好しではない。
祭り囃子の音が近づく。
やがて、環濠と柵に囲まれた集落の入口までたどり着いた。娘はまるで泥棒のように、木の陰でこそこそと湧き水の入った壺を受け取る。
「ここまででいいのか?」
男は釈然としなかったが、娘は強くうなずいた。
「はい。あなたのような尊い方のご厄介になったと知れれば、わたしぶたれますから」
「殴られているのか」
「・・・ときどき、ですよ。お怒りに触れることは、生きていればどうしてもあることなので」
淡々と、「それでは」と娘は深々と頭を下げた。
ふと、立ち止まる。
「あの、ご恩を忘れたくないのでお名前をうかがってもよいですか。わたしは・・・名のる名前そのものを許されていないので、申し訳ないのですが」
男は、「名前もないのか」となにやら口の中で繰り返していたが、名乗った。
「私の名は、獏だ」
娘は瞬いた。
倭では聞かない発音の名前だ。
「ばくさま、ですね。・・・けっして忘れませんよ」
娘は、ほほえんだ。
その顔に名残惜しさを見つけ、獏はかすかに目を見開く。
娘は耳をほのかに染めて言った。
「またあした、逢えるといいですね?」
獏は返事こそしなかったが、これは承諾だろう。
「さようなら」と娘は重そうに水を運んでいった。




