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幸福の唄  作者: 舞茸
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エピローグ

「……『八分音符のお化け』」

 最初に蔑白さんが言った。僕はその言葉に「何それ?」と訊ねる。

「誰も立ち入る事のできないはずの旧校舎から、ピアノの音が聞こえる。誰の何の曲かも分からない曲を、延々と弾き続けている。この学校にある怪談の一つです」

 夢来ちゃんが説明をしてくれた。今この瞬間にも、〝幸福の唄〟は流れている。ありえない。そんなはずがない。だって、この曲は。

「……僕は、信じない」

「でも現に、今こうやって鳴ってるじゃないですか」

「ねえ、夢来ちゃん」

 蔑白さんが夢来ちゃんの肩をつつく。蔑白さんは眉をひそめて怪訝な表情をしている。怖いとか、そういう類のものではない。

「あの怪談って『何の曲かも分からない』って話だけど、この曲、私聞いた事あるよ」

「……奇遇ですね。私も同じ事を思っていました」

 今、旧校舎に響いている曲は間違いなく〝旧・幸福の唄〟だった。知っているのは僕と彼女の二人だけのはずだ。意味が分からない。

「名執さん、話の続きです。あの日、コンサート会場で起きた事の全て」

 情報過多が起き、頭がどうにかなってしまいそうな僕に、夢来ちゃんは言った。

 夢来ちゃんが唯一、僕に言っていなかった事。僕が知らない出来事の全て。

「あの日舞台に上がった私は、譜面台に置かれている楽譜が私の知らないものである事に気が付きました。当然、私は取り乱します。ピアノ椅子に座り、鍵盤に指を置く。普通なら初見の楽譜を弾くなんて誰にでもできる事です。でも、私にはできなかった。指が動かなかった。過呼吸を起こしそうになっていました」

 そうだ。僕はその為にあの日、楽譜を入れ替えた。夢来ちゃんが失敗すればコンサートが台無しになると知っていたから。夢来ちゃんが、自分の置かれている不幸に気付けるはずだと思ったから。

「問題はその後です。信じてくれるか分かりませんが、ピアノが勝手に鳴ったんです。鍵盤が下がったんです。私が何もしなくても、目の前にある譜面通りの曲が勝手に流れたんです」

 誰も知らないはずの〝旧・幸福の唄〟が、勝手に流れた。その言葉が意味するところは、ただ一つだけだ。

「それで平静を取り戻した、というわけでもありませんが、誰かが弾いているように下がっていく鍵盤を追いかける事くらいならなんとかできました。観客席から見れば、私がただピアノを弾いているように見えたでしょう」

「コンサートは最高のスタートで始まった。もちろんその後も、全部大成功した。そんな事が起きてたなんて、私知らなかった」

 蔑白さんが付け加えるように言う。僕は回らない頭で、二人の話を必死に理解しようとする。

「じゃあまさか、その時に勝手に流れたっていう曲が」

「……間違いありません」

 そう言って夢来ちゃんは、顔をそちらに向けた。音楽室のある方へ。

「『相対的に幸福が輝いて見える』。いつか名執さんが言ってたみたいに、確かにあの瞬間は少しだけ幸せでした。生きててよかったとまではいきませんでしたが、あれは、まるで」

 夢来ちゃんは何か言いかけ、すぐに「いや、何でもないです」と首を横に振る。

 何が起きたのか、何が起きているのか、何が起きようとしているのか。僕には何も分からなかった。どうしても、全てを知る必要がある。

「……行かなくちゃ」

 教室を飛び出して音楽室へと走る。その背中に「名執さん」と声がかけられた。彼女らしからぬ、大きく叫ぶような声だった。

「もう一つだけ。『八分音符のお化け』という名が付いた理由があります」

 僕はその場で立ち止まり、二人の数メートル先でその話に耳を傾ける。

「ただの噂ですが、生徒の一人が真相を確かめようと、旧校舎に入った事があるそうです。職員室から盗んだ鍵を使い、音楽室の扉を開ける。すると、その瞬間にピアノの音は鳴り止んだ。当然、そこに人の姿はありません。でも一つだけ、不可解なものがあったそうです」

 心臓が、強く脈を打つ。

 話の続きが、全て分かってしまった。あの日の空を、ピアノの音色を、彼女を。僕は、鮮明に思い出してしまった。

「閉じられた鍵盤蓋の上に、連桁で繋がれた八分音符のストラップがひっそりと置かれていたそうです」

 初めて僕と彼女が重なったあの日、彼女の指を追いかけたあの日。ピアノの上に置かれていた彼女の筆箱。そこに繋がれていたのは、完成された八分音符のストラップだった。

「……ありがとう、夢来ちゃん」

 それだけ言い残し僕は走る。人を幸福にする為に創られた、その曲が鳴る方へと。


 ずっと気になっていた事があった。

 遠い昔、僕と約束をしたあの女の子は誰だったのか。それが蔑白さんではないとしたら、「ゆーちゃん」と呼んでいた彼女は誰なのか。

 ポケットから八分音符のストラップを取り出す。この先に繋がるべき八分音符を持っているのは、誰なのか。

 記憶なんて不確かなものだ。遠い昔の事などすぐに忘れる。ましてや夢なんてあまりに朧気で、何の確証にもならない。

 彼女と初めて重なったあの日、彼女の八分音符のストラップを見た時、僕の中に一つ、荒唐無稽なとある可能性が生まれた。

 ——もし、僕の記憶や夢が間違っていたら?

 ——もし、完成するべき音符が繋がっただけの八分音符ではなく、三連符だったとしたら?

 僕が望んでいた完成形は、連桁という上の線で繋がった形の八分音符だ。符頭と呼ばれる、譜線の上に置かれる音階を示す玉のようなものが二つ、繋がった形をしている。

 でも三連符は普通の八分音符と、元々繋がった八分音符が合体したような形になる。つまり、符頭が三つ繋がったような形になるのだ。

 もし僕が持つ八分音符と、彼女が持つ八分音符が繋がるのだとしたら。

 いつの間にか音楽室の前まで辿り着いていた。加齢のせいか、早くも乱れた呼吸を整える。その間にも、〝幸福の唄〟は絶えず響いている。

 そしてふと、思い出した。僕が幽霊となった彼女と初めて会ったあの日。音楽室の前に着いたあの瞬間。僕を襲ったあの気持ち、感覚。

『僕は、この扉を開けなければならない。理由は分からないけど、脳内で自分の声がこだましていた。本能にも近しい何かが僕を掻き立てていた』。

 今なら分かる。あの感覚は、いつも見ていた夢と同じ感覚だった。女の子と約束をする夢を見る時、それはいつも扉を開けるところから始まっていた。多分、扉を開けた先にいる少女が彼女だと直感で分かっていた。

 そしてそれは今この瞬間も同じだ。僕は、この扉を開けなければならない。あの女の子と、再会を果たさなければならない。そっと、扉の取っ手に手をかける。

 しかし鍵が開いていなかった。何度引いても扉は開かない。仕方なく僕は、扉をノックしてみた。ピアノの音が鳴り止む。耳に痛いくらいの静寂が辺りを包む。

「……まだ死んでなかったんですか」

 聞き慣れた声がした。こんな状況にも拘らず、僕は思わず笑ってしまう。第一声がそれかよ。

「君こそ、もうとっくに消えたと思ってた」

「ええ、私もです。お互いくたばり損ねたみたいですね」

「……昔の君は、もっと可愛げがあったんだけどな」

 そう言うと彼女は黙ってしまった。何を言うべきなのだろう。何もかも言うべきなのだろう。交わしたい言葉があり過ぎる。

 僕らが話を始める時に、相応しい言葉が一つだけあった。それを口にしようと、僕がゆっくりと口を開いた瞬間。

「答え合わせをしましょう」

 先に彼女に言われてしまった。僕は少し残念に思いながら、「そうだね」と言った。

「私と名執君は、同じピアノ教室に通っていました。当然、私だってあの約束を覚えていましたよ」

「なのに知らないふりをしたわけか」

 僕は扉に背を預けてその場に座り込んだ。廊下の窓の向こうから放課後の喧騒が遠く聞こえる。

「ですが名執君は途中で辞めてしまった。その後も私はずっとそこに通い続けました。だから知らなかったでしょう、教室の住所が移転した事なんて。講師が途中で交代した事なんて。暴力を奮うような講師に変わった事なんて」

 僕が通っていた頃、講師はごく普通の人だった。ちゃんと優しく教えてくれて、悪いところは指摘して、良いところは褒めてくれる。そんな普通の大人みたいな人だった。

「名執君が辞めてすぐの話です。それから私は十年近く、あの人に暴力を奮われました。でも何も感じなかった。それが幸福の一部に含まれていたから。それが当たり前だと知っていたから」

「……だろうね。それが君だよ」

 ふと思う。幼い頃、彼女が言っていた「可哀想」の中に、それは含まれていなかったのだと。僕が「幸せになって」と言ったから、彼女はピアノを弾き続けてしまった。暴力を受けながらでもピアノを弾く事が幸せだったから。

 僕は虐待という「可哀想」を受けたまま、ピアノを弾き続けた。そして僕のようになりたかった彼女は、大人から虐げられる事で僕のようになれるのだと勘違いしてしまったのだ。全部、僕が与えてしまった呪いだ。

「じゃあもしかして、あの誓約の文言って」

「そうですよ、『たーくん』が教えてくれたものですよ。覚えてないんですか」

「……ごめん」

 僕が言うと、紙透さんは呆れたように溜め息をついた。やっぱり、記憶なんてものは何の頼りにもならない。

「私がこの高校に転校してきた理由、覚えてますか」

「ちゃんとは聞いた事ないけど、親の都合って言ってた気がする」

「盗み聞きですか」

「君もやってた事だろ」

「……そうでしたっけ」

「覚えてないの?」

 思わず笑ってしまう。彼女の口調が本当に覚えていないように真剣だったから。

「そうです。親の都合です。離婚して、旧姓である『紙透』になりました」

「じゃあ離婚する前の苗字は?」

「……優月(ゆづき)です。優月夏架(ゆづきなつか)

「君に似合わず綺麗な名前だね」

「どういう意味ですか」

 夏祭りで見た、あの綺麗な月を思い出す。

『優しい月ですね。私みたい』

 つまり僕は、その苗字を取って「ゆーちゃん」と呼んでいたのだろう。そんな彼女は、僕の事を名前から取って「たーくん」と呼んでいた。

 これで、僕らの間で止まっていた幼い頃の過去がようやく終わりを告げた。全てが綺麗に消えていった。

 なら、その次だ。時計の針を少し進めた先の、僕らの高校時代の話を。

「今更かもしれないけど、どうして君は僕を嫌った?」

 あの夏、いや、あの三年間。僕らの間にあった歪な鎖。錆びたそれで繋げられていた理由が何だったのか。彼女はそれについても教えてくれた。

「分からないんですか。貴方は私の前から消えた。ピアノを辞めていた。私が世界でたった一人憧れていた『名執崇音』というピアニストがいなくなって、代わりに貴方のような人間になっていた。私がどんな気持ちだったか。貴方に分かりますか。この、最低最悪の」

『裏切り者』。紙透さんの声と、夢の中の女の子の声が重なる。

 一度だけ、彼女に僕を嫌う理由を訊ねた事がある。その時彼女は、『貴方が名執崇音だから』と言った。そしてそれと同時に『貴方が名執崇音ではなくなったから』とも言った。

「私は、どこまでも不幸になった『たーくん』を救わなければならなかった。でも貴方は、不幸になるどころかピアノすら弾かなくなっていた。私の前から消え、ピアノを辞め、何者でもなくなり、私の偶像ではなくなった。そんな『名執崇音』が、大嫌いだった」

「……嫌いだから、僕を学校ぐるみで苦しめた」

 そう呟くと彼女は「半分正解、半分不正解です」と言った。

「確かに、ただ嫌いな人間を虐めていた、という言い方もできます。でも私は、ほんの僅かな一抹の淡い期待を抱いていたんです。貴方を不幸にさえすれば、また『彼』が帰ってくるかもしれないと。そうすればようやく、私は胸を張って名執君の手を掴めると」

「まさか不幸を望むような人間になっていたとは思いませんでしたけど」と、彼女は付け加えるように言った。多分この人間性も、あの日の約束が起因しているのだろう。

「貴方は不幸になっても変わらずにいた。不幸にいても救われようと手を伸ばさなかった。救われる気の無い人間を救う事はできません。それで理解したんです。私の好きだった『名執崇音』はもう死んだって。私にとっての全てだった執着は、もうなくなったんだって」

「……だから、死んだのか」

「ええ。人生の指針のように思っていたから」

 結局、人を呪う執着とはそういうものだ。自分にとっては何より大切で、失ってしまえば生きる事すら億劫になるようなもの。人には誰だってそういうものがある。それを否定する権利は誰にも無い。

「僕だってそうだよ。君を失わない為なら、君を不幸にする事だって躊躇いがなかった。ピアノだって簡単に壊せる」

「そうらしいですね。よく分かります」

 自分の手の平を見る。あの頃の僕が追い求めていた〝手〟には程遠い。力の限りピアノを破壊したあの日の、ジンジンとした手の痛みを思い出した。

 紙透さんは何も言わず、夏の夜のような静けさの中で僕の言葉を待っている。だから続けて、僕はこう訊ねてみた。

「あのコンサートの日、君は何をしたの?」

 僕が滅茶苦茶にしたはずの夢来ちゃんの演奏。それがなぜか、大成功で終わっている。紙透さんはそれに「簡単な事ですよ」と言った。

「夢来ちゃんの様子がおかしい事に気付いて楽譜を見たら、名執君が捨てたはずの〝幸福の唄〟があった。だから、夢来ちゃんと重なってそれを弾いた。それだけの話です」

「それは分かってる。でも、君は」

「そうです。極限まで不幸のどん底に突き落とされた時、本当の絶望を知った時。その瞬間だけ、私は何かに触れる事ができる。そう言いたいのでしょう?」

 ガタン、と。鍵盤蓋を閉じる音が聞こえた。確かに今、彼女はピアノに触れている。

「私もそう思っていたのですが、どうやら勘違いだったらしいんです」

「……勘違い?」

「不幸になった瞬間、ではなかった。本当は、極限まで幸福と感じた瞬間だけ、私は何かに触れる事ができるらしいです」

 ふと、背中に重みを感じた気がした。彼女の声が近く、すぐ傍に聞こえる。ドア越しに彼女も背中合わせで座っているらしいと気付いた。

「私が死んですぐ、ピアノに触れる事ができていたのは本当は幸せだったからなのでしょう。死んでしまって、でもまだピアノの傍にいられる。どうしようもないのに、どうしようもなく嬉しかったんです」

 僕が覚えている限り、彼女が何かに触れていた回数は三回。一回目は死んですぐにピアノを弾いていた時。二回目が夢来ちゃんと重なってピアノを弾いたという時。三回目はコンサートの後、僕の手を取ってくれた時。

「私は、どうしようもなく嬉しかったんです。名執君が私を否定してくれた事。私の幸福を否定してくれた事。ようやく気付けたんです。私は幸福なんかじゃなかった。〝幸福の唄〟なんて全部嘘だった。だからあの日、私はピアノに触れる事ができました」

「……あの後、僕の手を取ってくれたのは? あれも幸福だって言うの? 僕の事が大嫌いな君が?」

「そうですよ。どんな形であれ、私を失わないよう私を不幸にしてくれた事。矛盾してるかもしれませんけど、やっぱり嬉しかったんですよね」

 紙透さんは少し笑いながら言った。あの日と同じような、優しくて美しい微笑みを浮かべているのだろうか。

「その後、消えたと思ったらいつの間にかまたここに戻ってきていました。学校を探索してびっくり。もう名執君達の代は卒業してました」

 彼女は少し大げさに言った。約七か月。長いような短いようなそんな時間、彼女は消えていたらしい。

「卒業するまでに何か面白い事ありましたか?」

「別に無いよ。真囚君も蔑白さんもいつも通りだし、夢来ちゃんとは会う勇気が無かった」

「そうでしょうね、あんな事したんですから。ざまあないです」

 僕はそれに少しだけ笑った。背中越しに震えが伝わってきたから、多分彼女も笑っていたのだと思う。

「それから私は、ただ純粋に楽しくてピアノを弾いていました。才能という執着を手放して、ずっと幸福のままいられた。まあ、いつの間にか怪談になっていましたが」

「でも成仏はしなかったんだ」

「……ええ。一つだけ、ちょっとした未練があったので」

 彼女はそう言って立ち上がったらしい。背中に感じる体重が無くなった。何となく僕も立ち上がり、扉の前に立つ。

 音楽室の扉には小さなすりガラスが一枚張られている。向こうの景色がぼんやりと見える程度のものだ。

 すりガラスの向こうに、彼女がいる。距離が近いからなのか、何となく微笑んでいるように見えた。

「名執君に、『ありがとう』って言いたかったんです。ずっとその瞬間を待っていました」

「……それは、何に対して?」

「私の死体を見つけてくれた時に言い忘れていた『ありがとう』。それから、私を否定してくれて『ありがとう』」

 僕は、彼女の言う通りにただの臆病者だったのかもしれない。言い訳や屁理屈ばかりを並べ、手に届くような幸福を避けて歩いていた。幸福を手に入れたその先が怖かったから。どれだけ綺麗なガラスでも、いつかは粉々に砕けるように。幸福は手にしたその瞬間から経年劣化を始め、いつかは失う。それが酷く恐ろしかった。

 でも彼女は、いつだって愚直に幸福に手を伸ばし続けた。誰がそれを嘲笑おうと、僕がどれだけ不幸にしてやろうとしても、それでも諦めなかった。死んで尚、ずっとずっと上を見上げていた。紙透夏架は、どうしようもなく美しかった。

「……僕も言い忘れてたよ。『ありがとう』って」

 あの日、僕の手を取ってくれたのは確かにあの〝手〟だった。ボロボロで傷だらけで、僕が唯一執着を抱いたものだった。それが、十年以上の時を経て僕の手を取ってくれた。死を選びかけた僕を確かに救ってくれた。これ以上の幸福があるだろうか。

 約束を守って、こうやって僕を救いに来てくれて、ありがとう。言葉にせずともちゃんと伝わったはずだった。また、彼女が笑ってくれたから。

「さて、名執君」

 紙透さんは切り替えたように、明るい声で言った。

「これで私の未練はなくなりました。多分成仏するんでしょうね。あんまりしたくないんですけど」

「……寂しくなる」

 優しくて小さな言葉が、口から零れていた。彼女が少し驚いたような表情をするのが何となく見える。分かっている。僕がこんな事を言うなんて、僕が一番信じられない。どうしてだろう。分からない。

「らしくない事を言わないでください。気持ち悪いですよ?」

「まだ僕は言いたい事がたくさんある。交わしたい言葉もたくさんある」

 その言葉に彼女は微笑む。まるで全てを諦めたように。それはきっと、世界の何よりも美しい。

 紙透さんは「名執君」と僕の名を呼ぶ。そして、手の平を見せつけるようにしてすりガラスにそっと手を置いた。ボロボロで傷だらけの手を。

 僕もそれを真似して、そっと手を置く。すりガラス越しに、彼女の体温が伝わる。

「……ここ、開けて」

「どうしてですか」

「まだ話足りない。まだ言い足りない。まだ聞き足りない。何もかも」

「駄目ですよ。分かるでしょう?」

「『僕の全てを捧げる』。命でも、両手でも、君の欲しかった才能でも。何でも。だから、ここを開けて」

 僕がそう言うと、彼女は一瞬だけきょとんした顔を見せて、でもまたすぐに笑った。夏そのものみたいに綺麗で、あどけなくて、眩しかった。

「馬鹿ですね。私が本当に欲しかったのは、才能なんかじゃないのに」

 どういう意味? そう訊ねようとした時だった。

「名執君」

 廊下の向こうから声がした。蔑白さんと夢来ちゃんが息を切らしながらやってくる。

「ごめん。音楽室の鍵、借りてくるのにちょっと時間かかっちゃって」

 ふとすりガラスに顔を戻すと、彼女はもういなかった。室内にある窓から、夕焼けの茜色が教室を染め上げているのが分かるだけだった。

「すいません。兄が不法侵入したのを見られてたみたいで。そのせいで色々と手間取ってしまって」

 そう言いながら、夢来ちゃんが音楽室の扉を開ける。

 当たり前だけど、音楽室には誰もいなかった。ただあの日々の空気だけがそこに滞留している。時間が止まったように。

「……懐かしい匂いですね」

「……ほんとにねえ」

 二人の会話を聞き流しながら、僕はピアノのある方へと向かう。

 閉じられた鍵盤蓋の上に、連桁で繋がった八分音符のストラップがある。

 ポケットから八分音符のストラップを取り出し、それを組み合わせる。いつの日か約束した三連符が、ようやく完成した。

 鍵盤蓋を開け、〝シ〟の鍵盤を優しく押してみる。

 高いシの音はきっと、幸せのシとよく似ている。

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