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幸福の唄  作者: 舞茸
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第二部「否定」 〝偶像を守る為に、その偶像すら否定する必要があった。〟

「〝シ〟の音が好きなんです。シは幸せのシって、よく言うじゃないですか」

 音楽室は校舎の最上階に位置していて、つまり今、この場所は空に最も近い位置にある。天国にも地獄にも近いとも言えるかもしれない。いや、地獄はもしかしたら下にあるのかもしれないけど。

 地上よりほんの僅かにだけ距離の縮まった空が、教室の窓を介して目が眩むほどの青を伝えている。それがアクアリウムの床に反射し、どこに目を逸らしても眩し過ぎた。

 そんな床に散らばっている、数え切れないほどの楽譜を見る。どの一枚に目を通しても、確かにシの音階が多く使われているように感じる。

「紙透さんは〝シ〟の音階が好きだって言ってた。シは幸せのシだからって」

 すぐ傍にいた紙透さんの言葉を、そっくりそのまま僕が反芻する。彼女の言葉を伝える相手は、床で一生懸命に鉛筆を走らせる夢来ちゃんだ。

「だと思います。そうじゃなきゃ、こんなにシの音階は使わないです。シの三連符ばっかりなのに、ちゃんと曲として成立してしまったのが凄い」

 三連符とは、一音が入る場所に三つも音を詰め込んでしまう音符の事だ。楽譜にはその記号が至るところにある。

「単純だと思わない? 作曲ってもっと小難しい事考えながら創るものだと思ってたけど」

「夏架さんはそういう人でした」

「単純って事?」

 僕が訊ねると、夢来ちゃんは鉛筆を持つ手を止めて、少し考えるような仕草を見せる。隣にいた紙透さんが「私、頭は良い方でしたけど」と少し怒ったように言った。

「確かに、夏架さんは単純な人だと私は思っています。でも単純というのは、難しい事を考えないという意味じゃありません。行動とか原理とかが、自分を構築するものが一貫しているという意味です。何か大切なものに限っては、誰が見ても分かりやすいような『何か』を残すというか」

 夢来ちゃんは自分で言いながら、自分で何を言っているのか分からなくなったらしい。「えっと、つまりですね」と、鉛筆の先で楽譜を叩きながら言った。

「夏架さんにとっては『幸せ』というものがあまりに大切過ぎたんです。だから、それ以外の『何か』がそこに関与する事を嫌ったんじゃないかと思います。人を幸福にする為に創られた唄に、そうじゃないものが紛れ込んではいけない。ただ純粋に『幸せ』だけを伝える唄であるべきと、そう思っていたんじゃないかって」

 そう言いながら、今度は僕の顔をゆっくりと見た。自分の言いたい事が上手く伝わっているか心配、みたいな表情に見える。それが夢来ちゃんに似合わず、年相応の中学生に見えたから少し安心した。僕はゆっくりと頷いて「分かるよ」と言う。

「要するに潔癖症なんだろうね。ただひたすらに、純粋なものだけを必要としていた。要らないものは極限まで削り出す。綺麗なものだけを残したかったんだろうね」

「夏架さんのそういう生き方が好きでした。盆栽みたい」

「……盆栽?」

 その単語の意味は少し分からなくて、訊ねるように呟いた。僕より付き合いの長い紙透さんですら「盆栽?」と眉をひそめている。

「盆栽って余計な枝は切っちゃうじゃないですか。それで段々と綺麗なものにしていく。音楽、というかピアノに限っては夏架さんも盆栽みたいな人間だったと思います」

 横目で紙透さんの様子を伺う。僕には見せた事のない、不思議そうな表情で眉間に皺を寄せている。紙透さんがこうなるのだから、やっぱり夢来ちゃんの性格はよく分からない。

 でも理解はできる。盆栽、という例えが正しいかどうかは分からないけど、美しさというのはそういうものなのだろう。余計で邪魔なものを排除していって、最後にようやく残る物だけが本当に大切になる。〝幸福の唄〟はきっとそういうものだし、紙透さんが全人類に伝えたかったのは、きっとそういうものだ。

「いい話だね」

 割と本心から思った言葉が口から零れたのだが、存外皮肉交じりのような口調になってしまった。紙透さんが僕を睨むのが分かる。どんな形であれ、混じり気の無い純粋な人間はどうしようもなく美しいと思う。

「いい話だと思いますか?」

 突然夢来ちゃんが言った。地面に座ったまま、感情の読み取れない表情をしている。僕は正直、夢来ちゃんのこういうところが苦手だった。何を言いたいのか、何を考えているのかよく分からない。いつも何かに苛立っている紙透さんの方がまだ分かりやすい。

「いや、『いい話』っていうのは主観的なものだから、一概には言えないだろうけど。でも、夢来ちゃんはそう思ったから今も曲を書いてるんでしょ?」

 音楽室の床を埋め尽くしそうなほどに、あちこちに散乱する手書きの楽譜。全ては、夢来ちゃんがほぼ一人で書き殴ったものだった。

「そうだといいんですけど」

 それだけ言うと、夢来ちゃんはまた鉛筆を握って楽譜を創っていく。これ以上は踏み込んではいけない、何か個人的なものがある。僕はそう思ったのだが、紙透さんはそうじゃないらしく、「詳しく」と僕に言った。ここ最近、彼女は僕を雑用係みたいに扱っている節がある。

「何か思う事があるなら、ちょっと聞いてみたいな。もちろん嫌なら無理にとは言わないけど」

 なるべく優しい言葉を選び、優しい声音を使う。夢来ちゃんのよく分からない性格に加えて、単純に年下の子供が苦手なのもあるかもしれない。接し方が分からない。

 夢来ちゃんは鉛筆を動かしたまま、無感情に説明してくれた。

「むしろ何も思えないんです。夏架さんのやろうとしてた事が正しいのかどうか、いい話かどうか、私には分かりません。だから、名執さんが『いい話』だって言うなら、きっといい話なんだろうなと」

 真囚夢来という人間には、何も無い。これは夢来ちゃん本人が言っていた事だ。それが合っているのか間違っているのか、僕には分からない。

 これ以上は踏み込んでいけないと直感的に思う。人が泣いているのを見た時、涙の理由を安易に訊いてはいけないように。紙透さんもそう思っているのだろう、少し目を伏せてやりきれないような顔をしている。

 分かっている。でも、僕は訊いてみたくなった。どうして夢来ちゃんは紙透さんの願いを叶えようとしているのか。どうして〝幸福の唄〟を完成させようとしているのか。

「……できました」

 僕が口を開こうとした時、先に夢来ちゃんが呟いた。何か言いたげにこちらの様子を伺う。僕はついさっきまで彼女が鉛筆を走らせていた、その楽譜を見た。綺麗な五線譜の最後には、湖に浮かぶ波紋のように静かな終止線が置かれている。

「本当にこれを〝幸福の唄〟としていいんでしょうか。夏架さんは、これを望んでいたのでしょうか」

 夢来ちゃんの、所在の無い言葉が虚ろに零れる。僕は隣の紙透さんを見る。

「駄目なはずがない。これこそが完璧な〝幸福の唄〟です。私が人生をかけて成し遂げたかった事です。夢来ちゃんがいたからこそ、やっと完遂する」

「紙透さんも喜んでるんじゃないかな。現状、僕らにできる事はこれ以上ないんだ。なら、彼女が遺したものを引き継いで、彼女が成し遂げたかった事を実現させる。紙透さんもそれを望んでるって思うしかない」

 紙透さんの言葉を代弁する形で、夢来ちゃんに告げる。未だ僕の言葉には不信感を拭えないだろうけど、それでも納得しなければならない。死んだ人間の事は、生きた人間が勝手に想像するしかないのだから。

 夢来ちゃんの手にある〝幸福の唄〟を、僕は勝手に〝新・幸福の唄〟と名付ける事にした。もちろん夢来ちゃんには言わない。彼女にとっては、自分の手元にあるものだけが本物の〝幸福の唄〟だから。

 なら、〝旧・幸福の唄〟はどこにあるのか。そう訊ねられたら、僕はきっとこう答えるだろう。「どこにもないよ」と。

 未だ不安げな夢来ちゃんの目を見る。僕はもう少し、この少女について知りたいと思うようになっている。


*  *  *  *  *


「やっぱり駄目です」

 その日は夏に相応しくない、曇り模様の日だった。どちらかと言えば僕は晴れの日より曇りが好きだ。単純に涼しいから。

「駄目って、なにが」

「全部です。これを〝幸福の唄〟と呼ぶにはあまりに遠く及ばない」

「偉大な音楽家の言う事は凡人には理解できないな」

 机の上には何枚かの楽譜が積まれている。ざっと五十枚くらいだろうか。全て僕が手書きしたものだった。紙透さんの指示の元、彼女が創り上げた〝幸福の唄〟を完璧に譜面に起こした。

 僕は紙透さんと一つに重なり、彼女の手を追う形で完璧に〝幸福の唄〟を演奏した。紙透さんがそれを譜面に起こしたいと言うから、鉛筆も握られない彼女の代わりに僕がこうやって楽譜を書いた。ちなみにその提案を断る事もできたが、「私の心臓を捧げます」と言われてしまい仕方なく僕はそれを受け入れた。

「つまりじゃあ、これは全部没?」

「はい」

「僕がわざわざ手書きで、膨大な時間と労力を使ったのに?」

「はい」

「返せよ」

「失ったものは取り戻せません。命を失った私だからよく分かります」

「幽霊ジョークです」とつまらなさそうに紙透さんは言った。ピアノ馬鹿の彼女にはこういうところがある。天然と言えば聞こえはいいのかもしれないけど、僕からすればただ苛立つだけだ。

「じゃあこれはどうするんだよ」

「どうにでもしてください。捨ててもいいし、『紙透夏架』のブランドを付けて売ってもいいです」

「自惚れるな」

 これは捨ててやろう。名一杯の恨みを込めてゴミ箱に叩き付けてやろう。心底思った。

「じゃあどうするんだよ、〝幸福の唄〟は」

「創り直しますよ。決まってるじゃないですか」

「また一から?」

 僕がうんざりして訊ねると、紙透さんは当たり前のように「はい」と言った。人が苦に思う事が、自分にとっては何でもないような道のりにしか思えない。あるいはそれを楽しいとすら思ってしまう。それを多分天才と呼ぶのだろうし、だから間違いなく紙透夏架は天才なのだろう。

「君はそれで楽しいの?」

「どういう意味ですか」

「苦しんで創ったものが〝幸福の唄〟なんて、笑い話としか思えないけど」

 僕が言うと、紙透さんは珍しく怒らずに「大丈夫ですよ」と静かに言った。あるいは、説法を説くみたいに優しい口調だった。

「私は何よりも、この曲を創る事が楽しいです。そんなのは杞憂です」

 楽しんでいいのか、と思わずにいられないが、それが彼女が成仏せずにいる理由なのだからこれ以上僕に言える事は何も無い。あとは勝手に頑張ってくれとしか。

「でも、そうですね。これ以上一人でやるには限界があるかもしれません」

 紙透さんが少し俯きながら言った。「僕には無理だよ」と言うと「自惚れないでください」といつも通り苛立ったように言われた。

「もちろんこのまま私一人で創る事も可能ではありますが、それだと結局同じような曲が完成してしまう。私の持っていないものを持っているような、誰かの手伝いが必要です」

「それってつまり、君と同じくらいピアノを弾ける人間って事だろ。あるいは、それくらい音楽に精通してる人間。そんなのはそこら辺にいるもんじゃない」

「いますよ」

 呆気ないくらい、彼女は即答した。僕は言葉に詰まる。

「いるって、どこに」

 僕が訊ねると、紙透さんは少し考えてこう言った。

「多分、名執君が最も行ってはいけない場所に」


 そうやって学校を出る頃、曇り空は鈍色の曇天になっていて、重そうな雲からいつ雨が降ってきてもおかしくない状況にあった。

「真囚夢来ちゃん。まず間違いなく、あの子は天才です」

「それは君よりも?」

「私は天才じゃありません」

 太陽は見えないのに、気温だけが異様に高い道を歩く。平日の昼下がりに人気は無く、僕と紙透さんが喋りながら歩いても誰かに見られる事はなかった。ちなみに学校はサボりだ。

「君を天才って言わないなら、多分誰も天才じゃない」

「天才というのは文字通り、天からの授かりもののような才能の事です。私は血の滲むような努力があって、生前のような結果を残しました」

「それが分からないなら勝手な事言わないでください」と、紙透さんが少し苛立ったように言う。彼女の沸点はよく分からない。

「じゃあその真囚君の妹は?」

「夢来ちゃんは現在、中学一年生。ピアノを弾き始めたのは一年前らしいです。それで、私と同じくらいの技量がある。これ以上進歩のしようがない私が抜かれるのはもう時間の問題です」

 具体的な事は何も分からないのに、その凄まじさは肌で感じ取る事ができた。彼女が人生で費やしてきた十何年の場所に、たった一年で到達している。

「しかも、夢来ちゃんはピアノをただの習い事だと言っている。私のように時間の許す限りピアノを弾いているわけじゃない。ピアノ教室に通っている時間以外は、ピアノに触る事すらないらしいです」

「これで分かりますか?」と少し呆れたように言われる。僕は「よく分かったよ」と心底頷いた。

「つまりその子に〝幸福の唄〟を創るのを手伝って欲しいと」

「何回もそう言ってるじゃないですか」

「一回も言ってないだろ」

 いや、もしかすると一回くらいは言ったかもしれない。少し思ったけど認めるのは癪だったから言わなかった。

「夢来ちゃんなら、私に足りない部分を持っているかもしれない。全てにおいて完璧な〝幸福の唄〟が完成するかもしれない」

 それは別にどうでもよかったのだが、僕は一つ疑問に思っている事があった。僕以外の人間には、紙透さんの存在が見えないらしいという点についてだ。

「手伝ってもらうってどうやって? 漠然とし過ぎじゃない?」

「簡単な事です。私の言葉は名執君に代弁してもらえばいい。『紙透さんが言ってたよ』っていう体で。それで夢来ちゃんには伝えたい事が伝わる」

「当たり前みたいに言うなよ。なんで僕が引き受けると思ってるんだ」

「貴方にとっての執着がどれだけ強固なものか、最近になって理解し始めたからです」

 そう言って自分の手を僕の眼前でひらひらと振る。半透明だから向こうの景色は見えるけど単純に邪魔だ。気が散る。

 紙透さんは分かっているのだ。僕がどれだけ彼女の〝手〟を欲しているのか。僕はそれを世界の全てのように思っている。

「いいんですか、私が成仏しても。名執君が約束した『女の子』とそっくりな手ですよ」

「黙れよ」

 遠い昔に約束をした女の子は誰なのか。もう答えは分かっている。でもそんな事は正直どうでもよかった。今の僕が何よりも求めているのは、僕を救い取ってくれる完璧な〝手〟の存在だけだ。

「ここですね」

 しばらく歩いていると、紙透さんが一軒の家の前で立ち止まった。表札には「真囚」とある。

「家にいるの?」

「ええ、不登校らしくて」

「知らない男が玄関の向こうにいて、素直に出てくれるとは思えないんだけど」

「そこは多分大丈夫ですよ。憐君と同じ制服ですし」

 確かに、学校からそのまま来たから制服のままだ。真囚君の知り合いと分かれば、少なからず警戒心を解いてくれるかもしれない。何となくそう思いながら、インターホンを押してみた。

『……はい』

 ざらついた電子音で少女の声が聞こえた。ガラスのような、何かの拍子にすぐ壊れてしまいそうな、繊細でか細い声だった。

「こんにちは。僕、真囚憐君の友達なんだけど、ちょっと大丈夫かな?」

『お兄ちゃんなら今いません。というか学校のはずですけど』

「真囚君が少し体調悪いらしくて、早退になっちゃったんだ。先に真囚君の荷物だけ届けに来たんだけど、受け取ってくれるかな」

『お兄ちゃんに限ってそんな事ないと思いますけど……』

 やや不審に思いながらも『少し待ってください』と言ってくれた。玄関が開くまでの数十秒、「ほんと、嘘ばっかりですね」「僕に限った話じゃないし、今に始まった話でもない」なんて会話をした。

 やがて玄関から顔を覗かせたのは、その声によく似合うような透明な儚さを持った少女だった。長く伸びた髪は腰にまで届こうとしていて、どこかの中学の制服を着た彼女は、この世のありとあらゆる悲しみを味わって生きてきたかのような雰囲気を纏っている。やっぱり、この前スーパーで真囚君と一緒にいた子だ。

「こんにちは。僕は」

 僕が名前を言おうとした時だ。少女は、急に玄関の扉を閉めて家の中に戻っていった。あまりに突然の事に、僕は言葉を発する事もできなかった。

「嘘つくからですよ」

「……そうなのかな」

 真囚君の鞄でも盗み出してくればよかっただろうか。どうしたものかとその場に立ち尽くしていた時、インターホンからまた少女の声がする。

『お兄ちゃんに言われてるんです。嘘くさい笑顔を浮かべてる、俺と同じ制服を着た男子が来たら関わるなって』

「狙い撃ちじゃないですか」

 紙透さんが少し愉快そうに言った。その通りだ。どうやら真囚君は徹底的に僕をブロックするつもりらしい。それにしても、まるで僕がここに来る事を見越していたかのような口ぶりだ。とりあえず、会話を続かせる為になんとか言葉を紡いでみる事にする。

「他にはなにか言われた?」

『あと、なんか苛々するとか、顔が生理的に受け付けないとか、そういう奴がいたらとりあえず逃げろって。最悪殺していいとも』

「初対面で酷い言われようですね」

 全くだ。つまり、この子にとってその全部が僕に当てはまっているという事じゃないか。少しげんなりしながら、僕はこう訊ねてみる。

「真囚君はどうして僕を嫌ってるのか知ってる?」

『夏架さんを殺した奴だからって言われました』

 返事はすぐにきた。紙透さんと顔を合わせる。「そう思われてるなら、もうどうしようもありませんよね」と他人事のように吐き捨てた。

 ここまできたら、もう誠実さを見せるしかないだろう。警戒心を解くとかそういう段階ではないのだ。そう思って僕は「分かった」と言った。

「なら、そのままでいいから聴いて欲しい。僕は名執崇音っていいます。僕が紙透さんを殺したかどうか、それは君が判断すればいい。ただ、これだけは言わせて」

 僕はそこで少し間を持たせた。これから言う事はとても大切な事だ、というような一瞬の間だ。

「『紙透夏架の命を捧げる』。少しだけ、紙透さんについての話をさせて欲しい」

 そう言うと、今度は僕の意図しない間が一瞬あって、やがてプツンと電子音が鳴った。切られてしまったらしい。

「勝手に私の命を使わないでくれますか」

「もう無いものをどうしようとどうでもいいだろ」

 どうしようもないなと大きく息をつく。何にせよ、今日はもう帰った方がいいだろう。少し期間を置いてまた尋ねてみるといいかもしれない。真囚君本人をどうにか説得できないだろうか。いや、それはどう考えても不可能だな。多分紙透さんを生き返らせるより難しい。

 踵を返して学校へ戻ろうとした時、玄関の扉が開く音がした。見ると、さっきの少女が半開きのドアから顔を覗かせている。

 じっと目を合わせたまま数秒が経つ。やがて、先に口を開いたのは少女の方だった。

「使うなら、自分の命にしてください」

 何と返すべきか分からず、僕はとりあえず「そうだよね」と苦笑いをした。真囚君が嘘くさいと言った顔だ。隣にいた紙透さんが「だから言ったでしょう」と苛立ったように言った。


*  *  *  *  *


「明日、高校の音楽室に来てください」

 さすがに女の子が一人でいる家に上がり込むわけにはいかない。どこかで話ができないかと訊ねると、彼女はそう言った。どうしてその場所なのか、どうやって高校に入るつもりなのか。そういう事を訊ねる前に彼女は扉を閉めた。

 その日は土曜日で、いつもより学校にいる人は少ない。これならまあ、学校に入れない事もないかとなんとなく納得した。空には昨日と同じく、落ちてこないのが不思議なほどに重そうな雲が浮かんでいた。

 音楽室に近付いてきた時、ピアノの音色が小さく聞こえてきた。そのメロディは〝幸福の唄〟ではなかったが、どこかで聞き覚えのある曲だった。

 その旋律は音楽室の前まで辿り着いても、鳴り止む気配がしなかった。扉の前で逡巡し、迷っていてもしょうがないと扉を開ける。

 そうやって、真っ先に視界に飛び込んできたのが真囚夢来だった。

 新品のピアノで旋律を奏でる少女は悲哀に満ちていた。この世の全ての悲しみを詰め込んだかのような、そんな旋律と彼女だった。

 それを見て僕はとある光景を浮かべた。自分以外の全人類が滅んだ後も、彼女はこうやって悲しいメロディを誰にも届けられないまま弾き続けるのだろうと。漠然と思った。

「ベートーヴェン、ピアノソナタ第十二番」

 いつの間にか隣にいた紙透さんが言う。聞き覚えがあるのも当然だった。クラシックの中では群を抜いて知名度のある曲だ。

「通称、〝葬送〟」

 僕か紙透さんか、どちらかが呟いた。

 多分それは、紙透夏架という人間に捧げる曲だった。そうじゃなきゃこんなにも追慕を感じられるはずがない。僕が紙透さんを殺したのかどうかは知らないけど、それでも、世界が失った紙透夏架はそのくらいの喪失だった。

 曲を弾き終えた後、少女は「私、不登校なんです」と小さく言った。

「朝起きて、制服に着替えて支度をして朝ごはんを食べて、前の日に準備した学校鞄を背負って、玄関の扉を開けようとする。でも、そこまでなんです。そこから先に進めた事がありません。どうしてこんな簡単な事ができないんだろうって思うと同時に、学校へ向かおうとした足を家に戻した瞬間」

「……安心する?」

 僕が言うと、彼女は初めてこちらを向いた。一瞬驚いたような顔を見せ、すぐに「情けない話です」と俯いて言った。

「こんな事もできない人間に、生きてる意味は無い。夏架さんじゃなく、私みたいに無価値な人間が死ぬべきなのに」

「人間に価値なんか無い。どうせ死ぬだけの生き物だ」

 僕の言葉に、少女は「それいいですね」と言って少しだけ目を細めた。笑っている、のだと思う。

「お兄ちゃんは『価値が無いわけがない』って言ってくれるんですけど、それが申し訳なくて、窮屈なんです。誰にも価値が無いって言われると少し救われます」

「シスコンってやつだ」

「かもしれません」

 少女は背丈に不相応なピアノ椅子から降りて僕の方を見た。「私、真囚夢来です」とまた小さな声で自己紹介をする。

「お兄ちゃんと区別できないと思いますから、夏架さんと同じように名前で呼んでください。よろしくお願いしますね、人殺しさん」

 その「人殺しさん」には、どこか愛着と甘美な響きがあった。だったら僕は人殺しでもいいのかもしれないと、そんな事を少し思った。

 紙透さんを見ると、相変わらず不機嫌そうに顔をしかめている。夢来ちゃんみたいにちょっとは笑ったらいいのに。そんな余計なお世話を思った。

「それで、話ってなんですか?」

 音楽室にある椅子に腰掛けながら夢来ちゃんが訊ねる。僕は少し迷って、夢来ちゃんの隣に座る事にした。彼女の小さな声が聞き取れるように。

「〝幸福の唄〟って知ってる?」

 一応、少し神妙な顔を作って訊ねてみる。夢来ちゃんは「話だけは聞いた事があります」と言った。

「夏架さんが創ってたらしい曲。夏架さんが全人類を幸福にする為に創った曲、ですよね」

 僕はそれに頷く。

「その曲について、夢来ちゃんにお願いがあるんだ。彼女の、紙透さんの〝幸福の唄〟を完成させる手伝いをして欲しい」

 単刀直入に言った。ガラスみたいに純朴な彼女には、その伝え方が一番だと思ったから。

 夢来ちゃんは真顔のまま下を見る。何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか。よく分からなかった。

「完成っていうのは、具体的にどうしたいんですか?」

 夢来ちゃんに訊ねられ、僕は答えに迷った。隣で話を聴いていた紙透さんに目をやる。意図を察したらしい彼女はすぐに答えてくれた。

「もうすぐで、夢来ちゃんの通っているピアノ教室のコンサートがあります。かつて私も通っていた教室です。そこで、完成させた〝幸福の唄〟を披露したい。それが私の願いです」

 僕はその言葉を「紙透さん本人から聞いた事があるんだけど」という前提を加えてそっくりそのまま話した。すると夢来ちゃんは呆気ないくらいすぐに「分かりました」と納得した。

「私にできる事なら、やってみます」

 夢来ちゃんはやっぱり無表情で言った。僕はそれに違和感を覚える。いや、正確には昨日家を尋ねた時から感じていたものだった。

「あのさ、一つ訊きたいんだけど」

 僕が口を開くと、夢来ちゃんは真顔のまま視線だけをこちらに向けた。「もし気を悪くしたらごめん」とも付け加える。

「君が言う通り、僕は紙透さんを殺した人殺しかもしれない。なのに、そんな僕と一緒にいて何も思わないの?」

 悲しくないの? とは言わなかった。というより言えなかった。

 真囚君が紙透さんに取り付かれ、僕に復讐を果たそうとしていたみたいに。大切な人を殺した目の敵がそこにいるのに、夢来ちゃんはただ静かだった。それが少し不気味ですらあった。

 夢来ちゃんはまた下を向き、そして小さく「分かりません」と言った。

「夏架さんが大切な人だったのは、多分そうです。私に優しくピアノを教えてくれました。でも、夏架さんが死んで、悲しいかどうかも自分には分からないんです。名執さんに何か復讐をしてやろうとか、今は思いません」

 紙透さんは、小さく語る夢来ちゃんをただ黙って見ていた。多分、紙透さんがピアノを教えている時からこういう子だったのだろう。

「私には何も無いんです。悲しいとか嬉しいとか、正しいとか間違ってるとか、幸福とか不幸とか。そういうものを感知できるセンサーみたいなものが無いんです」

「じゃあ僕の、というか紙透さんの手伝いをしてくれるのはどうして?」

「それも、分かりません。ただ、大切な人がやろうとしていた事が途中で終わってしまったら、それを引き継ぐ必要がある。大抵、フィクションの世界はそうやって廻ってます」

「いつか、私なりの答えが見つかるといいんですけど」。夢来ちゃんは他人事のように言った。そんな事、ちっとも思ってないような顔をして。


*  *  *  *  *


 それから僕らは、充分過ぎるほどの時間を共有した。作曲とはそのくらい繊細なものだから。夢来ちゃんは紙透さんの言葉を代弁した僕と、曲の完成を手伝ってくれた。

 紙透さんが何か言い、僕がそれを伝える。夢来ちゃんは意見を言いながら、試しにピアノで弾いてみる。それに対してまた紙透さんが何かを言う。〝シ〟の音があまりにも多いから、絶対音感なんて持っていなかったのに、その音だけは何となく分かるようになってしまった。

 出来上がったものが良いものなのか悪いものなのか、正直なところ僕には分からない。でも紙透さんは満足しているみたいだし、これで良かったのだろうと何となく思うようにしている。

「答えは見つかった?」

 完成した〝新・幸福の唄〟の楽譜をまとめながら、夢来ちゃんに訊ねてみる。夢来ちゃんと紙透さんが同時にこちらを向く。「何の話ですか?」と言ったのは夢来ちゃんだけだった。

「前に言ってた、夢来ちゃんなりの答え」

 その言葉で意味が分かったらしく、彼女は思い出したように口を半開きにした。しばらくその表情のままでじっと動かなかったが、また電源が付いたように「多分、分かりました」と言った。

「でもまだ名執さんには言いません」

「まだって、どうして」

「信頼が無いから」

 そう言ったのは夢来ちゃんじゃない。紙透さんだ。僕が「信頼が無いから?」と確かめるように訊ねると、「ある意味ではそうです」という答えが返ってきた。

「名執さんは、夏架さんについてどう思いますか?」

 突拍子もない質問に僕は眉をひそめる。同じ表情をした紙透さんと目が合って、紙透さんは更に苛立ったように舌打ちをした。

「腹が立つ。あと、いつも何かに腹を立ててる」

「私の知ってる夏架さんは優しい人でしたけど」

「夢来ちゃんと貴方に取る態度が同じなわけないじゃないですか」

 そりゃそうかと少し納得した。彼女が他の人間と同じように僕と接していたら、この狭い学校はもっとシンプルなままだった。

「私が訊きたいのは、夏架さんが言っていた『全人類を幸せにする』っていう発言についてです」

「……僕が、それについてどう思うかって事?」

 夢来ちゃんは深く頷いた。質問の意図は分からないけど、ここで答えない事には何も始まらないだろう。僕は少しだけ考え、正直に話してみる事にした。以前に紙透さん本人にも話したように。

「多分だけど、僕は紙透さんと逆で幸福を求めない人間なんだと思う」

 何も言わず、表情も変えない。夢来ちゃんはただじっと僕の顔を見ている。それが話の続きを促しているのかどうかも分からなかった。

「僕は休みの日が好きだけど、休みの日になるのは好きじゃない。休みが始まると、結局は休みが終わっていくまでの時間をじわじわと身に刻まなきゃいけないから。好きな食べ物とか飲み物でも同じなんだ。それが好きなのに、それを口にした瞬間あとどのくらいで無くなってしまうんだろうって考える。つまり、幸福を手にしてしまえば、もうそれ以上は何も得られない」

 未だ真顔を浮かべる彼女に、「分かる?」と訊ねてみる。夢来ちゃんはまた深く頷いた。

「あと単純に、幸福に手を伸ばすっていう行為が馬鹿らしく思えてる。貶すような言い方になるけど、紙透さんは『全人類を幸福にする』っていう夢を叶える為に必死に努力してきた。でも結局彼女は死んだ。今まで夢の為に費やしてきた時間と労力が全部無駄になったんだよ」

 紙透さんがじっとこちらを見る。最近になって分かった事だけど、彼女は常々僕に対して苛立ちと怒りを感じているが、本気で怒っている時はただ睨むだけだ。そこに何の他意も無く、生き物ではなくてただ物を見るような目でじっと見つめる。

「僕にはそう見えるんだから仕方ないんだ。何かを掴む為の必死な努力も、どこか遠くへ行く為の準備も。無駄とは言わない。でも、結局夢なんて叶わない事の方が多い。何かを得ようとするから、人はいらない成長痛に顔を歪ませるんだよ。どうして今立ってる場所を肯定してやれないんだろう。どうして今の自分を否定するんだろう。そうやってどこかへ足を進めようとするから、いらない痛みだって手にしてしまうんだ」

 言いながら、僕は自分が少し苛立っている事に気が付いた。それは夢来ちゃんへ向けた言葉というより、ただ紙透さんを否定する為だけの言葉だった。不幸を否定するな。それで満足してる僕がここにいるんだから。程々で生きたい人間だっているんだから。そう言いたかった。

「……つまり、名執さんは幸福が嫌い、と」

「不幸にはいい事もあるよ。不幸にいればそれだけ、相対的に幸福が輝いて見える。ただご飯を食べるより、極限までお腹が空いた時に食べる方が美味しく感じるでしょ? 考え方としてはそんな感じ」

 自分の苛立ちを取っ払うように、笑いかけながら言ってみた。夢来ちゃんは「分かりました」とまた無感情に言っただけだ。

「どうしてこんな話が聞きたいのか分からないけど、夢来ちゃんの話も聞かせてくれないかな」

「何の話ですか」

「いや、ほら、どうして〝幸福の唄〟の完成を手伝ってくれたのかっていう」

 僕の言葉に彼女は「ああ、そうでした」と何でもないように言った。彼女にはどこかおっとりしている部分もあるのかもしれない。

「今の話を聞いて思いました。やっぱり、名執さんには教えません」

 夢来ちゃんの言葉に僕は少し驚き、「どうして?」と訊ねていた。

「やっぱり信頼が無いから?」

「それも多少あるかもしれません」

 集めた〝新・幸福の唄〟の楽譜をファイルにまとめる。その時、帰宅時刻を知らせる学校のチャイムが鳴った。休日用に鳴らされるものだから、いつもより少し早めの時間帯だ。

「明日またここに来ます。それまでに考えてみてください。理由が分かったら、私も話をします」

 そして「さよなら」とだけ言い残すと、彼女は音楽室を後にした。


「どうにかしてくださいよ」

「何がだよ」

 人気のない駅構内。僕は自分が乗る電車を待つ為、いくつか連続して並ぶ椅子の一番端に座っていた。五つ分ほどの距離を空け、同じく一番端に座る紙透さんが溜め息を吐く。掲示板に張られている張り紙の中に、夏祭りに関するポスターがあったのが目に入った。

「何で付いてくるんだよ」

「貴方がちゃんとしなきゃ、夢来ちゃんの話を何も聞けないじゃないですか」

「君には分かる? 夢来ちゃんが何を言いたいのか」

「おそらくですが」

「じゃあ教えてくれればいいだろ」

「馬鹿ですか。自分で気付かなきゃ何の意味も無いでしょう」

 電光掲示板に流れる文字は、電車が到着するまで二十分ほどと知らせている。そう言えば、夢来ちゃんは電車に乗って帰ったのだろうか。真囚君は電車に乗ってたみたいだけど。

「あれ、名執君」

 ふと駅の入り口の方から名前を呼ばれた。声のした方に顔を向けると、私服姿の蔑白さんが立っている。僕はそれに「ああ、うん」みたいな曖昧な返事をした。

「なんで制服着てるの?」

「学校に行ってたから。でも外出する時は大概制服だよ」

「なんで?」

「おしゃれとか苦手だからかな。制服ってなにかと楽でしょ」

「もったいない。若いうちにオシャレしとかないと損だよ」

「私みたいに」と言いながら、蔑白さんは真ん中の椅子に座った。僕、蔑白さん、紙透さんの順番に丁度等間隔で並ぶ形になる。

 蔑白さんはシンプルな黒色のシャツワンピースに身を包んでいた。そのシンプルさは彼女をいつもより大人びたものにさせているし、いつもより可愛げにもさせている。

「友達と買い物してきたの。この服もそのまま着ちゃった」

「じゃあ化粧してるのも買い物で?」

 僕が訊ねると、蔑白さんは一瞬驚いたように目を開いて動きを止める。なんだろう、考えなしに発言し過ぎただろうか。もしかすると女子にとっては触れて欲しくない部分だったかもしれない。女子じゃなければ化粧もしない僕には何も分からない。

「化粧してるの、分かる?」

「え、うん。いつもより可愛い感じがする。なんとなくだけど」

「そっか」

 蔑白さんは少しはにかんだような笑顔を見せる。早くこの会話を終わらせたかった。

「友達が『夕未も一回くらいやっとけ』って言うから仕方なくね。私は化粧なんて無意味だと思ってるから、普段はしないんだけど」

 化粧をしなくてもいい容姿だからだろう。言葉には出さなかったけどそう思った。

「似合ってると思うよ」

 会話の区切りとして、僕はそう言った。それで彼女が「ありがとう」と笑って言うのも知っていた。

 僕が蔑白さんと話をしたくない理由はもう一つある。できればこのまま、電車が来るのを待つか蔑白さんが立ち去ってくれればよかったのだけど、先に彼女がその話を口にしてしまった。

「あのさ、この前の話だけど」

 僕はあの日、結局なんて言ったんだっけ。好きだとかそんな事を言われて、蔑白さんが昔に約束をしたあの女の子と知って。どうやってあの場を後にしたんだっけ。

「僕、返事したっけ」

「覚えてないの? サイテー」

 蔑白さんはケラケラと笑った。僕もそれに愛想笑いをしようとしたが、少し考えてやっぱり止めた。

「まあ、返事は無くても分かってるようなものだけどさ」

「そう?」

「だって、名執君のタイプって自分なんかを好きにならないような子なんでしょ? 馬鹿じゃん」

 それは覚えてる。そんな事を言った記憶がある。

 蔑白さんは浮かべていた薄い笑顔を戻し、真剣な目つきをする。そして口を開いて小さく言った。

「どうして私じゃ駄目なの?」

「蔑白さんが駄目なんて、そんな事言ってない」

「言ってるようなものじゃん」

 僕は迷い、もう洗いざらい話してしまう事にした。とは言っても、前に一度話した事の繰り返しに近いのだけど。

「僕なんかを好きになる人間がいていいはずがない。僕が人間に好かれるなんて、そんなのは」

「……幸福だから、避けてるの?」

 少し首を傾げながらも小さく頷く。自分でもよく分かっていないけど、多分そういう事なのだろう。

「仮に本当だとして、蔑白さんのそれは不幸だよ。馬鹿みたいだから止めといた方がいい」

「どういう意味」

「分かるだろ。僕がどういう人間か分かってて、それでもなんて」

「いや分かんないけど」

 蔑白さんは少し怒っているらしい。僕には彼女が苛立つ意味が分からなかった。だって、形としてもう僕は彼女の好意を断ったのだ。これ以上何を求めているのだろう。

「私はね、フラれたとかそういう事はどうでもいいんだよ。私が腹を立ててるのは、君が私を否定してるところだよ」

「否定って、どこを」

「前も言ったでしょ。君は、私の幸福を否定してるの。君を好きになってる事が不幸だって、私は可哀想なやつだって、勝手に決めつけてるでしょ。それが腹立しくて、凄く嫌」

 蔑白さんは立ち上がる。駅構内に通る風が、彼女のシャツワンピースを優しくなびかせる。

「きっかけは確かにピアノだよ。それも好き。でも、ちゃんと名執君が好きだよ。私はそれを不幸には思わない。名執君を好きな事が、確かに幸せなの」

「私をフるならそれを受け入れて、それからちゃんとフッて」と、蔑白さんは改札へ向かった。ざらついたアナウンスが響くだけの、静かな空気が流れる。

「全部言ってくれましたね」

 紙透さんが椅子に座ったまま、どこか遠くを見つめながら呟いた。返事をするのも億劫で僕は何も言わなかった。

「つまり、そういう事ですよ」

「要約しろって前にも言っただろ」

「貴方は矛盾してるんですよ」

 僕は横目に彼女を睨む。彼女は目を合わせた後、「望み通り要約してあげます」と静かに前を向いた。

「貴方は不幸になりたいと言う。幸福になんかなりたくないと言う。何度も言うように、私はそんな貴方が嫌いです。でも、否定はしませんでした。受け入れたわけでもないですけど」

 そうだっただろうか。割と否定された気がするけど。

 でも思い返してみると、確かに何となくそんな感じはした。嫌悪は何度も示されたが、僕の在り方や生き方を否定したわけじゃなかったのかもしれない。

「でも貴方は、私をはっきりと否定しています。幸福を否定しています。それが矛盾なんですよ。自分が少数派だと自覚していて、周りには自分を認めて欲しいと思う一方で、多数派は絶対に認めない。気持ち悪い」

 そう言いながら彼女はもう一度こちらを見て、僕の顔を伺った。その時僕がどんな表情をしていたか僕には分からない。でも彼女は僕を見て浅い息をついた。「やっと気付きましたか」「しょうがないですね」とでも言いたげな、哀れみを含んだものだった。

「名執君って、死にたがる側の人間ですか?」

「……別に、生きたいとは思ってないけど、死にたいわけでもない」

「それと同じですよ。生きたい人間は死にたい人間を否定してはいけないし、死にたい人間は生きたい人間を否定してはいけない」

「だって、生まれたくて生まれてくる人間なんていないじゃないですか」。どこか愚痴を零すように言った。

 人は誰しも望まぬ生を与えられる。そこから生きたい人間になるか、死にたい人間になるか。その価値観は人生経験によるものなのだろう。「生きててよかった」と生きていくのは結構な事だと思うし、「自分に生きる事は向いてなかったみたい」と言って死ぬのも別にいいなと、そんな風に思う。

「生と死は、本当の意味で平等です。どちらも不干渉であるべきだし、干渉するなら同じ分量であるべきです。生きるのに理由は求めないくせに、死ぬ時だけ『どうして死ぬんだ』なんて、おかしいと思いませんか」

「また極端な話だね」

 でも、確かにその通りなのだろう。紙透さんが死んで、学校には「どうして」という言葉が聞き飽きるほどに宙を舞っていた。そんなに自殺をした理由が気になるのだろうかと、少し気持ちが悪かった。

 だけど本当は違うのだ。誰も紙透さんの自殺に興味なんか無い。自殺した理由なんてどうでもいい。日常に退屈したところに転がってきた非現実に興味が湧いただけだ。「どうして」という言葉を理由に、それについて触れる為の免罪符が欲しかっただけだ。

「夢来ちゃんはそんな事が言いたかったの?」

「これはあくまで例え話です。私が言いたいのは『否定するな』って事です」

 紙透さんは立ち上がって僕の目の前に立った。ただ強く在る瞳で僕を見下ろし、その奥にある感情を僕にぶつけようとする。

「蔑白さんと同じです。私の幸福を否定しないでください。私は努力を無駄にする気なんて毛頭ないし、今だって全人類を幸福するつもりでいます。その為に必要な痛みなら、どんなものだって受け入れる。何の苦労もしたくない貴方とは違うんです」

「……そんな話をする為に、ここまで付いてきたの?」

「そうじゃなきゃ、脳みその無い貴方は何も気づかないままだったでしょう。私は夢来ちゃんの話が聞きたかっただけです」

 紙透さんはそれだけ早口に言うと、駅の出口へ向かおうとする。きっと音楽室に帰るのだろう。そんな彼女の背中に、僕は一つだけ言葉をかけた。

「君はそれでいいの?」

 そう言うと、彼女はぴたりと足を止めた。こちらを振り向かないまま、「何の話ですか」とだけ小さく零す。

「君の大層な努力のおかげで、全人類が幸福になるかもしれない。その可能性はゼロじゃないし否定はしない。でもその幸福の中に、君があの曲を届けたい人の中に、君自身はいるの? その先で、君は幸福になれるの?」

 また駅に人が入ってきた。男女のカップルらしき二人組だった。女の方が甘ったるい声で何かを言い、男がそれに何かを言う。紙透さんはその間黙っていたが、二人の声が聞こえなくなった後で、ようやく口を開いた。

「私は、幸福なんです。誰が何と言おうと、紙透夏架という存在が幸福の象徴なんです」

 これ以上は、踏み込んではいけない。直感的に思う。彼女に対してそんな事を思ったのは初めてだった。

 遠くなる彼女の背中を眺めながら、漠然と思う。彼女の「幸福」とは、一種の強迫観念だ。そうなるべきなのだと、強く思い込んでいる。

 彼女が死んだ理由と、彼女が僕を嫌う理由。その理由もきっとそこにある。根拠はないけど、強く確信した。


*  *  *  *  *


 翌日の日曜になって、僕はまた音楽室を訪れる為、古臭い校舎の廊下を歩いていた。昨日とは違い未だピアノの音色は聞こえない。一人分の足音だけが小さく響いている。ひっそりとした空気感は、廃墟を歩くのと似ていた。

 そうやって音楽室の前に着き、ドアを開けようと取っ手に手をかけた時。教室の中から、ピアノの音色が聞こえてきた。〝シ〟の音がある。

 静かに扉を開けると、ピアノ椅子に座った夢来ちゃんがゆっくりと、あまりにも綺麗な旋律を奏でている。間違いなく、〝幸福の唄〟だった。

 入口の傍で夢来ちゃんを見ていた紙透さんに近付き、ピアノの邪魔にならないようそっと耳打ちをする。

「もう弾けるようになったの? 何時くらいに来た?」

「音楽室に来たのは三十分ほど前です」

 たった三十分の練習で、ここまでの完成度を。これが彼女が天才である所以。そう思ったのだが、紙透さんは続けて「ですが」と言った。

「教室に来てすぐに、机に寝そべって眠ってしまいました。それからしばらく経って、ようやく起きたのでピアノ椅子に座り、〝幸福の唄〟を弾き始めた次第です」

「……つまり、この曲を弾いたのは」

「今この瞬間が初めてです。彼女の人生でも、世界的に見ても」

 譜面台に楽譜はない。彼女は、全てを暗記している。

 化け物だと、率直に思った。しっかりと見た事もない楽譜を、初めてで完璧に演奏してしまう。そんな人間がいるのだろうか。

「君にできる?」

「自信はありません」

 僕も紙透さんも、完成された〝幸福の唄〟を聴くのはその瞬間が初めてだった。

 これは断言してもいいけど、僕と紙透さんは全く同じ事を思っていた。つまり、その曲には〝幸福の唄〟だと認識できるような美しさとか強さとか救いとか、何か絶対的なものが確かにあった。そういうものを全て過剰摂取してしまった。

 どのくらいそうしていたか分からない。いつの間にか演奏は鳴り止み、ピアノ椅子から夢来ちゃんがこちらをじっと見つめている。

「……どうでしたか?」

 彼女の言葉に、僕は何を言おうか迷ってしまった。何を言っても蛇足になると感じた。多分、どんな言語を以てしてもその曲を表す言葉はないのだと思う。だから結局、こう言うしかないのだ。

「この曲は、〝幸福の唄〟なんだ」

 僕の言葉に、夢来ちゃんは「そうだと思います」と言った。ピアノ椅子から降りた彼女はまたこちらを見て口を開く。

「答えは見つかりましたか?」

 未だ演奏の余韻が抜けきらず、少し気の抜けた僕は「何の話?」と訊ねる。夢来ちゃんはそれに「昨日の話です」と念を押すように言った。

「私が名執さんに話をしない理由、あるいは、不信感を抱いている理由」

「人殺しだから?」

「それもあるかもしれませんけどね」

 夢来ちゃんはまた、教室にある椅子の一つに腰をかける。僕もその隣に座った。

 夢来ちゃんはじっと僕の顔を見つめた。僕の言葉を待っているらしい。どこから話そうかと少し言葉を推敲し、まずは一番大切な事から口にする事にした。

「正直に言うと、僕はやっぱり紙透さんみたいな生き方は納得できない」

 家に帰ってからもずっと考えていた。僕みたいな人間でも、彼女のようになれるだろうかと。理解はできるのだ。人間は普通、そういう風に作られていると思うから。でもやっぱり、それを易々と受け入れる事はできなかった。

「僕はどうしようもない人間だと思う。こんな生き方しか模索できなくて、一生幸せになんかなれないんだろうなとも思う」

 夢来ちゃんはいつもの仏頂面で僕の話を聞いている。傍で話を聞く紙透さんは、やっぱりいつものように不機嫌そうな顔をしている。

「だけど、確かに否定する必要はないのかもしれない。お互いに何も強要しなければいいだけなんだ。僕は勝手に不幸になるから、そっちはそっちで勝手に幸せになってろって、そう思う事はできる」

 そこまで言うと、紙透さんが小さく溜め息を吐いた。夢来ちゃんは「それでいいと思います」と少し微笑んで言った。

「肯定も否定もなくていい。私が価値のある人間かどうかなんてどうでもいいように」

 それから夢来ちゃんは、少しだけ自分の話をした。僕と紙透さんは黙って彼女の話に耳を傾けていた。

「私は人間という存在が根本的に嫌いです。ある時、少しピアノを弾けるというだけで何かしらの大役を任される事がありました。でも、本番では人の目があるとどうしても失敗してしまうんです。否定の目で見られて、失敗して、案の定否定の言葉を浴びさせられる。そういう事を幾度と繰り返していくうち、大衆の目に苦手意識が刷り込まれました。一人では電車にも乗れない始末です。どれだけ遠回りになってでも、なるべく人のいない方へ少ない方へ。そうやって逃げ続けています。学校に行かないのもそういう事です。眠りに就く度、このまま静かに死ねたらいいのにって思います。朝起きて、いつもの天井が目に入る事に絶望します」

「逃げてもいい」、なんて言葉が大嫌いだ。あまりに無責任だから。その言葉を頼って逃げ続けて、手遅れと気付いた時に誰が責任を取れるだろう。時として「逃げるな」と強く言った方がいい事もある。

 夢来ちゃんは自分でその選択をして、そして自分で後悔している。自責の念に囚われ続けている。いつまでも自分という生き物を好きになれないのかもしれない。

「なら、どうしてコンサートに出ようと思ったの?」

 ずっと気になっていた本題だった。僕みたいな人殺しの言葉に耳を貸した理由。人の目に晒され続けるであろうコンサートに出る理由。夢来ちゃんの根本にあるものは、一体何なのか。

「夏架さんと同じように、こんな私にも夢があるんです」

 開いていた窓から、優しい夏風が吹き込む。夢来ちゃんの長い髪がそれに優しく流される。雲の切れ目から覗く日の光が、彼女の背で燦燦と輝く。

「たった一度でいい。生きててよかったと、心の底から思ってみたい。そうすれば私は、何の未練もなく死ぬ事ができる」

「……コンサートに出る事が、それなの?」

 そう訊ねると、夢来ちゃんは少し目を伏せて「分かりません。もしかすると違うかもしれない」と小さな声で言った。

「それでも、夏架さんが成し遂げたかったように、全人類を幸福にするような曲を弾けたら。その時は、『生きててよかった』と思う理由には充分だと思いませんか?」

 夢来ちゃんは目を細めて、小さな口の口角を上げて笑った。僕が初めて見る、どこにでもいるような女子中学生みたいな、無邪気な笑顔だった。

「いいと思う。幸せなまま死ねるなら、それ以上の事はない」

「はい。私もそう思います」

「頑張りますね」と言い、夢来ちゃんはまたピアノに向かって練習を再開する。僕からしてみれば、これ以上ないくらいに完璧ではあるのだけど。

「私、貴方の事嫌いですからね」

 隣にいた紙透さんが呟く。僕はピアノの音にかき消されるくらい小さく、だけど紙透さんの耳には届くくらいの声量で「今更?」と言った。

「無責任な事を言わないでください。夢来ちゃんは、本当に死ぬかもしれないですよ。私と同じ末路を迎えるかもしれない」

「君とは違う。幸せを自分の中に閉じ込めたまま、どこまでも綺麗に終われるんだ。夢を途中で投げ出した君とは真逆だ」

「そういう事を言ってるんじゃなくて」

「『否定はしない』」

 僕が言うと、紙透さんは言葉を止めた。二人の言う「否定しない」とはそういう事なのだ。

「彼女がどんな末路を迎えようと、否定しないと誓った僕らが目を背けちゃ駄目だ。誰も綺麗な死なんて受け入れないかもしれない。だけど、せめて僕らだけは、否定しちゃいけないんだ」

 夢来ちゃんが望んだものなら、僕はそれを見届けてあげよう。せめて、彼女が安らかに眠れるように。

「もう僕は君を否定しない。誰かを幸せにしたいなら、その邪魔もしない。だから、僕の邪魔もするな。もちろん夢来ちゃんの事も」

 それきり、紙透さんは何も言わなかった。受け入れたのか、受け入れられないのか。僕には分からない。

 コンサートの日はすぐそこまで近付いている。彼女が幸せなまま死にたいと言うなら、せめて思い出の一つでも作ってやろう。夢来ちゃんの笑顔が見れたら、紙透さんも納得するかもしれない。そんな事を思った。

 練習がひと段落したところで、僕は「夢来ちゃん」と声をかける。

「夏祭り、行ってみない?」


 *  *  *  *


 その日は晴天の名残を残した夜だった。未だ湿度を多分に含む熱気が籠っていて、夜風がそれをさらってしまうように優しく吹いている。

 雲の一つも無い夜空には怖いくらいの星空が瞬いていた。深い深い黒は、ずっと見ていると呑み込まれてしまいそうになる。それも悪くないかもしれないと思った。

「さて、どこに行こうか」

「どこにも行きたくないです」

 即答だった。制服姿のままの夢来ちゃんは、屋台の並ぶ会場の数十メートル前で立ち止まってしまう。

「ちょっと、あんまり無理させないでくださいよ」

「まあそうだよね」

 それは紙透さんへの返事のつもりだったのだが、夢来ちゃんはそれを自分に向けられた言葉だと思ったらしく、「ごめんなさい」と呟いた。

「せっかく誘ってくれたのに、なにもできなくて」

「いや、僕も人込みは苦手だから気持ちは分かるよ」

 もしかすると人嫌いを克服できるかもしれない。そんな期待を抱きながら来てくれたのだろう。克服できるかどうかはどうでもいい。ただ、「自分は何もできないままだった」と自分の事をもっと嫌ってしまったまま帰らせるのは、少しだけ酷だと思った。

「とりあえず、夢来ちゃんはどこかで待ってて。僕が適当に食べ物とか買って持ってくるから。怖いかもしれないけど、きっと紙透さんが見てくれてる」

 夢来ちゃんは当然、僕の言葉に「なんの話ですか」と少しムキになって言った。紙透さんは僕の意図を汲み取ったらしく、「分かりましたよ」と諦めたように溜め息交じりに言った。

「夢来ちゃんに何かあったら、私が名執君に知らせる。そういう事ですか」

 僕は二人の言葉に同時に答える形で、「きっと大丈夫」なんて、鳥肌が立つような言葉を吐いた。

「全部すり抜けるとは言っても、私だって怖いんですけどね」

 紙透さんが文句を言うのを聞き流し、「じゃあ、すぐ戻ってくるから」と会場に向かおうとした、その時だった。

「あの、もしかすると大丈夫かもしれません」

 突然夢来ちゃんが言った。僕と紙透さんが同時に「え?」と夢来ちゃんを見る。

「私、人が多い場所ではイヤホンを付けながら過ごすんです。曲に集中すると、人の視線を紛らわせるような気がして」

「……つまり?」

「つまり、何か紛らわせるような事があればいいなって」

 夢来ちゃんの意図が読み取れず、僕は首を傾げる。

「えっと、イヤホンを付けて歩くって事?」

「いえ、今日はイヤホンは持ってきてません」

「じゃあどうしたいの?」

「……そうですね。例えば、手を繋ぐとか」

 真っ先に、紙透さんが「ひっ」と悲鳴に近い声を上げた。僕はどうしていいか分からず、「それでいいの?」と訊ねてみる。

「気が紛れるなら、聴覚でも触覚でもなんでもいいんだと思います。凄く臭いものを嗅ぐとかでも」

「そうじゃなくて、僕なんかと手を繋いでもいいの?」

「……名執さんが嫌なら、いいんですけど」

「まさか。嫌じゃないよ」

 でもそれって余計に人の視線を集めるんじゃない? 僕がそう言う前に、夢来ちゃんは僕の手を取った。これ大丈夫なのかな。中学生と高校生だぞ。

「ただの妹に見えますから。多分大丈夫ですよ」

「……今度こそ真囚君に殺されるような気がする」

「名執君、離してください。今すぐ。マジで」

 今手を離したら傷付くのは夢来ちゃんだ。そんな事も分からないのか。まさか口に出せるはずもないから、紙透さんの言葉は全部無視した。

「行きましょう」

 夢来ちゃんが覚悟を決めたように言う。何も、否定しない。僕は「無理はしないでね」とだけ言ってそのまま歩き出した。

 僕と夢来ちゃんは手を繋いだまま、人込みの中を歩いた。後ろから聞こえる紙透さんの声がうるさかった。だけど僕はそんな事より、ずっと俯いたまま歩く夢来ちゃんの事が心配だった。彼女の傷一つ無い手がずっと震えていたから。

 僕が何か買う時、財布を開く為にどうしても両手を使わないといけない。その時だけは仕方なく僕の袖を掴んでいた。その震えが紙透さんの目に入ったらしく、屋台の並ぶ会場を歩き終える頃、彼女は何も言わなくなっていた。

 右手に持った袋が食べ物でいっぱいになった時、会場から少し離れた場所に神社があるのを見つけた。誰もいなさそうだったから、夢来ちゃんの手を取ってそこに向かう事にする。

「どうだった?」

「ちょっと、疲れたかもしれません」

「ちょっとには見えないけどね」

 石階段に夢来ちゃんを座らせ、袋からラムネを取り出し蓋を開けて手渡す。珍しくビー玉を押し込んでも吹き零れなかった。

「まさかこんなに酷いとは思いませんでした。もう少しやれると思ってたのに」

「頑張ってたね。泣きそうな顔してたよ」

「そういうこと言わないでください」

 袋から焼きそばのパックを取り出し、割り箸と一緒に手渡す。蓋を開くと焼き焦がしたような香ばしい香りが僕らを包んだ。

「そう言えば夏祭りって初めてかもしれません」

「本当に? 一回もないの?」

「もしかすると、記憶も無いくらい幼い頃はあったかもしれませんけど。でも、物心付いてからはそういう記憶はありません」

 つまり、物心が付く頃から人の目や自分自身に苛まれてきたのだろう。夢来ちゃんは「人んちの焼きそばって感じがして美味しいです」と、誉め言葉なのかどうか分かりづらい事を言いながら麺を啜っていた。

「名執さんは何か無いんですか?」

 紅しょうがを口に放り込んだ時、夢来ちゃんに訊ねられた。甘辛いそれを咀嚼し、飲み下す。

「別に人んちっていうか、普通に店の味だと思うけど」

「いやそうじゃなくて。なんか、昔の思い出みたいなのって」

「あ、そっちか」

 そう言われて僕は、少し昔の事を思い出してみた。僕の幼い頃の記憶はいつも嫌な大人達が傍にいて、いい思い出というのがあまり無い。それこそ、あの女の子と約束をした事くらいだろうか。

 僕は「昔ピアノやってた時の話なんだけどね」という切り出しであの夢の話をした。もちろん、蔑白さんの名前は伏せて。

「じゃあその約束の相手を探してるって事なんですか」

「探してる、というより待ってる、かな。いつか彼女の手が僕を救ってくれるって信じたいから。夢来ちゃんが『生きててよかった』と思って死にたいように、僕も『不幸でよかった』って思いながら救われたい願望がある」

「前に言ってた、『相対的に幸福が輝いて見える』ってやつですね」

「そうかも」

 僕と夢来ちゃんは石階段の同じ段に座っていた。紙透さんは僕らよりも少し下の段に座りながらつまらなそうに、あるいは不満そうに、少し遠くの夏祭りの会場を眺めている。

「私の手はどうですか?」

「夢来ちゃんのはちょっと綺麗過ぎるよ。ガラスみたい」

「褒めてるんですか、それ」

「綺麗って褒め言葉でしょ」

 焼きそばを同時に食べ終わり、ゴミを袋の中に入っていたもう一枚の袋に入れる。一枚余分に貰っていた分だ。食後のデザートみたいにラムネを飲む夢来ちゃんに、僕は言葉をかける。

「まだ何か食べる?」

「いえ、私はもう」

 お腹いっぱいです。多分、夢来ちゃんはそう言おうとした。

 言葉にしなかったのはその時、彼女の目がある一点で止まったからだ。

 視線は夏祭りの会場にある。そこは寄せて返す人並でごった返している。夢来ちゃんが何を見ているのか、誰を見ているのか、僕には分からなかった。

「私、ちょっと、行かなきゃ」

 夢来ちゃんがそう言って立ち上がる。会場へ向かおうとする。

「名執君」

 僕の名を呼んだのは、紙透さんだ。分かってる。

 歩き出した夢来ちゃんの手を取り、僕は彼女を引き留めた。

「夢来ちゃん」

 どうしてこんな事をしたのか、自分でも分からなかった。

 否定してはいけない、それはよく知っている。この行動が間違っているのもよく分かっている。なのに、僕は夢来ちゃんの手を離せなかった。立ち去ろうとした夢来ちゃんの目が、言葉にならないほど悲しいものに見えたから。

「名執さん。大丈夫ですから」

 そう言って微笑む彼女の顔は、前に見せた無邪気なそれとは全くの別物だった。誰が見ても分かる、愛想笑いだった。そんな笑顔で、なのに、そんな事を言われたら、引き留められるはずがないじゃないか。

「……無理はしないで」

「分かってます」

 夢来ちゃんはまた笑い、僕の手から離れて会場へと歩き出して行った。綺麗な手は、やっぱりまだ震えているというのに。

「いいんですか、行かせて」

「……行かせなきゃいけなかった。分かるだろ」

 僕はまた同じ場所に座る。僕の下に座る紙透さんが「どうしたんでしょう」と少し不安げに呟いた。

「分からないけど、あんまりいい事じゃないのは分かる」

「ええ、そうでしょうね」

 それから少し無言の時間が続いて、僕らは黙って会場を見つめていた。その奥に消えていった夢来ちゃんの姿はもう見えない。

 会場からまた、何か香ばしい香りを運ぶ夜風が吹いてくる。ふと僕はどうでもいい事を彼女に訊ねてみた。

「紙透さんって匂いとか分かるの?」

「なんの話ですか」

「ほら、風とかもすり抜けるみたいだから、匂いもすり抜けるのかなって」

 そう言うと紙透さんがすんすんと、何かを嗅ぐように鼻から息を吸い込む。そしてすぐに顔をしかめた。

「まあ薄々気付いてましたけど、死んでからは匂いとかないです。死ぬ前にもっと美味しいものを食べておけばよかった」

「オーツ麦のクッキーは?」

「あれ言うほど美味しくないですよ。手作りだったから尚更」

「お腹が空いたりはするの?」

「美味しそうなものを見て食べたいな、とかは思いますけど、空腹は感じませんね」

「そっか、可哀想に」

「勝手な事言わないでください」

 紙透さんはまた苛立ったようにこちらを振り向いた。それを確認し、僕は袋からアメリカンドッグを取り出す。彼女に見せつけるようにして。

「こんなにも美味しいものを、君はもう食べられないんだ。そりゃあ不幸だね」

 サクサクとした衣にかぶりつく。音を鳴らして進んだ先に、ふわふわとしたホットケーキミックスの甘みが仄かに香る。紙透さんはそれを、ただじっと見ていた。

「美味しいよ」

 僕が嫌味を込めて言うと、紙透さんは立ち上がって僕の前に立った。さすがに怒っただろうか。何もできないとは言え少し怖い。

「……食べる事はできなくても、感覚を味わう方法はあります」

 彼女はそう言って、僕と全く同じ場所に座った。つまり、以前ピアノを弾いた時と同じように僕と綺麗に重なったのだ。

「無茶苦茶だ」

「他に方法は無いでしょう。貴方が焚き付けるのが悪いんです」

「逆に虚しくなるだけじゃないの?」

「いいから黙って早く食べてください」

「これ気持ち悪くてあんまり好きじゃないんだけど」

 渋々僕がアメリカンドックを持った右手を上げると、彼女もそれに合わせて右手を上げる。口まで持ってきて、かぶりつき、咀嚼する。彼女が全く同じ動作をするのが分かる。

 視界に入る彼女の鼻や、咀嚼する度に動く彼女の頬、視界に入る長い髪、位置が少しズレた時に見える、彼女の半透明な肌。自分じゃない身体がこんなにも近い距離にあるのは、言葉にできないような気持ち悪さしかない。

「美味しい?」

「この世には無いような味がします」

「君にとってこの世ってあの世だろ」

「この世にいるんですからこの世はこの世ですよ」

「どうでもいい」

 またアメリカンドックにかぶりつく。紙透さんもそれを真似る。傍から見れば、ただ僕が黙って食事をしているようにしか見えないだろう。ふと夜空を見上げると、綺麗な月が一つ浮かんでいるのが目に入る。まるで寂しさの象徴みたいに優しい月だった。

「優しい月ですね。私みたい」

「それも幽霊ジョーク?」

 それからしばらく「花火とかあるんですか」「多分」なんて、生産性も何もない会話をしていて、丁度その時だった。

 夢来ちゃんが、覚束ない足取りでゆっくりと帰ってきた。

「……ちょっと、遅くなりました」

 暗闇の中、会場に並ぶ提灯の煌びやかな遠い光が、僕らを薄っすらと照らしている。

 徐々に、徐々に。暗闇に慣れた視界が、夢来ちゃんの顔を映す。

 そして、見えてしまった。彼女の顔が、赤く腫れあがっている事に。明らかに人為的な害が浮かんでいる事に。

「やっぱり」

 僕の口元から、彼女の声がした。

『やっぱり』? やっぱりって、なんだよ。

「……どういう事だよ」

 誰に対して言ったのか、何に対しての言葉なのか。それは僕の口から自然と零れていた。

「説明しろよ」

 それは紙透さんに向かって言ったつもりの言葉だった。でも当然、紙透さんの姿は誰にも見えていない。夢来ちゃんがまた悲しく笑って「なんでもないですよ」と言った。

「ちょっと大きな蚊に刺されただけですから」

 確信した。紙透さんは多分、全てを知っている。夢来ちゃんに何が起きたのか、誰がこんな事をしたのか。

 なのに、彼女はずっと黙ったままだった。右手に食べかけのアメリカンドックを持ったままの体勢の僕と、ずっと重なったままだった。

「言ったでしょう。私はこれでいいんです。名執さんだけは、私を否定しないでください」

 小さく呟く夢来ちゃんの背で、夜空に向かって一直線に昇るものが見えた。

 やがてそれは、黒い夜の中に大きな花を咲かせる。一瞬の間があって、すぐに大気を震わせる轟音が鳴り響いた。

「わ、もうそんな時間なんですね」

 夢来ちゃんはそう言って、何でもないように僕の隣に腰をかける。何度でも開花する火の花を、うっとりと見つめている。

「花火の音って、私が死んだ時の音とよく似てます」

 また、僕の口から彼女の声がする。

 半透明な顔越しに見える花火は、なんだかいつもより綺麗に見えた。夏の亡霊の特権だろうかと、そんな事を思う。


*  *  *  *


 その日以来、夢来ちゃんと僕の間に会話は少なかった。というより、会話ができるほどの余裕が彼女になかった。それこそ取り付かれたように、ピアノだけを延々と弾き続けていた。

「人の目があるんですから、私からすればどれだけ練習しても足りません」

「だからって平日まで学校に来て、もし見つかったらつまみ出される」

「ピアノが家に無いんです。だからここに来るしかない」

 そう言ってまた〝幸福の唄〟を弾き始める。僕は「どういう意味?」という意図を込めて紙透さんに説明を求めた。

「夢来ちゃんの言う通りです。あの子の家にはなぜかピアノが無い。だから、あの子の通うピアノ教室に直接お邪魔して、私が色々と教えていました。前に言ったように私も通っていた場所なので、多少の融通なら効きました」

 夢来ちゃんが来た時にまだ青色だった空は、いつのまにか茜色に染まっている。窓の外から放課後の生徒達の喧騒が遠く聞こえる。コンサートの本番は明日だった。

 あの夏祭りで夢来ちゃんに何があったのか、一度だけ訊ねてみた事がある。でも結局、何も教えてくれなかった。だからそれ以上は踏み込んではいけないのだと悟って、以降は何も訊いていない。何かを知っているような素振りを見せた紙透さんでさえ、何も教えてくれなかった。そもそも、どうして紙透さんは「やっぱり」などと言ったのか。あれはまるで、夢来ちゃんがああなる事を予見していたような言葉だ。

 もう何度目か分からない、まるで機械のように正確無比な〝幸福の唄〟。どれだけ人を幸福にしようと、夢来ちゃん本人が幸福であるようには到底思えなかった。これでいいのかと、紙透さんに問いただしてみたかった。

 壁掛けの時計を見ると、もう帰宅時間をとっくに過ぎている。そろそろ教師が来てもおかしくない。曲が終わったのを聞き届け夢来ちゃんに声をかける。

「夢来ちゃん、もう終わらなきゃ」

「もう一回だけ、お願いします」

「無理。ここで見つかったら明日のコンサートにも出られなくなる」

「でも私はまだ弾き足りない」

「いくら弾いても足りないくせに」

 分かる、などと簡単に言ってはいけないけど、それでも、彼女の考えている事は少し分かる。人の目があって、万全を期すに越した事はないのだ。例えそれがいき過ぎたものだとしても。何かが少しでも狂えば、その拍子に全て崩れてしまうと分かっているから。

「今日はもう帰ろう。今日はというか今日が最後だけど」

 僕が優しく言うと、夢来ちゃんは納得いかない様子のまま小さく頷いた。〝幸福の唄〟の楽譜を鞄にしまい、音楽室を出る。僕もその後ろを付いて行き、当たり前のようにここに居残る紙透さんを一瞥してから、扉を閉めた。

 廊下には誰の気配もない。当たり前だ。というかあったら困る。僕が女子中学生を連れ回していたら問題だ。

「緊張してる?」

 静かな廊下に僕の声はよく響く。でも夢来ちゃんは響かないほど小さな声で「分かりません」と言った。

「想像できないです。人前でピアノを弾くのは久しぶりなので。舞台に上がった瞬間吐いちゃうかも」

「吐いた後に〝幸福の唄〟なんて言われても説得力ないね」

 少し笑って言ってみた。前を歩く彼女が「そうですね」と言ったのは聞こえたが、その表情は見えなかった。

 校舎を出て僕は正門へ、夢来ちゃんは裏門へ向かう。裏門方面は人がいないからだ。いつもそこから出入りしている、らしい。

「じゃあ、今日はゆっくり休んで」

「はい。また明日です」

 お互いに手を振って、そうやって別々の帰路を歩く。

 正門はほぼ一直線上にあって、ぽつりと空に浮かぶ太陽が僕の邪魔をするように眩しかった。視界を細め、ゆっくりと歩く。

 だから、最初は気付かなかった。もうほとんどの生徒が帰ったはずの正門に人が立っている事に。ましてや、それが彼だなんてギリギリまで近付かないと分からなかった。

「おい」

 最初僕は何でもないように通り過ぎた。無視したわけじゃない。陽が眩しくてずっと靴先を見ていただけだ。声をかけられて、ようやく僕は振り向いた。

「話がある」

 そう言って彼は、真囚君は、僕の家とは真逆の方向に歩き出す。僕が付いてくるのを疑いもせず、ただ前を向いて。僕は少し迷ったが、結局付いて行く事にした。話があるのは、僕も同じだったから。


 幼い頃はブランコが好きだった。一番振り切った時に一瞬だけ感じる無重力のような感覚が、まるでこの世と断絶される瞬間のようで。もしかして死ぬ時には、こういう浮遊感を味わうのだろうかと思っていた。

「進路、決めたかよ」

 僕の右隣のブランコに腰掛ける、真囚君が訊ねる。僕は「まだ」と答えた。

「別に何でもいい。なるようになる」

「お前のそれは進路ってより末路の話だろ」

「かもね」

 上手い事言う、と思って少し笑った。彼は笑わなかった。

「大人って生き物になるのが想像できない」

「もう充分に大人だろ」

「嫌な話するなよ。そんな事が言いたくて僕を連れてきたの?」

「ある意味じゃそうだよ。嫌な大人の話がしたくて来た」

「君は大人が嫌いなんだね」

「どうだろうな。よく分かってない」

 溜め息を吐く。僕が何よりも嫌いな、多分幸福ってやつと同じくらい嫌いなものの話だ。

 真囚君は僕の言葉を待っていた。何となく、彼はこういう話が聞きたいんだろうなというのは分かっていた。だから僕は、遠い日の記憶について語る事にした。

「僕の人生で一番古い記憶は、保育園で読んだ絵本の話なんだ」

 そこには家族愛がいかに素晴らしく、尊いものであるかというのが馴染みやすい絵で書かれていた。それを読んだ僕が初めに思ったのは、「気持ち悪いな」という感想だった。人の支えがなきゃ生きられないとか、人間はなんて不充分で可哀想な生き物なんだろう。言葉にはできなくても、そういう感情が奥底にあった。

 それから本や漫画、映画やドラマ、そういうものを見る度、おかしいのは自分の方なのかもしれないと思い始めた。普通の親は理由も感情もなく子供を叩いたりしないし、暖かい晩御飯を用意して、何かどうでもいい会話をしながらそれを一緒に食べるらしい。僕にとっては別世界の話だった。

 四角い果物や野菜を作る為に、発達段階の実をケースに閉じ込めるように。幼い頃からあの絵本とは違う形で育ってきた僕は、ごく普通の常識や世界を知らなかった。どうしようという気も起きなかった。我慢していた、という言い方すら正解ではない。人が歩く時に足への負担を意識している感覚はないように、それが極々当たり前だったから。

 物心というものが付くような年齢になる頃、僕は近所のピアノ教室へと行かされた。今考えればこそ、あれはただの厄介払いだったのだろう。ただ、僕はそこでようやく世界の破滅者と出会った。あの女の子だ。あの女の子が、「不幸だ」「それは『可哀想』な事だ」と教えてくれた。

 おかげで親への猜疑心が生まれた。僕の何が母親や父親をこうさせるのだろう。これが罰だとすれば、僕はどんな罪を犯したのだろう。考えても考えても理由は分からなくて、やっと「我慢」というものを自覚した。そうか、僕は不幸なのだ、と。

 それでも僕がなんとかやっていけたのは、あのピアノ教室に通っていた事、そしてあの女の子の存在が大きい。あそこだけが唯一、僕が安らかな時間を過ごせる場所だった。ただピアノの事だけを考えていればよかった。

 親に勝手にピアノ教室を辞めさせられた時、初めて反発心を覚えた。親に逆らった。もちろん、僕一人ではどうにもならなかった。我慢すべき事は増えていくばかりだった。

「前に、『自分にとっては何より大事なものでも、他の人間からすればどうだっていいんだ』って言ったのはそういう事だよ。覚えてる?」

「知らねえよ」

 今まで僕が生きてこられたのは、女の子との約束があったからだと思う。これだけ不幸になれば、いつか気付いてくれる。八分音符のヒーローが来てくれる。あのボロボロの手で、僕を救い取ってくれる。そう信じたかった。

 痣が服では隠し切れなくなってから、ようやく周囲の大人は異変を感じたらしかった。大人という生き物に対して、果ての無いような嫌悪を覚えたのはその時だ。これまで僕を殴り続けた親以上に、今になって綺麗事を吐くような大人がどうしようもなく嫌いだった。

 それから少しの間だけ親戚の家に住み、高校生になってやっと一人暮らしを始めた。親戚は皆、優しくて生暖かくて、少しだけ気持ち悪かった。

「どこにでもあるような話だよ」

「そうだな。在り来たりな『在り来たりじゃない話』だ」

 真囚君は大きな欠伸をする。つまらない話だと暗に言われたらしい。陽はいつの間にか山に隠れかかっていて、空はほんの少し薄暗い。

「お前ってさ、嫌いなものの為なら何でもする?」

「限度はある。でも、学校のピアノを壊すくらいの事なら何とも思わない」

「だろうな」

 結局彼は何の話がしたいのだろう。僕をこんな所まで連れてきて、僕のつまらない思い出話が聞きたかったのだろうか。

 真囚君を見ると、彼は一瞬だけ目を合わせた後で一つ息をついた。そしてようやく重い口を開いて話をし始める。

「お前、夢来と夏祭り行ったらしいな」

 その言葉に僕は少し悩み、嘘をつく理由も見つからなかったから頷いた。手を繋いだとか夏祭りに行った理由とか、そもそもどうして夢来ちゃんと親交があるのか、とか。彼はそういう事は訊かなかった。その代わりにこう言ったのだ。

「あいつ、殴られて帰ってきただろ。何でだと思う?」

 端的に言えば、僕はその言葉に真っ先に腹が立った。そんなの、僕が知るわけがないだろ。

「蚊に刺されたって言ってたけど」

「害虫には変わりないのかもな」

「何が言いたいんだよ」

「お前の嫌いなものの話だよ」

 真囚君は鞄から煙草を取り出し、何でもないように火を点ける。僕がそれを邪険な目で見ていると「いる?」と言われた。僕は何も言わなかった。

「あいつが通ってるピアノ教室、先生がスパルタっぽいんだよな」

 ゆっくりと紫煙を吐き出しながら彼は言った。ほろ苦い香りのする空気が僕らを包む。

「『っぽい』って何だよ」

「百パーセントとは言えないから。夢来本人が意地でも認めない。そんな事されてないって。だから辞めさせようにも無理なんだよ」

「無理やりにでも辞めさせればいい。僕がそうだった」

「分かるだろ。あいつが何よりも嫌ってるのは『否定』なんだ。暴力とか辞めさせるとか、そういう話じゃないんだよ」

「じゃあ」

 じゃあ、何がしたいんだよ。そう言おうとしてやっぱり止めた。何がしたい、ではない。何もできないのだ。

「あいつはピアノが好きだ。学校には行かないのに、ピアノ教室には行くくらい。でも、俺としては当然そんな所辞めて欲しいわけで、精々家ではピアノから断絶した生活をさせるくらいしかできないんだよ。逆効果かもしれないけど」

「夏祭りの時、夢来ちゃんは自分から歩いて行った。わざわざ、苦手なはずの人混みの中に」

「そういう風に躾けられてるんじゃねえの。見かけたら挨拶しろ、みたいな。殴られた理由は知らねえよ。『挨拶が遅い』かもしれないし、『こんなところで遊ばず練習しろ』かもしれない」

「他人事みたいに言うんだな」

「そう見えるか?」

「そうにしか見えない」

 真囚君は鼻で笑った。また深く、息を吐いて煙を吹かす。

「要約しろよ。どうして僕にそんな話をしたのか」

「さっきのお前の話を聞いて確信したから。今の夢来は、お前によく似てる」

 意味が分からなくて、僕は眉間に皺を寄せる。

「夢来は、自分の事を何も無い人間だって言ってる。悲しいとか嬉しいとか、正しいとか間違ってるとか、幸福とか不幸とか。その判別がつかないって。ただピアノさえ弾ける人生ならそれでいいのかもな。ほら、ピアノ教室に通う前のお前と同じだろ?」

 全くの別物だけど、少し似ていると思ったのも確かだった。誰が見ても「可哀想」なのに、渦中にいる本人だけがその言葉に首を傾げてしまう。夢来ちゃんはその先生とやらから受けている事を何とも思わないのだろう。それが当たり前だから。ピアノを弾く上で、必要な事でしかないから。

「全部大人のせいだ。先生も、どっちつかずの親も、俺も。何もかも、お前の嫌いな大人のせいだよ」

「僕に何が言いたいんだって訊いてる」

「俺はお前の事尊敬してるんだぜ? 自分の嫌いなものの為なら、何でも壊すところ。そんなガキが癇癪起こすみたいな事、俺にはできない」

 まだ中途半端に残っている煙草を吐き捨て、靴で踏みつける。そして彼は口を開いた。多分、一番言いたかった事を言う為に。

「お前の好きなようにやれ」

 そう言って彼は自分の鞄を僕に投げて寄越した。受け取った瞬間、理解した。中に入っているものが何なのか。その重みを、僕らはよく知っていたから。

「人任せ過ぎない?」

「ああ、だろうな。お前に頼むなんて、これ以上に死にたい事は無い」

 彼はブランコから立ち上がり、体をうんと伸ばした。空はもう、黒のような深い藍を残すばかりだった。

 そのままその場を去ろうとした彼だったが、ふと足を止めて、思い出したようにこちらを振り向いた。何でもないような真顔をしていて、夢来ちゃんとよく似ていると思った。

「俺は夏架を忘れない。夏架を殺したお前を許す気も、ない」

 それに僕が何か言う前に、彼は立ち去って行った。

 それでいいと、僕は思った。


*  *  *  *  *


 コンサート会場は夢来ちゃんの通う中学の体育館だという。ホールほどではないにしろ、館内は界隈で有名なピアニスト達で一杯になる。普通の観客が集まるよりもよっぽど貴重なコンサートだ。

 僕は会場に向かう為、大きな川を渡るようにして作られた橋を渡っていた。すぐ傍の海に直結しているこの川には、横殴りするかのような突風が吹く。目を開けるのも一苦労だった。

 狭まる視界の中に、見覚えのあるシルエットが映った。その人は僕の行先を邪魔するようにして目の前に立っている。

「いい天気だね」

 彼女は下を流れる川を眺めながら言った。日の光を乱反射させる水面が眩しい。僕は彼女の言葉に「そうだね」とだけ言った。

「コンサート、見に行くの?」

「夢来ちゃんと色々あってさ」

「憐君怒りそう」

「多分ね」

 蔑白さんは白いブラウスに、柄の入ったロング丈のプリーツスカートという服装だった。風に揺られるスカートがなびいて、彼女をどこか遠くまで連れ去ってしまいそうに見える。

「蔑白さんは行かないの?」

「実は夢来ちゃんとの面識ってあんまりないんだ。ピアノを教えてるっていう夏架を通して何回か会ったくらいだし」

「行かない理由にはなってなさそうだけど」

「女子ってそういうものなの」

 目を細め、少し微笑むようにして言う。そう言われてしまったら僕は何も言えない。ただ「そっか」とだけ何となく返しておいた。

「じゃあまた学校で」

 それだけ言って、彼女の横を通り過ぎようとした時だった。彼女が「名執君」と名前を呼ぶ。僕は振り返って「何?」と訊ねた。

「答えは決まった?」

 まあ、そう言うだろうなと思っていた。あの日駅で会って以来、答えも感情も全部を置いたままにしてきたから。

「うん。ちゃんとあるよ」

 でも、僕は教えてもらった。理解した。何も受け入れなくていい事を。自分の生き方にそぐわないものは、無関係なふりをして目を逸らせばいい事を。

「否定しちゃいけないっていうのは正しいと思う。僕は君にとっての幸福が何なのか知らないまま、それを勝手に推し量った。多分、それは間違いなんだ」

 最初から全てを知っていた彼女は、それに「そうだね」と優しく微笑んだ。あるいは、何もかもを諦めているかのように。

「何も否定しないって、難しいけど大切だよ」

「僕もそう思う」

 それから一瞬だけ沈黙が流れて、でもすぐに蔑白さんが口を開いた。

「分かってるなら、それは持っていっちゃダメだよ」

 そう言って僕が持っていた鞄を指差す。正確には、その中に入っているものを。僕は少し驚いて「どうして分かったの?」と訊ねた。

「夢来ちゃんがどんな境遇にいるのかくらい、私も知ってるよ。名執君がしそうな事も」

「買い被りだ。僕は自分のしたい事しかしない。真囚君の言葉を借りれば、ただの子供の癇癪なんだ」

「うん。知ってる。だからだよ」

 蔑白さんはそう言って、僕の鞄の中に手を入れる。そしてハンマーを取り出し、川の方へと思いきり投げ捨てた。真囚君から受け取ったそれが宙を舞い、やがて鈍い音を鳴らして着水する。

「またピアノ壊す気だったの? 学校の備品じゃないんだから、ちゃんと器物破損だよ?」

「真囚君に命令されたって言えばいい。彼には僕を虐めてた事実がある」

「性格悪いなあ」

 そう言って彼女は大きく笑う。僕は軽くなった鞄の持ち手を強く握った。

「否定しないって決めたなら、ちゃんと見届けなきゃ。受け入れなきゃ」

 君ならそう言うだろうなと、心底思った。やっぱり紙透さんとは真逆の人間だ。紙透さんならどこまでも正しく、人が幸せになる方へと道を歩む。例えそれがどんな手段であっても。

 どちらが正しいのかなんて分からない。でも今、僕のやるべき事は分かる。否定も幸福も全部捨て去って、どこまでも自分本位になろう。自分にとって都合の良いものだけを選び取っていよう。

「僕のタイプは、僕なんかを好きにならないような子なんだ。ごめん」

 蔑白さんはそれに一瞬呆気に取られたような顔を見せ、でもすぐに思い出したように「ああ」と言った。

「わたし今、フラれた?」

「うん。多分そう」

「そっか。でも私は忘れないよ」

 当たり前のように彼女は言う。その人にとっては何でもないような一瞬が、別の人にとっては一生を支配するような出来事になる事は、きっとある。

 そんなの、僕だって同じだよ。言葉にはせず、心の中で留めて置いた。彼女の傷一つない、綺麗な手を見る。

 もう何も言う事がなくなった蔑白さんが、「気が向いたら私も行こうかな」と立ち去ろうとした。その背中に、今度は僕が「蔑白さん」と声をかける。

「どうでもいいかもしれないけど、紙透さんは本気で、君の事を友達だと思ってた」

 彼女は僕の言葉に呆けたような顔を見せた。「だからどうしたって話だけど」と言い訳のように付け加える。すると、彼女は大きく笑った。夕焼けのように、眩しい笑顔で。

「なにそれ」


*  *  *  *  *


 体育館に観客はまだいないらしく、僕が一人目だった。けど、観客がいないだけでピアノの音は絶えず鳴り響いている。

 舞台の上で夢来ちゃんが〝幸福の唄〟を演奏している。どれだけ練習しても足りないのだろう。僕が来た事にも気付かず、体育館でただ一人、無我夢中で鍵盤を叩いていた。

 いや、正確にはもう一人いた。もっとも、「人」としてカウントできるのかどうかは分からない。

「早いですね」

 体育館の後方、最後列にあるパイプ椅子に腰をかけた彼女が言う。僕も数席分の間隔を空けて同じ列の椅子に座った。

「君に言われたくないな。いつからいたの?」

「昨日の夜です」

「なんで」

「どうせ暇なので。たまには音楽室から離れてもいいかなって」

 舞台には聞こえないくらいの声量で会話をする。とは言っても、演奏に集中した夢来ちゃんに周りの事なんか見えないのは、僕らが一番知っているけど。

「来る途中で蔑白さんに会ったよ」

「だから何ですか」

「『紙透さんは本気で、君の事を友達だと思ってた』って言っておいた」

「……何の為に」

「さあ? 君への嫌がらせかな」

〝幸福の唄〟が終わる。でも、夢来ちゃんは終わらない。続けてまた最初から弾き始める。「これ何回くらいやってるの?」と訊くと「十回目くらいから数えるの止めました」と言われた。

 その後しばらく、僕らはそのまま彼女のピアノを聴いていた。何度やっても僕には同じに聴こえるけど、夢来ちゃん本人はそうじゃないらしく、一曲弾き終える度に一々楽譜を睨み付けていた。

「多分、あれが努力って事なんでしょうね」

 ふと、隣で紙透さんが呟いた。僕は横目で彼女を見て、視線だけで続きを問う。

「天才が努力し始めたんですもん。私なんかもうとっくに追い抜かれてますね」

 珍しく眉に皺の無い、真っ新な真顔で言った。彼女の半透明な手は、ボロボロに傷付いている。

「私、幸福の他にもう一つだけ執着してるものがあるんです」

 そう言って紙透さんはゆっくりと自分の過去を語る。僕は何も言わず、ただ黙ってそれに耳を傾けていた。

「『才能』がそうなんです。いや、もしかすると幸福以上にそれを求めているかもしれない。私は、天才になりたかった」

 紙透夏架を知る人間なら、誰もが彼女を「天才」と褒め称える。それはある意味で残酷な事だ。彼女のこれまでの努力を全て無視しているようなものだから。彼女がどれだけの時間をかけてきたのか、彼女の手を見ればすぐに分かると言うのに。

「『この世界でたった一人、憧れたピアニストがいました』と前に話しました。今もその偶像を追いかけ続けているんです。あの人のようにならなければいけないと、強く思いました。その人の才能こそが、私にとって唯一の執着です。私の全てです」

 もう死んでしまったか、あるいは、ピアノを辞めてしまったか。彼女はそう言っていた。全人類を幸福にする力があるのだと語っていた。

「私にとっての幸福は、きっと才能を手に入れる事。才能さえあれば、天才にさえなれば、私は幸せになれたのに。誰もを幸福にできたのに。あの人のようになりたかったのに」

 そう言いながら、手を強く握りしめる。僕はふと思い出した事があって、それを訊ねてみる事にした。

「『やっぱり』っていうのは、どういう意味だったの?」

 紙透さんがこちらを見る。僕は夢来ちゃんの姿を遠目に、「夏祭りの日の」と言った。

「夢来ちゃんが戻ってきた時、彼女の顔を見た君は『やっぱり』って言ったんだ。自分で覚えてる?」

 そう訊ねると紙透さんは少し考えるような表情をし、やがて「正直なところ、覚えていません」と言った。

「でも、言った意味は分かります。あの日会場に先生がいたのを私も見かけていました。それで戻ってきた時、殴られたようだったので『やっぱり』と言ったのだと思います」

 紙透さんは、夢来ちゃんと同じピアノ教室に通っていた。だから当然、先生も同じなのだろう。それは分かる。同じ事をされていた紙透さんが「やっぱり」と言うのも理解はできる。でも。

「納得できない。『やっぱり』で済む問題じゃないだろ。夢来ちゃんが顔に傷を付けて戻ってきて、それで『やっぱり』で終わらせるつもりかよ」

 苛立ちを抑えながら訊ねる。彼女は「何の事ですか?」と呆けたように言った。

「君は、誰よりも人の幸福を望んでたはずだろ。夢来ちゃん本人がどう思うかはともかく、君だけは、それを許しちゃいけないだろ」

 それが紙透夏架だから。そう、強く叫びたかった。

 紙透さんは眉をひそめる。嫌悪や不快の表れじゃない。本気で、何を言っているのか分からないという表情だ。

「夢来ちゃんはピアノを弾いてるんですよ? それで何が悪いんですか?」

 彼女の言う意味が分からず、今度は僕が顔をしかめる。その表情には、きっと不快感もあった。

「ピアノを弾けるからって、じゃあ殴られる事は容認するって言いたいの? それで夢来ちゃんは幸福だって、本気で言うつもり?」

 僕の質問に、紙透さんは呆気なく「はい」と即答する。

「だって夢来ちゃんは天才で、ピアノが好きで、ピアノを弾いてるんです。もう幸せに決まってるじゃないですか。才能の無かった私なんかより、ずっとずっと幸せなんです」

 そこで僕は、ようやく気付いてしまった。紙透夏架という存在の人間性に。「幸福」という言葉の意味に。彼女の持つ、執着の恐ろしさに。

 紙透さんにとって幸福と天才はイコールだ。才能さえあれば、ただそれだけで幸せだと言いたいのだ。

 紙透夏架は、例えどんな手段であっても、人が幸せになる為なら何も厭わない。例えそれが大人に脅かされる事であっても。あるいは、死ぬ事でさえも。

「……君は、それで幸せだったの?」

 小さく、僕が訊ねる。彼女は昔を懐かしむように「そうですね」と言った。

「結局私には才能が無かったわけですが、それでも、天才になれるかもしれない、あの人のようになれるかもしれない。そう考えるだけで幸せでした」

 ——ああ。君でさえ、そうなのか。

 僕も、夢来ちゃんも、紙透さんも。結局は同じだったのだ。

 誰が見ても「不幸」なのに、世界でただ一人、本人だけがそれに気付いていない。全てが、自己完結している。本人にとっては、それが疑う事すらない当たり前だから。

 僕が虐待を何とも思えなかったように。夢来ちゃんが暴力を受けている事の善悪が判別できないように。紙透さんは、才能という幸せの中にそれがある事を当然の事実としている。それが、幸せなのだと言っている。

「夢来ちゃんは幸せですよ。大丈夫です」

 紙透さんはピアノを弾き続ける彼女を見つめている。羨望、慈愛、喜び。そういうものを含んだ眼差しで、うっとりと眺めている。

「……そうか。君は、幸福を信じるんだな」

 それはただの独り言だった。紙透さんにも聞こえていなかったらしい。

 僕は決めた。また、紙透夏架を不幸にしてやろうと。同時に、真囚夢来を裏切ってやろうと。全部全部、ぶっ壊してやろうと。

「どこ行くんです?」

 気付けば僕は、鞄を持って席を立っていた。体育館の入り口から、ようやく観客が入ってくるのが見える。その中に蔑白さんの姿もあった。

 僕をじっと見つめる紙透さんに、僕は一言だけ言い残す。

「僕は、君の全部を否定する」


 開演直後の体育館は人でごった返していた。先生とやらも、蔑白さんも、紙透さんも。誰がどこにいるか分からない。もしかして真囚君もいたりするのだろうか。

「夢来ちゃん?」

 舞台袖の角で縮こまって、どこか遠くを見つめる夢来ちゃんを見つけた。声をかけると、焦点が合っているのかどうか分からない目で「はい」とだけ言った。

「緊張してる?」

「……分かりません」

「どこからどう見ても緊張してるようにしか見えないけど」

「でも、楽しみなのもちょっとあります」

「ほんとに?」

「だって、私はこれでようやく、生きててよかったと、心の底から思う事ができるかもしれないんです」

 相変わらず無表情のままで言う。彼女の冷たそうな手が、傷一つもない手が、小刻みに震えている。

 頑張れ、応援してる、大丈夫だよ。そんな薄っぺらい言葉が思い浮かぶ。でも、どれも不正解な事くらい僕にも分かる。だから代わりに、僕は彼女に向かってこう言った。

「夢来ちゃん、大切なお願いがある」

 僕は鞄を床に置いてしゃがみ込み、彼女と目線を合わせる。夢来ちゃんは震える声で小さく、「なんですか」と言った。

「トップバッターが君なのは知ってる。でもその前に、僕に行かせて欲しいんだ」

 予想外過ぎる言葉だったのだろう、夢来ちゃんは「え」と言って手の震えをピタリと止めた。

「そ、それはどういう意味ですか」

「そのままの意味。ちょっとだけ僕に弾かせて。すぐに終わる」

「そんな事言われても、それは私の一存じゃ決められませんよ」

「コンサートなんて関係なく、君にお願いしてるんだ。『君の前に、僕に少しだけ弾かせて欲しい』って」

 夢来ちゃんは俯いて、ほんの少しだけ顔をしかめている。嫌なのだろう。それは彼女を見ていた僕がよく知っている。

「……私は、この瞬間の為に、何も狂わせない為に準備してきたんです。私の中ではもうプログラムの一番目になってて、順番とか、椅子の座り方とか、視点の位置とか、楽譜とか、鍵盤の触り方とか。とにかく、少しでも何かが違ってしまうと」

「『僕の命を捧げる』」

 そう言った瞬間、夢来ちゃんが大きく目を開いた。僕は微笑み、「今度はちゃんと自分の命だよ」と言った。

 大きな音が鳴った。夢来ちゃんの身体が驚いたように跳ねる。どうやら開演のブザーらしい。まるで映画が上映するみたいだ。

 鞄を持って立ち上がる。夢来ちゃんに何か言おうとして、でも何を言っても間違いのような気がして、だから黙って舞台へと向かった。後ろから「名執さん」と、僕の声を呼ぶ声が聞こえる。

 僕が登壇した瞬間、館内が騒めきだすのが分かった。そりゃそうだ。プログラムに無い、誰も知らないような一般人なのだから。でも、僕の行動が自然だからなのか、運良くつまみ出される事はなかった。

 そういえば、人前でちゃんとピアノを弾くのは初めてかもしれない。深く息を吸いながら、ピアノ椅子に腰をかける。そして、鞄の中から〝とあるもの〟を取り出して少しだけ小細工をする。

 鍵盤に指を置き、もう一度だけ深く息を吸う。そしてゆっくりと、穏やかな音色を奏でる。

 ——ベートーヴェン、ピアノソナタ第十二番。通称〝葬送〟。

 序盤はどこまでも静かに、暗闇のように、落ち着いた旋律を。中盤は素早く、その名に反して陽気にすら感じるように、飛び跳ねるような音を続ける。そして、そこから終わりにかけてをまた静けさを取り戻した音が、でも確かな力強さを感じさせるように重く流れる。

「葬儀の後に降った雨が、埋葬地を慰めの灰色の霧の中に覆い隠していくかのようである。もはや誰も残っていないであろうその場で、大自然が最後の言葉を与えるのだ」。音楽家、エトヴィン・フィッシャーはそう語った。死んだ人間は生き返らない。だけど、どうしようもない自然のように、その眠りを妨げるほどの追悼がたった一つの偶像に捧げられる事を、僕はよく知っている。

 何かを降りるように、徐々に曲は静かになっていく。そうやって密かな余韻を残したまま、曲は終わりを迎える。ふと気付いた時、僕の手は酷く震えていた。

 何も知らない観客は、僕に対してささやかな拍手をくれた。僕はそのまま鞄を持ち上げ、まばらに鳴り響く破裂音を無視して退場する。

 人の視線から早く抜け出したくて、早歩きで向かった舞台袖の先で夢来ちゃんが待っていた。祈るように手を組み、僕の名を呼んでいる。

「名執さん、ピアノ弾けたんですか」

「え、今更?」

「そうじゃなくて、いや、そうだけど、でもそういう事じゃなくて」

「落ち着いて」

 優しく、笑って諭すように言う。自分よりも落ち着きのない人を見ると少し落ち着いてしまう。強く脈を打つ心臓が、体中に血を巡らせている感覚が伝わる。

「名執さんがこんなにも凄い人だなんて知らなくて。私なんかよりずっと凄い」

「それはさすがにないかな」

 本当に、そう思った。僕が夢来ちゃんより凄いなんて事は絶対にない。この子は誰よりも強くて素晴らしいピアニストだ。

 僕のやるべき事は終わった。夢来ちゃんには悪いけど、このまま帰ろう。酷く気分が悪かった。

「あの、ありがとうございます」

 ふと、夢来ちゃんが言った。僕は意味が分からず、「なに?」と息が上がったまま訊ねる。

「自惚れてたら恥ずかしいんですけど、多分、私の緊張を解そうとしてくれたんですよね」

 その時の僕は、一体どんな表情をしていただろう。上手く笑えていた自信が無い。夢来ちゃんは僕を見ながら、無邪気に笑っていた。

「ありがとうございます。いい意味で、失敗してもいいやって感じになりました」

「……吐いちゃ駄目だよ」

「分かってます」

 彼女は僕に手の平を見せる。意味が分からずその手を見つめていると、「ハイタッチですよ」と言われた。

 少しだけ迷い、でも結局、僕は彼女と手を合わせた。彼女はこの後、地獄を見るだろうから。僕からのせめてものの同情だった。

「生きててよかったって、心の底から思ってきます」

 彼女は最後に大きく笑い、舞台へと歩きだして行った。

 ただひたすらに、気分が悪かった。今にも倒れてしまいそうだった。夏のへばりつくような湿気が不快だった。人生で初めて、ちゃんと「死にたい」と思えた。

 だからもう、全部終わらせようと思った。彼女がそうしたように、僕もそうするべきだと思ったから。


*  *  *  *  *


 無数に群れる羊雲が夕焼けの色に段々と染まっていく。東の空は未だ青く、西の空は赤い。

 ふと気付くと僕は音楽室にいた。屋上の次に空との距離が近いその場所で、窓の外から見える天空を仰いでいた。

 コンサートの開演は正午頃で、〝葬送〟を弾いた後、僕はすぐに体育館を出た。その後の数時間分の記憶が全く無い。多分、取り付かれるようにここに来たのだと思う。

 未だ気分は優れない。胃の底で虫が這い回っているようだった。死ぬ前はこんな気分なのだろうか。それとも、こんな気分になったから死ぬのだろうか。紙透さんはどっちだっただろう。

「いい天気ですね」

 音楽室の扉を平然とすり抜け、彼女がやってくる。長い髪を耳にかけ、「やっぱり、死ぬならこんな天気の日がいい」と言った。

「何しに来たんだよ」

「何しにも何も、ここが私の居場所ですよ」

「君の居場所はどこにも無い」

「そうかもしれません」

 彼女はとても穏やかな表情をしていた。ふと吹いた夏風が、いつかの遠い記憶の香りを運んでくるような。でも、どんな思い出だったのか思い出せないような。そんな表情だった。

「答え合わせをしましょう」

 そう言いながら、彼女はピアノ椅子に腰をかける。僕はそんな紙透さんをただ黙って見つめていた。

「『それ』の中身を見せてください」

 僕の足元に転がっていた鞄を指差す。もう隠す理由もないか。そう思って、僕は鞄を拾い上げ、中身を全て床にぶちまけた。何十枚の楽譜がバサバサと音を鳴らして落ちていく。

「……やっぱり」

 シの音が羅列する楽譜。〝新・幸福の唄〟の楽譜。今日の夢来ちゃんに、何よりも必要だったもの。それを、僕は奪ってしまった。

「どうしてあんな事をしたのか、教えてくれますよね」

 それが当たり前だとでも言いたげに、僕が説明すると信じて疑っていないように、紙透さんは言った。どうしてって、そんなの、決まってるだろ。

「全部全部、紙透夏架を否定する為だ。紙透夏架を不幸にする為だ」 

 僕の中心にはいつだって二つの楽譜があった。〝旧・幸福の唄〟と〝新・幸福の唄〟。

 紙透さんがいらないと言った〝旧・幸福の唄〟の楽譜を、僕はまだ捨てずにいた。理由は特にない。ただ鞄の奥底に入れたまま放置していただけだ。あのストラップのように。

 夢来ちゃんに命を捧げて僕は〝葬送〟を演奏した。その直前、僕はこの二つの楽譜を入れ替えた。夢来ちゃんの為に用意されていた〝新・幸福の唄〟を鞄にしまい、譜面台には〝旧・幸福の唄〟を置く。〝旧・幸福の唄〟の存在を、夢来ちゃんは知らなかったから。そうなれば、いつもと違う楽譜が置かれている事に気付いた彼女は、平常ではいられなくなると知っていた。あのコンサートを、夢来ちゃんの覚悟を、紙透さんの幸福を。全部全部、ぶっ壊せると知っていた。

「夢来ちゃんは、どうなった?」

 訊かずとも分かる事を、聞きたくもないはずの事を、僕は彼女に訊いていた。紙透さんはそれに何も答えなかった。その沈黙が全てを表していた。

「私が訊いているのは、『何をしたのか』ではなく、『どうしてあんな事をしたのか』です」

「それはもうさっき言った」

「なぜですか。なぜ私を否定するんです。どうして幸福を否定するんです」

 なぜって。自分を不幸にしてくれと、それは君が望んだ事だ。そう言おうとしてやっぱり止めた。

 分かっている。本当は知っているのだ。そんなの、ただの建前だ。虚言だ。欺瞞だ。

 僕が本当に欲しかったもの。ただ一つだけ、幸福と定義してしまったもの。僕はそれを、どうしようもなく手放したくなかった。

「僕にとっての、執着を守りたかった」

 手に力が入る。爪が食い込んで血が滲む。

「名執君は、私の事が嫌いですか?」

 彼女が静かに問う。僕にはもう、世界の全てがどうでもよかった。

「……ああ。大嫌いだよ。この世の何よりも、幸福なんかよりも、僕自身よりも。僕は、君が嫌いだ」

 紙透さんはただ小さく「そうですか」とだけ言った。なぜか悲しく聞こえる、この世の悲哀を全て詰め込んだかのような「そうですか」だった。

 何も否定してはいけない。でもこれだけは、どうしたって許せなかった。

 全人類を幸福にするはずの彼女がただ一人、僕だけを許せなかったように。僕はたった一つだけ、彼女の幸福を否定しなければならなかった。彼女の存在を、彼女の全てを、何一つ残らず否定しなければならなかった。

 紙透夏架という偶像の、その全てを信じたかったのに。ただ一つの執着だった彼女を守る為、僕は彼女そのものすらも否定しなければならなかった。偶像を守る為に、その偶像すら否定する必要があった。

「これからどうするつもりですか」

 彼女は僕の全てを嫌い、否定し、そして死んだ。死んで尚、僕と正反対の位置で幸福を叫んでいた。何もかもが間違いだらけの幸福を。

 なら僕も同じだ。彼女がそうしたように、僕もこの末路を迎えなければならない。紙透夏架の全てを嫌い、否定し、そして死ななければならない。

「ここから飛び降りる。君と同じように」

 あの日の花火を思い出す。〝幸福の唄〟を思い出す。高いシの音はきっと、死の音にも似ている。どこにも幸福なんか無かったじゃないか。全部、紛い物だった。

「私も貴方が嫌いです。名執崇音という存在の全てを嫌悪し、否定します」

「何を今更」

 彼女はピアノ椅子から立ち上がり、歩き出す。僕の元へ、ゆっくりと。

「これが最後です。これが貴方に捧げる、最後の復讐です」

「……どういう意味だよ」

「そのままの意味です。幸福を嫌う貴方に、不幸を望む貴方に。最後の幸福を与えます」

 僕の元まで来ると、彼女は僕の手を取った。ボロボロの傷だらけの手で、僕の手にそっと触れた。夏そのものみたいに、暖かな体温だった。

「貴方の前から、私が消える。その幸福を、よく噛み締めてください」

 窓から差し込む赤い太陽、夏風に吹かれてなびくカーテン、振り向きざまに流れる黒い髪、よく見慣れた制服、夏空を透過する華奢な体、僕に初めて見せた、優しくて美しい微笑み。夏の赤に染め上げられた彼女は、間違いなく、紙透夏架だった。

「『私の全てを捧げます』」

 そうやって、夏の亡霊は僕の前から消え去った。

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