幕間
「後で音楽室も行ってみる?」
「……あ、うん、そうだね」
「じゃあ音楽室の鍵も借りてこないと」
蔑白さんの問いに生返事をしてしまったのは、母校を歩くという行動がこんなにも胸を締め付けるとは知らなかったからだ。時折蔑白さんに挨拶を交わす生徒達が同級生に思えて仕方がない。
「音楽の先生だっけ?」
「そう。もちろんピアノも弾けるよ」
「紙透さんの影響?」
「いや、名執君の影響」
そんな会話をしていると旧校舎にはすぐに着いた。ここからは何年も人の立ち入りがない場所だ。玄関口の扉を開けると、埃っぽい空気が充満しているのがすぐに分かった。
「何年ぶり?」
「ここ使ってたのは私達の世代で最後だから、まあ五、六年くらい?」
「教師になってから来た事は?」
「まさか」
廊下を歩き階段を上る。痛んだ壁や薄汚れた天井は、時の流れを感じさせるには充分なものだった。生きている限りいつだって時間に置いて行かれるばかりだ。心はここに居たがっているのに、それ以外の全てがどんどんと先に進んでいく。
やがて一年一組の教室が目先に見えた時、蔑白さんが「名執君」と僕の名前を呼んだ。
「凄く今更だけど、本当に来てよかったの?」
「どうして?」
「どうしてって、いい思い出なんか一つも無いでしょ」
確かにその通りだ。ここに想い遺した事なんて一つも無い。至る所に、あの日々の不幸が転がっている。制服を着た僕が、不幸だけを大切に抱き留めてしゃがみ込んでいる。
「過去の亡霊がここにいる。いい加減弔ってあげないとね」
そんな風に、口だけなら何とでも言える。でも、それを叶える事はきっと不可能なのだと知っている。いつだって大切なものは、過去形になっていくばかりだ。
一年一組の教室を覗く。そこには持ち主を失い迷子のままだった机や椅子、あの日々の空気だけがある。
それだけがある、はずだった。
「……憐君?」
廃れた椅子の一つに、彼が座っていた。
彼は教室の中で煙草を吸っていた。机の上には煙草のパッケージがある。青空と言うにはあまりに深い、暗い藍色のパッケージだった。
彼はこちらを確認すると、ゆっくりと立ち上がって深い息を吐く。紫煙が立ち昇って、ボロボロの天井に消えていった。
「憐君、来てたんだ」
蔑白さんが嬉しそうな、戸惑っているような、そんな顔で言った。彼はそれに「お前が連絡寄越したんだろ」と言った。
「まさか本当に来るとは思わなくて」
「俺だって来るつもりはなかった。けど」
そう言って僕の顔を確認する。僕と彼が目を合わせたのはその数秒だけだった。
「まあいいよ。もう用も済んだ」
「用って?」
蔑白さんの疑問には答えず、彼は僕らの横を通ってそのまま教室を立ち去った。蔑白さんは「どっから入ったんだろうね」と苦笑いを浮かべる。
「名執君の事無視してたよね」
「あれも大人になったって事じゃない? 昔なら殴られてた」
「教室で煙草を吸う人が大人なの?」
「どうせ取り壊すんでしょ」
ふと、とある机の上に花が置かれているのを見つけた。その青々しい茎を見る限り、つい最近置かれたものだというのは分かる。
「……ここ、夏架の席だ」
蔑白さんが呟いた。「用ってこの事かな」と言いながら、花を手に取る。一輪がとても小さな薄紫色の花だった。
彼もまた、時間に置き去りにされた人間だったという話だろう。未だに彼女の存在を忘れられないという証明だ。あるいは、忘れたいとも思っていないかもしれない。
僕は無意識に、あの日を思い出していた。彼女と完璧に重なり、共にピアノを弾いた日を。僕だって、あの時の彼女の手を忘れられないままだ。
「……あのさ、蔑白さん」
「なに?」
こちらを振り向き、純粋無垢な瞳で僕を見つめる。そろそろ言うべきだと思った。忘れたふりから目を逸らすべきだと思った。僕はゆっくりと、口を開く。
「蔑白先生?」
その時だ。僕があの夢での出来事を口にしようとした時、教室の入り口から声が聞こえた。そこには制服を着た女子生徒が立っている。帰宅するところだったのか、学校鞄を右肩に下げていた。
「あれ、どうしたの?」
蔑白さんが教師としてその子と接する。その女子生徒は飄々としていて、無感情で、どこか紙透さんと似たような雰囲気を感じさせる子だった。
「兄がこの校舎から出てきたのを見かけて、何かあったのかと思って」
「ああ、憐君ならなんでもないよ。ちょっと色々あって」
「どっちですか」
「気持ちは分かるけど勝手に入っちゃ駄目。お化けが出るよ」
兄。真囚君を兄と言った。まさか、この子。
「……もしかして、夢来ちゃん?」
僕が名前を呼ぶと、夢来ちゃんは僕を見て目を細めた。そしてしばらく考えるような表情を見せた後、「名執さん、ですか」と呟く。
「そっか、この学校に入学してたんだ。いや、当たり前と言えば当たり前だけど」
夢来ちゃんは、僕の知っている彼女よりも随分と大人になっていた。顔立ちは確かに昔の面影を残しているけど、それでもすぐには分からない。腰にまで届きそうだった髪は肩甲骨辺りで切っている。歳不相応だったあの大人びた雰囲気は、成長した彼女によく似合っていた。
夢来ちゃんは僕の言葉にあまり反応を見せず、「まあ、はい」というような曖昧な返答をした。
何を言うべきか迷った。言うべき事ならたくさんあった。身勝手かもしれないけど、僕はあまりに多くのものを夢来ちゃんに押し付けたから。あるいは、奪ってしまったから。
だから最初、僕は「ごめん」と言った。夢来ちゃんも、僕が何を言いたいのか悟ったらしく、少し目を伏せて小さく頷いた。
「謝る事はたくさんあるけど、一番はやっぱりコンサートの事になるんだろうね。本当に、ごめん」
「……ああする他なかったのは理解してます。感謝するべきかもしれないとも思います。それでも、私にとって一番大切なものを全て壊した事だけは、やっぱり今でも許せません」
「許さなくていい」、と言おうとして口を噤んだ。それが不正解と分かったから。でも、それすら言えなくなったら、僕は何を言えばいいのか分からなかった。
話を聞いていた蔑白さんは、僕と夢来ちゃんと交互に見て「なんの話?」と少し言いづらそうに訊ねる。
「あの日のコンサートの話だよ。僕は、取り返しのつかない事をした」
「コンサートがどうかしたの?」
「蔑白さんも見てたでしょ。あれは全部、僕のせいだ」
「……いや、本当に何の事か分からないんだけど」
蔑白さんは本当に訳が分からないと言うような表情で僕を見ている。僕はそこで違和感を抱いた。あの日、会場には蔑白さんだっていたのだ。分からないはずがない。
「だって、コンサートは大成功だったもんね? 夢来ちゃんのピアノ、凄く良かったよ」
「……は?」
思わず、そんな声を出した。
大成功? そんなはずがない。だって僕はあの日、あのコンサートをめちゃくちゃにしてやったのだから。大失敗になって終わったはずだから。
「……あの、その事で、名執さんに言ってなかった事があるんです」
夢来ちゃんが少し言いづらそうに口を挟む。
その時、僕の目にとあるものが映った。夢来ちゃんの鞄に、ストラップが付いている。
「夢来ちゃん、それ」
もちろん、世の中に同じものはごまんとあるだろう。「それ」と決めつけて訊ねるのは、天文学的に馬鹿な話だと思う。それでも僕は訊ねていた。
「その八分音符のストラップ、どこで手に入れたの?」
夢来ちゃんは「え?」と自分の鞄を確認する。ゆらゆらと、八分音符が揺れる。
「これはただ、蔑白先生から貰ったもので」
僕が蔑白さんを見ると、彼女は何の気なしにといった感じで頷いた。
「まだ『蔑白先生』じゃなくて『蔑白さん』って呼ばれてた頃ね。それこそ、あのコンサートが終わった後くらいかな」
「人から物を貰うのって苦手で、私は遠慮したんですけど」
「どうせガチャガチャで当てただけの安物だし、別にいいかなって」
「いらないものを押し付けられただけの気もしますね」
ガチャガチャ? あの八分音符を、ガチャガチャで?
僕はまさかと思いながら、強く浮かんだ疑問を口に出した。
「蔑白さんってさ、昔誰かに『ゆーちゃん』って呼ばれてた事ある?」
僕が口にした唐突な疑問に、蔑白さんは「え?」と少し戸惑った。
「昔誰かと約束したとか、そういう事って覚えてない?」
「い、いやあどうだろう。そういうのって忘れるのが普通だし。でも、『ゆーちゃん』って呼ばれてた記憶はないかな」
「じゃあこれは? これに見覚えない?」
スーツのポケットから、例の八分音符のストラップを取り出す。それを見て彼女は、夢来ちゃんの鞄に付いているものと見比べた。
「これと似てるって意味では見覚えがあるって言い方もできるよ。でも似てるけど別物だよね、これ」
そう言って夢来ちゃんの鞄に付いているものと、僕が持っていたものを並べる。形は確かに似ているが大きさが少し違うし、何より彼女のストラップは番を想定されたものではなかった。
「ゆーちゃん」というのは、「蔑白夕未」の愛称なのだと思っていた。彼女の持つストラップは、僕の持つものと二つで一つなのだと確信していた。何より彼女は昔、僕と出会った事がある。
「……蔑白さん、僕と初めて出会ったのっていつ?」
そう訊ねると、彼女は一瞬夢来ちゃんの顔を見た。ここでそんな話する? とでも言いたげに眉をひそめる。
「あんまり覚えてないけど、どこかのピアノのコンサートだった。そこで名執君の演奏を聴いて、名執君の名前を覚えた」
夢来ちゃんが「何の話です?」と訊ねる。蔑白さんが「過去の話」とだけ答える。
そう、これは過去の話だ。僕は昔、蔑白さんと約束をした。ただそれだけの話だ。彼女が言うようにこんな話忘れる方が普通だし、普通じゃないのは僕だけだと分かっていた。彼女が忘れているなら、別にそれでいい。それ以上にも以下にもならない。そう思うように努めていた。
けれど、ここにきて僕はまたあの過去を思い出す。もう手に入らないものを想起する。過ぎ去った〝手〟に、手を伸ばそうとしている。
蔑白さんじゃないのなら、僕と約束をしたあの女の子は。
「……あの、それで、名執さんに言ってなかった事なんですけど」
夢来ちゃんがまた口を開いて、話を続けようとする。その時だった。
誰もいないはずの校舎に、ピアノの音が響いた。
僕の未熟過ぎる絶対音感は、それが〝シ〟の音である事を告げていた。
その音から始まったピアノは、曲を奏でていく。
何もかもを赦す為の曲。誰も置いて行かない為の曲。全てを救い取る為の曲。全人類を幸福にする、その為だけに創られた曲。曲名は。
「——〝幸福の唄〟」