第一部「嘘」 〝執着を手放したくない人間はきっと、こんな風にどうしようもなく切で醜い嘘を吐く。〟
「私の夢は、全人類を幸福にする事です」
紙透夏架は転校初日、開口一番に宣言した。その言葉が宇宙で最も綺麗だと信じて疑わないみたいに、彼女の瞳は強く澄んでいた。
教室の喧騒を聞き流しながら、僕は窓の外の青空を眺めていた。彼女の言葉の真意を知りたいなどとは思わなかったが、その覚悟がどれほどのものなのか、少しだけ興味があったのは否めない。梅雨の陰鬱とした空気が抜け去った後の、夏の始まりみたいな日だった。
紙透夏架がクラスを牛耳って虐めの主犯格になるのは、それから僅か半月後の話だ。
* * * * *
高校一年生にもなって全人類とか幸福とか、そんな大それた事を言えばはみ出し者になるに決まっている。紙透夏架は転校した当初、それ相応の待遇を受けていた。要するに変人扱いされていた。
どれだけ綺麗な言葉であっても関係ないのだ。きっと人は彼女を見下ろすだろう。誰よりも前を、上を向くこの少女を信じない。それが不相応であればあるだけ、人は哀れんでしまうのだ。あるいは眩し過ぎる彼女を直視できないだけかもしれない。自分はきっと、夏のように輝かしい彼女にはなれないと知っているから。
最初に紙透さんの声を聞いたのは、その日の昼休みだった。
僕は昼休み、窓際最後列に位置する自分の席に座って一人で昼食を取っている。紙透さんに与えられた席は、僕の隣だった。
「紙透さん」
彼女に声をかけたのは同じクラスの蔑白夕未。僕はいつものように惣菜パンの中に入っていたトマトを避けて食べていた。ちらりと視線だけで隣の様子を伺う。
「なんですか?」
紙透夏架は、名前にそぐわず涼しい人間だった。それがクラスの第一印象だろう。自己紹介では自分の言いたい事だけを言い、表情を変える事もしない。それ以降、この瞬間までは口を開く事もなかった。あとは肩甲骨辺りまで伸びた黒髪が綺麗とか、そのくらいだ。
「私、蔑白夕未っていうの。名前だけの学級委員長やってる。一緒にお昼食べたいなって思って。隣、いい?」
「はい、大丈夫です。私は紙透夏架です」
「知ってる」
蔑白さんは笑いながらどこからか椅子を持ってきて、紙透さんの机の上で弁当箱を開けた。一方で、紙透さんの食事は小さなパックの野菜ジュースとクッキー数枚だけ。
「それだけで足りるの?」
「はい。小食なので」
「それクッキー? どこに売ってるやつ? なんのクッキー?」
「自分で作りました。オーツ麦という麦で作ったものです」
「へー。よく分かんないけど凄そう」
それから二人は、しばらくどうでもいい話をしていた。ここの校舎が古臭くて気に入らないという事、紙透さんが以前までいた学校の事、紙透さんが親の都合で転校してきたという事。まあ、話すと言うにはあまりに一方的ではあった。蔑白さんが年相応の女の子らしさを見せるのに比べ、紙透さんは仏頂面のまま一言二言返すだけだった。
蔑白さんは誰とでも仲良くなれるような人間だった。話しているとなぜか、まるで昔からの友人であったかのような錯覚を起こさせる。だから、他の人が紙透さんとの距離感を図り損ねているのに対して、違和感なく接する事ができたのは蔑白さんだけだった。「夏架って呼んでいい? 私の事も夕未でいいから」「分かりました」という会話も不自然じゃなかった。
「夏架が朝言ってた、『全人類を幸福にする』っていうの、なにか方法があるの?」
蔑白さんが何でもないように訊ねる。その瞬間、一瞬だけ会話が止まった。蔑白さんが「どうしたの」と戸惑いながら言う。
「少し、意外でした。『どういう意味?』ではなく、方法を訊ねられたのは初めてです」
「だってそうじゃん。するって決めてるならもう方法を訊く以外になくない?」
「私がこういう事を言う度、人は奇怪なものを見る目で私を蔑みます。蔑白さんは他の人とは違うんですね」
紙透さんは相変わらず無感情に言い、そして机の中から一枚の紙を取り出す。時間割表だった。昼休みの後、つまり五時間目は音楽になっている。
「音楽は、音楽室で授業を受けるんですか?」
「そうそう。それもまたこの貧乏くさい校舎の音楽室で」
「なら、そこで分かります」
紙透さんがそれを言った時、教室中の興味が一斉に彼女へと向けられた。僕だって例外じゃない。蔑白さんはクラス全員の意見を代弁して、「なにが?」と訊ねた。
「全人類を幸福にする方法です。音楽室でそれを見せられると思います」
手に力を込めながら、彼女は言った。僕の視線は自然と、その彼女の手に吸い寄せられていた。
「先生、紙透さんがなんか言ってたんですけど」
授業開始五分前、胸を仰け反らせて座っていた真囚君が大きな声で言う。彼は悪い意味でよく目立つ人間だ。良い印象を持つ人は少ない。
「紙透さん? どうしたの?」
音楽担当の女教師が訊ねる。紙透さんはまず、真囚君に向かって軽く一礼した。何でもないように、「ありがとうございます」と言いたげに。真囚君本人はそれに不快そうな表情を滲ませた。
「少しだけ、ピアノを弾いてもいいですか?」
紙透さんは不思議な人だ。彼女の真っ直ぐな眼差しに当てられると、なぜだか逆らう気が失せていく。彼女自身が一つのルールみたいに思えてしまう。女教師は「別にいいけど」と、隣にあったピアノに目をやった。紙透さんはまた「ありがとうございます」と会釈をした。
そうして彼女がピアノ椅子に腰をかけた瞬間、僕は理解した。
例えば、受話器は電話機に固定されるように。モナリザがルーブル美術館に飾られるように。宝石が淡い光に照らされながらショーケースに並ぶように。どんなものにも居場所というのがある。そこに必要とされているから、そこでこそ価値が見出せるから。そういうものだ。
彼女の居場所はきっとそこだった。ピアノ椅子に座り、鍵盤にゆっくりと手を置く。鋭い目つきを崩さず、流れるような手つきで音を奏でていく。その全てが、彼女が世界で唯一美しく在れる場所である事を示していた。
「私にはこれしかありません。ピアノを弾く事しか能がない私ですが、これさえできれば世界を幸福で満たす事もできると思っています」
気付けば曲は終わっていて、ピアノ椅子から立ち上がった彼女がそう言っていた。朝の自己紹介の続きみたいな演説だった。
そして今度こそ、もう彼女の言動を見下げる者はどこにもいなかった。彼女が奏でた旋律は、それを実現できる強さを持ち合わせていたから。
それに反比例するように、僕の中にあった興味はどこかへと消え去っていた。幸せで満たしてくれるものなんて、興味が無かったから。
* * * * *
それから紙透夏架はクラスの中心になっていった。昼休みになると蔑白さんを含めた友人数人で昼食を取るようになった。
「オーツ麦は肌荒れや乾燥肌にいいんですよ」
「でも夏架って、肌荒れ気にしないでいいくらい綺麗な顔してるよ?」
「私が気にしているのは手の肌荒れです。手が荒れていると皮が厚くなってしまう。鍵盤と指の間に少しでも違和感があると、完璧な演奏ができなくなるんです」
「確かに、夏架の手ってピアノ演奏者の手って感じがする。昨日ガチャガチャのレバー回してる夏架見てて思った」
「え、ガチャガチャってなに」
「昨日夏架と買い物行ったついでに一緒にやったの。そうそう、夏架が目当てのものが出ないってずっと回しててさ。私笑い堪えるのに必死だったんだけど」
「夏架がガチャガチャとか想像しただけで面白いんだけど。なにが欲しかったの?」
「ウォシュレットの、ボタンです」
一際大きな笑い声が響く。最初こそ怖いイメージもあって距離を置かれていた彼女だったが、話せば面白い人間と分かったらしく、そんな彼女を慕う人は多かった。
「夏架」
僕のやや後ろから低い声が一つ聞こえた。真囚君だ。彼も例外じゃない。彼もまた、紙透さんがピアノを披露したあの日以来、何かと彼女に近付こうとしている。
「えっと、この前は助かった。あいつも喜んでた」
「それは良かったです。私でよければいつでも協力しますので。夢来ちゃんにもよろしくお伝えください」
これも盗み聞きをしていて分かった事なのだが、というか隣で大声で喋られたら嫌でも耳に入るのだが。紙透さんは真囚君の妹にピアノを教えているのだそうだ。どういう経緯があったか知らないけど、不良と呼ばれても仕方ないあの真囚君がこうも変わる。それほどに彼女の演奏が鮮烈だったという事だろう。
「それで、言ってたコンサートの事だけど」
「はい、分かってます。夢来ちゃんにも私の方から声をかけます」
紙透さんが言うと、周囲にいた女子たちが「なんの話?」と彼女に訊ねた。
「今度、コンサートに出場するんです。それに夢来ちゃん、憐君の妹も呼ぶ予定で」
「へぇ。いつ?」
「二年後です」
「まだまだじゃん」
「早めに準備するに越した事はありませんから」
僕はポケットからスマホを取り出し、検索エンジンのサジェストに「紙透夏架」と名前を入れてみた。芸能人ほど有名ではないにしろ、名前を入れるだけでコンテストの結果や大会の名前が出てくる。自身で語った夢を成し遂げる為、こうやって紙透夏架の音を広めているのだろう。
「それってどんなコンサートなの? なんか凄いやつ?」
蔑白さんが訊ねる。紙透さんはその質問に「凄いやつ、かどうかは分かりませんが」と悩ましく口を開いた。
「一つ確かなのは、とても大切なコンサートだという事です。この十数年の人生で、最も緊張する一日であり、同時に、最も楽しみな一日でもあります」
僕と紙透さんが初めて言葉を交わしたのは、とある日の午後の授業だった。眠くなるような気温が、窓の外から僕を温めていた。
授業中に彼女が落とした消しゴムが、僕の足元付近に転がってきた。僕はそれを拾おうとして、屈んで右腕を伸ばした。
「ありがとうございます」
それが、僕に向けられた最初の言葉だった。こういう時は何と返すべきなのだろう。いつも少しだけ悩まされる。僕は「あ、うん」と言葉にならないような曖昧な返事をした。
消しゴムを受け取った彼女が、僕の腕を見つめていたのに気が付いた。腕を伸ばすとそれを目で追いかけ、下ろすと目も下を向く。僕は気になって「何か付いてる?」と訊ねた。
「あ、いや。名執君って腕が長いんだなってちょっと思って」
その言葉に、僕の体は一瞬固まってしまった。今度はそれを見た紙透さんが「何か?」と不思議そうに首を傾げる。
「僕の名前を覚えてるとは思ってなくて」
「いい加減クラスメイトの上の名前くらい覚えます。それに、隣の席ですから」
彼女が転校してきて、既に半月が経っている。僕は半年経っても、多分一年経っても、一クラス分の人名を覚えられる自信が無かった。
「腕の長さなんて気にした事なかった」
「少し羨ましいです。ピアノを弾くのに有利ですから」
「そうなの?」
「もちろん人によるでしょうけど、例えば私の場合、高すぎる音や低すぎる音を鳴らそうとすると、腕をうんと伸ばさないといけないんです」
そう言って紙透さんは、僕がしたように右腕を横に伸ばした。高い音の鍵盤を叩こうとしているみたいに、横に長く。僕はまた、そんな彼女の手をじっと見つめていた。
「そう言えば、名執君の下の名前をまだ聞いた事がありませんでした」
ピアノを弾いているような態勢をそのままに、彼女が僕に言った。僕は自分の名前を言葉にしようと、口を開く。
「夏架さん? どうした?」
その時、彼女の仕草を不審に思った女教師が名を呼んだ。紙透さんは少し慌てながら「なんでもありません」と弁明する。
「崇音もだぞ。授業中は私語禁止ー」
僕も名前を呼ばれ、「すいません」と形だけの謝罪を口にする。教師がまた前を向いて板書を始めたのを見て、僕は紙透さんの方を向く。そして小さな声で囁いた。
「分かったと思うけど、崇音っていう名前。名執崇音」
世の中には、どうしようもなく言語化できないものがある。
「暑い」以上に暑かったり、「感動」以上に感動したり、「美しい」以上に美しかったり。そういう時、人はただ自分の言語能力への無知を噛み締めるしかない。
僕が自分自身の名を口にした時、彼女が見せた表情もその類だった。一つ確かな事は、僕はその時の彼女の顔を一生忘れる事ができないだろうという事だ。
怒り、悲しみ、苦しみ、絶望。そういう感情を全て凝縮したかのような表情だった。おおよそ人が人生で見せる事のない表情だったと思う。
「名執、崇音」
彼女が柔らかな声音で、初めて僕の名を呼んだ。まるで催眠にでもかかったかのように無感情だった。
「……紙透さん?」
僕は不思議になって、彼女を呼んでみた。紙透さんは「そっか」と呟いただけだった。
「何でもないです」
そしてそれが、僕と彼女が生前交わした最後の言葉だった。
彼女は自分の手に握られていた、さっきの消しゴムを筆箱の中にしまう。
その筆箱の中から、音符のストラップらしきものが半分だけ顔を出していた。
* * * * *
最初は鞄の中に煙草が入っていたところから始まった。所持品検査の際にそれが教師に見つかり、その時になって初めて僕もそれを目にした。青空と言うにはあまりに深い、暗い藍色のパッケージだった。
僕は困惑した。煙草が入っていた事に、ではない。虐めというものが始まった事さえどうでもよかった。分からなかったのは、虐めが始まった理由だ。
元々虐めのあったクラス、あるいは悪意のあったようなクラスなら分かる。火が次々と違う人へ燃え移り、元々燃やされていた人は何でもないような顔をして火を点ける方へ回る。そういう話は聞いた事がある。
このクラス、この学校で虐めなんて、そんな事が起きるとは思わなかった。そういうフィクションじみた行事からはかけ離れている場所と思っていた。虐めなんて、どこか遠い国の御伽噺のようなものだった。
加えて、何かを皮切りにしたように突然始まった事も疑問だった。僕が何か、誰かの気に障ったような言動を取ったのならまだ分かるのだ。でも僕はいつも通り、誰とも関わらずにただ一人で行動していただけだった。
最近何か不可解な事があっただろうかと直近の記憶を思い浮かべてみて、そして脳裏によぎったのが彼女との会話だった。
教師の言葉を聞き流しながら隣に目をやる。紙透夏架は、涼しい表情で前を見つめている。
周囲を見渡し、数人の視線が彼女にあったのを見て、僕はようやく理解した。彼女か、と。理由は分からないけど、彼女が中心に違いない。そう思った。同時に、彼女を中心とした「これ」はこの先も続くと、そんな予感があった。
何かが壊れたりとか何かが失くなったりとか、そういう細かい事は連続して起きていた。けれど時たま、明らかに規模の大きいものも訪れた。机の上にあったお菓子が近所のコンビニで起きた盗難事件の商品だったり、学校の備品である机が鈍器か何かで殴りつけられたように壊れていたり。そういう、教師を巻き込む類のものだった。
不思議だったのは、身体への実害は一切無かった事だった。てっきり誰かに殴られたりするものかと思っていたけど、起こるのは決まって僕の身のギリギリを掠めていくものだった。これも紙透さんから指示があったのかもしれない。体に傷は付けるな、とでもいうような。大方虐めの事実が露呈するのを恐れたのだろう。
紙透夏架が転校してまだ半月の話だ。そしてそれは、僕らが高校三年生になるまでの二年間、ずっと続いていた。
* * * * *
その日は金曜だった。土日という連休を前に、一週間に一度だけ味わえる高揚感。それは、夏の始まりを予感させるような六月の快晴とよく似ている。
僕はある意味で休日というものが好きではない。でもそれは、休日が嫌いという事でもない。休日が好きだからこそ、それを手に入れたくないと思う。
休日になると、ネガティブな僕はこう考える。「ああ、あと数時間で休日も終わってしまう」。簡単に言えばカウントダウンを始めてしまう。そういう意味では、休日に入る前の金曜日が好きだ。その高揚感だけを永遠に味わえたらいいのにと思う。
それは夏も同様だ。夏になれば、否応なしに夏の終わりまでを意識してしまう。夏が始まる前の、その年初めて蝉の鳴き声を聞いた瞬間の、今日のように夏の始まりを想起させるような空を見上げた時の、そんな日々だけを求めていたいと思う。
「名執君じゃん」
駅のホームにあった自販機で、百五十ミリリットルのサイダーを購入した時だった。傍のベンチに座っていた蔑白さんに声をかけられた。
「名執君こっち行き?」
「まあ、うん」
「私は逆方向。入るホーム間違えちゃった」
「じゃあ戻れば?」
「冷たいなあ。夏なのに冷たい」
蔑白さんは少し笑って、それっきり黙ってしまった。こういう時の会話の持続方法を知らない。少し気まずいだけの沈黙が流れる。用が無いなら話しかけないで欲しい。
蔑白さんとは一年生の時に同じクラスになって以来、二年生三年生と違うクラスだった。たまに廊下ですれ違った事があるくらいだろうか。
ホーム内に古いラジオのようなざらついたアナウンスが流れる。しばらくしてようやく、「名執君さあ」と蔑白さんが口を開いた。少しだけ低い声だった。
「学年のライングループ、入ってないでしょ」
「うん」
「入りなよ。宿題の締め切りとか連絡くるから便利だよ?」
「今の僕が入ったらどうなるか、ちょっとだけ興味はある」
「ウケる」
僕を虐めよう、みたいな空気感は、今や僕らの学年全てのクラスに蔓延していた。恐ろしいのは虐めそのものではない。紙透夏架という一つの存在が、ここまでの影響力を持った事だ。彼女の何が人を駆り立てるのか知らないけど、このままいくとテロだって起こせるような気もしている。
彼女は大きく笑いながら携帯を取りだし、何かの画面を僕に見せる。紙透さんとのラインの履歴だった。
「一年の時の夏、夏架から一斉送信がきたの。名執君をシメよう、みたいな。それから、その方法と実行する人を夏架が決めて、それをメッセージで送ってる」
「それをライングループでやらない理由は?」
「知らない。大きな場所で情報共有するより、個人間でやり取りする方が証拠残らない、とかじゃないの」
「大変そうだね」
「頑張ってるっぽいね。しかも夏架に命令されなくても自主的に動く奴もいるから」
蔑白さんは「色々大変かもしれないけど頑張ってね」と僕の肩を叩き、そしてどこかに去って行った。電車を待ってしばらくして、ようやく僕を待つ為にあそこにいたのだと気が付いた。
混じり気の無い、澄んだ青空がひたすらに眩しかった。文字通りに身を焦がすような直射日光が憎らしかった。ペットボトルの蓋を開け、中身を少しだけ口にする。のどごしの悪い炭酸が食道を通って、あと何口で飲み干してしまうのだろうと、そんな事を考える。
紙透夏架が自殺したのはその日だった。
ホームから転落し、電車に轢かれて死んだらしい。
* * * * *
『私は世界でただ一人、名執崇音という人間が許せませんでした』
学年のライングループにそのメッセージが送られた十分後、紙透さんは死んだ。
その関係で、僕は軽い取り調べを受ける事になった。彼女の推定死亡時刻や、突如送られたメッセージの存在。それらは全て、その時に警察から初めて聞かされた事だ。当然ながら僕は彼女を殺してなどいない。すぐに解放された。
それからすぐに、自殺したのだろうという事が教師を通じて生徒に知らされた。「紙透夏架」と検索をかけると、相変わらず過去の輝かしい栄光だけが出てくる。そのくらい、彼女の死は些細なものだったらしい。
結局学年に残ったのは「名執崇音が復讐したんだ」という空気感だった。まあ、動機としては大いにあり得る話だ。彼女が転校して二年、もう彼女を否定する人間はいない。
ようやく、という言い方が正しいかは分からないが、身体への実害が起きたのはそれからだった。買い換えたスリッパを履いてトイレを出ようとした時、僕の行き先を真囚君が阻んだ。
「何したんだよ」
彼が何を言いたいのか、僕はすぐに分かった。僕が見ていた限り、彼は最も紙透さんに洗脳された人間だった。信者と言い換えてもいい。とにかく、彼は紙透夏架という神様を妄信し続けていた。
「……消しゴムを拾った」
「それから?」
「名前を教えた。僕の名前を」
「そうかよ」
てっきり顔を殴られると思っていたから、胃液を吐き出した時に気付いた痛みは予想よりも遥かに強かった。少し考えれば分かる事だった。人の目に付く場所に傷は付けない。虐待と同じじゃないか。
「俺の妹はそれなりにピアノが上手かったけど、夏架の演奏を聴いてから井の中の蛙って事を思い知って、夏架みたいに上手くなりたいって言ってた。コンサートだって楽しみにしてた」
後にも先にも、僕にこういう事を繰り返したのは彼だけだった。規模の大きいものも、多分真囚君一人が画策していたのだろう。それだけ、彼の心は紙透さんに囚われ続けている。
「夏架がどれだけピアノが好きだったか、どれだけコンクールを心待ちにしてたか、全人類を幸福にするって夢がどれだけ本気だったか、お前に分かるか」
どっちにしろ模範解答は無かった。僕が何と言おうと彼は僕を殴るつもりだった。
「……知りたくもない、そんなの」
そうと分かっていても、普通はなるべく当たり障りのない答えを口にするべきなのだろう。なのに、僕は彼を、あるいは彼女を嘲笑うようにそう言っていた。無意識でそれを選んでいた。
彼は懐からハンマーのような鈍器を抜くと、それで僕の右手を打った。鳩尾を何度も殴られ続けるより、その一回の方がずっと痛かった。
「……何で、笑ってんだよ」
トイレから出て行く寸前、彼はそう言った。僕は笑っていたらしい。
笑った自覚はなかった。でも、笑っていたならその理由は何となく分かる。それを口に出す事はしなかったけど。
* * * * *
紙透夏架が死んで一か月、彼女は死んで尚虐めの主犯格で在り続けた。
その日もまた、よく晴れた日だった。夏の始まりが過ぎて、夏の終わりまでをカウントダウンし続ける日々だった。
朝、僕が登校すると真囚君が出合い頭に水をかけてきた。自販機にペットボトルで売っているただの水だ。容器を押しつぶすと、飲み口から勢いよく水が出てくる。そうやって僕に水をかけた後、僅かに残った水を一気飲みしてゴミを僕に投げつけた。水を飲みたいけど、ペットボトル一本分は少し多い。適度な目分量だけ飲みたくなる気持ちは少し分かる。
教室にいた人達が「可哀想に」「またやってるよ」と口々に呟いたのが聞こえた。僕は教室に入らず、そのままトイレに向かう事にした。着替えと、体を乾かす為だ。
その道中、蔑白さんが廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。ふと思い出してみると、蔑白さんが一連のあれこれに与した記憶は無いような気がする。ある意味で唯一の傍観者だったかもしれない。
アクアリウムの床を濡らしながら、廊下をゆっくりと歩く。蔑白さんとすれ違う瞬間、彼女は僕の方に音もなく近付いてきて、そして、耳元でこう囁いた。
「夏架を殺したのは、私だよ」
トイレを出る頃には、もう一時間目の授業が始まっている時間だった。僕に対する教師の心象は地ほどに落ちている。授業に出ようか、それともやめようか。そう考えていた時だ。
どこからかピアノの優しい音色が流れてきた。いや、方向は分かる。音楽室だ。ピアノがあるのはそこしかない。じゃあ、誰がピアノを弾いている?
答えは簡単だ。音楽の授業を受けているどこかのクラスだ。そう考えるのが普通だし、それ以外にはあり得ない。ちょっと練って考えるにしても、授業をサボったどこかのクラスの生徒が弾いている、くらいだろう。
しかしなぜか、僕の直感はそのどちらでもなかった。むしろ、この場に置いて最も非現実的な答えを導き出していた。そんなはずはない。でも、それ以外には考えられない。そんな自己矛盾に答えを出す為、僕の足は音楽室へと向かっていた。
古臭い校舎にあるのは音楽室を始めとした特別教室、それに一年生のクラスだ。音楽の授業でもない限り、三年生になった僕らがその校舎に立ち入る事はほとんどなかった。
音楽室の扉の前に着いた時、僕は不思議な気持ちに苛まれた。僕は、この扉を開けなければならない。理由は分からないけど、脳内で自分の声がこだましていた。本能にも近しい何かが僕を掻き立てていた。扉にあるすりガラス越しに室内を見ると、ピアノを弾く誰かの背中が薄っすらと見える。
さて、受話器が電話機に固定されているのを見た時、モナリザがルーブル美術館に飾られているのを見た時、宝石が宝石店のショーケースに並んでいるのを見た時。人は何を思うだろう。僕の答えはこうだ。「何も思わない」。
そこが居場所だからだ。そこ以外にあっては不相応だからだ。然るべき場所にあるのを目にした時、不自然さが全く感じられない。人はそこを居場所と呼ぶ。
扉を開けて、ピアノ椅子に座ってピアノを弾いている彼女を見た時、僕の中に違和感というものが全く無かったのだ。それが例え、一か月前に死んだはずの彼女だったとしても、僕はそれに何の疑問も抱けなかった。笑ってしまうくらい、おかしな話だ。
紙透夏架はそこでピアノを弾いていた。凪のように穏やかな表所で、ただ一心不乱に、この世界にはそれ以外に何も存在しないように。ただ、目の前の楽器を奏でていた。
そっと、一歩を踏み出す。音楽室に足を置く。それでも、彼女はピアノを弾き続ける。きっと僕の事など眼中にないのだろう。視界に映っているのは白と黒の鍵盤だけだったに違いない。
それは僕が彼女の隣に立っても変わらなかった。さすがにここまでくると、僕は自分の見ているものが幻覚なのだと気付いていた。けれど、今になって紙透さんの幻覚なんてものを見る理由が分からなかった。この幻覚は触れたら消えるのだろうか。もし消えたら、この吸い込まれるようなピアノの音色も止むだろうか。そんな事を思いながら、そっと彼女の背中に触れてみる。
「邪魔するな」
僕の手は彼女の背をすり抜けて腹部を突き抜けた。何かに触れたような感覚は無い。煙に触ろうとしているみたいだった。
彼女の表情は一転し、明らかに不快な感情を表していた。他の何も受け付けない、不純物を許さない強さがある。
少し悩んだが、僕はただ待ってみる事にした。これが幻覚にしろ何にしろ、最後はどうなるのか。僕が関与して表情を変えたという事は、いつか終わりがあるのだろうと思った。だから、その時がくるまで隣で彼女の手を見つめていた。
十分ほど経った頃だろうか。紙透さんは高い音を出そうと、右腕をピアノの端に伸ばした。しかしそこで指が滑ったらしく、彼女は「クソ」と叫んで鍵盤を拳で叩いた。音楽室に耳を劈くような不協和音が響く。
「何しに来たんですか」
目の前にいるのが、あの紙透夏架だとは思えなかった。彼女が冷たい人間だと誤解されやすいのは、感情を顔に表さないからだ。しかし今、紙透夏架は明らかな敵意と怒りを込めて僕を睨んでいる。いや、紙透夏架は死んでいるから、これは彼女じゃない。ならやっぱり、僕の見ている幻覚だろうか。
「死んだ人間がピアノを弾いてたら、確かめたくなるものじゃない?」
「私ならそんな事はしませんけど」
彼女は手を伸ばす。またピアノに触れようとする。でも、その手は鍵盤に触れる事なく、ピアノをすり抜けてしまった。ついさっき、僕が彼女に触ろうとしたみたいに。
「……触れない」
彼女は小さく呟くと、溜め息を吐いてまたピアノ椅子に座り込んだ。
僕が紙透夏架の幻覚を見る理由が分からない。仮に幻覚なのだとして、僕の知っている紙透夏架とこうも乖離している理由も分からない。だから僕は、もう一つの可能性を口にした。幻覚なんかよりも、はるかに現実味のない可能性を。
「君は、幽霊なの?」
彼女は僕の言葉を無視し、「初めに言っておく事があります」と、立ち上がって怒りをそのままに話を続けた。
「私は貴方が嫌いです。何よりも嫌いです。貴方の存在が、この世の何より憎い」
僕は反応に困ってしまった。はっきりと嫌悪を示された場合の対処法なんて、大人も時間も教えてくれなかった。道徳の授業でも習わなかった。
「理由が分からない。僕が君に何かした?」
「ちょっと黙ってください、私が喋ってます」
僕の質問には答えなかったくせに。思ったが言わなかった。というより、言えなかった。幽霊という現実離れした事実を前に、僕は頭を整理する必要があった。
「私は気が付いたらここにいました。目の前にピアノがあったから、何かを考えるより先に手を伸ばした。最初は何の問題もなく弾けていましたが、貴方が来てから触れなくなった。何もかも、全部全部貴方のせいです」
そう言って彼女はまたピアノに触れようとする。案の定、彼女の手はすり抜ける。
「死んだ自覚はありました。朝起きて、『起きたんだ』と自覚する瞬間が分からないように、最初から決められていたように、私は死んだという事実を持っていました。だからこそ、最悪だった。生きていない私では、ピアノを弾いたって何の意味も持たないのに」
彼女はそこを一区切りとして、また「最悪」と溜め息を吐く。口を挟めるならここだと思い、僕は「分かったから」とうんざりしたように言った。
「もう、分かったから。君は死んで幽霊になって、ピアノも弾けなくなって、ああ可哀想だね、って。そういう事だろ? 君がどうして僕を嫌ってるのか知らないけど、もうそんな事どうでもいい。とにかく、もう君とは金輪際関わらないから」
言いたい事だけをまくし立てて、僕はその場を去ろうとした。彼女が幽霊だから、それが何だと言うのだろう。ピアノを弾けないままこの場所に自縛され続けて、誰かがピアノを弾く度唇を噛み締めて、そうやって死ねないまま死に続ける。それだけが事実だ。何一つ、僕には関係ない話だ。
「私が喋っていると言ったでしょう」
紙透さんは僕を引き留めようと、僕の肩に触れようとしたらしかった。しかしその手はやっぱりすり抜けて空を切る。彼女は小さく舌打ちをした。
「幽霊というのは世の中にそういるものじゃありません。でなきゃ、この世は人間より幽霊で溢れかえっています」
僕に触れようとした手をそっと戻しながら彼女は言った。僕の視線は、宙ぶらりんになった彼女の手にあった。
「では、幽霊の数が極端に少ない理由、分かりますか」
「そりゃあ、成仏するからじゃないの」
僕が言うと、なぜか紙透さんは僕の顔を睨み付けた。自分から質問したくせに、意地でも僕の言葉を肯定したくないらしい。
僕は彼女の言いたい事がなんとなく分かって、「つまり」とその答えを口にした。
「自分を成仏させろって言うんだろ? その手伝いをしろって」
「いえ違います」
否定の言葉だけは早かった。彼女は続けて「その逆です」ときっぱり言う。
「私を成仏させないで欲しいんです」
僕を睨む彼女の瞳はどこまでも澄み切っていた。まるで夏の青空のように、あるいは、夏そのものを凝固させたかのように。ビー玉のように透明だった。
「成仏したくないって、どうして」
僕が訊ねると、紙透さんは意味が分からないというような顔をした。皺の寄った眉間はそのまま、片目をほんの少し細めて首を小さく傾げる。
「成仏したくない事に理由が必要ですか?」
その言葉に、僕は「どういう意味だよ」と訊ねる事しかできなかった。
「だって幽霊は普通、成仏したがるものだろ。自分の中にある未練みたいなものを昇華して、安らかに眠りたいって思うものじゃないの?」
「人が死にたくないと思うように、私だって消えたくなんてないんです。生きてる貴方が、生きてる人間の尺度で勝手な事を言わないでください」
言われてみればそれは、極々当たり前にも思えた。幽霊は成仏するもの、だなんて、そんなのは死んだ事もない人間が勝手に言ってる事だ。死にたがる人間の方が少ないのと同じで、成仏したくないと泣き喚く幽霊がいるのが普通かもしれないのに。
「そうだとしても、方法が分からない。成仏させろって言うなら、未練を解消すればいいのかもしれないけど、その逆なんて知らない」
「分かってるじゃないですか」
紙透さんがさも当然のように言う。僕は一瞬意味が分からなかったが、自分の言った事を頭の中で反芻して、そしてようやく理解した。
「成仏するのは未練が無くなるから、つまり幸福になるから。その逆です。私を不幸にすればいいんです」
彼女は、心底嫌そうに言った。
理屈は理解できる。でも、感情はそうじゃない。僕は一番大切であろう、根本的な疑問を口にした。
「君は、僕の事が嫌いなんだろ?」
「はい」
「じゃあどうして僕に頼む?」
「私にとっては貴方と関わる事、それ自体が既に耐え難い苦痛なわけです。つまり、貴方と共に行動すれば不幸じゃないですか」
「無茶苦茶だ」
僕は呆れて思わず苦笑いをした。僕に断られる事を考えていないみたいな言い方をする。この傲慢さは、いったいどこから生まれるのだろう。
「貴方は断ろうとするでしょう。でも、結局は引き受ける事になりますよ」
僕の思考を読み取ったかのように彼女は言う。いや、読み取る以前の問題だ。普通の人間なら断る。僕は「どうして?」と訊ねてみた。
「貴方は、私に恨みを持っています。言葉にできないほどの、憎悪や嫌悪。それを晴らすタイミングは、今しかないんですよ」
そうかもしれない。彼女が僕にしてきた数々の事を振り返ると、彼女を不幸にしてやりたいと思うのは当然だ。
でも、そこがもう間違いだ。彼女は根本的な勘違いをしている。誓って、僕は彼女を恨んだりしていないし、仕返しをしてやろうなんて微塵も思っちゃいない。
「分かった。君を不幸にすればいいんだろ。その代わり、文句は言わせない。君が望んだ事だ」
でも僕はそれを承諾した。彼女は何も言わずに眉をひそめていた。
そんな時でも、僕の視線は彼女の手にある。
* * * * *
「簡潔に言います。私には二つ、成仏したくない理由があります」
別の日の放課後、真囚君にハンマーで殴られた右手を抱えて音楽室に向かった。
彼女は常にピアノの傍に立っていた。触れられないと分かっていてもそこから離れたくないのだろう。
「まず一つ、まだ曲が完成していないから」
彼女が転校初日に披露した曲、僕が幽霊になった彼女を見つけた時に弾いていた曲。あれはどちらも、彼女自身が作曲したものらしい。
「あの曲を完璧にさせるまで、私は成仏できません」
「曲が完成したら成仏してもいいって事?」
「いえ、まだです。私が出場するはずだったコンサートを成功させたいんです。本来なら、あのコンサートで完成した曲を披露するはずでした」
「あのさ」
そこで僕はやっと、気になっていた事を訊ねようと口を開いた。訊くならこのタイミングだと思ったから。
「したい事もやる事もあって、どうして自殺なんかしたの?」
ここまでの彼女の話を聞いていれば、至極当然の疑問だったと思う。成仏したくないほどに、死にたくないほどに成し遂げたい事があって、どうして死を選んだのか。
「……私は、自殺したんですか?」
なのに、紙透さんはそう言ったのだ。僕の顔を見て、心からの困惑の表情を浮かべて。
「どういう意味?」
自殺なんかじゃない、と言うならまだ分かる。警察の見解は間違っていて、誰かに突き落とされた。それなら、彼女が志半ばにして死んだ理由も分かる。でも、今の言い方はまるで。
「覚えてない、みたいな言い方に聞こえたんだけど」
そう言うと、紙透さんは僕から顔を背けた。多分、僕の言った事が正しかったから。
「……覚えてるのは、私が駅のホームで電車を待っていたところまでです。そこから記憶が飛んで、気が付いたらここに立っていました。それこそ、まるで眠っていたように」
最初から自殺の意思があったなら、それは覚えているはずだ。なのに、それさえ頭には無くて、気付いたら死んでいた。ここから分かる事は、一つだけだ。
「私は、どういう風に死んだのでしょうか」
彼女が訊ねるので、僕は自分が知る限りの範囲で話した。学校の人間が話していた事と、警察から聞いた事も。
「確かなのは、君は自殺したと警察が言ってる事。それから、君の四肢は電車に轢かれた瞬間に千切れた事。これは僕の目で直接見たわけでもないし、もしかすると間違いかもしれない」
「そこまで酷い状況で、どうやって死体を判別したんでしょう。私と分からないような状況に思えますが」
「事故現場の近くにいた生徒の一人が、君と分かって警察に報告したらしい。言わば第一発見者だ」
そこまで言った時、紙透さんはまた僕の顔を睨んだ。表情にほんの少しの違和感を含ませながら。
「名執君、妙に詳しいですね」
「取り調べ受けたからね」
「取り調べって、どうして」
「どっかの誰かさんが変なラインしたから」
そう言うと、紙透さんは少し考えるような素振りを見せ、でもすぐに「ああ」と思い出したように言った。まさかこいつ、今の今まで忘れてたのか。
「いい気味ですね」
「言うと思ったよ」
「じゃあその右腕の怪我は、私のせいという事になるんでしょう」
彼女の言葉に、僕は思い出したように右腕を見る。打撲痕のような青い痣がある。
「分かってたのかよ」
「言っておきますけど、罪悪感とか少しもありませんよ。本気でいい気味と思ってます。貴方が不幸になればなるだけ私は嬉しいですから」
不幸になりたいと言っておきながらそれはどうなのだろうと、少しだけ思った。その疑問を飲み込み、代わりに僕の口からは別の言葉が零れていた。
「別にいいよ。僕もそう思うから」
それは無意識で言った事だった。会話を聞きながら生返事をした時のように、自分が口にした言葉なんて一瞬で忘れる。だから、目の前の彼女が不可解なものを見る目で僕を睨んでいた理由が分からなかった。
「何」
「……別に」
紙透さんはそう呟いた後で、話題を変えるように「決めました」と言った。
「私を発見してくれた、いわば第一発見者が誰なのかを知りたいです」
「知って、それでどうするの」
「どうもしません。というか、できないでしょう」
「じゃあ何の為に探すんだよ」
そう訊ねると紙透さんは深い溜め息を吐いた。そんな事も分からないのかとでも言いたげな、苛立ちを多分に含んだ溜め息だった。
「本当はお礼が言いたいです。『私を見つけてくれてありがとう』って。でも、私にはそれもできない。お礼すら言えない悔しさと情けなさを噛み締めるしかない。それもまた、私にとっての不幸ですから」
「マゾヒストだ」
「殺しますよ」
やれるものなら、と少し言ってみたかったが口には出さなかった。
「で、それに協力しろって言うの?」
「当たり前じゃないですか。貴方がやらなきゃ誰がやるんですか」
今度は僕が溜め息を吐く番だった。不幸にしろと言ったり人を探せと言ったり。話があちこちに飛躍する。
「つまり、前提として私を知っている人間、という事になりますね。それなりに限定されると思います」
「は?」
僕は思わず、そんな素っ頓狂な声を出していた。彼女本人は「何ですか」と不快感を露わにして僕を睨む。こいつ、本気で言ってるのか。
紙透夏架という存在を知っている人間。それで限定されたなんて、本気で言っているのだろうか。馬鹿にも程がある。クラスの人間はもちろん、生前の彼女の人間力はそこだけに留まらない。完璧な容姿と、人に慕われる性格。そんな人間は中々いない。十中八九、学校の人間は全員彼女を知っている。生徒も教師もだ。おまけに、ピアノでそれなりに名もあったらしいから、範囲は学校外にまで及ぶ。
「そんな人はたくさん——」
「彼女」の言葉を思い出したのは、僕がそう言おうとした時だった。通りすがりに、僕に耳打ちするようにそっと囁かれた彼女の言葉。
『夏架を殺したのは、私だよ』
「……そう言えば、蔑白さんが、君を殺したって言ってた」
「は?」
そんなはずがあるか、とでも言いたげな表情だった。そんな顔にもなるだろう。だって紙透さんと蔑白さんは親友だった。誰が見てもそうだった。誰よりも密度のある関係だった。そんな荒唐無稽な話、信じる方がどうかしている。
「貴方が、そんな嘘をつく理由が分かりません」
「そうだね。だから嘘じゃない。理由が無いから、嘘じゃない。蔑白さんが第一発見者だとしても辻褄は合う。殺人事件の犯人は大抵第一発見者だって言うし」
「あり得ない。夕未さんが、私を殺すとか。私と夕未さんを知る人間なら誰だってそう言います。そのくらい、名執君だって分かるでしょう」
「言いたい事は分かるけど、蔑白さんがそう言ったのは確かだよ。君が信じようと信じまいと、それだけが事実だ」
「貴方は、私の親友を、私の目の前で侮辱してるんですよ。それが自分で分かってるんですか」
その言葉に僕は思わず笑ってしまった。お前が、そんな事を言うのか。
「自分が人にした事は棚に上げて、一丁前に人間らしい事言うんだね」
僕の言葉に紙透さんは黙った。別にそんな事を本気で思ったわけじゃない。でも、犬が好きだと言った人間が猫を連れて帰ってきたら、笑うに決まってる。
「違う。夕未さんじゃない。夕未さんは、私を殺したりなんかしてない」
紙透さんは機械のように、その言葉だけ繰り返している。信じる信じないのスタートラインにすら立たず、そこから目を背けて僕が嘘をついていると言う。
「だけど現に、君は殺された時の事を覚えてないんだろ? 誰かに突き落とされたとしても、それを覚えてない」
そう言うと、紙透さんはまた黙ってしまった。
僕はどうするべきか迷った。だから、まずは第一に優先すべき事を考えたのだ。彼女を成仏させない為に、彼女を不幸にする。その為の行動を取る。
僕の視線はいつでも、彼女の〝手〟にある。
「簡単だよ。蔑白さん本人に確かめればいい」
幽霊になった紙透さんが音楽室の外へ出たのを初めて見た。制服姿のまま僕の数歩後ろから着いて歩く彼女は、どこからどうみたってこの学校の生徒だ。
しばらく歩き続け、とある教室に辿り着く。廊下から室内を覗くと一つだけ、席に座ったままの人影があった。
「蔑白さん」
僕が声をかけると、蔑白さんは顔を上げてこちらを見た。僕の後ろには紙透さんが立っている。
「なに?」
蔑白さんは首を傾げながら笑いかける。僕はそれに眉をひそめた。
「あ、言い忘れてましたが、私の姿を認知しているのは今のところ名執君だけです」
早く言えよ。心の中でそう叫び、咄嗟に「なにしてるのかなって思って」と言葉を紡ぐ。
「日誌書いてるの。面倒くさいやつ」
「このクラスでも委員長やってるんだ?」
「名前だけのね」
そこは蔑白さんや紙透さんの所属する三年二組の教室だった。僕が所属している一組ではない。ゆっくりと教室に入り、蔑白さんの隣の席に座ってみる。彼女は「どうしたの?」と少し微笑みながら訊ねた。
「ちょっと話がしたくて」
「いいよ。なんの話? 恋バナとか?」
「紙透さんについてなんだけどさ」
僕が言った瞬間、蔑白さんは優し気な微笑みから一転、酷く不快そうに顔を歪めた。僕はもちろん、傍で見ていた紙透さんも少したじろいだのが分かった。
「まさか、名執君からその話するとは思わなかったな」
日誌を少し乱暴に閉じ、視線だけで話の続きを促す。人当たりのいい蔑白さんからは想像もできないような所作だった。
「紙透さんが死んだとき、まあ、簡単に言うと体がぐちゃぐちゃになったらしい。普通なら誰かも判別できないくらいに。でも誰かが警察に紙透さんだっていう事を報告してる。第一発見者がいる。それってもしかして、蔑白さんだったりしない?」
そう訊ねると、蔑白さんは何を考えているのか分からないような表情をしたまま、しばらく黙っていた。僕が「どうしたの?」と言おうとしたタイミングでようやく口を開く。
「名執君は、その第一発見者を探してるの?」
「まあ、うん」
「なんで今更? そもそも、どうしてよりにもよって名執君が?」
紙透さんのせいで苦しめられていた僕が、どうして紙透さんに関わるような真似をしているのか。そう訊ねたかったのだろう。
チラリと、傍に立つ紙透さんを見る。彼女も彼女で、何を考えているのか分からない表情をしている。女子は怖いな。そんな事を思いながら、とりあえず「秘密」と言ってみた。蔑白さんは特段気にした様子もなく「ふーん」と生返事をする。
「残念だけど、いや残念なのか知らないけど。私じゃないよ」
「そっか。残念だね。君に発見されたなら紙透さんも喜んでただろうに」
「なにそれ、夏架への嫌味?」
そう言って蔑白さんは少しだけ笑った。紙透さんが舌打ちをしたのが聞こえた。
「話ってそれだけ?」
「……いや、もう一つ。蔑白さんに伝えたい事があって」
蔑白さんはまた黙ったまま体をこちらへと向けた。聞いてやるから話せ、という事だろう。僕は一つ息をつき、口を開く。紙透さんを不幸にする、その為の言葉を吐く為に。
「紙透さんは、君の事が嫌いだった」
隣にいた紙透さんが、「は?」と声を漏らした。僕は言葉を続ける。
「本人から聞いた事がある。蔑白さんの言動全てが神経を逆なでする、蔑白さんが息をするだけで、存在するだけで、果ての無いような憎悪が湧きたってくる」
「……名執君?」
僕の名前を紙透さんが焦ったように連呼する。だけどそんなの、僕が知らないふりをすれば五十二ヘルツの鯨にしかならない。
「本当に大切なものだけはどこかに隠して、嘘をついて自分を大きく見せようとして、それでヘラヘラ笑っているような、蔑白夕未という存在が殺したいくらいに憎い。確かにそう言ってた」
「名執君」
紙透さんは一際大きく言い、僕の肩に強く触れようとする。でもそれすらも、生きている僕に届きはしない。
「……それを、私に言いに来たの?」
僕は頷く。
「どうして今になって?」
「分からないけど、何となくそうしたかったから、とか?」
敢えて、紙透さんがより苛立ちそうな言い方をした。肉親を殺した後で、子供に向かって「ごめんね」と言うみたいな、そんな誠実に見せかけた挑発を。
紙透さんはもう何も言わなかった。もう何もしなかった。ただじっと、蔑白さんを見つめていた。自分の親友が、こんな虚言を信じるはずがない。そんな祈りを込めていたのだろう。
「そっか、よかった」
その声は確かに蔑白さんのものだった。今度は僕が「は?」と、情けない声を漏らす番だった。
「名執君にだけ教えてあげる。私もね、夏架の事が大嫌いだった」
蔑白さんは、笑っていた。自分より弱い小動物を愛でる時の、純粋無垢な笑顔を浮かべていた。
「自分のせいで生まれる不幸には目を瞑って、自分が創り上げた幸福だけを全人類だなんて呼んで、それで都合の良い笑顔を都合の良い場所だけに振り撒く。そんな紙透夏架が、死んで欲しいくらいに嫌いだった」
ちらりと、彼女の顔を見る。おそらく紙透さんは絶望していた。本当の絶望とはこういう事を言うのだろう。そうとしか表せないような顔をしていた。あるいは、悲しんでいた。涙を零していないのが不思議なくらいにただ悲しんでいた。誰がどれだけ惨たらしい殺され方をしても、多分僕にはこういう表情はできない。
「だから、殺したの?」
「そう。背中を押してやった」
蔑白さんが「チクる?」と訊いてきたので、「しないよ」と言った。本心だった。
「夏架を殺せば、名執君が私を見てくれるかなって思ったから」
また突然に蔑白さんが言う。その時僕がどんな表情をしていたかは分からない。でも、蔑白さんは僕の顔を見て「あ」と気付いたように言った。
「私ね、名執君の事が好きなの。ずっとずっと前から好きだった」
蔑白さんの頬は少し紅潮していて、何かの訓練を受けていない限りこうはならないだろうと思った。つまり、恐らくは本心なのだろうと。
「……じゃあ、僕を虐めから助ける為に、わざわざ紙透さんを殺したって事?」
僕が訊ねると、蔑白さんは屈託のない笑顔で頷いた。人から好かれる所以の、愛らしい笑顔を浮かべていた。僕はどうしてか、目の前にいる蔑白夕未が突然に気持ち悪く思えていた。
「恋愛下手だから話しかけるタイミングとか分からなかったの。けど、夏架がどうしてか名執君を虐めて、ここだって思った。夏架を殺せば名執君を救えるし、名執君は私を見てくれる。一石二鳥でしょ?」
一番の親友だったはずの人間から「嫌いだった」と言われ、おまけに「殺したのは自分だ」と追い打ちされる。紙透さんの気持ちはどうだろう。心底不幸だろう。皮肉にも、どれもこれも紙透さん自身が望んだ事だ。
「断りにくい状況作っちゃってごめんね。でも、こうするしかなかった」
そう言って蔑白さんは僕の手を握った。そこから伝わる体温、彼女の浮かべる笑顔。全てが本物だった。本物で、だからこそ全身の毛が逆立つくらいに不快だった。
「どうかな。夏架のいなくなった世界で、一緒にならない?」
目の前には幸せそうな蔑白さん、隣には誰よりも不幸な紙透さん。僕の為に蔑白さんは紙透さんを殺した。五感から入ってくる情報が過多する中で、僕の第六感だけは、何よりも強く、こう叫んでいた。
——違う。この手じゃない。
蔑白さんの手を振り解いて立ち上がる。呆気に取られる彼女に、僕は一つだけこう言い残した。
「ごめん。僕のタイプは、僕なんかを好きにならないような子なんだ」
「とりあえず、一つだけ」
誰もいない廊下で、紙透さんが呟く。
強い人だと率直に思った。あんな状況に居合わせて一つだけだなんて。もっと言いたい事も訊きたい事も山ほどあるだろうに。実際、今の僕がそうなのに。
あるいは、ただ知りたい事以外のものから目を背けているだけなのかもしれない。両極端に位置するそのどちらかだ。
「どうして、あんな嘘をついたんですか」
後ろから彼女が訊ねる。どんな表情をしていたのか僕には分からない。知りたいとも思わない。
「君が言った事だろ。不幸にして欲しいって。君の大切な人が不幸になれば、君は不幸だ。まあ結果としては僕が思うよりも酷い事になったみたいだけど」
「貴方はそれで」
「文句は言わせない、とも僕は言った。それ以外に何かあるなら話を聞く」
紙透さんの言葉を遮る。彼女はまたしばらく黙った。
アクアリウムの床は、夕焼けの橙色を照り返して眩しく輝いていた。その眩しさに目を細めながら歩く。目的地なんか無かった。そんなもの無くても、僕はずっとずっと遠くに行きたかったはずだ。昔からそうだ。
「では一つ質問、一つ提案をします」
僕はそこで一度立ち止まり、初めて彼女の方を振り返った。
彼女はいつも通りに僕を睨んでいた。彼女が今どんな感情を抱いているのか、想像するのは少し難しい。
「名執君は多分、周囲の事に無頓着です。いや、ただ面倒くさがりなだけかもしれない。どちらにせよ、自分に関係のない事は興味の無い人間でしょう」
「分からないけど、そう言われるとそうかもしれない」
「そんな貴方が、どうして嘘をついてまで私の頼みを聞くのですか。いやそもそも、どうして私の頼みを断らなかったのですか」
僕はそこで、「君への復讐だ」という返事をするのが最も適切だと分かっていた。状況も動機も理由も、まるで示し合せたかのようにその一つの答えだけを導いていた。でも僕はそうしなかった。そこで嘘をつく意味は無かったから。
どういう言い方をしようか。少し考え、やっぱり止めた。どんな言い方をしたって気持ち悪いものだというのは僕がよく知っている。
「僕がただ唯一、君の好きな部分を挙げるとすれば、多分君の〝手〟だ」
そう言うと、紙透さんは「手?」と言って自分の手をまじまじと見つめる。
「とある時から、僕は完璧な〝手〟を探すようになった。その持ち主が君だった」
「……手フェチ、みたいな事ですか?」
「全然違うけど、別にそれでいい」
紙透さんの手はピアノの弾き過ぎでボロボロになっている。オーツ麦とやらで文字通りに手入れしようとしている手。率直に言って、僕はそれに惚れ込んでしまった。
「もし君がいなくなれば、もう君の手を拝む事ができなくなる。だからこうやって、君を不幸にしてやろうと躍起になってる」
気持ちの悪い執着だと自分でも思う。それでもあの日以来、僕はそれだけを求めて生きてきた。十年以上の時間をかけて、ようやく見つけたのだ。今更それをみすみす逃すなんて、そんなの惜しい。
「これが君の頼みを断らなかった理由。それで、提案っていうのは?」
彼女は僕を気持ちの悪いものを見る目で見つめながら、「まあ都合がいいです」と呟いた。
「例え私の為だとしても、勝手にされては困る事もあるわけですよ。さっき蔑白さんに嘘をついたみたいに」
悪い事をした、なんて微塵も思わなかった。彼女自身が望んだ事であり、同時に、僕の為でもあったから。
「私と一つ、約束をして欲しいんです」
「どんな?」
僕が訊ねると、彼女は一つ息をつき僕の前に両の手を差し出す。そしてこう言った。
「『私の両手を捧げます』」
彼女の表情は微笑みとも真顔とも違う、どこか穏やかな表情をしていた。何か暖かいものに触れるような、大切な思い出に触れるような、そんな表情だった。
「これは幼い頃、私がよく使っていた誓約の文言です」
「……どういう意味?」
「何かを心の底からお願いしたい時、これを使うんです。言われた側の人間は、自分に捧げられたものを考慮して、そのお願いを受け取るかどうかを決めなければいけない」
「……どういう意味?」
同じ言葉を同じイントネーションで訊ねる。紙透さんは「つまり」と説明を続けた。
「例えば『世界を救ってください』『私の髪の毛一本を捧げます』ってお願いされても、どう考えても割に合いません。その時は、お願いを断れる。でも『世界を救ってください』『私の全てを捧げます』とお願いされて、それが見合う価値ありと判断したら、貴方は世界を救わなきゃいけない、って事です」
「世界を救うのに捧げられて割に合うのは、一生分の裕福くらいだと思うんだけど」
「大切な恋人の命を捧げられたら、世界を救わなきゃいけないって考える人だっているかもしれません」
意外とロマンチックな事を言うんだな、と言おうとして、やっぱりやめた。
「ちなみに、さっき僕が嘘をつくって知ってたら、君は何を捧げて止めようと思ってた?」
「親指くらいなら捧げてたかもしれませんね」
「ちんけだ」
「この天才ピアニスト紙透夏架の親指ですよ。貴方の存在なんかよりよっぽど価値があると思いますけど」
本人には言わないけど、もし「親指を捧げる」と言われていたら、僕は彼女の言う事を聞き入れたかもしれない。そのくらい、僕の中で彼女の手は絶対的だった。
彼女自身、音楽室から出るのはその日が初めてだったらしい。もののついでと言って、自分の事故現場に向かうと言った。もしかするとぐちゃぐちゃの死体から自分を見つけてくれた第一発見者がいるかもしれない、と。
駅までの道中は肩を並べて歩いた。理由を聞くと、やっぱりと言うべきか「嫌いな人間と歩く事は不幸以外の何物でもないでしょう」と、本当に嫌そうに言った。現に今も、苛立ちを隠さずに歩いている。幽霊じゃなかったらヤバい奴だと思われそうだ。
なぜか分からないけど、彼女の姿を認知できるのは僕だけらしい。だから、すれ違う人は僕の事はすっと避けても、その隣にいる紙透さんを避けようとはしなかった。彼女はぶつかりそうになると一瞬目を瞑るのだが、人はその体をすり抜けていく。それの繰り返しだった。
駅の構内に入ると、人気は一気に少なくなる。音楽室や蔑白さんの元へ行ったせいで生徒の帰宅時間帯とも少しズレたから尚更だ。学生が数人歩いているだけだった。
だから、僕のよく見知った顔である彼の姿はすぐ目に飛び込んできた。駅の自販機で天然水を買っているところだった。
「……さっきの誓約ってさ、僕以外に誰か知ってたりする?」
ペットボトルの蓋を開けて口を付ける真囚君を遠目に、隣にいた紙透さんに訊ねる。彼女は少し怪訝そうな表情をしながらもそれに答えてくれた。
「夢来ちゃん、憐君の妹となら。ピアノの練習をしながら、そういう話はしたかもしれません」
「へえ。練習ってどんな?」
「一緒にピアノを弾くだけですけど」
「仲が良いんだね」
「何が言いたいんですか」
「別に」
それだけ確認すると、僕は真囚君の元まで近付いた。五メートルほどの距離になった時、彼は僕の存在に気が付きこちらを見た。目が合っても、彼は特に反応を示さなかった。
「紙透さんは、君の事が嫌いだって言ってた」
隣で紙透さんが「また」と怒ったように言う。構わず、僕は話を続ける。
「自分の信じたいものだけを見つめて、それを勝手に何かの象徴みたいに崇めて、それ以外の自分に不必要なものは世界の裏側に隠す。脳内にお花畑を耕す事を生甲斐にしてるみたいな、真囚憐が嫌い。心底吐き気がする。そう言ってた」
彼は紙透さんのピアノの音色に惚れたと同時に、紙透夏架という偶像を信じ続けた人間だ。言葉では表せない、何かがある。自分にとっての神様みたいな彼女に否定された時、彼はどんな反応をするだろう。
「……お前、ボロボロの教科書教室のゴミ箱に捨てただろ。やめろよ。俺が先生に目ェ付けられるだろうが」
それだけ言うと、彼はそのまま立ち去ろうと僕に背を向けた。僕はそれに拍子抜けする。そもそも、その教科書は真囚君にボロボロにされたやつだ。
「残念でしたね。憐君には効かなかったみたいです」
隣で紙透さんが言った。その表情は、どこか安堵しているようにも見える。
意外と言えば意外だし、同時に、どこかでそうなる気もしていた。逆上して僕に殴りかかるか、全部全部どうでもよくて無視するか、そのどちらかだろうと。
「真囚君」
だから、僕は彼にこう言ったのだ。彼が最も嫌がるであろう言葉を、彼が最も嫌がる表情で。
「僕の話を聞いて欲しい。『僕の髪の毛を捧げる』」
その瞬間だった。彼は数メートル先から、手に握っていた水入りのペットボトルを僕の顔に投げつけた。そして、僕がそれに目を瞑った一瞬でこちらまで詰め寄り、僕の顔を思いきり殴る。一瞬の出来事で、僕は自分が殴られた事にもしばらく気が付けなかった。
「何で知ってんだよ」
僕の胸ぐらを強く掴んだ真囚君が訊ねる。どうしようもない怒りの感情だけがひしひしと伝わってきた。
「まさか、君の妹しか知らない、なんて思ってた? 思い上がりだよそんなの。自分にとっては何より大事なものでも、他の人間からすればどうだっていいんだ」
本当に、心の底からそう思った。僕が何をどれだけ大切に、丁重に心の中に閉まっていても、人はそれを平気でこじ開けようとする。それが人間だと、僕は身を持って知っているから。
こんな時に限って駅に人が入ってきた。名前は覚えてないけど、顔は見た事ある気がする。同じ学年の女子達だ。彼女達は僕と真囚君をちらりと見て、「可哀想」「またやってる」「ドンマイ」などと勝手な事を吐き捨てて去っていく。
「紙透さんが大切にしてるものなんて何もないよ。少なくとも、君が知ってるものは何も。この誓約の文言だって、彼女にとってはどうでもいいんだから」
「黙れよ」
「だから僕が知ってるんだよ。彼女が何よりも憎んでるはずの、この僕が」
そう言うと、真囚君はもう一度僕の顔を殴る。突き飛ばされた勢いで僕はその場にへたり込んだ。そう言えば顔を殴られるのは今日が初めてだと、どうでもいい事を思った。
また立ち去ろうとして背を向けた彼に、僕は「訊きたい事がある」と言葉を投げた。
「紙透さんが死んだ時、死体を判別して警察に報告したのは君なの? 第一発見者は、君なの?」
真囚君は向こうを向いたまま立ち止まり、「だったら何だよ」と小さく言った。
隣の紙透さんを見る。彼女はほんの少し目を見開きながら、驚いたような表情のまま、そこに立っていた。
「紙透さんが『私を見つけてくれてありがとう』、だってさ」
そう言うと、真囚君は鞄の中から何かを取りだす。その正体を認識した瞬間、僕はとっさに両腕で顔を守った。その直後、右腕に鈍い痛みが走る。
「……なんでお前じゃないんだよ」
そう言って彼は今度こそ立ち去って行った。どうして死んだのがお前じゃないんだ。多分そういう意味だろう。僕の口から小さく、「僕もそう思うよ」と言葉が零れた。
傍で見ていた紙透さんは、僕の事なんか心底どうでもよさそうだった。その視線は真囚君の背中に注がれている。優しさのある、慈愛を含んだ眼だった。あるいは、哀れんでいるような眼だ。
「……何を思ってるの?」
立ち上がりながら紙透さんに訊ねる。彼女は「申し訳ないです」と言った。
「まさか、憐君がここまで苦しんでいるとは思っていませんでした」
「ああ、そうだね。全部君のせいだ。君が幸福にしたいと言ったピアノのせいで、彼は不幸になってる」
彼女は、「そうかもしれません」と小さく言葉を漏らす。
「できる事なら、私の事なんか忘れて欲しいと思います」
彼女は小さく「本当に、ごめんなさい」と呟いた。
僕の足元には、彼が投げたハンマーが転がっている。
「憐君に嘘をついたのも、夕未さんに嘘をついたのと同じ理由ですか?」
誰もいない駅のホームで、僕は電車を待っている。僕の隣から紙透さんが訊ねた。
「もう一つある。真囚君は僕の話を聞く耳を持たない。だからああやって怒らせてでも、意識を僕に向けた方がいいんじゃないかと思った」
実際効果はあった。真囚君は面白いくらいに挑発に乗ってきた。言いたい事も言えたし、聞きたかった事も聞けた。彼が、真囚憐が、紙透夏架の第一発見者らしい。
僕の言葉に紙透さんは眉をひそめた。何か納得いかないというか、釈然としないような、そんな表情だ。
「何だよ。君の望みは叶っただろ。言いたい事があるなら言えよ」
「……ずっと気になってたんです。貴方の言動全部」
そこに置かれた自分への献花を見つめながら彼女は言った。僕は自販機で買ったサイダーで、痛む右腕を冷やしている。
「私が『貴方が不幸になればなるだけ私は嬉しい』と言った後、貴方は『僕もそう思う』と言いました。覚えてますか?」
「どうだったかな」
本当に覚えていなかった。いつの話だろう。幽霊になった紙透さんと初めて会ったあの日だろうか。
「余計な嘘で憐君を怒らせたり、何より、『僕もそう思う』という言葉」
「イライラする。要約しろよ」
献花の傍にしゃがんで形だけの合掌をする。いや、この場合は紙透さん本人に手を合わせるのが正解なのだろうか。彼女は「要するに」と口を開いた。
「私からすると、名執君は自分から不幸になりたがってるように見えるんです。私が虐めを主導していた時もそうでした。貴方は一度だって、不幸の渦中にいるような顔をしなかった。どうしてですか」
風が吹いた。強い夏風だった。
僕はそれに目を細めた。でも隣の彼女はそうしなかった。それどころか、彼女の髪は少しだってなびいたりしなかった。全て通り抜けてしまうから。
「君が不幸になりたいのは、成仏しない為。それは分かる。じゃあもし人間だったらどうする?」
僕が訊ねると、彼女は少し首を傾げ「当たり前のものを求めるでしょうね」と言った。
「当たり前に幸福を求めながら、当たり前に生きます。事実、こうやって死んで幽霊なんかになる前はそうしていました」
紙透さんはやけに「当たり前」という言葉を強調した。それが普通だと、人間とはそういう生き物なのだと言いたかったのだろう。
「多分僕は、幸せになりたくないんだと思う。不幸になりたがってるのかもしれない」
そう言うと、彼女は「はあ?」と少し苛立ったように言った。幸福を求めて生きる人間が、不幸を求めていると言う。本能とか倫理とか尊厳とか、そういうものに背こうとする生き物が目の前にいる。そんな反応をするのは当然かもしれない。
「幸福っていうのは素晴らしいものだと思う。でもだからこそ、それを手にしてしまうと、もうそれ以上はないんだよ。幸福っていうのはきっと、そこまでの道のりを指すのであって、手に入れた瞬間、それはもう幸福なんかじゃない」
ペットボトルの蓋を開け、そっと一口飲む。炭酸が喉を降りていく。美味しいと思う。だから、そこで終わりだ。たった今僕が手にしたはずの幸福は、この瞬間に終わってしまった。
「土日の連休が好き。でも、土日になるのは嫌い。夏が好き。でも、夏になるのは好きじゃない。だったら一生、幸福はいらない。幸福はきっと、ぼうっと見上げているくらいが丁度いい」
献花から一枚の花弁が舞って、風に流されて線路の奥に消えて行った。ハート型の、小さな紫色の花弁だった。種類も花言葉も分からなかった。
「不幸になりたい事の説明になっていません。それはただ、幸福になりたくない事の言い訳を並べただけです」
「単純な事だよ。だって、幸福になるのって面倒くさいじゃん。自分が欲しいものを手に入れる為に、汗水垂らして努力して、それで存外綺麗じゃなかったらどうする? 今までの全部が無駄だ」
そう言うと、紙透さんが眉間に皺を寄せたのが分かった。怒っている。自分の生き様を否定されたからだ。自分が信じていたものを、侮辱されたからだ。
「私は本気で、全人類を幸福にしようとしていました。人を幸福にする事こそが私にとっての幸福でした。その為だけにピアノを弾き続けてきた私を、貴方はどんな目で見てたんですか」
「その崇高な夢は否定しないよ。だけど、ただ生き辛そうだなとは思った。夢が叶うと信じて疑わない、そんなに必死こいて何も手に入れられなかったらどうするんだろう。そう思った。事実、君は死んでこれまでの努力は全部パーになったわけだしね」
ざらついたアナウンスが鳴った。僕が乗る電車が来る事を告げている。
「僕は、全人類不幸になればいいと思ってる。幸福を求めようとするからいけないんだ。運良く小さな幸福を手に入れられればラッキー、くらいに考えれば何も失わずに済む。道端でお金を拾うみたいに」
「好きな人の為に誰かを殺す事、好きな人の為に誰かを殴る事。貴方は、幸福の為に手を伸ばす全ての人を否定するわけですか。そうやって都合よく、自分だけ関係ないって顔して幸福から逃げ続けるわけですか」
電車が轟音を鳴らしながら近づく中、「ただ臆病なだけじゃないですか」と、紙透さんが苛立ったように言ったのが聞こえた。
「だから、君と僕は真逆なんだ。幸福になりたいのに不幸になるしかない君と、幸福になんかなりたくない僕。道理で君が僕を嫌うわけだよ」
「……ええ、そうですね。私は、名執崇音という人間が、この世界の何よりも嫌いです」
電車に乗り込み、ホームとは逆の方向を向いたままつり革を掴む。彼女がどんな表情をしていたのか。僕は知らないままだ。
何故か異様に疲れた気がして、その日は帰ってすぐに布団に入った。一人暮らしはこういうところがいい。自分の匙加減で堕落できる。
僕は時たま、同じ夢を見る。昔の出来事だ。それを、断片的に夢見る夜がある。
夢の中で、僕は扉の前に立っていた。横開きのドアだ。僕の視線は扉の取っ手と同じくらいの低い位置にある。そのくらい幼い頃の出来事だった。
僕は、この扉を開けなければならない。理由は分からないけど、脳内で自分の声がこだましていた。本能にも近しい何かが僕を掻き立てていた。
扉を開ける。部屋の中心には、僕と同い年の女の子がいた。その子はこちらを振り向くと、僕に向かって「たーくん」と言った。そんな彼女に、僕は「ゆーちゃん」と声をかけた。
「『可哀想』になるのは、難しい。私もたーくんみたいになりたいのに」
年相応の不満げな顔をして「ゆーちゃん」は言った。僕はその子の傍に寄って「ならなくていい」と言った。
「可哀想になんかならなくていい。僕みたいになんかならないで欲しい。ゆーちゃんは、そのままでいい」
「でもそうじゃないと、私は生きてる意味が無いよ」
会話の意味はよく分からなかった。ただ、女の子は僕のような人間になろうとしている。可哀想で惨めな僕みたいに。その切望だけは何となくと伝わってきた。
難しい顔をしたままの女の子に、僕は「こうしよう」と提案をした。
「僕はこのまま、可哀想な僕のまま、ずっと生き続ける。だから、いつかゆーちゃんに迎えに来て欲しい」
そう言うとようやく、女の子は少し嬉しそうな顔を見せる。その瞳に浮かび上がった期待に、僕は優しく微笑んだ。
「可哀想なんかじゃない、もっと幸せになった君が、可哀想になった僕を救いに来て」
そう言って僕は女の子の手を取った。ボロボロで、とても格好いい手だった。そうだ、この時からだ。僕が、完璧な〝手〟を求めるようになったのは。他には何も無くていい。この完璧な手さえ分かっていれば、彼女だと確信できるはずだった。
「じゃあ、約束して欲しい」
女の子はそう言ってポケットから、音符の形を模したストラップのようなものを取りだす。どうやらそれは二つで一つらしく、二つの八分音符を合わせて初めて記号が完成するようだった。オタマジャクシような形ではなくて、連桁と呼ばれる上の線で繋がっている形の八分音符だ。
「たーくんにこれを持ってて欲しいの。いつか私がたーくんのいる場所に行く時、目印になるように。これが完成した時、私がたーくんを救い出したって証明になるように」
女の子は八分音符を半分に別け、片方の音符を手渡す。僕はそれを受け取り、「分かった」と笑った。
その子は僕の手に八分音符を握らせ、ぎゅっと僕の手を包み込んだ。その時彼女がくれた体温の温もりを今でも覚えている。木漏れ日のように、穏やかな暖かさだった。
「その日がくるまで、僕は君を待ってる」
僕がそう言うと、女の子は笑った。
そうやって、夏そのものみたいに眩しい笑顔で笑った後、彼女は僕に向かってこう言うのだ。
「裏切り者」
いつもそこで目が覚める。
内容に多少の変化はあれど、終わり方はいつもこうだ。女の子が「裏切り者」という言葉を吐き捨てるところで夢は終わる。記憶なんて不確かなものだ。遠い昔の事などすぐに忘れる。ましてや夢なんてあまりに朧気で、何の確証にもならない。もっとちゃんとあの日の事を覚えていたら何か違ったかもしれないのに。
布団から体を起こし、机の上にある学校用の鞄を漁る。一番底にあった八分音符のストラップの片側を取りだしてみる。あの日以来僕は、一つの音符が完成する日を待ち続けている。
時計を見ると早朝四時を示していて、空はまだ薄暗い。朝っぱらから重い溜め息を一つ吐いて決心した。やっぱり、やるしかない。
* * * * *
音楽室に向かうと、紙透さんはいつもピアノを弾いている。もちろん鍵盤には触れられないから、実際に弾けるわけではない。目を瞑って鍵盤一つ一つの音を思い出しながら、両手を動かし続けている。彼女が想う、究極の一曲を完成させる為に。
そう言えば、幽霊になった彼女と出会った初日だけ、彼女はピアノに触れていた。あれはどうしてだったのだろう。今になってふと気になった。
「この世界でたった一人、憧れたピアニストがいました」
夏空を透過する彼女が言った。放課後、僕は音楽室を訪れていた。教室の中央にあった椅子の一つに座り、黙って彼女の話を聞いている。膝にボロボロになった学校鞄を乗せながら。
「その人とは、私がかつて通っていたピアノ教室で出会いました」
「どのくらい前の事?」
「覚えていません。物心が着く前の話です。それでも、その人が奏でた旋律だけは今でも鮮烈に覚えています。昨日の晩御飯を思い出すより先に、その音を思い出せる」
「まあ晩御飯なんか食べてないんですけど」と真顔で言った。彼女は朝から晩まで音楽室にいるらしい。他に行く場所が無いのだから仕方ない。ここでピアノを弾く真似事を延々と続けているらしく、お腹が空くという感覚もないのだろう。
「その人のピアノには、全人類を幸福にする力がありました。私もそんな風になりたくて、ずっとピアノを弾いています。その人のように聴く者の全てを赦すような、そんな音だけを奏でていたかった」
「その人は、今どうしてるの?」
そう訊ねると、彼女の手が一瞬だけ止まった。
「……分かりません。いつの間にかいなくなってしまったから」
例えば、僕が夢に見るあの女の子を人生意義にしているみたいに。彼女にとってはきっとその人が「そう」なのだろう。言葉にならないほど、言葉になんかしたくないほど、何もかもの全てであるように自分の一番奥深いところに居座っている。人にはきっと、そういうものがある。
「ただ一つ確信しているのは、その人は間違いなく天才だったという事です。ピアノを弾き続けている限り、どこかでその人の名前を見るはずだと思った。なのに、そうならなかったのはもう既にピアノを辞めているか、あるいは死んでしまったか。そのいずれかだろうという事です」
紙透さんはそこで話を一区切りとし、両手を下ろした。そして僕の方を見て「分かった事があります」と真顔で言った。
「幽霊になって名執君と初めて会ったあの日だけ、私はピアノに触れる事ができていました。恐らくですが、その理由が分かりました。昨日の貴方との会話の中で」
『そうやって都合よく、自分だけ関係ないって顔して幸福から逃げ続けるわけですか』『ただ臆病なだけじゃないですか』。昨日見た、血の通わない冷たい紙透さんの顔が思い出される。
「多分、極限まで不幸のどん底に突き落とされた時です。その瞬間だけ、私は何かに触れる事ができるのだと思います。あの日、私は自分の死を自覚しました。もう夢を叶える事ができないのだと、本当の絶望を知りました」
そう言って彼女は自分の手を見つめた。あの日の、鍵盤を叩いた指の感覚を思い出すように。
「君は僕の事が嫌いだと言う」
「はい」
「僕が君の前に現れた瞬間、ピアノに触れられなくなった理由は?」
「『死んでしまった』『夢を叶えられない』という不幸を、『名執崇音が現れた』という不幸で邪魔されたからだと思います。前者の不幸にだけ集中していれば、苦しみながらも、もっとピアノを弾けたのかもしれません」
「無茶苦茶だ」
苦笑いしながら言った。紙透さんは「事実です」と飄々としている。
彼女の手を見る。指の腹はボロボロ、ところどころ豆があったり皮が破れているのが分かる。死ぬ直前の状態のままなのだろう。彼女の手はこれからも、これ以上にも以下にもならない。
「……よかったよ。迷いが無くなった」
僕は立ち上がり、ピアノに近付く。鞄を足元に落とす。
「つまり僕は、やっぱり君を不幸にするしかないんだね。もう再起不能になるくらいの、ただ真っ直ぐで、不純物のない不幸を与えてやるしかない」
僕の言葉に彼女は眉をひそめた。僕はこれから、彼女を不幸にする。それこそ、死にたくなってしまうくらいの絶望を。しかし皮肉にも、彼女が死ぬ事はもうない。
僕はそっとピアノに触れてみた。窓際に置かれているこの大きなピアノは少し日に焼けている。年季が入っているのだろう。
「このピアノはいいピアノなの?」
「……分かりませんが、愛着というフィルターを通してしまうと何でも輝かしく見えるものです」
「愛着あるんだ」
「死ぬ前はもちろん、死んでからも、私はずっとここにいましたから。私の意思も、ここで育まれた思い出も、全てが詰まっています」
人の平穏な学校生活を脅かしといて、よくそんな事を簡単に言える。そう思った。
二年か。率直に思った。あの夏に転校してきて二年、紙透さんはずっとこの場所にいた。教室にいる時間と同じくらい、ここでピアノを弾いていた。不器用ながらも大切に思ってきた友人達と同じくらい、ここでの時間を大切にし過ぎていた。
なんだか酷く蒸し暑かった。窓から見える青天井、白い日差し。ただひたすらに暑苦しかった。
紙透さんを不憫に思う。とんでもない不幸を与えて、もうこの世から消え去ってしまいたくなっても、そうできないのだ。不幸を与えればそうするだけ、成仏というものから遠ざかってしまうらしいから。
「あの、何をするつもりですか」
「君は僕を苦しめて、あまつさえ、不幸に見えなかったとまで言う。本当にそう思うの?」
鞄に手を入れ、僕は「それ」を取り出す。その瞬間、紙透さんは僕のしようとしている事を理解したらしかった。
「……名執君」
「そんなわけないだろ。殺したいほど憎いに決まってるだろ。蔑白さんが殺さなきゃ、僕が君を殺してた。僕が考え得る限りの、君にとって一番残酷な方法で」
「まさかと思いますけど、それ」
「でも残念な事にもう君は死んでる。だから僕ができる最大の復讐は、君の目の前で地獄を見せる事くらいなんだよ」
「お願い」
「僕が君の手に執着するように、君にとっての執着は『これ』なんだろうね」
「名執君」
「覚えておいて。これはどこまでも純粋な君への憎悪だ。全人類を幸福にするとか、調子に乗らなければこんな事にはならなかった。僕への嫌悪を自分勝手に振り撒かなきゃ、こんな目に合わずに済んだのにね」
「止めて」
「自分が取った行動を後悔するといい。今更な過去をどうしようもなく悔やむといい。生きていようが死んだ後だろうが、時間は巻き戻らないんだから」
言いたい事は、全部言い切った。
「それ」を両手で強く握りしめ、大きく振りかぶる。彼女にとっての執着をぶっ壊す。明確な破壊意思を持って。
「『私の両手を捧げます』」
ぴたりと、僕の手が止まった。
糸で釣られているように微動だにしなかった。たった十三音に、こうも容易く動きを止められる。
「……お願いします。止めてください」
紙透さんはそう言って深く頭を下げた。
暑かった。わけもなく、汗が止まらなかった。
「断る」
腕を振りかぶった瞬間、聴くに堪えない痛々しい音が耳を劈いた。
最初に何かのパーツらしきものが一つ弾け飛び、紙透さんの身体をすり抜けて地面へと転がっていった。何度かそうしているうち、また別のパーツが転がっていった。それでも構わず、僕はピアノを壊し続けた。
やがて腕がもう上がらなくなったところで、力任せに殴るのはやめた。まだ外れてない白鍵と黒鍵を一つ外していった。
そうやってほとんどの鍵盤を外し終えると、今度はそれ以外をまた力任せに殴っていった。ペダル、脚、譜面台、鍵盤蓋、棚板、屋根、突上棒、側板、ピアノ線まで。硬くて壊れない部分でも、最低限の傷は付けてやった。
どれだけそうしていたか分からない。気付けば青空はいつの間にか赤色に上塗りされていて、制服は汗でぐっしょりと濡れていた。
「大切な口約束すら破られる気持ちはどうだよ。君が望んだ不幸そのものだろ」
僕は俯いたままそう言った。彼女の顔は見なかった。
彼女はゆっくりとした足取りで、ボロボロになったピアノに触れようとする。僕はその結末を見届けず、手に握り締めていた「それ」を鞄にしまい音楽室を跳び出した。力強く「それ」を握りしめていた手がジンジンと痛み始めた。
彼女がピアノに触れようと触れまいと、幸せになんかなれないじゃないか。幸せに希望なんか見出すからだ。最初から全てを諦めていれば、こんな事はしなかったのに。
ふと気が付いた時、僕はいつの間にか廊下の真ん中に立っていた。向こうから真囚君が早い足取りでこちらに歩いてくる。彼の表情から察するに、音楽室へ行こうとしているのは分かる。
「返せよ」
かける言葉を探していた僕に彼が言った。何の事かすぐに思い当たった僕は「何でもお見通しなんだね」と言った。
「お前しかいないだろうが。何考えてんだよ」
「何も考えてないんだよ。自分の事しか考えてない」
僕は自分の鞄からハンマーを取り出し、真囚君に手渡した。受け取った瞬間、彼は少し眉を寄せる。
「何に使った?」
「ピアノを壊した」
「いつ」
「今」
「何の為に」
「紙透さんの為」
そう言うと彼は、不思議そうな顔をした。てっきり怒るかと思ったがそうでもなかったらしい。彼からすれば、僕の行動が単純に疑問なのだろう。
「なあ、お前何がしたいんだよ」
「何もしたくない。何もしないで生きていたい。それだけなのに、生きる事そのものが何かを強要される事でもある。面倒だと思う」
「お前が何をしようと俺には関係ない。でも今後、夏架と関わるなら俺がお前を殺す。あいつの為とか、どの口がほざいてんだよ」
その言葉を聞いた僕は、とある事を確信した。やっぱり彼は、紙透夏架という偶像に囚われ過ぎている。
「……真囚君は、信頼できる人間だと思うよ」
本当に、心の底から思う。真囚君はさらに眉をひそめた。
「今になっても僕を虐めてるのは、君だけだね」
紙透さんが転校してきて僕に強い嫌悪をぶつけるまで半月。そして、それから彼女が自殺するまでが二年。その後、僕に継続して嫌がらせをする人間は徐々に減っていった。まるで洗脳から解かれたように一斉に手を引いた。紙透さんがいなくなった事もそうだし、彼女が自殺をして警察が関与したのも一因だろう。
でも、真囚君だけは違った。彼はずっとそれを続けていた。紙透さんの感情を代弁するように僕を嫌った。紙透さんの為だけに、ずっと、ずっと。
「気付いてるだろ。周囲からすれば、同情するべきは僕じゃない。哀れむのは僕じゃない。君なんだよ、真囚憐」
『可哀想』『またやってる』『ドンマイ』。あの学校にいた人間は、口々に勝手な言葉を吐き捨てる。でもそれは僕に向けられたものじゃない。全て真囚君に向けられたものだ。
「自分で分かるだろ。君のそれは、傍から見ても分かるくらいに酷い。まるで操られているみたいに、紙透さんに縛られてるみたいにずっとそうなんだ。『今でも紙透さんの事を忘れられずに可哀想』。残念だけど、それが皆の本音だ」
「何が可哀想だよ。勝手な尺度で人の事推し量ってんじゃねえよ」
彼は鼻で笑ってそう言った。どんな形であれ、彼の笑顔を見たのは初めてだった。
「俺はあいつに陶酔してる。盲目だと自覚してる。それの何が悪いんだよ。自分の信じたいものを信じて、それで幸せになる事の何が悪いんだよ」
ああ、ここにもだ。ここにもいた。幸福の為に、必死にもがき続ける人間が。もういない人間の事ばかり考えて、手にする事のない彼女の心に手を伸ばしている。
「夏架にどんな意図があってあんな事言ってたのか、俺は知らない。別に知らなくてもいい。ただ、お前に向けてた感情は本物だった。それだけは分かる。夏架がお前を嫌い続けるなら、俺はお前を殴る。死んだあいつができなかった分も、俺が全部」
ハンマーの先を僕の肩に優しくあてる。脅迫、というよりは、自分自身への誓いのように見えた。これからも自分の身は紙透夏架にあると、そんな言葉だった。
「だから『夏架を救った』なんて言葉を吐くお前が許せない。あいつを救う役割は、俺だけのもんだ。お前が夏架の敵で、俺が夏架を救うヒーロー。これから先も、ずっと」
紙透夏架は化け物だ。たった一人の人間をこうも狂わせる。いや、狂っていたのはあの学校の人間全員か。そのくらい彼女のピアノはただ美しかった。
その場を去ろうとする真囚君に、僕は「納得したよ」と声をかけた。
「だから君は、あんな嘘をついたんだな」
そう言うと彼はぴたりと足を止める。こちらを振り向いて「何がだよ」と言った。
「どうして第一発見者は自分だなんて嘘をついたのか、考えてたんだ。君は紙透さんのヒーローになりたかったんだね。凄いと思うよ」
これも本心だった。誰かを幸福にしたいと願うように、誰かを救いたい、誰かにとってのヒーローになりたい。何よりも強い想いで、最も尊まれるべき思いだ。
彼は話を聞かずに去ろうとする。だから、僕はまた嘘を重ねる。
「でも、嘘をついてまで誰かを救おうとする事が正しいなんて、僕には思えない。ただ怯えて端っこから見てただけなのに、敵が倒れた瞬間に『あれは俺が倒したんだぞ』って言ってるようなものだ」
そう言うと彼は勢いよく僕に近付いてまた胸ぐらを掴んだ。人は本心を言い当てられると、こうやって取り繕ろうとする。
嘘をついて誰かを救う。結構な事じゃないか。そこまでして救いたい人間がいる事も素晴らしい。でも、僕が彼に言える事は、そういう事じゃない。
「それとも君には、紙透さんが嘘を付くような人間を好く女の子に見えてたのかな。人類の幸福を望む人間が、誰かに嘘をついてまで別の誰かを幸せにしたいと思う人間に」
「黙れよ」
「それはどう考えたって紙透さんの望むところじゃない。だって、彼女の夢は『全人類』の幸福だから」
「殺すぞ」
「要するに結局、君の行動はただの我儘でしかないんだよ。好きな女の子に振り向いて欲しくて何でもやっちゃうイタい奴だ。紙透さんの為なんて嘘。僕を殴りたいのだって」
そこでまた、僕は顔を殴られた。廊下の壁に手を付いて倒れる事を何とか回避する。
「何で知ってんだよ」
「……何が」
「俺が嘘ついてるって、誰かから聞いたか。本当の第一発見者でも見つけたのか」
彼がそれを訊ねるだろうという事は分かっていた。分かっていたから当然、僕はそれ用の返答を用意している。
「紙透さんから聞いたんだよ」
彼の顔が一瞬、歪んだのが見えた。これを言ったら彼は何を思うだろう。今度こそ殺されるかもしれない。なぜか笑いが込み上げてきそうだった。
「前に紙透さんが『ありがとう』って言ったのを君に代弁して伝えただろ。紙透さんは幽霊なんだ。僕以外には見えないらしいけど。その紙透さん本人から聞いた。君が第一発見者なんかじゃない事」
「分かんねえ」
僕の話を遮って、彼が叫んだ。真囚君は頭を抱えている。
「お前が殴られてもヘラヘラ笑ってる事、お前が夏架を行動原理にしてる事、お前が嘘をつく事。なにより、夏架がお前を嫌いだった事。なんも、全部分かんねえ」
「……最後に限っては僕も同じだけど」
真囚君は壁に寄りかかってなんとか立っている状況だった。僕なんかよりも支えが必要な人間に見える。僕は「嘘じゃないよ」と嘘を付いた。
「紙透さんが言ってた。君は第一発見者じゃない。君は、紙透さんの全部を背負い過ぎようとしてる」
頭を抱えながらも、彼はこちらを見た。話の先を促しているような、彼が初めて僕に向けるものの類だった。
「『できる事なら、私の事なんか忘れて欲しい』。紙透さんは確かに、君に向かって言ってた」
「……それこそ、お前が自己保身の為に付いた我儘な嘘だろうが」
「そう思われても仕方ない。でも、本当だよ」
その人の一生を、何が支配してしまうかなんて誰にも分からない。ピアノだったりするし、過去に一度見ただけの手だったりする。真囚君が紙透さんに抱く執着は、間違いなくそれだ。
そして、そのしがらみから抜け出す事は困難だ。自分からそれを抜いてしまえば、もう自分には何もなくなると知っているから。例えそうだと理解していても、怖くて一歩を踏み出せない。
でも真囚君は違う。例え待ち受けるものが空虚だとしても、もう忘れる他にない。だって、紙透夏架本人から許されたのだから。もう自分なんかに囚われず生きてくれと、彼女本人から言われてしまったのだから。
「我儘に、自分勝手に生きてみろよ。誰かに憑依された自分じゃなくてさ」
そう言うと、「何様なんだよ」とまた胸ぐらを掴まれた。でも、その力はとても弱々しいものだった。
「俺はお前の言葉を信じない。例えお前に夏架が見えてるとしても、お前が都合よく作り上げたただの幻想だ」
「……確かに。そうかもね」
紙透夏架の亡霊なんていなくて、僕にしか見えていない。それを否定する術はない。
真囚君は「なんでお前なんだよ」と言いながら、僕の制服から手を離した。
「なんでお前だけ、そんな都合よく逃げてんだよ。なんで、俺じゃないんだよ」
幻想でも妄想でもいいから、彼女の姿をもう一度見たい。そういう切望が、彼の口調から伝わってくる。
「紙透さんはいつも音楽室にいる。ピアノの傍にいる。もし僕の言葉を信じる気になったら、行ってあげて。それで、もういい加減忘れるからって、君の口から伝えてあげて」
ようやく言いたい事が全て言えた。拳一つ分なんて割に合わない。
真囚君は何も言わず、僕に背を向けて今度こそ立ち去った。放課後の夕に染められた彼は、この世界の何よりも哀慕に満ちているように見える。
殴られた頬をさすりながら目的地まで歩く。真囚君と出くわしたのは偶然だ。今日の目的は、彼女と話をする事だった。
「蔑白さん」
教室の後方から声をかける。すると彼女はこちらを振り向き、笑って手を振った。いつも通り日誌を書いていたらしい。
「どうしたの、その顔」
「転んだ」
「憐君か」
教室に入って、また蔑白さんの隣に腰掛ける。「真囚君の事は好きか嫌いかで言うと?」と訊ねると、「死んだ人間に囚われてる奴の事なんか興味ない」と言った。
「一つ、蔑白さんに訊きたい事があってさ」
僕が言うと、蔑白さんはペンを置いて話を聞く態勢を取った。
正直、別に訊かなくてもいい事だった。さっきの真囚君だってそうだ。僕には関係ない。紙透さんが言うように、僕はそういう人間のはずだ。なのに。
「どうして紙透さんを殺した、なんて嘘をついたの?」
こんな、紙透夏架の亡霊を弔うような事。自分が情けなくて嫌になる。
「……証拠はあるの?」
蔑白さんは何を考えているのかよく分からない表情で小さく言った。
「君はあの日、僕とは逆の路線に行くって言って僕と別れた。紙透さんが落ちたホームとは違う方向に行くのを、僕は見送ってる」
「そんなの、向こうに行くふりをして戻ってきた、って言い訳ができるよ。万が一私が疑われた時、名執君にアリバイを説明してもらう為って」
会話をしていて少し気持ち悪くなってきた。蔑白さんは人を殺したと言い、僕は殺していない事を証明しようとしている。ミステリーとは真逆だ。
「蔑白さんの言う通り。それだけじゃ、証拠としては不十分過ぎる」
「その言い方は、他にもあるんだね」
「ない」
「へ?」
蔑白さんの顔が珍しく崩れる。こんな表情を見たのは初めてだったかもしれない。紙透さんの前では、こんな顔を見せていたのだろうか。
「僕が蔑白さんは紙透さんを殺してないって思ったのは、それが気になったからだよ。君が違うって言うなら、きっと違うんだろう。君が、紙透さんを殺した」
そう言うと今度は眉をひそめて、意味が分からないというような表情をした。その気持ちはよく分かる。僕だって、どうしてこんな事をしているのか分かっていない。
「名執君は、それでいいの?」
「いいとか悪いとか、そういう事が必要とは思わない」
「じゃあ私を疑ったのはどうして?」
「だって」
僕は一瞬、言葉に詰まった。自分でもその理由が不明瞭だったから。
でも少し考えれば理由はすぐに出てくる。最初から用意していた答えみたいに、明確な言葉はある。
「全人類を幸福にしたい紙透さんが、それを可能にするぐらいの強さを持った彼女が、一番傍にいた君を不幸にするとは思えないから」
内心では、紙透さんを殺してなんかいないんだろうなと確信していた。明確な証拠はない。ただ、紙透夏架という死んだ人間を見て思っただけだ。あれだけ強い人間が、心の底からの友人を不幸にするわけがない。
「……名執君の事は、不幸にしたのに?」
「それはそれだよ。僕の事は嫌ってたらしいし」
「じゃあやっぱり全人類を幸福に、なんて無理な話だったんだよ。そんな事言いながら、どこにでもいるような男子生徒を好きになる努力すらしない。強くなんてないよ」
蔑白さんはうんと腕を伸ばしながら、欠伸を噛み殺す。そして「残念だけど」と少し口ごもりながら言った。
「私が夏架を嫌ってたのは本当だよ。世界の何より、あらゆる概念の何よりも、紙透夏架が嫌いだった」
彼女は紙透さんを殺してなんかいない。でも蔑白さん本人が殺したと言うなら、別にそれで構わない。解せないのは、どうしてそんな嘘をつくのかという事だった。
「君がそう言うならそれでいい。じゃあ例え話をしよう」
それを訊ねる為に僕はそんな言い方をした。真実を聴きたいだけなのに、どうしてこんなにも遠回りをしなければいけないのか。僕は少し苛立っていた。
「例えば、君は紙透さんを殺していないと仮定しよう。それで、『紙透さんを殺したのは私だ』と嘘をついていたとする。その場合、君はどうしてそんな嘘をついたんだろう?」
蔑白さんは余裕ぶったような表情で、どこか涼しそうに微笑んでいた。わざとらしく、「そうだなあ」と考える素振りを見せる。
「あくまで想像だけど、名執君が恨んでいるであろう夏架を殺したって言えば、名執君が私を見てくれると思ったから、かな」
ついさっき、似たような話を聞いたような気がした。
同じだ。真囚君が紙透さんにとってのヒーローになりたくて嘘をついたように。蔑白さんもまた、僕の気を引く為に嘘をつく。執着を手放したくない人間はきっと、こんな風にどうしようもなく切で醜い嘘を吐く。
「丁度よかったんだと思うよ。どうしてか分からないけど夏架が死んで、なら私が殺した事にすれば名執君が喜ぶからって。偶然の産物を利用させてもらっただけ」
「例え話だけどね」と、あくまで自分が殺したというスタンスは崩したくないらしい。
「どうしてそんな事を?」
「理由は言ったでしょ」
この前の会話を思い出す。僕を虐めから救い出す為、紙透さんを殺したのだと。確かに彼女の口から聞かされた。
そこで僕は思った事があり、それを訊ねてみる事にした。
「蔑白さんは『ずっと前から好きだった』って言ったよね。それって、いつ?」
考えてみればおかしかった。僕らは会話どころか、挨拶すらまともにした事が無い。僕はずっと独りでいて、彼女は多くの友人に囲まれていた。僕らが関わり合う余地なんてどこにも無いはずだ。
「『ずっと』って事はこのクラスになってから? それとも、高校に入学した時?」
そう訊ねると彼女は目を細め、自嘲するかのように笑った。まるで、人生の全てを諦めたかのような笑みだった。いつも柔和な笑顔を浮かべる蔑白さんからは想像もできない表情で、僕は少しだけ美しいと思った。
「『ずっと』、じゃないよ。『ずっとずっと前から』って言ったでしょ。名執君が想像するよりもずっと昔」
意味が分らなくて、僕は眉をひそめる。その表情を見て、蔑白さんは小さく笑いながら「その前に訊きたいんだけどさ」と言った。
「その人にとっては何でもないような一瞬が、別の人にとっては一生を支配するような出来事になるって信じられる?」
質問の意味は分かっても意図が分からない。意図を訊ねたかったのだが、蔑白さんは「早く答えろ」というような冷たい目で僕を睨んでいる。仕方なく僕はその問いにこう答えた。
「信じるよ。あると思う」
心から、思う。あの夢の中の出来事を思い出す。あの一瞬が、今も僕をこんな風にさせている。こんなにも僕を呪って離れてくれない。
「何でもないような事が、自分にとって一生の執着になる事ってあるからね。傍から見れば、気持ち悪いくらいの執着に」
そう言うと蔑白さんは「それならよかった」と言って、それから、ゆっくりと口を開いてこう言った。バラード曲のように、ゆったりとした速度で。
「名執君さ、ピアノやってたでしょ」
感情の起伏が少ないと自覚している僕だけど、その時ばかりは驚いてしまった。僕がどんな顔になっていたかは分からないけど、蔑白さんはさっきよりも大きな声で笑った。
「あれって何年くらい前? 十年とか?」
「……なんで、知ってるの?」
戸惑いつつ訊ねると蔑白さんは「相当昔だし、ほとんど覚えてないんだけどね」と言いながら話してくれた。
「でも、名執君の弾いてたピアノの音だけははっきりと覚えてる。逆にそれ以外は覚えてないくらい。名執君が弾くピアノは、私の一生を呪うに充分だった。その時からだよ。私が名執崇音って存在を意識してるのは」
『ずっとずっと前』という言葉の意味が分かった。どこで出会ったかは分からないけど、蔑白さんは僕のピアノを聴いた事がある。
自然と視線が、蔑白さんの手に寄る。蔑白さんの手には傷なんかなくて、ガラス細工のようにとても綺麗だった。
「どうして、そんな嘘をつくの?」
「嘘じゃないよ」
蔑白さんはケラケラ笑う。僕はそれに、なぜか言い様もない嫌悪を感じていた。肌で感じていたのは蔑白夕未への苛立ちだった。
「僕がピアノを弾いてたのは本当だよ。だけど僕の為に紙透さんを殺したとか、僕のピアノを聴いて好きになったとか、どうしてそんな嘘をつく必要があるんだよ」
「……どうして嘘をついてると思うの?」
どうしてって、そんなの、普通に考えれば分かるだろ。
「だって、どう生きていけば僕を好きになるような人間になるんだよ。僕を好きになるような奴がいたとして、どうかしてるとしか思えない」
ピアノが弾けたからとか、たかがそんな事で人を好きになるなら、この世の中はもっとシンプルで生きやすいはずだ。それならまだ、理由なんてないのに殺したいくらい嫌われる方が納得する。
「そんな事、あっていいはずがない」
「嘘じゃないよ」
蔑白さんは僕の言葉をほぼ遮るように勢いよく言った。低く小さな声で、だけど、決して聞き逃せないような声で。
「君がそういう生き方をしてるのは知ってる。でも、だからって私の幸福まで否定しないで。名執君と一緒に不幸になれるなら、それは私にとっての幸福だよ」
そう言って彼女は僕の手を優しく握った。その体温は木漏れ日のように、穏やかな暖かさだった。
「もう一回だけ言うから、ちゃんと見て。ちゃんと聞いて」
頭の中で、あの夢がリフレインしている。「たーくん」と、僕の名を呼ぶ声が大きく響いている。
「私は、名執君が好きだよ」
その表情が、視線が、全てが。彼女は嘘をついてなどいないという事を示している。だけど僕は信じられない。信じたくない。
彼女の目から視線を逸らす。
机の上にあった蔑白さんの筆箱が目に入る。
筆箱には、よく見知った八分音符のストラップが付けられている。
彼女の名は、蔑白夕未だ。
* * * * *
それから一週間、僕は学校に行かなかった。というより行けなかった。ピアノを壊した事で停学にさせられていた。
その一週間は多分、僕の人生で最も穏やかな百六十八時間だったと思う。学生が学校という施設から距離を置けば自然とそうなる。一人暮らしをしているなら尚更だ。
一度だけ近くのスーパーに外出した際、真囚君を見かけた。彼は中学生か高校生くらいの女の子を連れて歩いていた。さすがに彼女という事はないと思うから、多分紙透さんがピアノを教えていたらしい妹だと思う。
真囚君は僕に気が付かなかったが、その子は僕と目が合った。見かけの年齢に合わず、あまりに大人びた冷たい目をしていて、この世のありとあらゆる悲しみを味わって生きてきたかのような雰囲気があった。
停学中に起きた事と言えばそのくらいだ。それ以外はずっと家に引き籠っていた。あと、強いて言えば二回くらい例の夢を見た。いつも通りの内容だ。女の子が僕に渡してくれた片方の八分音符は、間違いなく僕の手元にあるものと同じで、蔑白さんが持っていた八分音符は、恐らくそれと合致するものだった。
八分音符のストラップと「夕未」という名前を持つ彼女が、夢に出てくるあの女の子かどうかは分からない。でも今は、そんな事どうでもいいような気がしている。僕にとって大切なのは、いつかこの場所から僕を救い取ってくれるあの手の持ち主だけだから。それが誰であろうと、僕はその日を待つ他ないのだろう。
停学明けの初日、僕は教室には向かわず、朝から音楽室へと向かった。どうしても確かめたい事があったから。
彼女はこちらに背を向け、窓から見える景色を眺めていた。今日も今日とて空は、夏を象徴するかのような青を塗り広げている。その傍には見慣れない大きなグランドピアノが設置されていた。
「そのピアノ、新品?」
僕が訊ねると、彼女はその場から動かずに「そうです」と肯定した。
「貴方が壊した思い出は全て無くなって、代わりにどうでもいいピアノが一昨日運ばれてきました」
「思い出は作り直せばいい」
「死んだ人間への皮肉ですか」
彼女はゆっくりとこちらを振り向き、僕の顔を見る。いつものような仏頂面を崩さぬまま、僕にこう言った。
「嘘つき」
確かにその通りだ。僕も真囚君も蔑白さんも、紙透さんさえも。誰も彼もが嘘をついている。誰一人まともじゃない。だから僕は、彼女に向かってこう言ってやったのだ。
「お互い様だろ」
僕が一人暮らしをしているのは、親からの虐待がきっかけだった。両親と親類縁者の話し合いの結果、いつの間にかそう決まっていた。そこに僕の意思は存在しなかったけど、まあ妥当な結果だろうと思う。
家族という存在が世界の全てであった頃、家に僕の居場所はなかった。だから、唯一許されていたピアノ教室に逃げていた。そこが僕の世界であると思い込むようにしていた。
あの女の子と出会ったのも、手を握られたのもその場所だ。八分音符を分け合い、いつか迎えにくるからという言葉を信じていた。
「貴方にとって救いとは何ですか? その子にどうして欲しいのですか?」
紙透さんは相変わらずピアノの傍から離れないまま、僕に訊ねる。音楽室中央にある椅子に腰掛けながら、僕は「分からない」と言った。
「でもその子がくれる幸福なら、きっと生半可なものじゃないんだと思う。今まで僕に訪れた不幸を全部ひっくり返すような、生きててよかったって人生を肯定できるような瞬間であって欲しい」
「無理ですね」
「どうして?」
「一切の妥協なく『生きててよかった』と思える瞬間なんて、人間にはおおよそ手に入れられないものですよ」
そうかもしれない。どんな幸福を手に入れたところで、人間なんて行き着く先はみんな同じだ。いつか手放さないといけなくなる。そんな妥協のない幸福を手に入れれば、後はそれが消えていく喪失感を味合わされるだけだ。
「それを分かっていても、君は求めてる。死んで尚、自分の夢を叶えようとしてる」
「そうです。だから人間というのはどうしようもなく救いのない人間です。いつかは死ぬくせに生きたいなんて、おかしいと思いませんか」
「極端だね」
僕が少し笑うと、音楽室に夏風が吹き込んだ。僕の髪の毛が少し揺れ、紙透さんは風に目を細める。たかが風なんか、全て通り抜けてしまうというのに。
「答え合わせをしよう」
最初は、その言葉を皮切りにした。彼女は何も言わずただそこに立っていた。
「どうして嘘をついたの?」
そう訊ねてみると、彼女は「何の事でしょう」と感情を出さずに言った。
「君が説明しないなら、僕もしないよ」
「私が言いたいのは、どの嘘の事でしょう、という意味です」
「……一つじゃないの?」
「どうでしょうね」
煮え切らない言葉の羅列に、僕は溜め息を吐く。
「どうして、死んだ時の事を覚えてない、なんて嘘をついたのかを聞きたかった」
僕が言うと、彼女は「ああ、その事ですか」とわざとらしく言った。
「嘘だと思った理由は?」
「ただの直感。強いて言えば、紙透さんを殺したのは蔑白さんだって伝えた時、君は『夕未さんは、私を殺したりなんかしてない』って言った。その『してない』って言い方に違和感を覚えた」
『殺したりなんかしない』、と言うなら分かる。でも紙透さんは『してない』と過去形で言い切った。最初から全部知っていないと、この言い方は口から出てこないだろう。
「そんなのは言葉の綾です。それだけで断定するのは早計では?」
「だから直感だよ。それに君は、百パーセントの確証が無い限りはそんな事言わないだろうし」
「気持ち悪いですね」
「何が」
「まるで私と仲が良いみたいに、私の事を推し量っているのが」
彼女はそう言って一つ息をついた。口に出す言葉を決め、決心したように。
「名執君の言う通りです。私は何も忘れてなんかいません。だから、夕未さんが殺したと言った時に否定したんです。彼女が私を殺していない事なんか、死んだ私が一番知っていますから」
「じゃあどうして死んだの」
そう訊ねると彼女は鼻で笑った。「貴方も知っているでしょう」と僕を嘲笑う。
「自殺ですよ。警察はそう発表したのでしょう?」
僕はそれにほんの少しだけ驚く。「なんで」と、少し大きな声で訊ねた。
「理由は、……言いたくありません。生きるのに理由は求められないのに、死ぬ事には理由が必要なんて変な話だと思いませんか」
「違う。どうしてそんな嘘をついたのかって訊いてる」
今度は紙透さんが驚く番だった。まるで拍子抜けしたように、目をほんの少し見開く。彼女が自殺した理由なんてどうでもいい事だ。
「大した理由があったわけではありませんが、一つ挙げるとすれば、名執君を困らせたかったから、でしょうか」
「……困らせる?」
「だって、本当は覚えている記憶を『覚えてないから』と言えば、貴方は困るでしょう」
「まるで僕が君に協力すると分かってたみたいな言い方だ」
「その通りです。こればかりは賭けでした」
賭けなんて、自分には賭けるものが無いくせによく言う。命すらない奴に、もう失うものなんて無いのに。
「だからこそよく分からないんです。私の手が好きだから私を成仏させないとか、意味が分からない」
「分からないも何もそのままの意味だけどね。僕は君を失わない為なら、多分なんだってできる」
大切なピアノを壊すくらいなら簡単に。口には出さなかったけどそう思った。
学校中にチャイムが響いた。始業を告げる鐘の音だ。僕らはその間どちらともなく話す事を止めていて、その十数秒だけは、まるで世界に二人きりのような錯覚になった。
チャイムが鳴り終わった後で、「今度は私の番です」と紙透さんが口を開いた。
「どうして嘘をついたのですか?」
僕の言葉を真似て、彼女はそう言った。だからとりあえず僕も「なんの事?」と彼女を真似て言ってみた。
「貴方がついた嘘は一つだけでしょう」
「僕は嘘なんかついてないよ」
「それがもう嘘じゃないですか」
彼女がそう言った後の一瞬、僕らの間に少しだけ沈黙が訪れた。場面転換の暗転みたいな沈黙だった。彼女は自分から言うつもりはないらしく、観念して僕から言う事にする。
「嘘はついてないじゃないか。ただ言わなかっただけだよ」
「余計に質が悪いです」
眉間に皺を寄せ、苛立ったように言う。そうかもしれないと少しだけ思った。
「だって、僕が第一発見者だって言ったら、君は余計に怒るだろ」
「怒られるのが怖いから言わないんですか? ガキですね」
もう何を言っても文句を言われる気がして、余計な事は言わないでおこうと決心する。
「君が自殺したっていうあの日、僕も同じ駅にいた。それで、君の身体が転がってきたから、それを警察に言った。それだけ」
蔑白さんが去った後で電車を待っていた時、事故は起きた。気付かなかったけど、僕と紙透さんは同じホームにいたらしい。僕の見えないところで落ちたのだろう。蔑白さんは紙透さんを殺していないと確信したのもそのせいだ。紙透さんが落ちたホーム、つまり僕が電車を待っていたホームとは別方向に行ってしまったから。
「それはつまり、私の顔が貴方の目の前に転がってきた、という事ですか」
「いや。君の顔はぐちゃぐちゃに潰れて跡形もなかったらしい」
それは取り調べを受けた時、警察から聞いた事だった。顔も残らないような死に様なんて、僕には想像できない。痛かったのかとか、どうでもいい事を考える。
紙透さんは僕の話を聞いてまた眉を寄せた。それは不快感の表れではなく、疑問の表れらしかった。
「じゃあ、どうして私だと?」
「もうなんとなく分かるんじゃないの?」
僕は挑発するように少し笑いながら、紙透さんのそれを見た。紙透さんは僕の視線の位置に気が付き、「まさか」と息を呑む。
「これですか」
紙透さんが心から驚いた顔を見せたのはそれが初めてで、一杯食わせた気分になって少しだけ清々した。
あの日蔑白さんと別れた後、僕はホームで電車を待っていた。その時、駅を通り過ぎるだけの電車が何かとぶつかり、鈍い音を鳴らした。やがてそれは線路に何かを巻き込むような鋭いものに変音する。そして僕の目の前に転がってきたのが、彼女の両手だった。
「言っただろ。君の四肢は千切れた。それが偶々、僕の足元に投げ出された。一瞬で分かったよ。これは、紙透夏架の手だって」
「……どうして黙っていたのですか」
彼女が怒ったように訊ねる。僕は「決まってるだろ」とげんなりした気分で言った。
「僕が第一発見者だって言ったら、君は嫌がるだろ。『お礼を言いたい』なんて言っておいて、そのお礼を言うべき相手が何よりも憎む人間なんだ。僕なら嫌になる」
「……確かに、嫌ですね。貴方にお礼を言う気は微塵もありません」
そこは嫌がってでも言えよ、と少し思った。
「でも残念ながら、貴方のそれはミスです。私を不幸にしたいなら、あの場で告白するべきだった。それで、私の大きな自尊心に傷を付けて、無理矢理にでも私を謝らせるべきだった。土下座しろとか言って」
「無駄に大きい自覚はあるんだな」
少し挑発するように言ってみると、彼女は黙ったまま僕を睨んだ。なぜか「悪いのはお前だ」とでも言いたげな目をされたので、ごまかす為に次の言葉を紡ぐ。
「どうして僕が嘘をついてるって分かったの?」
「それは単純な事です。聞いてたので」
「なにを?」
「貴方と憐君の会話、貴方と夕未さんの会話を」
「盗み聞きかよ」
「人聞きの悪い。あれはただ、……いや、盗み聞きか」
それから、今度は彼女から話してくれた。僕がピアノを壊した後の事を。
「貴方にピアノを壊されて、貴方を追いかけたんです。触れるわけでもない、見える人がいるわけでもない。何もできないと分かっていながら、その激情を止められませんでした。我を忘れるほどの怒りというのはそういうものです。廊下を走った先で、貴方と憐君を見つけました」
真囚君と交わした会話の中身は覚えている。最後の最後に、一番言いたかった事が言えた事も。
「その後で、今度は貴方が教室に向かうのが分かりました。教室にいるのは当然、夕未さんです。そこでの会話も全て聴いていました」
彼女はそこまで言うと、なぜかまた眉をひそめた。さっきと同じ、懐疑心を滲ませた表情だ。
「分からないんですが、どうして貴方はそんな事をしたのですか」
「そんな事って?」
「憐君がついた嘘、夕未さんがついた嘘。それを暴こうとした事です。だって全部、貴方には関係ない事じゃないですか」
罪悪感、贖罪、償い。いかにもそれらしい単語が頭をよぎる。でもすぐに振り払った。僕の中に巣食うものが、そんなにも綺麗なはずがない。僕が紙透さんに抱くものは、この世で一番醜いものだ。
「どうだろうね」
さっきの紙透さんと同じ、煮え切らない言葉を吐く。彼女はそれ以上問いただす事はしなかった。代わりに、今度は自分から彼女自身の話をし始めた。つまり、僕が停学になっている間の事だ。
「憐君が来たんです。貴方が休んでいる間に」
そう言いながら彼女はピアノの方に視線を向ける。閉じられた屋根の上に、教科書類や筆記用具が置かれている。
「誰かに見られたくなかったのでしょう、厳重に戸締りをした後、ゆっくりと話してくれました。自分が第一発見者などではない事と、ピアノを壊したせいで貴方が停学になった事。加えて、私の私物も一式揃えてくれました。弔いか何かのつもりなのでしょう」
よく見ればそれは全て紙透さんの物だった。あの筆箱には確かに見覚えがある。
真囚君が幽霊の存在を信じた、というわけではないだろう。それは少し信じ難い。ただ、違うと分かっていてもやらなければならない事というのは確かにあるらしい。想い人に対して嘘をついてしまった事。それを自分の口で謝罪する事こそ、彼にとっては紙透さんに対する贖罪なのだろう。
「また憐君に会ったらお伝えください。私がお礼を言っていた事」
「殴られて終わりだよ」
「だからですよ」
彼に殴られた時の痛みを思い出して無意識に頬をさすっていた。彼はこれからどうするのだろう。まだ僕に対しての当てつけを続けるだろうか。
「さて、これが最後です」
紙透さんはそう言ってピアノに触れようとする。当然、手はすり抜ける。何も通さない身体なのに地面には立っていられるんだなとか、どうでもいい事を思った。
「どうして貴方は、私の大切なピアノを壊したのですか」
彼女はそう言いながらピアノ椅子に腰をかけた。身体を通り抜けるものとそうでないものがあるのだろうか。なら、その差異はなんなのだろう。
「理由がいる?」
「ええ、聴いておかないと気が済みません」
彼女は答えが分かっていながら訊いているらしい。そんなの、決まってるじゃないか。その為だけに君は、誰よりも憎い僕とずっといたのだろう。
「君を不幸にしてやる為だよ」
僕の言葉に、彼女はぶっきらぼうに「でしょうね」と言っただけだった。それに違和感を覚える。
「怒ってないの?」
「怒っていないように見えますか?」
「見えるから訊いたんだけど」
「本当に、貴方の言動は一々私を苛立たせますね。全身の毛が逆立つ」
そう言って紙透さんは大きく深呼吸をした。苛立ちを抑える為だろう。そしてその後で優しく目を瞑った。まるで何かを思い出そうとしているかのように。
そして数秒後にまたゆっくりと瞼を開き、いつものようにピアノを弾くのだった。両腕を動かし、鍵盤に触れているかのような真似事をする。
「それ意味あるの?」
「黙れ」
はっきりと言われたのでその通りに黙る事にした。彼女が幽霊になってから会った初日にも似たような事を言われた気がする。
しばらくの間そうしていたが、やがて彼女は指をピタリと止め、大きな溜め息を一つ吐いた。そしてこちらをゆっくりと振り向き、とても嫌そうな顔でこう言ったのだ。
「手伝ってください」
「それが人にものを頼む態度かよ」
「嫌なんだから当然です」
ここまで開き直られるともう何も言えなくなる。僕が嫌いとか関係なく、単純に性格が悪いだけなんじゃないか。皆はよくこんな人間と仲良くしていたなと思う。
「僕に手伝える事があるの?」
「ええ、一つだけ」
「いいですか」と言いながら、またピアノを弾く素振りだけを見せる。手伝うかどうかはともかく、話を聞くだけはしてやろうと思った。
「私の身体は何も通りません。全部すり抜けます。それは分かると思います」
「そうだね。どうしてピアノ椅子に座ってるかは知らないけど」
「なので、貴方は私に触れられませんよね? 触れようとしても、すり抜けるから」
彼女の言いたい事が分からず、僕は眉をひそめる。彼女は「つまり」とまた無感情に言った。
「貴方と私が重なってピアノ椅子に座る。鍵盤を抑える私の指を、貴方も上からなぞって追いかける。そうすれば、私の作曲した音がどんなものかしっかりと分かるはずです」
自信に満ちた紙透さんを見て、この人は天然なのだろうかと思った。あるいはただ馬鹿なだけなのか。
「無理だろ」
「どうしてです?」
「僕はピアノなんて弾けない」
「でも以前は弾いていたのでしょう?」
一瞬呆気に取られたが、すぐに思い出した。蔑白さんとの会話を盗み聞きされていたんだった。
「ずっと昔の話だよ。無理なものは無理」
「未経験者よりはマシですよ。問題は貴方が名執崇音という事くらいです」
「存在そのものかよ」
「ええ、嫌いなので」
「見た事も聞いた事もない曲を、突然弾けると思う?」
「気力の勝負です。何度も繰り返し弾くんです」
「プロの曲ならともかく、素人の曲なんか無理。パターンも定型も何もないのに」
「そこは大丈夫です。私は紙透夏架なので」
「それを無駄に大きい自尊心っていうんだよ」
「いいから早く」
「断る。嫌いな人間に頼みを断られる不幸を噛み締めてろ」
「『私の両手を捧げます』」
その瞬間、ぴたりと時間が止まった。空間が止まった。まるで映画のワンシーンを写真で切り取ったみたいに、その一秒の全てが切り取られたような感覚になった。
「……あの時、貴方が捨てた私の両手ですよ」
そう言って紙透さんがひらひらと手を振る。あの時駅のホームで、僕の目の前に転がってきたものと全く同じもの。
「どうです?」
挑発され、僕は溜め息をつく。そんな事を言われて僕が断れるはずがない。紙透さんはそれを分かっている。やっぱり、彼女は性格が悪いのだ。
立ち上がってピアノの傍に寄る。一瞬彼女の顔を見たら「早く」と言われたので、仕方なくピアノ椅子に腰をかけた。
そしてその上から、紙透さんが同じくピアノ椅子に腰を下ろす。彼女の目論見通り、生きた僕と死んだ紙透さんは、完璧に重なった。
「付いてきてください」
彼女が鍵盤に指を置く。僕もその上から自分の指を置く。
そして次の瞬間、いきなり紙透さんが手を動かし始めた。当然、何も知らない僕がそれに付いていけるはずがない。
「付いてきてくださいって言いましたよね?」
「その前から僕は無理って言ってただろ。普通に考えれば分かる」
「じゃあ普通に考えないでください」
自分の発する自分の声と、自分の口の位置から発せられる他人の声。気持ち悪い感覚だった。
「分かりました。最初はゆっくり弾きますから、追いかけてきてください」
彼女は言葉通り、ゆっくりと鍵盤をなぞっていった。僕は旋律をなんとなく頭に入れつつ、それを追いかける。
僕の手は、彼女の手と重なっている。言い換えれば、僕がずっと求めていた、人生で何よりも大切なものが、今文字通り僕の手中にある。それが喜びかと訊ねられれば、正直分からなかった。
「……一つ訊いていいかな」
指を動かしながら僕が口を開く。紙透さんは何も言わなかった。僕はそれを肯定と受け取って言葉を続ける。
「どうして君は、僕の事が嫌いなの?」
その質問は多分、本当はしてはいけないのだろうという気がしていた。理由は分からない。ただ、その答えを聞いた時、僕は何か大切なものを失ってしまうのではないか。あるいは、紙透さんの大切な何かを壊してしまうのではないか。そんな気がしてならなかったのだ。
「……一つだけ言えるのは、貴方が名執崇音だから、という事です」
「どう考えても答えになってない」
「ええ、そうでしょうね」
有耶無耶になんかできないと思う。僕自身は別にいいのだ。彼女にどれだけ嫌われようと、そのせいでどれだけの不幸に見舞われようと、多分何も思わない。
その代わりに、それらを裏返した全てが紙透さんに重くのしかかる。全人類を幸福にするはずが、僕という人間を嫌ってしまった事。他の人間を使い、僕を不幸にさせた事。
友人に心の底から嫌われていた事、幸福の道具であるはずのピアノで不幸にさせた人間がいる事。そういう全てが彼女を縛り付け、強く蝕んでいる。死んで尚呪われ続ける。
「なら、もう一つだけ教えてあげます。貴方が名執崇音であるからと同時に、貴方が名執崇音ではなくなったから、という言い方もできます」
「どっちにしろ答えになってない」
苦笑交じりに言った。彼女は何も言わず、ピアノを弾く速度を少しだけ上げる。まるで、彼女がその人生で歩んできた歩速のように。
彼女が死んだ理由なんか知らない。知りたいとも思わない。ただ、その口で「名執崇音」と僕の名を呼んだ事は間違いのない事実だった。彼女がそう言うなら、彼女を殺したのは間違いなく僕なのだろう。それでいい。
それから僕らは、ただ無言でピアノを弾き続けていた。どれくらいそうしていたか分からない。その日はどのクラスも音楽の授業はなかったらしく、一日中僕らの貸し切りだった。
いつの間にか青空は夕焼けに染まり、黒色のピアノが茜を反射させていた。それに気付いた頃、僕はようやくまともに曲を弾けるようになっていた。
「……やっぱり駄目ですね」
突然、彼女はそう言ってピアノ椅子から立ち上がった。僕はその場に座ったまま「なにが?」と訊ねてみる。
「いい曲だと思ってたんですけど、実際に聴いてみると全然駄目。全部創り直します」
「ようやく僕も弾けるようになってきたのに」
「あれで弾けてたつもりなんですか? ペダル一回も踏んでないでしょう」
「ペダルの踏み方なんか聞いてない」
紙透さんはうんと腕を伸ばした後、小さな欠伸をした。僕は自分の手を見てみる。指の腹が少し変色しているくらいで、何の苦労も知らないように綺麗なままだ。僕が追い求めた理想には、途方もなく遠い。
「曲名があるんです」
突然、彼女が言った。
ふと、彼女の筆箱が僕の視界に入った。そこに付けられていた音符は、初めから完成された連桁で繋がっている八分音符だった。僕が完成を待ち望んでいる形がそのままある。
それを見て、僕はとある事を思った。でもあまりにも荒唐無稽な話だったから、すぐに頭から振り払ってそのまま会話を続けた。
「それは、聞いてもいいやつ?」
「まあ、別に言いたくない理由はありませんから」
彼女はゆっくりと、こちらを振り向く。
窓から差し込む赤い太陽、夏風に吹かれてなびくカーテン、振り向きざまに流れる黒い髪、よく見慣れた制服、夏空を透過する華奢な体。
「全人類を幸福にする、その為だけに創られた曲。曲名は」
夏の赤に染め上げられた彼女は、間違いなく、紙透夏架だった。
「〝幸福の唄〟」