明日どう生きるか
触手なんて大して珍しい生き物じゃない。ダンジョンに潜れば普通にいるし、多少ならダンジョンの外でもみることができる。あまりダンジョンの外にモンスターが出てくることは珍しいが、触手だのスライムだの虫種だの、比較的危険性の低いこいつらは、たびたびダンジョンから出てくることがある。
なんなら触手なんかは、探索者に切れ端がひっついてることがあって、それに気がつかず、切れ端がくっついたままダンジョンから持ち出されるなんてことはままある。更に言えば、未発見の小規模ダンジョンなんかは、実はあちこちにあったりするので「そこから触手がでてきて、ダンジョンが見つかった。」なんてことは日常茶飯事だ。
今ではダンジョンや、モンスターなんてものもすっかり日常になってしまったが、出現するようになった時は、それはもう混乱したものだ。多くの人々が一攫千金なんかを夢見て、ダンジョンに潜るようになったし、それで成功するようなものもでてきた。私はそのときは、既に働いていてし荒事には向いてない性格だし、なにより運動が苦手だったので、そんなものには触れずに生きてきた。おそらく私がまだ高校生や大学生だったら、そんな道もあったんだろう。
普通に働いて、普通に生きて、普通に死ぬ。なんてことを夢みていたのに、今はロクに取り柄のないただの無職のアラサーだ。夢だの希望なんてものは、もはやそんなものはない。あとは、ここからどう暮らすかなんてことを考えるのが関の山だ。
…話がそれた。そんなことはともかくこいつだ。今にも死にそうなこいつを、つまみ上げて、とりあえず部屋の中に入れてやる。とりあえずは、コップに入れてやって、少し水を入れてやる。ビールを冷たいまま飲むために買った、金属製の断熱カップだが、まぁ大丈夫だろう。まぁ、触手なんて、飼育方法なんて知らないけど、駄目だったら、そのときはその時だ。
コップの中を見てみると、与えた水を凄い勢いで吸収した触手が、やや精気を取り戻したかのように見える。さっきよりも、わずかに元気に動いている感じがする。…このままコップに入れっぱなしというわけにはいかないので、とりあえずは思い出したクーラーボックスを、さっさと押し入れから引っ張り出してやる。
何でもかんでも押し込んである押し入れだが、クーラーボックスはバカでかいので位置はわかっている。同じく使わなくなった、バーベーキューセットにテント類や、釣り竿あたりと一緒においてあるはずだ。なんならたぶん、浮き輪とかの下敷きになっていたはずである。…あぁすぐにみつかった。押し入れの一角を陣取る、夏の思い出たちは、押し入れの中にでも、それなりに目立つ。昔はこれらを持ち出して、よく海にいったものだ。親父の運転で。…今じゃ潮の匂いなんて何年も嗅いでない。
…見事にホコリまみれだし、メーカーとブランドを示すシールはボロボロだ。あとネチャネチャになった浮き輪が引っ付いている。それに、蓋をあけると、なんだが嫌な匂いがする。さすがにこのままじゃ駄目なので、雑巾とアルコールを持ってきて拭いてやる。シールはボロボロと雑巾にくっつくし、浮き輪のネチャネチャはなかなか取れない。ま、ある程度はがれればいいか。中も大目にアルコールをぶっかけて、一通り拭く。…中もおもったより汚れてるようで、雑巾が多少黒くなってる。匂いは…うーん。まだちょっとくさいかな?もう一回アルコールで拭いて、おわったら、扇風機にあてておこう。
ふと机の上においてやったコップを見ると、触手が少し顔をだしていた。とりあえずは動けるようにはなったようだ。…もうちょっと暴れるかとおもったが、大人しくコップの中でまっているかのように見える。せっかくなので、もう少し水を足してやる。溺れても困るから、ちょっとだ…あ、少しこぼしてしまった。コップの下敷きになっていた、なにかが水でびちゃびちゃになる。…なんだ、年金の納付書か。減免の申請してるし、捨ててしまえ。
クーラーボックスの方は…これなら匂いも気にならないかな?アルコールがのこったままはまずいだろうから、追加で雑巾で乾拭きをしてやって、扇風機にあてて乾かす。
…暑いな。扇風機がないと。
触手のほうに入れてやった水は、蛇口からでてきた水だが、うちは井戸水を汲み上げているので、その水も井戸水だ。ゆえに、とても冷たい。つまり、今触手の方は、私よりも涼しい思いをしているはずだ。触手にそれを感じる、感情だの知能だのがあるかどうかは、私は知らないが。
クーラーボックスが乾くまで床にころがって、脱力する。この重力から解き放たれた瞬間は、ほんの少しだけ心がやすらぐ。
…早くクーラーボックス、乾かないかな。