路上の胎児
路上の胎児
最近、うつ病がひどくなってきた。現在は精神障害者三級だが、なんとか恩恵を多く受けられるために二級に格上げしてもらえないかなどと姑息なことを思ってしまう。
私が精神障害者三級で受けられる一番多きな恩恵といえば、私の地域では郵便局に1200円を払えば、一年間公共交通機関が乗り放題のパスが貰えるというものだ。
バスに乗る、バスから降りるとき、今時は現金で支払う者などほとんどいない。大抵SuicaかPASMOでピッと電子音を鳴らして乗客は降りて行く。それに対して運転手の中には電子音が鳴るたびに「アリガウゴザイマシタ」とぞんざいでありながらも丁寧であるという二律背反する感謝の声をかける。
私がバスから降りるとき、前の乗客までは「アリガウゴザイマシタ」と言っていたのに、私が前述したパスを見せると運転手は何も言わずに私が降りて行くのを無視して後ろに並んでいた乗客たちに、相変わらず感謝の言葉を述べていた。
これは結構よくあることで、これを差別と呼んでいいのか? とも思う。何しろ「私は年間1200円払っているんだから、私にも『アリガウゴザイマシタ』と言え!」と憤慨すべきなのか? 障害者というのはなってみて初めて色々な経験ができて全く愉快だ。
病院の最寄りのバス停に行ったときのこと、私と同じパスを持つ青年がいた。なぜパスを持っているのがわかったのかというと、青年はパスをケースに入れて首からさげていたからだ。青年は眼の焦点が合わないような様子で虚空を見つめている感じであった。
失礼ながら私はこの青年は軽度の知的障○者なのではないかいかと思ってしまった。
青年には若い連れの女性がいた。私はこの女性が青年の付き添いをしているのだと思った。ところが女性は普段人が会話するよりも大きくまた怒気というには及ばないが不機嫌そうな声で虚空を見つめる青年に話かけ続けた。
大きな声なので、嫌でもとすぐ後ろに並んだ私の耳にもその声が入ってくる。私は女性の話に違和感を感じた。人間の話というのは基本的に連想ゲームだ。例えば私はプロレスが好きだ→Aというプロレスラーの自伝本を読んだ、あまり面白くなかった→Bというプロレスラーという自伝本の方が面白かった→Cというプロレスラーの自伝本は傑作だと思う。と普通の人なら何らかの理由で連想したことを口に出したり考えたりする。ちなみに上のプロレスラーの自伝本の例えは実際に私が精神科医に話したものだ。
ところが、女性の話している内容は連想ゲームとは、かけ離れたものだった。その時その時に思いついたことを連続して口にしているようだった。
言葉のマシンガンとは聞いたことがあるが、これでは言葉の散弾銃だと、私は思い精神科医が統合失調症について語ったときのことを思い出した。
私本人も他人と話すときには自分では筋道が通った話をしているつもりだが、他人から聞いたら意味が分からない言葉を羅列しているだけなのかもしれない。
やがてバスが到着し、我々はバスに乗り込んだが女性は迷わずに優先席に座り込み青年もそれに続いた。私は女性の声にうんざりしていたので最後部の椅子に座ってスマホとにらめっこをしていたので、その後の二人のことはわからない。
話がそれすぎた。
私はうつ病の精神障害者三級である。
うつ病がひどいときには何もできない。それでも何らかの買い出しにいかないときがある。
私の住んでいるアパートから片道20分ほどのところにスーパーがある。こちらは安くて品数も豊富で重宝しているのだが、また片道5分ほどのところにコンビニがある。コンビニはべんりだが弁当などのラインナップに飽きがくる。なので私はできるだけスーパーに足を向けたいと思いドアを開ける。
ところが、一人で部屋の中で自意識を飼い殺していた私は、うつ病の前に無力な人形と化す。
スーパーに行こうと思って家を出たが、自己嫌悪と虚無感で足が進むなくなる。調子がいい時はスタスタ歩けるのだが、うつ病がひどいときには数メートル歩いただけでしゃがみこんでしまう。その時はしゃがみこみを繰り返してコンビニに向かう。
数分間しゃがみこんで、また数メートル歩みを進めるというのがうつ病がひどいときの私の歩き方である。
うつ病の人間によく見られるように夜型人間である私は、夜の闇の中一人でうずくまる。
その姿勢はまるで、外部からのあらゆる干渉から守って貰える胎児のようだ