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21時から

作者: 広瀬あおい

残業を終えたのが21時。

帰宅時間が遅くなるのは、かれこれ1ヶ月ほど続いている。

仕事も職場も上司も同僚も嫌いではないけれど、最近は能率が落ちている気がする。今の貯金で何年なら仕事をせずに生きていけるんだろうかと考えたりもする。

青山一丁目駅から、自宅のある田園都市線方面の電車に乗り込む。

明日の仕事を既に憂鬱に感じてしまう。帰りの地下鉄の中では毎日「明日休みたい」と考えている気がする。やるべきこともあるし、参加しなくてはならない会議もぎっしりだから、到底無理なんだけれど。


桜新町駅まで電車に乗って、徒歩で10分のところに、私の借りている1LDKのマンションはある。いつもなら、蟻が巣に帰るように決まった道を戻るのだけれど、今日は鬱々とした気分を断ち切りたくて三軒茶屋駅で降りてみた。

自宅に帰っても温かい食事が用意されているわけではない。途中のコンビニで、おにぎりかパスタ、それとサラダと豆乳を買っていくことになるのだ。今日はそれに侘しさを感じた。心身ともに疲れた今日をそのような食事で終わらせてしまうことに敗北感があった。ルーティーンから外れたかった。それで明日というループ現象から解放されるわけではなかろうが、抗いたい気持ちが湧いてきたのだ。

三軒茶屋駅から地上に出て、玉川通りを東に少し戻る方向に歩く。何度か訪れたことのあるビストロに行こうと思う。ラストオーダーは22時半だったはずだ。


道すがらも「仕事からの解放」という、現実からかけ離れた思考が巡る。思考するが、その先にポジティブな解が見出されることはない。恵まれた待遇と職場環境、有能な同僚、理解ある上司。職場には何ひとつとして不満はないはず。あるのはただただ私の脳が疲れているという問題だけなのだ。過剰な緊張をしてしまっている脳を落ち着かせたいのだ。私のコンディションの問題なのだ。


私は生真面目である。その根底には親の存在がある。母は厳格だった。父と母は仲がいい方ではなかった。そして母はヒステリー持ちの性分だった。私と妹は時折何かの琴線に触れて暴発する母の感情に怯えて暮らしていたように記憶している。母に子への愛情がなかったわけではないのは今となっては理解している。しかし、失敗が許されない環境、不条理な叱責が飛んでくる状況が私というものを形成するのに大きく影響したのは確かだ。私は私自身で自分をOKするのがひどく不得意な人間になってしまった。自己愛に乏しい人間になってしまった。


徒歩10分ほど歩いて、三宿の交差点近くのビストロに到着した。

生ハムと赤ワイン、お気に入りのうさぎ肉の煮物を注文した。ここに来るとたいがい同じものを頼んでいる。


お酒はそんなに得意な方ではない。「たしなむ程度」「社交に困らない程度」には飲めるしおいしいと思うが、酒を飲むのが楽しいという感覚はない。だからワインはグラス1杯。アルコールは多少は脳が緩む気がする。ただし肝臓が無言の抗議をしてくる。酒に溺れることがない絶妙の均衡、酒量のストライクゾーンは極めて狭い。


酒よりも食事の方が幸福感をもたらしてくれる。うさぎ肉はよい。鶏肉に似ているが、旨味と香味が強く、柔らかい。骨つきのままトマトソースで煮込んだうさぎ肉は私の脳に刺激と鎮静をもたらしてくれる。肝臓は弱めにできているが胃腸については強い方だ。胃もたれ・胃炎とは無縁の人生を送っている。


おなかが満たされた私は少し気分が回復した。今日の精神疲労がいくらか緩和されたように感じる。コンビニエンスなミールではこうはいかない。とはいえ、今を幸せにしてくれる料理であっても明日を変えることはできない。油断をすると明日への恐怖と不安が頭をもたげてくる。食への満足感をここまで急速に減衰させるほどに、私の心は、私の脳は疲れているんだなと自覚する。せめて明日が土曜日であったなら自宅でゆっくり過ごすことができるのに、と詮ないことを思う。今日はまだ水曜日で、明日はまだ木曜日だ。


帰宅はタクシーを使うことにした。三宿から三軒茶屋駅まで歩いて戻るのも桜新町駅から家まで歩くのも億劫だったし、なにしろ電車に乗りたくなかった。電車に乗ってしまうと、明日へと続くルーティーンに乗ってしまう感覚があった。流しのタクシーに手をあげて呼び止めた。そして後部座席に乗り込んだ。ここで自宅の場所を指定するのだがなかなか説明が難しくていつも困る。今回も説明しあぐねていると、運転手さんに催促された。


「どちらまで行かれますか?」


そのとき、咄嗟に私は言ってしまったのである。


「海まで」

後編に続きます。

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