上 『巷(ちまた)で有名な食べ物を作りたい』
時は、大正。
地方の何処かにある、小さな小さな食事処のお話。
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「達美のばっちゃん!おはようございます!」
ある街の片隅にある、『チイナメ食屋』。
そこに元気よく入ってきたのは、料理人を目指している『桜ヶ崎のえみ』。
「あら、のえみちゃん今日も元気やねぇ」
返事をしたのは、チイナメ食屋の店主である『樹家達美』。
数年前に夫である宣造さんを流行りの病気で亡くしてから、のえみと共に切り盛りしている。
「……な、ばっちゃん」
仕込みの最中、のえみは達美に話しかける。
「どうしたね、のえみちゃん」
達美はそう返すと、のえみは懐から紙を一枚出した。
「あんな、ばっちゃん。今な、巷じゃあこんなん流行っとるらしいのさ」
持っている紙は、新聞の切れ端だ。
そこには、『世間では「カレーライス」、「とんかつ」、「コロッケ」が流行っているとのこと――』と書かれていた。
「ああ、たまに常連様にも言われとるから、名前位は聞いたことあるが……それがどうしたと?」
のえみは、持っていた切れ端をキッチン台に置く。
「あんな、あんな。これをチイナメ食屋にも導入したいと思っとる」
▫▫▫
「はあ、この食べもん達をうちの所にもと?」
改めて、達美が聞く。
「そう!一つでもいいから、導入したいんよ!」
半歩前に出て、のえみはそう言う。
「でもなあ、そんな洒落たもん作れると思うんかね。それも、まだ出始めやろう?」
達美は対応に渋る。
「この時代の変化、目まぐるしいと思わないかなぁ。達美のばっちゃんの方が、よーく分かってると思っとんの。……じゃなかったら、料理店を開こうと思って無いでしょ?」
その言葉に、達美が折れた。
「そんなまで言うんなら、出せるまでに仕上げてき」
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「……って、張り切って言ったんけどなぁ」
翌日、のえみは下宿の自部屋で考えていた。
「カレーライスに、すっかあ……それとも、とんかつ。んー、コロッケもええと思うけど……」
例の紙の切れ端を眺めながら、ボソボソと呟く。
「のえみちゃーん、ちとえーかぁ?」
扉の叩く音と共に、女性の声が聞こえた。
この声は、下宿先の女将であるチノさんだ。
「はぁ、何でしょう?」
扉を開けた。
そこにはチノさんが居て、手元に何か持っている。
「どしたんです、チノさん」
のえみが聞くと、持っている紙を渡してきた。
「あんな、樹家のおば様から話を聞いたんよ。巷で話題の料理を、お店で出したいっちゅう話」
チノさんには、チイナメ食屋で働いている事は話しているが……
「はあ、そうですか。……で、この紙は?」
「丁度、『カレーライス』を出し始めた美乃里屋の食事券をいただいたん思い出してな。期限はまだ大丈夫やし、それをのえみちゃんにあげようと思うて」
美乃里屋は、ここらじゃ有名なお店である。
しかもまだ世間に出回っていないであろう、食事券を自分に渡してくるなんて……
「い、いいんですか、そんな高級なもんを」
のえみは、チノさんに食事券を返そうとする。
「ええんて、ええんて。お店の為に作ろうと思ったんやろ。ほんだら、私も応援せな……ほらほら」
チノさんは、紙と共に手を覆った。
「……は、はいっ!ありがとうございますっ!」
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その日の昼、のえみは美乃里屋へと向かった。
(うー、一人で入るの緊張するわ)
一通りのマナーは、心得ているつもりはある。
……それでも、こんな高級なお店に……
「……あ、お客様です?」
ふと、美乃里屋のウェイターに声をかけられた。
お店の前でもじもじしていたのを見られた、そう思った。
「ひゃぃ、は、はい」
「ふふ、そこまでカタくならなくて大丈夫ですよ。中へどうぞ」
ウェイターに招かれるようなカタチで、中へ入った。
開店直後なのか、お店の中はまだ人が疎らだ。
「さて、お客様。メニュー表をお持ち致します」
席に座り、案内してもらったウェイターがメニューを取りに離れた。
(は、恥ずかしいなぁ……さっさと食べて、出よう……)
そう思いながら、店内を見渡す。
美乃里屋の店内は写真で見たことがあるが、実際には初めてだ。
のえみが通っていた女学校の教室を、2つくっ付けたような広さ。
そして、天井には明るくて綺麗なシャンデリア (?) がある。
「お待たせ致しました。こちらが当店のメニューでございます」
ウェイターがそう言って、大判のメニュー表を出した。
何ページがめくると、『カレーライス』の文字があった。
「……あっ、あの。このカレーライスを、ください」
「かしこまりました」
ウェイターが笑顔で返事をすると、メニュー表を持って厨房の方へ歩いていった。
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待つこと数分。
「お待たせ致しました。カレーライスでございます」
ウェイターが持ってきて、目の前に置いた。
(こ、これがカレーライスっちゅうもんか……)
カレーライスなるもの、人生初めて生で見た。
野菜なり、お肉なり……色々な具材が入っている。
スプーンとやらで、掬い上げる。
「……いたたき、ます」
覚悟を決めて、口へ運んだ。
「………!!」
今までにない、風味が広がった。
これが新聞記事で見た、『スパイス』ってものかな。
(……おいしい)
そこから、一気に平らげた。
満足した後に、『カレーライス』をチイナメ食屋に出そう……そう思った。
▫▫▫
「ご満足いただけたようですね」
帰り際、案内してもらったウェイターがそう言った。
「あ、はいぃ」
頬が少し紅くなるのを感じながら、のえみは返した。
「……それ、と。お客様は、何かメモに取っていたような素振りがありましたが」
ウェイターからそう言われた途端、怒られると思った。
「ひゃぃぃ、その、ご、ごめんな、さいぃ」
「ああ、別に怒る訳ではございません。もしかしたら、カレーライスに興味がある……そう思ったのです」
「あ、え、はいぃ」
ウェイターに、自身が働いている食事処でカレーライスを出したいと少し話した。
「……なるほど。分かりました、私が存じ上げる有名な料理人に、カレーライスのレシピを教えて貰うよう頼んでおきます」
「え、ええぇぇっ!?」
まさかの展開になってしまった、そうのえみは思ったのだった。