第2話 名字と名前(前編)
「はー…疲れたぁ」
静かな図書室に、私のため息が響いた。
窓から差し込む夕陽の赤と、パソコンからのブルーライトが目に痛い。
六時限目を終えた、放課後。
私は図書室に駆け込み、図書室のパソコンでこの学校周辺の土地について調べていた。
携帯があれば手早かったのだが、手元になかったためだ。恐らく、寮に置いてきてしまったのだろう。
学文路岐市……ゲームのタイトルおよび学校名にもなっている土地だ。
同名の地名があった気がするが、市ではなかった筈。語感で選んだだけで、特に関連性はないのだろう。
それ以外は、私がいた日本と何ら変わりないようだ。大まかな歴史は何も変わらない。流行っているアーティストも、放送しているドラマも全く同じ。
強いて言うなら、少しだけ年が遡っている程度か。それも二年程度なので、すぐに追いつくだろう。
気付けば、恐らく本日最後であろう学校のチャイムが鳴り始めていた。
私は重くなった荷物を抱えて、慌てて図書室を飛び出した。
「大変な転入初日だったなぁ…」
リザルトだけ表示されてトントン拍子に進むゲームとは異なり、実際の高校と同じようにみっちり授業が組まれていた。
おまけに、私は転生者であり転入生。
慣れない学校での行動、授業、前の学校と異なる一部の教科書の受け取りなどで、単に進級した他のクラスメイトとは違って一人だけ大忙しだった。
…転生前に済ませておいてよ、こういうのは…
それにしても……
こんな日常を過ごしていると、私は本当に『トロイカ』の世界に転生したのだなという実感が、今になってひしひしと湧いてきた。
でも何故私はこの世界に転生したのだろう? それも、ヒロインなんかに。
せっかくだったらモブに転生して、他の攻略対象のことは気にせず八重垣くんにアタックしたかったんだけどな。
そもそも何故、私は転生そのものを経験する羽目になったのだろう? 事故に遭った? 殺された? 転生前の記憶は曖昧で、どうにも思い出せない。
何故、何故、何故………
「大姫さん!」
私一人だけでは完結しないであろう難問に頭を捻っていると、後方から名字を呼ばれた。
大姫は私の名字だ。反応できるよう覚えておかないと…。
振り返ると、眼鏡の女の子がこちらに駆け寄っているのが見えた。
彼女はヒロインの親友ポジションの女の子。名前はトモちゃん。
学級委員長にして次期生徒会長。学校全体の生徒全員を気にかけているという、今時珍しい絵に描いたような超大真面目キャラだ。ゆえに攻略対象の男子の情報も頭の中にきっちり入っているというトンデモデータキャラだ。
だけど、実はファッションや占い、恋愛に興味がある、いじらしい普通の女子だったりする。
ただし、現時点での私はそれを知らない。彼女とヒロインは高校で初めて知り合う仲なのだ。
「転入一日目、お疲れ様です。大変だったでしょう?」
「はい…大変でした」
形式ばった雑談を交わしつつ、二人でそれとなく昇降口を目指す。
ゲームではヒロインはタメ口だった気がするけど、彼女につられてつい敬語で喋ってしまった。対面すると緊張してしまうような真面目さだ。
「……それで早速なんですが、今日以降の放課後、時間はありますか? この周辺を案内しようと思ったんですが…」
「あ…ありがとうございます」
…とは返答したものの。
このトモちゃんの厚意が、今から他のキャラクターによって遮られてしまうことを、私は知っている。
「それなら、俺がするよ」
ついに辿り着いた二年生の昇降口。記憶通り、草薙くんが待ち構えていた。
そう。今から彼がトモちゃんに代わり、学文路岐を案内してくれるのだ。
このイベントは、ゲームの進行上、自動的に発生するいわゆる強制イベントである。
プレイヤーにゲームの舞台である学校と市のことをよく知ってもらうための導入部のようなものだろう。
女の子の友達がほしいし、個人的にはトモちゃんのほうが良いんだけど…恐らく拒否権はない。
「俺ら幼馴染なんだよ。お前、学文路岐は確か…小学校?以来だったろ」
「あ…幼馴染だったんですか? それなら、草薙さんのほうが良いですね」
「ああ。時間がある日に案内して回るよ」
草薙くんの押しが強い性格に加えて、トモちゃん本人もあっさり引き下がってしまうのだ。
トモちゃんは丁寧に別れの挨拶を告げると、そそくさと下校してしまった。
その場に、私と彼だけが取り残される。
「さて……今日は普通に下校するか?」
「あ、うん…」
彼としては、今から下校を一緒にしたいらしい。
…さて。ここで一つ問題がある。
私は彼を攻略する気はさらさらない。八重垣くんの情報を少しでも得たい、という史上最低な下心で草薙くんルートに突入したことはあるが…
私のターゲットは転生前も転生後も、八重垣くんただ一人なのだ!!
だが、本作『カムロ*トロイカ』は、女性向けの恋愛シミュレーションという比較的カジュアルなジャンルゆえに、好感度などのパラメーターが上がりやすいのだ。
メインヒーローである草薙くんはことさら好感度が上がりやすい。
前述の理由である程度のあらましは覚えている。ただ、告白イベント手前でやめてしまったので、それ以降のことは知らないが。
迂闊な選択を取らないようにしないと。うっかり好かれてしまっては大変だ。
…なんていう、恋愛ゲームの攻略でなければ勘違いも甚だしい思考を巡らせながら、私はとりあえず草薙くんに意中の彼のことを尋ねてみることにする。
「や、八重垣くんも来ま……来る?」
「え? 八重垣も?」
たどたどしいタメ口。作中でヒロインは一切口にしていないであろう八重垣くんの名前。
案の定、草薙くんから訝しげに見つめられてしまった。
慌てて、「久々すぎて、草薙くんと二人だと緊張しちゃうから」と付け足しておく。
「あー…まぁ、呼んだら来るんじゃねーかな? じゃあ呼んでくるから、少し待っててくれ」
私の即興の言い訳である程度は納得できたようで、草薙くんは八重垣くんを探しに、昇降口を後にした。
ダメ元で尋ねてみたが、まさかこんな展開になるとは。
もしかしたら、八重垣くんの存在しないイベントが体験できるかもしれない……
どの程度、原作にない展開になっても問題は無いのか、という指標にもなるだろう。
逸る心を抑えて、私は彼らの到着を待った。
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