ゴースト
64作目です。大切な人と一緒にさよならしたいですね。
拝啓、愛しき無辜の人々。息災だろうか。
本日はお日柄もよく……冗談だ。柄にもない冗談だ。こういう機会だとしても、そこは私である。私を知る人なら何も言わずに頷いてくれるだろうか。別に頷くことを強制したいわけではない。留意してくれ。
これは遺書だと思ってくれればいい。
ただの日記帳に見える?
そうだな。これは元来日記帳だ。小学生から大人まで使える汎用性の高いノートだ。しかし、遺書なんて紙切れひとつでも遺書なんだ。そこにとやかく言われる筋合いはない。第一、この汎用性の高い四冊セットで三百円のノートを私は愛好しているのだ。どんな上質な紙よりも、馴染みのある紙の方が優れているに決まっている。
さて、話が少々脱線した。
もう一度言おう。
これは遺書である。遺書が何か知らないとは言わないでくれ。流石にそんな説明までするほど私は教育的ではない。
遺書ではあるのだが、争いの種にはならないと思う。というのも、ここに私が伝えたいことはない。私は独り身だし、遺産などもない。死んだら何もかもを処分してくれて構わない人間だ。私の人格についての詳細は、私を知る人に訊ねてくれ。その方が早いし客観的だ。
さて、ここに記されているのは何かと言うと、それは記録である。そう考えると、日記帳に書いてあるのがお誂え向きだと思わないかね。遺書とは死を前にした者が書き残すもの。何か問題があるなら、私の墓に向かって言え。どうせ無縁墓地だろうけどね。
では、その記録とは何だろう。気になるかね?
先に言っておくが、ここに価値などはない。賢い人ほど判断は早いだろう。恐らく、妄言や夢の類だと決めつけるだろう。だが、それで別に構わない。私は内容を信じて欲しいわけではない。信じられても困るだけであるからだ。貶してくれたっていい。死者は恥をかいたりしない。
随分と長い前置きをするじゃないかと言われるだろう。
遺書なのだ。最後くらい多弁になったっていいではないか。そもそも、私は元より多弁だよ。周囲が勝手に寡黙だと決めつけていただけだ。私は自分の著作の中で喋りに喋っていたから、外で話すのに疲れていただけだ。ああ、言っていなかったが、私には物書きという一面があったんだよ。無趣味だと思われていたようだから訂正させてもらう。
その著作は何処か? 残すわけがないだろう。疾うに捨てたよ。火曜日の可燃ゴミでね。これがいつ読まれているか、私には知る由もないが、もう私の著作は砕かれて、他のゴミと一緒くたになっているんじゃないだろうか。私の著作は幻想小説の類ばかりで、大したことは書いていないから、まずはこれに集中してくれ。ああ、幻想小説なんて書いていたら、これすら妄言と受け取られても致し方ないか……。
では、肝心の記録に行こうじゃないか。記録というよりは記憶か。毎日、健気に書いていたわけじゃない。遺書を書こうと思い立って、思い出しながら書いているだけだ。それだって健気だと思わないかね?
まず先に、ひとつ、大事な告白をしておこう。
私からしたら些細なことだとは思うのだが、世間一般という、つまりはマジョリティからしたら特異な立場に私はいるのだ。
これは言い訳ではないのだが、遺書というものは得てして独白に類似する、或いは同一視されるものだと私は思う。故に、ここから先も遺書であることに留意して欲しい。
では、その大事な告白だが、率直に言うと、私は殺人者である。
噛み砕いて言おう。理解が遠い読者もいることだろうからね。
私は人を殺したのだ。ひとりではない。今年だけで四人を殺した。夜明けの街を徘徊していた老婆と、繁華街の路地裏で酔い潰れていたOLと、ある私立高校に通う女子高生と、公園でひとりぼっちだった男子小学生である。名前については誰のものも知らない。そこに興味はないからだ。
読者に問おう。
君はペットを飼うことにした。しかし、ペットショップで買うには高過ぎる。そう思って、里親募集サイトで探した。すると、一匹の犬が見つかった。数年間飼ってきたが引っ越しの関係で手離さなくてはならなくなった、そういう境遇の犬だった。君はその犬の栗色の毛並みと円らな瞳に惹かれて、里親になることを即決した。さて、ここで質問だ。その犬は数年間飼われていた。だとするなら、名前があった筈だ。人間は名前をつけることで所有しているという気分に浸りたい生き物だから当然だろう。それで、君はその犬を飼うに当たって、嘗ての名前のことを考慮するかね? いや、しないだろうね。きっと、上書きする。
何故、上書きをするのか。
前述の通り、人間は名前をつけることで所有しているという気分に浸りたい生き物だからである。
私もその例に漏れない。何故なら人間だからである。
私は彼らが持っていた名前に興味がない。私が殺した瞬間から、彼らの所有権は私にある。生き物なら倫理的な問題があるが、死体なら問題なかろう。ここに文句を言うのは後回しにしてくれ。
私は名前をつけてやった。名前とは記号である。記号とは区別のためにある。私の名前だってそうだ。名前がなければ人混みで個人に呼び掛けることができない。
名前はシンプルだ。区別のためなのだからシンプルに限る。
「母」
「妻」
「娘」
「息子」
ほら、これ以上ないシンプルな名前だろう。名前としての機能をこれ以上に果たしてくれるものはないだろう。
時に、殺し方については死体を検分すればわかるだろうから、詳細については割愛する。だが、これは遺書である。遺書とは自己満足の終着駅である。故に殺害時の状況だけは軽く述べておこう。君らの手間を省くためだ。感謝してくれ。
しかしながら、状況は共通している。人気のない場所、時間に、通行人を装って近付き、後ろから首を絞めただけだ。私の体格が比較的恵まれていて、手が人よりも大きかったのは、人の首を絞めるためだったのだろうと思っている。強ち間違ってはいないのではないだろうか。
さて、君たちが気になるのは、何故、私がこんなことをしたのか、ということだろう。死人に口なしで意味が暗黒に消える。そんなことにはしたくないので、ここで述べよう。
簡単なことである。
私は家族を再現したかった。
子供っぽいと笑うかね。ああ、笑いたければ笑えばいいではないか。だが、君たちはとあるフランスの郵便配達人を知っているかね? 名をシュヴァルと言ってね、彼は長い時間を掛けて自分の理想の宮殿を作り上げた。彼ひとりでだ。何が言いたいかというと、夢に見られるものは現実になり得るということだ。
私は長年、家族というものを夢見てきた。私の境遇については君たちで勝手に調べてくれ。嫌らしく素性を辿ってみろ。私は私の遺書に私の嫌だと感じるものを残していきたくはない。
とにかく、私は夢見てきた。家族とは何だろうか、と子供の頃から。哲学的な子供だったと思う。他人を見ると外面より先に背景が気になってしまうのだから。あいつはどんな家族がいるのだろう、とね。
そんな私が行き着いたのが今現在だ。君たちは私のことを狂人だと思うだろう。しかし、それは何の意味もない。これが私だからだ。これが私だと私は知っているからだ。夢を見る者は大抵が狂っている。シュヴァルの例だってそうだ。夢を見る者に「狂っている」は誉め言葉の類だ。
私とて、この「家族の再現」という一大実験が世間の賛同を得られるものではないことはわかっている。家族とはナチュラルであり、後から構築されたものがイミテーションでしかないことは私だってわかっている。
だが、家族とは何だ?
君たちも考えろ。いい機会だ。普段は眠ることしか考えていないような君たちにも考える機会を与えるのだ。感謝してくれ。
さぁ、家族とは何だろうか?
血の繋がりがあるもの?
私が先生ならば、これに点はつけられない。
血の繋がりなんて形だけのものではないか。肉親同士で啀み合い、果てには命の争奪にまで及ぶことさえある。それが家族と言えようか。確かに血の繋がり以上に濃いものはないだろう。しかし、それが家族の前提とは言い難いと私は思うのである。
ならば、家族とは? 血の繋がりが前提でないならば、もうひとつだとは思わないかね。古来からの美しきものだ。
それは愛ではなかろうか。
血の繋がりは可視である。
一方、愛は不可視である。
家族はナチュラルのもので、後から構築されたものはイミテーション。そう、これは変わらないが、ナチュラル、言葉を換えるならジェニュインをイミテーションが凌駕することはある。
近親婚が忌避されてきたのは、血の繋がりより愛の方が素晴らしいものだと称賛されてきたからだろう。
さて、君たちは疑問に思うかもしれない。
私は家族とは愛による繋がりでこそ成立すると主張しているのだから。でも、そうなると、私の行動は矛盾しているように思えるだろう。
物言わぬ死体をどう愛せばいいのか、視野の狭い君たちにはわからないだろう。勿論、私はネクロフィリアの持ち主などではない。これは大事な点だ。充分に留意してくれ。
私が愛を築こうとしたのは死体とではない。死体は単なる有機物だ。死んだ時点で行く先のないゴミだ。
考える時間を設けよう。君たちの常識の範疇で考えるな。何事も柔軟に考えなければ上手には生きられないぞ。
さぁ、答えだ。
ひとつ、私の特異な点を教えよう。
実は、私には幽霊が見える。
笑ってくれて構わない。君たちは嘲れば嘲るほど自分たちの視野の狭さをアピールすることになるのだから。
またひとつ、これは別の告白だが、私が人生で殺した人数は全部で六人だ。先述の四人と、小学生時代の同級生、あとは名前も知らない六十代前後のホームレスだ。ホームレスは高校生の頃だったと思う。
前者は誤って階段から突き落としてしまったのだ。悪気はない。よくある事故だった。少なくとも、当時の警察もそう判断した。遊びの最中に誤って転落したのだとね。これは事実だから改変する理由がない。調べたければ調べればいい。
その同級生、名前は忘れたが、彼が死んだ日から、私の前に彼の幽霊が現れるようになった。如何にも幽霊だと言えるような、半透明な身体をしている。いや、透けた灰色に近いようにも思う。彼は私を睨んでくるばかりで害をなすことはなかった。今思えば、彼なりの精一杯の復讐だったのだろう。
彼は約一週間ほど、私の周囲にいた。飽きもせず睨んでいた。笑ってはいけないかもしれないが、何とも滑稽だった。
さて、その幽霊が消えたタイミングで何が起きたのかと言えば、葬式があった。つまり、彼の身体は灰になった。私はクラスメートだったから、彼の葬式には当然ながら出席した。彼の父親がやけに毅然とした態度を取っていたのが印象的だった。
私は幽霊が消える瞬間を見た。彼の身体が火葬場に到着し、荼毘に付されて以降、彼は著しく透過していった。何とも美しかったが、何処か滑稽さは抜けないままだったと感じた。
その時の私は何も疑問に思わなかった。素直な子供だったからだ。邪魔な奴が消えてくれたぐらいにしか思わなかった。視線をずっと感じ続けるのは意外と堪えるのだ。
高校生の時にホームレスを殺したのは実験だった。幽霊のことを思い出したのだよ。私が考えに考えて辿り着いた結論は、私が殺した者が火葬されるまでの間、被害者は幽霊となってストーキングしてくるというものだった。我ながらとても合理的な考えだろう。
だから、実験した。薄汚いホームレスのひとりを金で釣って殺した。石で後頭部に一撃を食らわせたような記憶があるが定かではない。誰も実験の準備のことなんか憶えちゃいない。
それで、実験の結果はどうだったと思う?
そう。私の予想は正解だった。
その日からホームレスが幽霊となって出始めた。私は嬉しかった。自分の予想が見事に的中したことに。思わず、幽霊をハグしたような記憶だってある。いい思い出かもしれないな。
ホームレスの火葬は適当にやった。ドラム缶に枯れた枝なんかをたくさん詰めて、ホームレスをセットして、灯油を加えて火を点けた。肉が焼ける臭いって想像よりもエグいってことだけ教えておこう。あれは止めておいた方がいい。臭いが記憶に固張りつく。
さて、今の告白で、私が考えていたことがわかるだろうか。
わかって欲しいところだ。
私は年齢も性別もバラバラの四人の幽霊で家族を作ろうと考えたのだ。ほら、典型的な家族の構成だと思わないか。設定だってあった。
脱サラをして新たに事業を始めることにした私。
息子の事業の成功を祈る老齢の母。
夫を献身的に支える若く美しい妻。
成績優秀で、家族のためにも国立大学への入学を考えている娘。
成績はあまり良くないが、天真爛漫でスポーツが得意な息子。
よくある設定だろう。敢えて陳腐なものにした。特異な構成にして実験が台無しになったら虚しいのでね。
この実験を行う上で下準備に多くの金を費やした。
まずは部屋。君たちから見てもなかなかの部屋だと思わないか。私が家族五人で暮らせるのに不自由のない部屋を選んだのだ。家賃は高額だが、実験のためには仕方のないことだ。金を惜しんでいては得られるものも得られないことは理解している。過去の先達だって、叶えるべき夢に己のあらゆるものを捧げてきたのだから。
君たちは既に部屋を見たからわかるだろうが、私は一般的とは言えない規模の冷凍庫を購入した。この部屋の中でもとりわけ異質だろう。私ですらそう思う。しかし、死体を四つ保管しておくには、そうする他なかったのだ。埠頭にある冷凍コンテナを借りてもよかったが、折角の家族だ。どうせなら死体でも近くに置いておきたかったのだ。
では、ここからが記録だ。今まではプロローグと言えばいいだろうか。ああ、でも、そうなるとエピローグが必要だな……。
まず、幽霊についてだが、予想通り現れてくれた。しっかりと四人分。私が殺した時の格好だった。これは初めて気付いたことなのだが、よく見ると首に私の手の痕がくっきりと残っていた。半透明なのに何故見えるのか、などと言われると返答に困るが、そう見えたのだから見えたという他にない。昔の同級生の死因は首を折ったこと、ホームレスは後頭部の陥没、あまり目立たなかったから気付かなかったのだろう。
彼らの様子はそれぞれだった。母は困惑していた。自分が何処にいるのか、それを必死で把握しようとしていたが、随分と痴呆が進んだ脳ミソでは理解に遠かっただろう。所詮は朝の街を徘徊していた老人だ。
妻は明らかに敵意のある視線を私に向けていた。設定と食い違うじゃないか、と私が睨み返すと途端に眼を逸らす。恐らく、気の小さい女だったのだろう。だからこそ、路地裏で蹲っていたのかもしれない。あれはドブネズミにしか見えなかった。そういえば、この女は私が首を絞めている時に吐いたのだ。私の手が汚れてしまったことを憶えている。
娘は狼狽していた。窓の外を眺めたり、玄関に向かってみたり、落ち着かない様子だった。健気だと思った。どうやら、幽霊の移動できる範囲には限度があるらしい。それは死体の位置などではなく、私を中心とした特定の半径のようだ。つまり、恨むべき対象から離れられないということらしい。これまた酷なことではないだろうか。その半径は君たちの想像よりも小さい。私がリビングの椅子に腰掛けてコーヒーを飲んでいた時、彼女は扉の向こうへ行こうと必死だった。
ああ、そういえば、幽霊たちは一般的な想像と違って物をすり抜けたりしないようだ。障害物があれば迂回して避けるのだ。それが人間時代のプライドなのかどうなのか、私には知る由もないことだ。
最後に息子だが、怯えていた。私を見て怯えていた。それはそうだろう。私が殺したのだから。ブランコに乗っていた彼に後ろから近付いて、絞めた。先に首が折れてしまうかと思った。もしかしたら、折れているかもしれない。あまりに華奢だったが、ちゃんと保護者は育てていたのだろうか。私が言える立場ではないが、その辺りは君たちがしっかりと調べてくれ。これが善意だと思うなら、そう思えばいい。君たちが私に抱く印象なんて、何の役にも立ちはしないのだから。
私の最初の試みは意思の疎通が可能か否かであった。内容は至ってシンプルで、呼び掛けただけだ。ただ、生前の名前なんて知らないので、あの新たな名前で呼んだ。妻と娘と息子の反応は無に近かったが、母だけが反応した。恰も本物の息子に接する母親のような反応だった。声はないが、その鈍間な唇の動きでわかった。私は予想外の反応に思わず笑ってしまった。これにより、意思の疎通が可能であることはわかった。
次に文字などが書けるかという実験で、彼らは先述の通りすり抜けることをしない。ならばと、ペンを持たせてみた。するとどうだ。彼らは物を持つことが可能ではないか。私は息子に文字を書かせた。彼は稚拙な文字で「お父さん」と書いていた。その時の私は舞い上がっていたのだろうね。その紙はどうやら捨ててしまったようだ。
更なる実験として、彼らが食事、睡眠、排泄などの人間らしい行動を必要とするのか、という点に着目した。何をするかと言えば、放置である。しかしながら、これは小学生時代にわかっていたことだ。あの時の同級生は一週間、私から離れることはなかったが、その間に食事などをした様子は見られなかった。
だが、もしかしたら、睡眠などは私が眠っている間にしていたかもしれない。そう思って、私はビデオカメラをセットしてから眠りについた。すると、クイーンサイズのベッドで眠る私の傍で見下ろすように立ち続ける彼らの姿が記録されていた。安いホラー映画のようだと思った。
後日、私は息子に「お前たちは眠らないのか」と訊ねた。彼は怯えながら、首を縦にこくこくと振っていた。
私は家で仕事をしていた。買い物などもネットで済ませていたし、散歩などもしない。だから、幽霊もずっと家にいた。
私の仕事?
調べればいいだろう。どうせパソコンの中身だって見るのだろうから。ひとつ、収入は安定しなかったとだけ言っておこう。と言っても、ここの家賃や冷凍庫が貪る電気代なんかは払えるくらいの仕事ではあった。それでずっと食っていくのも悪くはなかったが、いずれは退屈していただろうと思う。単調な仕事だったのだ。
彼らに食事を勧めたことがある。あれは、私がピザを注文した時だった。ちょうど、仕事で成功して気分がよかった日だ。ひとりでは多いだろうというピザを注文したのだ。恐らく、私の深い部分で家族の分までという意識があったのだろうと思う。
食べ物の欲というのは恨みさえも凌駕する場合があるのだろう。妻以外は椅子に座り、ピザを食べていた。幽霊でも食事は可能なのだ、と思うと急に笑えてきた。世間一般に言う幽霊が如何に空想だけで作られてきたのかと思うと、私は啓蒙したい気持ちになった。ただ、そんなことをする利点がないからしなかったが。
一週間も経つと、幽霊たちも私との生活に慣れ始めたようだった。息子から怯えた様子がなくなったことは、それを顕著に示していると言えよう。子供の反応ほど如実なものはない。
相変わらず、妻は居心地悪そうにしていた。私がワインを一緒にどうかと誘っても無視をする。ああ、彼女は酔い潰れているところを殺されているから、アルコールがトラウマにでもなっているかもしれないな。今更気付いたが、実際のところはどうだったのだろうか。
約二週間ほどすると、母と息子は完全に馴染んだようだった。リビングの床で私が与えたボードゲームを楽しんでいるようだった。呆けた老婆がルールを理解していたかわからないが、ふたりは楽しそうに見えた。
この頃、娘はリビングで私が与えた雑誌を読んで時間を潰していた。以前は頻りに窓の外を見ていたが、最近はめっきり見なくなった。
妻はまだ敵意を抑えきれていないが、それでも私が晩酌に付き合うように言えば、渋々やって来て、一緒に酒を飲んだ。ちなみに、彼女は缶ビール一本で酔い潰れることがわかった。
ここまで、あまり急激な変化はなかった。緩やかに緩やかに変化していくばかりだったが、却って本当の家族のようではないかと思う。
愛というものは一日やそこらで築かれるものではない。長い時間を掛けて、ゆっくりと結び付きを強めていく。それが解けなくなるまでの時間を私は知らないが、恐らくは人生の中の多くの時間を費やすのだろう。
私はいつかの同級生やホームレスに感謝している。彼らの死がなければ、私はこの実験を行おうとは思わなかっただろう。ありがとう。名前もわからないふたり。君たちの人生は不運にも道半ばで切断されたわけだが、君たちは叡知の発展に寄与できたのだから、それは幸福だと思わなければならないのだ。運命という言葉を私は嫌悪するが、こればっかりは君たちの運命と言うべきだったかもしれない。人の上に人は作られない? 私はこう思う。人とは地層だ。死んだ者は積み重なっていくのだ。積み重なって後世を生きる人の大地となるのだ。
さて、半年が経過した。つまり、時間は今になる。
彼らは、人間染みてきた。
勿論、かつては人間だったし、その色を濃く残していることに疑問はない。ただ、それは次第に薄れゆくものだと考えていたので、再興したことに驚いたのだ。
彼らの表情は豊かになった。よく笑うようになった。四人は楽しげにボードゲームで遊ぶようになった。実に面白い変化だ。彼らは友人以上の親密さを見せるようになった。それは私が理想としていた家族の絵に合致するものだった。実験は成功したと言えるだろう。
いや、そんなことはない。
ひとつ、想定外のことがあった。
それは、私がその輪の中にいないことである。
彼らは私をいないものとして扱い、四人だけのグループを作り出した。今や、私の言葉には誰も反応しない。
私にはわからない。
どうして彼らがそんな反応をするのか。緩やかに、順調に、結び付きを強めていったではないか。何処に綻びがあった? 私と彼らを繋ぐ糸の何処が断裂した? ここまで上手くいっていたではないか。
私は考えた。考えに考えた。
そして、辿り着いた。
あるひとつの合理的な説明が可能な理由である。
それは壁の存在だ。
私と彼らの間には確固たる壁がある。それは如何に親密であろうと、本物の家族であろうと、決して破ることができない透明な壁。
それは何か?
君たちはわかるだろうか?
そう、生と死というシンプルな差である。
私は生きている。一方、彼らは死んでいる。この極めてシンプルな違いが断裂を生んだのだ。いや、断裂とは言えない。時間が流れて、静かに壁が構築され、顕在化しただけのことだ。時間が経つほど、生と死の違いは確かになっていく。記憶からも消えた時、それが完全に壁がふたつを分かつ時なのである。
半年を経て、私と彼らの間にスローリィに壁ができた。そう。それだけのことなのである。それだけでしかない。壁ができただけだ。
この壁をどうにかしたいが、それは生と死という古より伝承されてきたふたつの概念を乗り越えなければならないということだ。しかし、これは一方通行である。死から生に戻るには、実体として蘇らなければならない。つまりはもう一度、心臓や脳から末端の神経までを機能するようにしなければならないのだ。これは不可能である。
ならば、私から出向くしかあるまい。
楽しげな彼らの元に。私が理想とした家族の団欒の元に。
これが記録、私の人生の記録である。稚拙な文であることを詫びよう。君たちにも理解が及ぶように噛み砕いて書くべきだっただろうか。
さて、私はこれから冷凍庫より死体を引っ張り出して、リビングに並べる。母、息子、ひとつ開けて、娘、そして、妻の順に並べる。
私はひとつ開けたところで横になり、胸にナイフを突き立てよう。宛ら、その様はフィクションに登場する儀式のようではないか、と書きながら私は笑っている。
そろそろ擱筆の時である。
私に後悔はない。そして、未練もない。夢はあちら側に持ち越しだ。
これはプロローグと書いただろう。
続きはあちらでゆるりと書こう。君たちが来る頃には長編になっているだろうな。それはきっと、ダーガーの『非現実の王国で』を越える代物になるのだと私は思っている。
さて、終わるよ。彼らが呼んでいるのでね。声はないがそう聞こえるのだ。彼らが私の名前を、笑顔で、虹が架かった空を眺める時の笑顔を携えて呼んでいるのだ。
シー、ユー、レイター。
…………………………………………敬具