1.赤目
春になってやってきた湿った夜気は、小鉄にかすかに触れながら通り抜けていった。
暗闇にうっすらと浮かぶシティのドームは、いつ見ても美しく、現実を忘れさせてくれる。小鉄達の住むマチの灯りも、シティにひっそり寄り添い、そこに住む人々の生活を想像させ、ほっとした気持ちになる。マチの外に広がる荒れたアウターも、夜なら何も見えず気にならなかった。彼はこの一人きりの、何も考えなくてもいい時間がリラックスできて好きだった。
時間は午後8時をすぎた所で、小鉄のいる立ち入り禁止の見晴らし塔には誰もいない。夜のアウターの主人は、間違いなく人間ではなく赤目達で、特にこんな新月の夜に、見晴らし塔にくる者などいなかった。赤目達野犬は最後の戦争が終わった、すなわち混沌が始まった60年前からいつのまにかアウターに現れた。特に、シティに人が移った40年前からは、夜のアウターを支配している。
小鉄は、松爺や、くだらないマチの大人たちから離れて、自分自身の時間を持つ事を必要としていた。このあたりで一番と言っていいくらい夜目が効いたので、特に不安はなかった。昼間は弱視といってもいいほど目が悪かったが、夜目が効くのはそのマイナスを補ってあまりあるほどだった。夜目も効いたし、赤目達の気配を感じる事ができるので、避けるか待つかして、マチまで戻る技術を身につけていた。
赤目は、ここ辺で一番大きな群のボス犬で、左目が赤く血でそまった雄のドーベルマンだ。ずる賢く凶暴で、何人も被害が出ている。アウターに金目のものを探しにきたマチの人間だけでなく、十分かつ最新の装備を持って探索に来たシティの人間でも、どこからともなく現れる赤目達の餌食になっていた。
小鉄は地面から高い所にあるハイウェイの残骸の上を歩いて見晴し塔まで通っていた。今は8時だから小走りで帰らないと” カラ・パルト”で働いているという嘘が松爺にバレてしまう。小鉄は見晴らし塔をかけ降りた。
長屋に着いた時はギリギリ9時前だった。家では松爺が腕組みをして待っていた。
「松爺、帰ったよ」
「どこいってた」
「だから、 カラ・パルトだって」
「嘘つけ、それなら、なんでそんなに汗かいとる。まぁいい、今週は仕事が入ったから、明日から早く帰れよ」
「えー、隼人と遊ぶ予定があるのに」
「そんなのは予定とはいわん。忘れるなよ。今日は早く飯食って寝ろ」
「ひでぇよ、松爺」
「わかったな、それと外は暗かったが、夜目の事は誰にも自慢してないな。アウターにも行ってないだろな」
「自慢なんかしないよ」
「さっさと飯食え」
松爺は、小鉄が人に能力を自慢するのを嫌った。そうした小鉄の慢心がわかった場合は、松爺は遠慮せずカナテコのような拳固を飛ばした。人に自慢する嫌な人間にしたくないという思いなのだろう。小鉄は カラ・パルトでウェイターをしていたが、酒を飲み、くだらない自慢をする大人達が大嫌いだった。あぁいう大人には、絶対なりたくないと思っていた。
「だから自慢なんてするわけないのに」と小声でつぶやき、松爺の作ったまずい晩飯を食べ始めた。松爺は頭の禿上がった口数の少ない男で、この電気街あたりでは顔だった。シティのニューテクには及ばないが、混沌前のローテクでは電気街でかなうものはいなかった。
時々、自分の本当の爺さんか疑わしいところもあったが、 カラ・パルトのおばさんの話によると、まだ小さい頃に施設にいるところを、引き取ってくれたらしかった。「施設では遺伝子のチェックをしているから、あんたの爺さんに間違いないよ」と言っていた。おばさんは、金がからむ事以外は信頼できる人だった。
小鉄は食卓のコップに入った松爺の入れ歯を見ながら、どっかに隠したら楽しいかなとも、一瞬考えた。しかし、いたずらの最後にやってくる拳固の痛みを思い出して、隼人とアウターへ行く計画について考えを変えた。しばらくすると、ワクワクしてきたのでその考えに集中することにした。
(つづく)