海8 クロノ様
何となく、リードさんはキス自体に何も思う所は無い事が私には分かった。ただ、私が去っていく日を思って寂しくなっただけ、とかそんな感情のように思う。
……アルバートさんやクロノさんの代償は何だろう。もちろん、聞けない、聞いてはいけない。
気持ちを落ち着かせようと甲板に出て、底まで見通せる水面に背中を預けるようにして飛び込む。ゆっくりと上がっていく景色にクロノ様が驚いて駆け寄る姿が飛び込んだ。水面に顔を出すと、苦笑した彼が手を差し伸べていた。
「甲板で何をされているのかと思えば……、夜更けに海を泳ぐ時は一声お願いします」
「すみません」
事故が起こるとも思えない穏やかな場所だけれど、突然消えてしまえば、心配させちゃって当然。配慮が足りなかったと自己反省だ。
「それは……竜の鱗ですか、アルが?」
「はい、お守りだと」
紐を通して首にかけていたお守りは海水に浸かり、月の色と同じ赤く染まっていた。最近曇りが続いているけど、今日は満月らしい。
用意していたタオルをクロノ様から渡されて、急いで体を拭く。何か繕い物でも仕事ができたのだろうか。彼は私が着替える間も去る事は無かった。
「リードが失礼しました。『キスは好きな人とする』を簡略に教えすぎていました。もう、貴女にその様な事はさせません」
「あ、いえ、お話を伺ったので大丈夫です。リードさんは、ただ私がいつかここを出て行く事が寂しかったのだと感じました」
クロノ様に教えを請うて生きているなら、当然日々の事は報告してるってこと。
「リードを受け入れてくださって感謝します」
「それは違うと思います」
「え?」
「私が、受け入れてもらったんです」
クロノ様が不思議そうな顔になった。
「何故、私を仲間に迎えてくださったのですか?何故、奴隷を?その奴隷の受け入れも制限していたと聞きました」
だいぶここでの生活に馴染んだと思う。だから、そろそろ聞いてもいいだろう。
他人が誰かを奴隷に堕とすことはできない。奴隷になるには自ら堕ちる必要がある。天から受けた所属を、主人となる相手に売り渡す行為だった。
自分で堕ちたであろう私をわざわざ拾った理由。私に記憶が無かった事を当時彼は知らなかった筈だ。
「それは……初めてお会いした時、あなたを護りたいと思ったから、でしょうか」
クロノ様の表情が、いつもの柔らかな笑みより少し切なげになった。数ヶ月前というより、遥か昔を見てるかのように遠い目をして。
「リードが話した事は、聞いています。少し、内緒話をしましょう。操舵室までよろしいですか?」
私が何も言えず頷くと、クロノ様は私の手を取り、まるでエスコートするかの様に腕を組ませた。距離が近くなり、何故だか妙な安心感がした。主人となる人にこんな感情を感じたことはなかったのに。
甲板は物陰にでも隠れられると、人が隠れて話を聞いていても分からないが、操舵室は扉を閉めれば密室だった。
「まずは我々の話を少ししましょうか。説明する機会を逸していました。貴女があまりにも、自然に配慮ある行動をしてくださるので甘えていた、とも言えます。ですが、そろそろ知らせておくべきでしょう。仲間、ですから」
大きな窓を背にしたクロノ様は夜の海の光で神懸かりの様な不思議な空気を纏っていた。
「アルもリードも、それに私も代償のため船以外では今は生きていく術がありません。アルは……アルの女性忌避も代償の一つのようなものです。後は常用しているタブレット。体調が思わしくない時は部屋から出る事も出来ません。ですが、それらに関して気遣いは不要です」
分かりますね?と目で問われて、頷く。アルバートさんは、それを私に話して何かの言い訳にはしない人だとこれまでの付き合いでも見て取れた。これはアルバートさんの秘密を漏らされたのでは無く、無駄な詮索をしないように、と言う意味だ。
「リードは少し変わった育てられ方をしました。能力を引き出す研究の被験者として育ち、そしてあの能力を手に入れたのです。代償は諸々の感情。リードに感情が生まれたのはエラスノに来て、しばらくしてからでした。頭の良い子ですから、快不快から派生する感情を分類して、最適な反応を返している所が今もあります」
「リードさんは、自分には良心が無い、と」
クロノ様は困ったように微笑んだ。
「素直すぎ、なんですよ、彼は。リードは身内とみなしてしまうと、誤りは生まれないと思っている節があります。エラスノには本拠地として宿を構えている事は話しましたね?そこを任せているデイノと言う女性がリードにとって、エラスノでの母のような者なのです。まだリードを船に乗せる前のことです。リードが大きな失敗をして、その時『お前には良心が無い』とデイノが言ってしまいました。だから気をつけろと言う意味だったのですが、リードには、だから仕方ない、と聞こえたようです。後から訂正しようとしましたが、今現在感覚としての良心は育っておりませんし、デイノも感情豊かな方なので常に冷静にリードを育てる事が出来ない。特に他人への失礼などは、許せない性格ですので……ですから、人の心を知るその時が来るまで、リードは人の中で生活は難しいのです」
良心、常識、それらは成長過程で自分の中に積もった概念でしかない。幼い時に培われたそれらが、だんだんと広がる世界の中でアップデートされていき、そのうち顕在的なものが常識、潜在的なものが良心と言うのだと思う。
リードさんはその根本を今育てている最中なのだ。だから、根幹を培う今は、クロノ様という鉢の中にいなくてはならない。
そう言えば、記憶を失った私には常識が無いとアルバートさんは言ったけど、それでもその事を指摘されても、ここでその事を責められた事は決して無かった。鉢の中でアルバートさんはリードさんを包む土の役割の様に思えた。
「クロノ様は?」
「私の代償ですか?」
「は、はい」
クロノ様は右肘を左手で軽く支える様にして、右手で口元を隠しながら少し考えている様に見えた。
「秘密です」
「え?」
我々の話をするって言ったのに秘密?
「大したものではありませんし、言わなければ分からない様な事です。あえて挙げるとすれば能力を使いすぎると眠くなる……程度ですね」
にっこりと微笑まれているのだけれど、なんだか釈然としない。そもそも彼の表情はちょっと吹き出すのを我慢している様にさえ見える。
「クロノ様、もしかして、私の反応で遊んでらっしゃいませんか?」
「バレましたか。表情がコロコロ変わり大変可愛いですので、少し癖になりそうですね、特にその膨れた所とか」
言われて、仮にも主人に対してする顔では無かったと赤くなりそうになり、顔を逸らした。それをやんわりと手で向き直される。彼の手はとても温かい。
「私も元奴隷だったんですよ」
「え?」
今度は先程と違い、いつもの優しげな微笑みだった。
「奴隷は自ら望んで墜ちるものですが、多くは状況のせいで陥ちるものです。奴隷が奴隷になった理由はその奴隷のせいではないでしょう。と、私を救ってくださった方が言っておりました。私の大切な方です。そして、その方が私を助けた理由は、『助けたいと思った』からだそうです」
頬から手が離されても、触れられた部分が、じんと熱い。
「エラスノに貴女を迎えた事を納得していただけましたか?」
その晴れやかな笑顔に、私は今度は顔が赤くなるのも感じたのに目が離せず頷いた。