海3 名前をもらいました
笑った顔は少し可愛いかも……と失礼な感想を胸にしまっていると、彼の後方からリードさんが眠そうに目をこすりながら現れた。
アルバートさんの計らいで改めて自己紹介しあい、流れで、話はこの船の話題へ。
現在エラスノ万事屋の船に常時乗船しているのは三人。昔は船にもっと乗組員がいたし、本拠地の島にも常時数人のメンバーがいたそうだ。今は島にも一人しかおらず、エラスノとしては四人しかいない。ボスはクロノ様で、創業時からの古参がアルバートさん。リードさんもそれなりに長いけれど、船に乗ったのはここ数年との事。
中央室に皆で戻るとすでにクロノ様も起きていらして、「良く眠れましたか?」と私を気遣いながら席を勧めてくださった。
「あの?」
「ん、なんや?トイレか?」
アルバートさんが退路を塞ぐように立ち、リードさんが私を奥の席に座らせようと押してくる。が、その席では私は給仕すらできませんが?
「給仕を……」
「おかわり、お茶は各自でやるんだよ。机の真ん中に置いておくからね!」
「わ、私もこちらで頂くのですか?」
座らせられて、目の前にクロノ様がお皿を置く。主人と奴隷の食事を同席させる?聞いたこともないよ……。
「新しいタグが手に入るまでは便宜上奴隷となってしまいますが、私は奴隷を所有する趣味はありません」
クロノ様が座り、注がれた茶器を上げると二人も茶器を上げる。リード様に肘で突かれ、私も慌てて真似る。
「エラスノ万事屋に新たなる仲間を迎えられた事に感謝を」
「普通は酒やろ」
「『お仕事のある日は終わるまで飲んではダメ』ですよー」
つまり、自分はここに従業者として採用されたという事らしい。あんな額を賭けてまで?とりあえず一緒にグイッと飲み干したお茶は程よくぬるんでいて美味しかった。
倉庫と中央室、キッチン浴室トイレは自由に使ってオッケー。しばらくは中央室のソファが私のベッドとなり、仕事は多岐に及ぶ事と適性が分からないため適当に手伝う事までは簡単に説明が進んだ。問題は私の名前。
「姫、花、マロン……」
「なんやそのチョイス」
「え?だってこの子可愛い系だもん。可愛い名前がいいじゃん?」
「男でその名前はあかんやろ」
「じゃあ、男にならなきゃいいんだよ」
「ああん?」
私の名前が無いのは不便なので、クロノ様に名付けをお願いしたのだけど、リードさんが「僕がつけたいっ!」と手を挙げたのだ。リードさんがつける事自体に私に異論は無い。無いけど普通の名前が良い。
「まぁ、栗が果たして可愛いかは分かりませんが、一般名詞を名付けにすると生活に支障が出るかもしれませんよ?」
クロノ様の一言で、候補の書き出しリストの名詞は虹までで止まった。しかし、次に書かれた候補を二度見してしまう。
「可愛い、綺麗、甘い……」
「形容詞はもっとあかんやろ……」
「なんでですかー?!オンリーワン万歳!」
「よけー、ややこしいわ、アホ!」
「じゃあ、可愛いから『かい』、綺麗になって欲しいから『キイ』、甘いは愛になるから飛ばして、爽やかだから『さや』から選んでくださいよー」
「お前ネーミングセンス死んどるな……」
「その中からなら、サヤがいいですね。構いませんか?」
ぎゃあぎゃあやりあっている二人をのほほんと眺めていたクロノ様が私に確認した。私もその中なら、それが良いなと思っておりました。
これ以上時間を取ると仕事に触るのもあり、私の名前はそのままサヤに決まった。
「本日の依頼はペットのイッカクの捕縛です」
「ディモル、また逃げたんかいな」
「お金持ちのペットですが、よく脱走するんですよ。良いお客様です」
クロノ様が私に軽く説明すると、リードさんが「『お客様は神様です』」と言いながら部屋出て行った。もうそれだけで、やる事は了解されてしまったらしい。
「うちは、金さえ貰えれば天使だろうが悪魔だろうが神さんや。先、クロノとリードの仕事見とき。で、区切りついたらこっち見に来い」
私の頭をぽんぽんと叩くとアルバートさんも部屋を出て行く。
ぼーっとはしていられない。空の食器は後で洗うとして、とりあえずキッチンに下げて水に浸けるのみ。それから急いで戻ると、中央室に大きな紙が一枚用意されていた。座るように言われたので、座って仕事を見学するが、何が始まるのやら。
「リード、脱走した推定時刻の水温、海流、天候数値」
「25度誤差15パーセント、補正値3.6、クロスで48、95%……」
ポカンと眺める私の目の前で、眼鏡をかけたクロノ様が長い数式を書き上げていく。リードさんは二、三資料も見ているけれど、どうやら数値のほとんどは暗記しているらしく目を瞑って何やら諳んじている。
「はい、書けました。リード、後は任せますね。サヤはこちらへ」
「はーい」
「は、はい」
何故かクロノ様に呼ばれると懐かしいような切ないような妙な感情が一瞬湧き上がった。その違和感は目の前の出来事で吹っ飛ぶ。クロノ様はみっちりと書き込まれた数式をリードさんに渡して、リードさんも特に問題なさそうに受け取り……模写?違う、すごい速さで解いていっている。
「予測出没地点を計算しています。私達は船を動かす準備をしましょうか」
さらりと説明されて、私は反応に困った。それが、一般的な事とは到底思えないけど、それすらも分からない。
案内されるままにたどり着いた操舵室には多数のレバーや計器が並んでいて、また面食らった。動力は風と燃料という一般的なものだけど、操作盤は『使いやすく』カスタムされていて、今はクロノ様とアルバート様しか操れないそうだ。
説明をしながら、エンジンは温められていく。操作の順番を覚えようとしたけれど、素早すぎてすぐに分からなくなる。
「今は見学で結構です。適性か能力があれば運転も習得すればいいですが、リードより先に覚えてしまっては彼が膨れてしまうでしょう」
手招きされて側に行くと、両手で舵を握らされた。視界一面の海を前にした私を、後ろから覆うようにしてクロノ様が手を添える。
「眺めはいかがですか?」
吐息交じりで耳元で囁かれて、私は1センチくらい飛んでしまった。
「……クロノ様っ」
「ふふっ、すみません、あんまり可愛くて少し遊んでしまいました」
「どしたんですか?」
言い返す言葉が見つからずパクパクしていると、リードさんが式の答えを携えて操舵室に入ってきた。一巻きはある数値の塊を受け取り、クロノ様が地図と計器に入力していくのをリードさんはワクワクした目で見つめている。
その数式を解くのと船を動かすのだと、後者の方が難しいのでしょうか?
そして、船は難なく出航した。
一区切りはついたとの事で、許可を得てアルバートさんの所に向かった。クロノ様達の仕事を手伝える日が来るとは到底思えない。アルバートさんのお仕事に一縷の望みをかけるしかなかった。